第七章 法力(1)異変
それから一週間後のことであった。
突如、衝撃の噂が京都の街を疾風の如く駆け巡り、やがて森岡洋介の耳にも飛び込んで来た。
別格大本山法国寺貫主の久田帝玄が朝の勤行中に倒れ、病院に緊急搬送されたというのである。一切の面会は拒絶され、予断を許さない状態が続いているとのことであった。
久田は法国寺の前貫主だった黒岩の後を継いで、京都本山会の会長に就任していた。その彼の急病により、合議の日まで二週間を切っていた大本山本妙寺次期貫主の人選案件は一時棚上げとなり、久田の進退に関する最終的な判断を一ヶ月後とする臨時処置が取られた。
それに伴い、本妙寺の新貫主選出の合議は、それからさらに二か月後の十二月初旬と変更された。急転直下、天の戯れとしか思えない奇妙な雲行きとなったのである。
「久田倒れる」の一報は、森岡や神村にとっても青天の霹靂であった。もし久田が逝去すれば、いやたとえ命を取り留めたとしても、宗務に支障をきたすと判断されれば、またしても法国寺貫主の選任から始めなければならなくなる。
再び藤井清慶が立てば、今度こそ対抗できる人物はいない。
不安の火種を胸に抱えたまま、森岡は神村、谷川兄弟との対策協議のため、幸苑へと向かった。三人と顔を突き合わすのは、実に久々だった。本来であれば、神村の選出を前に喜ばしい席のはずが、不穏な事の成り行きに、四人の顔色も冴えなかった。
森岡が着座するや否や、待ちかねたように谷川東良が口を開いた。
「御前様の事で何か知っていることあらへんか」
「いえ、何も……」
「そうか。まあ、そりゃあそうやろうな」
「御前様の様子はわかりませんか」
「私も訪ねてみたのだが、けんもほろろに断られた」
天真宗の関西地区・寺院会会長の要職にある東顕でも目ぼしい情報は取れなかったという。
「先生も、ですか」
「ああ、私もお会いできなかった」
神村の口も重かった。
「だが、執事長の様子がおかしいのや」
「どのようにですか」
森岡が東顕に訊いた。
「面会を断わられたのは断られたのだが、御前様が生死の淵を彷徨っておられるというのに、まるで悲壮感が感じられかった」
森岡の脳裡にある疑念が過ぎった。
「まさか、仮病ではありませんか」
「仮病? なるほどな、それも考えられるな」
東顕も思い付いたように応じた。
「しかし、何のためでしょうか」
森岡は自分で言っておきながら首を捻った。
「それがわかれば誰も苦労はせんが、考えてみれば搬送された病院が吹田市の北摂高度救命救急センターというのも妙な話やな」
東良が疑問を呈した。
「京都の病院じゃないのですか」
森岡が訝しげな声を上げた。北摂高度救命救急センターは、かつて彼が凶刃に倒れたとき救急搬送された病院である。
「そうやねん。京都にかて、ええ病院はある。せやのに、なんぼ北摂高度救命救急センターの理事長と知り合いやから言うて、わざわざ時間を掛けてまで吹田の病院へ運ばせんやろ」
「理事長と御前様は知り合いなのですか」
「理事長は帝都大学時代の後輩らしい」
神村が答えた。神村は、実父正周が心筋梗塞で倒れたとき、久田から理事長を紹介され親交があるという。
「何やら、ますます臭いますね。しかし、仮病であれ何であれ、先生には一言断りがあっても良さそうなものですよね」
森岡は東良に視線を送り、同調を促した。
「そうだよな。わしが言うのも何だが、これだけ世話になった神村上人に一言も無いとはな」
森岡は、目論見どおりに東良が同調したことで、さらに一歩核心に踏み込んだ。
「先生にもお会いになられないということは、先生にとって良くない事をお考えなのか、あるいは一切誰にも話せない事情が起こったのか、そのいずれかではないでしょうか」
「森岡君は何が起こったと言いたいのかね」
神村が訊ねた。
「そこまでは私にも推量が付きませんが、最悪のことを想定致しますと、御前様の身の上に、これだけ助力した先生をも裏切らなければならない特別な事情が降り掛かった、ということでしょう。仮病だとすれば、そのための時間稼ぎかと」
