(2)黄泉
まだ月が天空を支配する深夜三時――。
天真宗・京都大本山本妙寺の西の井戸端で、白衣一枚を纏った神村正遠が水行に専念していた。
神村は「如来神力品第二十一」を唱えながら、一時間余りも一心に水を被っていた。本妙寺には、昔ながらの古井戸があり、つるべを手繰って清冽な水を汲み上げていた。
残暑厳しい季節とはいえ、地下水は神村の身体から熱を奪うに十分な冷たさである。もっとも、極寒の季節の荒行を十二度も達成した彼であれば、この程度の冷水は何ほどのことでもなかった。
身体を清め終えた神村は本堂に入り、御本尊の前で胡座をかき、瞑想に入った。本妙寺の御本尊は「観世音菩薩像」である。神村の守護霊と同じであった。
ほどなく、広大無辺の闇に入り込んだ神村は、ただひたすら天界からの来訪者を待った。
諸仏救世者
住於大神通
為悦衆生故
現無量神力
舌相至梵天
身放無数光
為求仏道者
現此希有事
そのとき、一点の凡庸とした光が灯り、老僧が浮かび上がった。旅装束の見窄らしい身形だが、威厳と風格が備わり、玄妙な霊気が漂っている。
「久しいのう、栄麟」
老僧が親しげに声を掛けた。
法名を呼ばれ、目を見開いた神村はあわてて正座に直り、
「御宗祖様、御心をお騒がせし申し訳ございません」
と平伏した。
「そのようなことは斟酌せずとも良い。それより、三度目じゃな」
「はっ」
「仏の顔も三度というからの」
栄真が、からからと笑った。
神村はこれまでに二度、栄真と会っていた。黄泉の国の住人である栄真と『会った』という表現はどうかと思うが、ともかく二度栄真に命を救われていた。
一度目は、神村が六歳のとき、一家が寄宿していた鳥取県米子市にある大経寺での灌仏会の法会のときだった。庭の椎木の枝を切り落とした際、天の怒りのような落雷を身体に受け、意識不明の重体となった。そのとき、栄真が現世に下り命を救った。
二度目は、四十七歳のとき、天山修行堂に於いて十二度目の荒行のときだった。最終の滝行の最終日、意識朦朧となった神村はそのまま滝壺に落ちた。滝壺自体の深さは、成人男性の腰の辺りであったから、通常であれば溺れることはないのだが、そのときの神村は意識を喪失していたため、溺死寸前となったのである。その危難を救ったのも栄真であった。
そして今回の降臨である。
「如何したかの」
栄真は慈愛の声で訊ねた。
「身体極まってございます」
「どうもそのようじゃが、呑気なことを申しておるな」
栄真は呆れ顔になった。
「しかしながら、此度のことどのように処すれば良いか妙案が浮かびません」
神村は深刻な声で訴えた。
「奥義を伝承してくれた栄興に遠慮してのことかえ」
栄興とは瑞真寺の先代門主である。
「は、はい」
神村は言葉を濁した。
「なんとのう」
栄真は嘆息した。
「そなたらしいといえばそれまでじゃが、そのようなことで拙僧の生まれ変わりと言えるかえ」
声には叱責の響きが含まれている。
「そのようなだいそれたこと、この栄麟、努々思ったこともございません」
神村は精一杯の抗弁をした。
「そなたがどのように考えようと、わしが二度までも命を救った限りは、わしの、いや仏道の本分を人間界に遍く広めて貰わねばならぬ。それが、このような些細なことで遅滞するな」
「しかし……」
神村は縋るような眼をした。
「それに栄興ではないが、そなたはまだ伝承しておらぬ」
「ははあ……」
神村は平伏した。
「そなたの意中の者が仏道に目覚めるのはまだ先ぞ」
「……」
神村には返す言葉がなかった。
「よもや、わしの血脈者に伝承されておるで、安心しておるのではあるまいな」
「決してそのようなことは……」
神村は顔を上げて弁明した。
「わかっているとは思うが、あの者は備えであって、あくまでも正統はそちじゃぞ、神村上人」
「恐れ入ります」
――困った奴じゃのう。そなたが命を削ってまで救ったあの者じゃが、伝承などとてものこと無理な相談だと重々承知しておろうに……。
と、栄真は呟くように言葉を続けたが、神村の耳には届いていない。
「何か、おっしゃいましたでしょうか」
いや、なんでもないと言った栄真は、
「それより一度目はともかく、二度目を救ったは、そなたがまだ奥義を伝承していなかったからだ。空海様が御苦労なされて我が国に持ち帰られた秘伝奥義の正統継承が中断しては、大師様に申し訳なかろうが」
と厳しい口調で諭した。
神村は再び平伏し、身を震わせた。
「仕方がないのう」
苦い顔をした栄真は、
「八葉を訪ねよ」
