(2)
「しかし、偶然ってあるものなんだなあ」
坂根はどこか嬉しそうに言った。
坂根と池端敦子は、梅田のパリストンホテルのロビーで待ち合わせ、森岡の馴染みである北新地のショットバー・祢玖樽に繰り出していた。
「同じ千里沿線に住んでいるのですから、出会ってもおかしくないでしょう」
「といっても、電車通勤のときの僕は朝早く出社して、夜遅く帰宅していたから、学生の君とはすれ違いだったのも肯ける」
「現在はどこに勤めているのですか」
「おっと、そうだった」
坂根はポケットから名刺入れを取り出し、一枚抜いて敦子に手渡した。坂根は森岡の指示に従い、たとえ休日であっても名刺を所持していた。
「ウイニットって、あの?」
「敦ちゃん、知っているの」
「そりゃあ、私だって知っています。IT企業として有名だし、そうでなくても、今就職活動の真っ最中ですから」
「そうか、敦ちゃんは四回生か。それで、どうなの」
坂根は気遣いながら訊いた。大学生の就職状況は、氷河期と言われていた時代であった。
「それが……」
やはり、敦子の表情に暗い影が宿った。
「今は難しいからなあ」
坂根は同情の言葉を掛けるしかなかった。四回生のこの時期に内定が取れないということは絶望的だった。
「職種に希望はあるのかい」
「第一希望はマスコミ関係でしたが、そうもいっていられなくなりました」
「勤務地は?」
「どこでも良いです」
「そうなら……」
と言い掛けて坂根は言葉を切った。
「何ですか」
「敦っちゃんのお父さんは、確か大手都市銀行のエリートじゃなかったかい」
坂根は塾講師時代の記憶を辿って訊いた。
「エリートかどうかわかりませんが、富国銀行の梅田支店長をしています」
「富国の梅田支店といえば関西の最重要拠点だから、そこの支店長ならうまくいけば役員になれるじゃないかな」
「さあ、どうでしょう」
敦子は興味が無さそうに言った。
「役員はともかく、かなり顔が利くのは間違いないと思うけどなあ」
「何が言いたいのですか」
「富国の融資先に口を利いてもらったら……」
「何を言うのですか! 私、坂根さんを見損ないました」
敦子は坂根の言葉を遮って怒声を上げると、ぷいと顔を横に向けた。
「いや、済まない。敦ちゃんがあまりに落胆していたものだから、ついくだらないことを言ってしまった」
坂根は平身低頭で詫びた。中学生の頃、彼女は努力家であると同時に不正を嫌う正義感の強い少女だったことを忘れていた。
「父と私は別です」
顔を戻して言うと、敦子は気を静めるように二、三度大きく息を吐き、坂根の名刺を手に取った。
「でも、その若さでウイニットの課長さんだなんて、凄いなあ」
敦子の和らいだ語調に、坂根はほっと胸を撫で下ろしながら、
「ちっとも凄くなんかないよ。社長と僕の兄とが中学以来の大親友でね。その関係もあって、目を掛けて貰っているだけなんだ」
と謙遜した。
「じゃあ、森岡社長さんって、坂根さんと同郷なのですか」
「同じ村ではないけど、隣村ってところかな」
「へえ、そうなんだ」
敦子が得心したとき、後方の扉が開いた。
「いらっしゃいませ、森岡様」
というマスターの声に、カウンター席に座っていた坂根が訝しげに振り向くと、そこに森岡と茜が立っていた。
「よう、坂根。お前がこんなところにいるなんて珍しいな」
口調から推察すると、かなりご機嫌の様子である。
「社長こそ、今日はお出掛けになる予定ではなかったはずです」
「そのつもりだったが、茜が天天の天ぷらを食べたいと言い出してな。外食することになった」
「まあ、私のせいにして。自分が食べたかったくせに」
茜は口を尖らせて詰ると、
「あら、とても愛らしいお嬢さんとご一緒ね。どういうご関係かしら」
一転、にこやかな顔になった。
「茜、そんな無粋なことを訊くもんやない」
森岡は茜を嗜めるように言い、
「マスター、向こうのテーブルに座るわ」
と奥の方へ歩き出した。
そのとき、
「森岡社長さんですか」
敦子が大きな声で呼び止めた。森岡は、驚いたように彼女に向き直った。