「私を裏切る特別な事情か」
神村は視線を庭にやった。
夏の終わりを告げるヒグラシの鳴き声が、森岡の耳に物悲しく届いていた。
「調べてみましょうか」
森岡は、神村の心底を探るように言った。
「うーん。難しいところだなあ」
口調に戸惑いが滲み出ていた。
だが、師の真意を量りかねて苦悩する神村に向かって、いつもはその心中を慮る森岡が容赦のない質問をした。
それは禁句に近いものであった。
「つかぬ事をお訊ねしますが、もし御前様が本妙寺の貫主に久保上人を押すおつもりだとしたら、先生はどうなさいますか」
「どうするとは?」
神村の意外と落ち着いた表情に、
「御前様と戦われますか、それとも身を引かれますか」
森岡は息を呑むようにして訊いた。
彼には焦りがあった。最悪の事態を想定すれば、時間はいくらあっても足りないと感じていた。何と言っても、今度の相手は影の法主・久田帝玄なのである。
「森岡君、それは酷な質問やで。神村上人が御前様に反目できるはずがないやないか。神村上人にとっては親以上の恩を受けた方なんやで。たとえば、君は神村上人に敵対できるかあ」
東良が神村の言を待たずに、いかにももっともらしいことを言った。
「それは、できません」
「そうやろう。たとえそれが理不尽なことであっても、余程のことでない限り、師と諍いを起こすことなどできやせんのや」
「しかし……」
森岡の目に鈍い光が宿った。
「しかし?」
「仮に、先生のためになる反目であれば、私は先生に逆らいます」
森岡は言い切った。
「まあ、君の言うことも理解できるが、今回の件は御前様の事情が全く掴めんのやから、動きようがないやろ」
「ですから、先ほどそのあたりを調べてみてはどうかと申し上げたのです。先生が御前様を疑うこと自体、後ろめたくお思いであると重々承知しておりますが」
森岡は、東良が久田の身辺調査に乗り気ではないと感じた。しかもそれは、神村の久田に対する遠慮を気遣ってのものではなく、別の思惑があるようにも感じ取っていたが、ともかく相手が相手だけに、最終的な判断は神村に委ねるしかなかった。
森岡は神村の決断をひたすら待った。
「とりあえず、もう二週間待ってみないか。病気の真偽が定かになってからでも遅くはないと思う。その後、どうするか決めよう。もし、それまでに事情が判明すれば、そのときに相談することにしようじゃないか」
しばらくして、神村の口から出た言葉は、彼の立場からすれば無難なものだった。
森岡は、黙したまま諾否の意思を示さなかった。神村の考えは理解できなくもなかったが、座して二週間もやり過すわけにもいかなかった。
ただでさえ時間が足りないというのに、二週間も時を無駄にした挙句、直前になって久田の裏切りが明確になれば、それこそ手の打ちようがないからである。森岡の脳裡を埋め尽くしているのは、今度の相手はこれまでと数段勝手の違う巨人・久田帝玄なのだという畏怖であった。
また、故郷園方寺の先代住職・道恵和尚の、
――久田は、殊の外浮かぬかをしていた。
という言葉が頭の隅を掠めた森岡は不安にも苛まれていた。
――御前様は本気で裏切るつもりなのだろうか? いや、いくらなんでもそれはないだろう。しかし、しかし……。
森岡は反芻した。しかし何度打ち消しても、春霞のようにいつの間にか心を不安の膜が覆った。
森岡は神村に師事してから、初めて恩師の意思に逆らうことを決心する。それは、彼にとって絶縁をも覚悟した決断だった。
久田帝玄に関する不穏な情報が、相次いで彼の耳に飛び込んで来たのはその直後だった。
一つは本山桂国寺の坂東貫主から谷川東良に連絡が入り、久田に本妙寺の件で、見返りとして神村から受け取る金額を訊ねられたというものであり、もう一つは榊原壮太郎を介して、別格大本山法国寺の前執事長だった兵庫県三田市・楽光寺住職の里見からもたらされたものだが、その内容は俄かには信じ難い面妖なものだった。
