(4)血脈
そうした中、神村から酌を受けた真快が、
「おお、そうじゃ」
と思い出したように口を開いた。
「何でございましょう」
「上人の傍におる、おもしろい男はどうしておるかの」
「私の傍と申されますと」
神村は誰だろうか、と訝った。真快が心に留めている弟子などいないはずだ、との思いがあった。
「なんと言ったかの」
真快は首を傾げ、
「そうじゃ、森岡じゃ、森岡」
といかにも取って付けたように言った。
「森岡? 森岡洋介のことでしょうか」
神村が言葉を検めた。
「その森岡じゃ」
「御上は森岡君をご存知なのですか」
神村には信じられなかった。日本仏教界の頂点に立つ男が、一介の若者、しかも仏門とは関わりのない俗人の名を口にしたのだ。
「解せんかの」
「正直に申し上げて」
「実はの、神村上人」
真快は顔を突き出すと、声を低めた。
「その森岡という男は、わしの親戚筋に当るのじゃ」
「何ですと!」
さすがの神村も驚嘆の声を上げた。
「いったい、どのようなことでしょうか」
神村は食い入るような目で訊いた。
「わしの先祖は、松江藩二十万石、松平家の家老職であったことは知っておろう」
「奈良岡先生より伺っておりました」
「そこじゃ」
真快はまさに昔語りを始めた。
江戸末期に国家老を務めていた奈良岡真広は大変な釣り好きだったらしく、お忍びでしばしば島根半島に釣りに出掛けていたという。いつも泊り掛けとなるのだが、その際の宿泊地が決まって浜浦の灘屋だったのである。
網元である灘屋は、船を出し釣りの徒もしていたのだが、あるとき真広は身の回りの世話をしていた灘屋の娘を気に入り側室にと願ったが、娘の方が堅苦しい屋敷暮らしを嫌ったため、灘屋での密会が続くことになった。
やがて娘には子ができた。生まれたのは男児だったが、いまさら庶民に産ませた子など屋敷に迎え入れられるはずもなく、真広はそれなりの手当てを与えるしか術を持たなかった。
ところが、である。兄である灘屋の当主は子に恵まれなかったため、結局その男子を養子に迎え入れ、後継としたのだった。
当時の灘屋の威勢は、浜浦の他の網元や他村のそれらに比べ、特別に抜きん出ていたわけではなかった。だがその後、松江藩から漁業利権の取得や山林田畑の払い下げなどに便宜を図られた結果、島根半島界隈随一の分限者にのし上ったのである。この背後に、国家老である真広の後ろ盾があったと推察するのは容易なことであろう。
「そのような経緯があったとは、全く存じませんでした」
神村は嘆息混じりに言った。
「わしもの、兄真篤からこの話を聞いたとき、俄かには信じられなかった。じゃが、兄は中国の思想、哲学だけでなく、国や郷土の歴史も研究しておっての、晩年には奈良岡家の系譜も調べておったようで、真広様が残した備忘録が菩提寺に保存されているのを探し出したらしい」
「失礼ながら、確かなことなのでしょうね」
神村は未だ信じられぬという面で念を押した。
「うむ」
真快は大きく肯き、
「正式な過去帳や系図には載っておらんが、真広様の備忘録にはの、我が子の証として、家紋付きの小刀と花押入りの添え書きを灘屋に送った、と記してあった故、間違いのない事実じゃ、と兄は言うておったわい」
と断言した。
「まさに、奇縁とはこのことでございますね」
と唸った神村の脳裡に、ある疑念が浮かんだ。
「しかし、自坊に寄宿の折、彼がそのような品を所持していたようには見受けられませんでしたが」
「彼もまだ子供じゃったでの、一時親戚筋かあるいは菩提寺にでも預けられているのではないかな」
真快の推量に、神村は得心顔で肯いた。
「本人はこの事実を知っておりましょうか」
「まだ知ってはおるまい。知ればほれ、必ずや上人に打ち明けるであろうからな」
真快は、森岡の神村への敬慕の念を推し量るように答えた。
「ともかくの、兄は浜浦に人を遣わして灘屋を調べさせたところ、なんと上人、そなたが預かっているというではないか。さすがの兄も驚いたようだが、同時に安堵もしたようじゃ」
「安堵、とおっしゃりますと」
「もし、森岡が見どころのある男であれば、兄は自分の手元に置くつもりだったらしいが、上人の許にあれば学問と宗教、つまり教養と精神修養の一石二鳥だからの。そこで、自らは口出しをせず、上人に任せようと考えを改めたということじゃ」
「そうとはおっしゃりながら、奈良岡先生の森岡君を見る目は違っておりました」
「そうか」
「はい。いつ頃からか、先生との面談の折は、必ず森岡君の同道をお望みになられ、何かと親身なお言葉を掛けておられました。今思えば、親戚筋とわかり、慈愛のお心で接しられていたのでしょう」
神村は、森岡が経王寺に寄宿して二年が経った頃、初めて奈良岡との歓談の席に森岡を伴った。以来、奈良岡が亡くなるまで、年に数度同席させていた。