と言葉を掛けた。
――八葉? おお、そうだった。
神村は有難うございます、と平伏したまま礼を述べた。
その頭越しに、
――栄麟、ともかく急げよ。
と呟いたが、これもまた神村の耳には届いていなかった。
そして神村が顔を上げたとき、もはやそこに栄真の姿はなかった。
東の空が明るくなっていた。
「執事長」
神村は、自分を呼ぶ執事の声で瞑想から醒めた。
森岡は帝都ホテル大阪で伊能と会った。伊能の怪我はすっかり平癒し、通常の生活に戻っていた。
森岡は、久田帝玄と蔵王興産及び石黒組との関係調査を彼に依頼していた。この件は、かつて週刊誌に掲載されたこともあり、それほど難しい調査ではなかった。
「森岡さんの睨まれたとおり、久田貫主は石黒組から借金されているようですね。もっとも、直接貸しているのは、石黒組の企業舎弟である極東金融ですが」
「やはり、そうでしたか」
森岡の顔が鈍く歪んだ。この石黒組への借金が、宝物の一件に関わっていると考えるのが妥当であった。
――あのとき、軽く受け止めた忠告が、先の醜聞に続き、このような難題に形を変えて、行く手を立ち塞ぐことになるとは……。
またもや彼は、過日の真鍋高志の忠告を思い出していた。
「それで、借金はどれくらいでしょうか」
「それは、はっきりとしませんが、二十億までだと思われます」
「二十億まで、と言いますと」
「森岡さん、これをご覧下さい」
伊能は、長厳寺の登記簿謄本の写しを広げた。
「約三万坪の土地に設定された根抵当権です。その限度額が二十億円となっています。ですから、実際に借り受けた額まではわかりません」
「最大二十億か」
そう言ったきり、森岡は黙り込んでしまった。福井正勝拉致監禁の際の解決金とは事情が違った。いかな森岡でも、二十億という金額はおいそれと動かせる額ではなかったのである。
根抵当権とは、一定の範囲内の不特定の債権を極度額の範囲内において担保するために不動産上に設定された担保物権のことである。したがって、久田の借金は二十億円以下ということになるが、最悪のケースを想定するのが常識であろう。
思案に耽る森岡を見た伊能は、他に用が無ければ失礼しますと言い、その場を去ろうとした。
森岡があわてて呼び止めた。
「待って下さい、伊能さん。今日はもう一つ大事なお話があるのです」
「他に何か調査でも」
「いえ、調査の依頼ではありません」
森岡は首を横に振り、
「端的に言いましょう。伊能さん、私と手を組みませんか」
「はあ? 森岡さんと私が手を組む……」
さすがの伊能も困惑を隠せなかった。
「唐突なようですが、これまでの貴方の仕事ぶりを見させて頂いて、ずっと考えていたことです」
森岡は決して思い付きではないことを強調した。
「具体的に言いましょう。貴方に我が社の社外取締役をお願いしたい。そして、僅かではありますが、私の持ち株の中から株も譲ります。逆に、私個人あるいは我が社も、貴方の会社にいくらか出資しましょう。そうすれば、貴方の会社が調査だけでなく、他に事業を拡大したい場合に支援が可能です」
森岡は一呼吸入れ、
「どうでしょうか」
と、伊能を正視した。
「あまりに突然のお話で、驚くばかりです。伺った限りでは、私には良いお話のようですが、森岡さんには何かメリットがあるのですか」
伊能は遠慮気味に訊いた。
「ご心配なく、大いにあります。たとえば、此度の件の延長線上には、神村先生の法国寺貫主就任という次のステージもありますし、それとは別に、先生と私の夢の実現のため、全国の数十ヶ所を調査して頂く仕事もあります。その土地々の権力構造とか、地回りのヤクザとかね」
森岡は話を続けた。
「それだけではありませんよ。これからの私の事業にも、伊能さんのお力が必要になってきます。伊能さんもご存知のとおり、我が社は二年後に新興市場への上場を計画しています。そして、上場後の事業展開として、M&Aも視野に入れております。その買収先の調査もお願いしたいと思っているのです。そしてさらに……」
森岡は、味一番と榊原商店を含めた持ち株会社設立構想まで力説した。
だが、そこまで言って唇をぎゅっと噛み締めた。
「いや、そうではない」
森岡は独り言のように呟くと、肚を据えたような面をした。
「私との提携には、何か裏があるのですね」
さすがは元公安畑のエリート警察官である。森岡の心中を瞬時に看破した。
「本当の目的は、伊能さんにブックメーカー事業を手伝って欲しいということです」
「ブックメーカーって、あの?」