それは、久田の法国寺晋山式の余韻が冷めやらぬ頃であった。
里見が宝物殿に入ってみると、宗祖栄真大聖人の直筆の書や手紙に加え、栄真手ずから彫ったという釈迦立像といった宝物が五点消えて無くなっていたというのだ。闇ルートに流通すれば三億円は下らないと思われた。
法国寺は、総本山真興寺に次ぐ格式高い寺院である。宝物殿には国宝級の宝物が数多く保管されていた。
里見は毎朝宝物殿を訪れ、施錠の確認や周囲を見回して、盗難に遭った形跡がないかを確認し、十日に一度は中に入って現物を検めていた。
里見は血の気の失せた面で久田に報告するが、予想に反して彼は警察に通報するよう指示をしなかった。当初は、騒ぎが表沙汰になり、責任問題に発展することを恐れたためで、いずれ内々に捜査を依頼するものだと思っていた。ところが、久田にはいっこうにその気配が感じられない。
平静を取り戻した里見は、よくよく思い返してみた。すると、不審な点がいくつも浮かび上がった。
まず、鍵を壊したような形跡が無く、警報音も聞いてはいなかった。つまり、盗人は合鍵を用意し、警報装置を遮断するという周到な準備をしていたことになる。
また、他にも多数宝物はあったが、それらに手は付けられていなかった。紛失した品から推測すれば、たとえ一人であっても、充分に手は余っていたはずなのに、何故五点だけなのだろうかという疑問も残った。
様々な状況から判断すると、とても泥棒が入ったようには思えなくなった。
宝物殿の鍵は、貫主である久田と執事長である里見の二人だけしか所持していない。
里見は紛失の報告のときの冷静な反応を考えてみても、久田が怪しいと疑ったが、確証がないうえに久田がその様な所業をする動機がわからず、誰にも話すことができずにいたというのだ。
だが半月が経って、突如久田から執事長の職を解任されたことにより、このままでは自分が濡れ衣を着せられるのではないかという不安に駆られ、保身のためには、とにかくこの事実を誰かに伝えておかなければという思いに至った。
しかし、宗門内における久田の威光を考えると、迂闊に同僚らには相談することができない。そこで、自坊楽光寺を通じて親交のあった榊原壮太郎を頼ったという次第だった。
森岡は熟考を重ねた。
脳細胞をフル稼働して、必死に考えを巡らした。里見の話が真実ならば、久田が持ち出したに違いない。
問題はその動機である。
今回もたらされた二つの情報と、久田の仮病と思しき行動がどのように関連しているのか、いないのか。 そして久田が我々を裏切るとすれば、いったいどのような理由によってなのか。
ともかく、この情報も神村の耳には入れまい、と森岡は心に決めていた。
何といっても、久田帝玄は最重要人物である。神村の行く末においても不可欠の人物である。したがって、たとえ久田が神村に対する裏切りを考えていたとしても、未然に防ぐことができれば、彼は己ひとりの胸の内に納めておくつもりだった。
僅か一時間ほどの思案にも拘らず、森岡は猛烈な疲弊に襲われていた。女性秘書が十五時のコーヒーを入れたときには、ソファーにその身を横たえていたほどであった。
このとき、森岡は久田の本心を確かめるため、直談判する決意を固めていた。
一切の面会を拒絶している久田だが、森岡には、
――もしや、御前様は自分を待っておられるのではないか。
という奇妙な観念に囚われていた。
何の確証もない、ただの希望的観測に過ぎないのだが、久田が京都ではなく、わざわざ大阪吹田にある北摂高度救命救急センターに搬送されたのは、彼のサインではないか、つまり自分が凶刃に倒れた件を知っていた久田の、理事長を介せ、という信号ではないかと思い至った。
もう一つ、片桐瞳から久田が自分の近況を知りたがっていたとの連絡を受けていたことも、その思いを増長させていた。
そうとなれば一刻も早く、と心焦る森岡だったが、彼にはその前にやるべき事が一つあった。