「そうですが」
「私は池端敦子と言います」
彼女はぺこりと頭を下げ、
「宜しければ、ご一緒できませんか」
と物怖じもせずに誘いの言葉を掛けた。
「こちらは構わないが、そちらは迷惑じゃないのかい」
「いいえ。有名な社長さんとご一緒できるなんで願ってもないことです」
坂根も黙って肯いた。
「それじゃあ、遠慮なく一緒させてもらおうか」
と、茜を敦子の横に座らせ、自身と坂根で彼女らを挟む形を取った。むろん、彼女らの横に男性客が座れないように配慮したのである。
「さて、坂根。こうなったからには、ちゃんと彼女を紹介しろや」
森岡の命令口調に、坂根は彼女を大学時代の教え子だと紹介し、七年ぶりの再会だと付け加えた。
「まあ、そんな素敵な偶然もあるものね」
茜が感じ入ったように言うと、敦子はアルコールが入った勢いからか、不躾にも、
「この、凄くお綺麗な方は社長さんの奥様ですか」
と軽口を叩いた。
「そんなもんや」
「とってもお似合いですね」
「そう? 有難う。でもあなたたちだってお似合いよ」
「そんな……」
茜の言葉に、敦子は急にしおらしく照れた。
「む、むむ 」
と、森岡が頬を緩め、
「まあ」
茜も目を丸くしたが、肝心の坂根はきょとんとした顔つきでいる。
――いやはや、朴念仁がここにもいたか。
と、森岡は呆れつつ、
「しかし、最初の出会いが中学二年生じゃあ、まだ子供だからな。お前も驚いたやろう」
と水を向けた。
「はい。何度も声を掛けられましたが、全くわかりませんでした」
「私はすぐわかりましたよ」
敦子は怒ったように言う。
「男の方はたいして変わらないというでしょうか」
坂根が嘆息交じりに言うと、
「それだけじゃないでしょう」
茜が意味深い言葉を返した。
「どういうことですか」
「それは、敦子さんに訊いてみないと」
「敦ちゃん、どういうことなの」
「それは……」
敦子は赤らんだ顔を隠すように俯いた。
その瞬間、坂根は茜の言葉の意味を理解した。
「坂根、なかなか良いお嬢さんやないか」
「はあ、はい」
森岡の褒め言葉に、坂根は満更でもない表情で答えた。
すると、俯いていたはずの敦子が顔を上げ、いきなり、
「社長さん、私を御社で雇って下さい」
何とも大胆なことを言い出した。まさに、恐れを知らないとはこのことであろう。
「敦ちゃん、いくら何でもそれは……」
坂根はあわてて忠告し、
「社長、彼女は少し酔っています。聞き流して下さい」
と、彼女を庇った。
しかし、森岡に気分を害した様子はない。
「うちに? 敦子さんは大学生なの」
「近畿女子大学です」
「名門じゃないか」
「有難うございます。でも、なかなか厳しくて」
「大変だろうな」
森岡は同情すると、
「俺らは就職の苦労なんかせんかったからな」
と宙を仰ぎ見た。
「そうなんですか」
「俺は端から就職する気などなかったが、アルバイト先の社長から懇願されたし、浪速大学を実質首席卒業の坂根は引く手数多、茜はスカウトやからな」
「茜さんがスカウト?」
「茜さんは、新地の最高級クラブ・ロンドのオーナーママさんや」
「え? こんなに若いのに……」
坂根の説明に、敦子は唖然と茜を見つめた。
「さて、敦子さんの頼みとあれば、よっしゃ、と二つ返事をしたいのはやまやまだが、これでも上場前の会社やから公私混同は許されん。悪いけど、正式な手続きをして会社訪問から始めてな」
「は、はい」
敦子は肩を落とした。
「その代わり、本来は最終面接しかせんのやけど、君は特別に俺が一次面接をしてあげる」
「……」
「社長が? 本当ですか」
意味のわからない敦子に代わって、坂根が喜色の面で確認した。森岡が一次面接をするということは、入社試験の成績がそれなりであれば採用ということなのである。
「せやけど、試験が箸にも棒にも掛からないようじゃあかんで」
森岡は釘を刺した。
「彼女の大学の成績は優秀ですから、入社試験は大丈夫だと思います」
坂根が何時になく意気込んだ。冷静沈着が信条の坂根が見せた気負いに、森岡と茜は顔を見合わせ微笑を交わした。