伊能は探るように問い返した。
「ええ、賭博の胴元です」
「しかし、日本国内は法令に抵触しますし、外国での事業となると厄介な問題が山積でしょう」
伊能は、地元マフィアとの軋轢を示唆した。
「それが、英国のライセンスを取得することになったのです」
「英国の? そう言えば、七年前にも日本人が取得していましたね。えーと、確か神州組の縁者ではなかったですか」
「さすがですね。阿波野という先代組長の実子が絡んでいました」
そう言った森岡の表情が一段と引き締まった。
「実は、今度そのライセンスを私が管理することになったのです」
「何ですと! ということは、まさか神王組と」
伊能の声が思わず上ずった。
「ええ」
と肯いた森岡は、蜂矢六代目からの要請を詳細に話した。黙って耳を傾けていた伊能は、話が終わると目を閉じて思案に耽った。
退職したとはいえ、元キャリア警察官である。しかも伊能は、監視対象である暴力団の情報も耳にしていたし、今でも交流のある公安警察官は数多くいる。
もし、自分が警察当局に情報提供すれば、森岡の立場は砂上の楼閣となる。森岡自身もそのことは十分承知のうえでの告白だ、と伊能は理解していた。
長い瞑目だった。
森岡はソファーから腰を上げ、窓際に立って外を眺めた。
正面右手、西の遠方に位置する大阪湾に、太陽がその巨体をゆっくりと隠し始めていた。その残照が反射して海原に現れた黄金の道は、ビル群や家並みを染め上げながら、すっと手前に伸びて来て、ホテルの足元に横たわる寝屋川を隔ててすぐのところに聳え立つ大阪城を、いっそう勇壮な姿に浮かび上がらせていた。
「私の役割は何ですか」
伊能の声が背中越しに届いた。森岡は振り返ると、
「渉外担当をしてお願いしたい」
「私が保険になりますか」
「それは何とも……。ですが、少なくとも丸腰ではなくなります」
「ふむ」
伊能は呻くように息を吐くと、再び瞑目した。
言葉は悪いが、森岡はブックメーカー事業に伊能を引き擦り込みたいと欲していた。それは、ひとえに警察権力を盾にした保身のためであった。
「先ほど、神王組のバッジをもらったとおっしゃいましたね」
はい、と肯くと、
「これです」
森岡は胸ポケットから取り出して伊能に手渡した。それを見た瞬間、伊能が驚嘆の声を上げた。
「これはプラチナバッジではありませんか」
「そのようですね」
「そのようですねって、何を悠長なことをおっしゃっているのですか」
伊能は少し怒ったような物言いになった。
「このバッジには特別な意味でもあるのですか」
森岡は率直に訊いた。
「えっ? 貴方ほどの方でも、知らないこともあるのですね」
今度は呆れた顔つきになった。
「プラチナバッジは、神王組でも二十数人しか所有できない最高幹部の証なのです」
ああー、と森岡はようやく思い至ったように息を漏らした。
「そういえば、峰松さんは金バッジでした。金より上、ということでプラチナですか……。私としたことがお粗末でした」
「峰松とは神栄会若頭の峰松ですか」
「ええ。実は若頭とは、止むを得ない事情で親交があるのです」
森岡は、神栄会との関わりの発端となった霊園地買収問題から、福地正勝拉致監禁事件までの経緯を説明した。
「なるほど、それで納得しました。蜂矢六代目は、一連の言動から貴方に白羽の矢を立てたということですね」
「そういうことになるのでしょうか」
森岡はまるで他人事のように言った。
「六代目がプラチナバッジを渡したということは、よくよくの思い入れということになります」
「その良し悪しは曰く言い難しでしょうが」
森岡は苦笑いをした。
「いかにも貴方らしいですが、さらに驚いたのは、まもなく売上一兆円の企業グループのトップに君臨するということです。只者ではないと承知していましたが、それほどまでとは……」
伊能は呆れたように言ったが、先刻の様な皮肉の混じったものではなく、ある種の感動を含むそれであった。
「少しお時間を頂戴できませんか。私の方も二、三相談したい方もいますので」
言葉と裏腹にさばさばした表情である。
「もちろんです。返事は急ぎませんので、前向きに御検討をお願いします」
そう言いながら、森岡は伊能に握手を求めた。伊能もそれに応え、二人はお互いの手を硬く握り締め合った。その手に伝わる感触から、森岡は伊能との盟約なった、と確信した。
猶予を求めた伊能ではあったが、このときすでに腹を決めていた。彼もまた、森岡の魅力に引き込まれていた一人だったのである。