神村と奈良岡の歓談の場は、奈良岡が住まいしている松江ではなかった。彼自身は、松江に身を置き、世間から一線を画したつもりだったが、彼を慕う人々が親睦会を作り、数ヶ月に一度、東京に招いた。
ホテルで講義を受けた後、主だった者が赤坂の高級料亭で酒宴を催し交誼を深めた。
神村と森岡は、その席に招かれていた。むろん、奈良岡の要望である。そのとき、奈良岡が傍に招き寄せて、親しく歓談する一書生を皆が注視していた。
「というてもの、上人。なにぶん百五十年以上も昔、高祖父に遡ることじゃて、親戚と呼べるかどうかも怪しいものじゃ」
「いいえ。高祖父あろうと何代前であろうと、先祖が同じとわかれば情が沸くのが人という生き物でございましょう」
「そうかの」
「しかも、お話を伺ったからでしょうか、どことなく御上に面差しが似ている気がします」
「ほうほう」
真快は童のような表情をした。
「彼が奈良岡先生や御上の親戚筋と伺って、見立てが正しかったと私も安堵致しました」
神村がどこか誇らしげに言うと、
「どういうことかの」
真快は探るような目で訊いた。
「それは、御上も気が付いておられるはず」
覗き込むように問い返した神村に、真快は何も答えなかった。
「だからこそ、御上は彼のことを気に掛けておいでなのでしょう」
さらに神村が問い質すと、真快は神村に酌をしながら、
「ちと、上人が羨ましいわい」
「私が羨ましいですと」
「人としての最大の喜びは、己の立身出世や栄達などではなく、土中に珠玉を見つけることじゃからの」
「真に……」
「わしも、いつお迎えが来てもおかしくないでの、一刻も早く会いたいものじゃ」
と天を仰いだ。
「では、機会を見て私が事情を話し、御山を訪ねるよう薦めてみましょう」
「そこじゃ、こちらから知らせて良いものかのう」
迷いを見せた真快に、
「彼ももう立派な大人です。どのような事実を知っても、心惑うこともないでしょう」
と、神村が請け負った。
「ふふふ、この世にまだ楽しみが残っておったかのう」
真快は思わず目尻を下げた。
「さて、せっかく上人と会ったのじゃ。耳触りが悪いかもしれんが、一つ訊ねて良いかの」
一転、真快が神妙な口調になった。
「伝承のことでございますね」
神村もまた緊張の声で答えた。
「候補の人物は見つかったかな」
「未だに……」
神村は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「それはよい。わしも上人の心中は察しているつもりじゃ」
「恐れ入ります」
「じゃがの、神村上人。栄興上人もすでにこの世に居らず、わしもいつ何時お迎えが来るとも限らない。いや、この歳では奥義伝法灌頂は無理な相談じゃ。となると、万が一にも上人の身に何ぞあれば、継承が途絶えてしまうことになる」
「ご懸念はごもっともでございます」
神村は瞑想の折の、栄真大聖人の苦言を思い出していた。
「そこでじゃ。誰かに伝承して貰えまいか」
「御上には、心当たりがございますか」
「ないこともない」
「どなたでしょうか」
「ここへ呼んでも良いかの」
「ここへ? 高野山のお方ですか」
「わしの最後の直弟子じゃ」
「それはそれは……」
神村は畏まって首肯した。
「善快、神村上人の許しが出た。入って参れ」
真快が隣の部屋に呼び掛けた。驚く神村に、
「般若湯を用意させたとき、呼んでおいた」
と告げた。
善快が入って来た。
年齢は五十歳過ぎであろうか。細身だが、眉が濃く目元が涼やかでいかにも聡明な顔つきである。
「初めてお目に掛かります。三枝善快でございます。かねがね神村上人の御高名は耳にしておりました。宜しく御指導賜りますようお願い申し上げます」
善快は平伏した。
「神村正遠です。こちらこそ宜しくお付き合い下さい」
神村は軽く会釈を返した。
「善快は真言学徒きっての秀才での。わしの弟子の中では随一の器量の持ち主じゃ」
「それは素晴らしい」
神村は素直に称賛した。
「とんでもございません。大阿闍梨様の買い被りでございます」
善快は恐縮して言った。
「いえいえ。御上がこれほどまでにおっしゃるのです。実に頼もしい限りです」
「もっとも、他宗に目を向ければ上には上がおるがな。のう、善快や」
問われた善快は、
「承知しております」
と、微笑みながら神村に視線を送った。
「どうじゃの、神村上人。上人が落ち着いたら、この善快に伝承してくれまいか」
「御上の御意志に否など申すはずがございません」
「いや、礼を言いますぞ、上人」
と、真快が居住まいを正して深々と頭を下げた。善快も真快に倣った。
「お二人共、どうぞ頭をお上げ下さい。元はと言えば、御上から伝承されたものです。御上の秘蔵弟子にお伝えするのは当然のことでございます」
神村は恭しく言った。
初秋の夜長、月光はますます冴え渡り、松の木の根元でチロチロと鳴く松虫の音色が風雅な時の流れに色を添えた。




