第六章 交渉(1)
故郷島根で英気を養った森岡は、大阪へ戻るとさっそく神栄会の峰松重一に面会を求めた。大阪梅田のパリストンホテルのスイートルームは、重苦しい空気が蔓延していた。神栄会若頭の峰松は終始険しい顔つきを崩さなかった。
森岡が蒲生と足立を伴って部屋に入って来ると、峰松はソファーから腰を上げ、深々と頭を下げた。
「森岡はん、すんません」
一緒にいた護衛役も峰松に倣った。
「いったいどうしたというのです」
森岡は驚いた目で峰松を見た。
「浜浦での失態です」
「失態?」
「暴漢に襲われたそうで……」
「そのことですか」
森岡は事情を悟ると、
「それはもう気になさらないで下さい」
と気遣った。
「そうはいきまへん。寺島の親父から境港行きを言い付かっておきながら、大変な手抜かりでした。親父には大目玉を食らいました」
「それは却って申し訳ないことでした。私としては、不審な男たちを拘束して頂いただけでも十分でしたのに……」
「いえ、念のため身辺を警護するべきでした」
峰松は歯噛みした。
「そこで相談ですが、神栄会の者を三人ほど傍に置いてもらえまへんか」
「いや、それは不味いでしょう。前にも申しましたが、お互いの関係を世間には知られたくはありません」
森岡は毅然と断った。
「せやけど……」
渋る峰松に、
「この蒲生がおりますので大丈夫です」
と、森岡は蒲生を紹介した。
「あんたはんが、窮地を救った蒲生はんでっか。足立の叔父貴から聞いておりま」
と感心したところで、峰松の眼が足立統万に移った。
「おっ、そこの若いのは、確かその足立のぼんやないか」
「憶えて頂いていましたか」
統万は恐縮そうに言った。
「やはり、そうか。盆に境港へ寄ったときには、ぼんはおらんかったの」
「森岡社長の許におりました」
「森岡はんの許で修行かの」
「祖父の命でこういう次第になりました」
「それは、ええこっちゃの。今も聞いとったと思うが、神王組にとって森岡はんはかけがえのないお人や。ええ人に付いたの」
峰松はにこやかに声を掛けると、
「蒲生はんと足立のぼんがいてるなら、こちらは影警護に徹しますわ」
と、有無を言わせぬ口調で宣した。
「それをもお断りはしませんが、昼間は目立たないようにお願いします」
森岡は、体よくスパイを送り込まれたと察していた。特に誰と会ったかを知られれば、大よその目的を悟られることになるだろう。だが、警護を名目にされた手前、頑なに拒むことができなかった。
峰松は黙って肯くと、
「影警護には、以前紹介しました補佐の九頭目を当てます」
「補佐? そのような幹部を、ですか」
森岡は目を剥いた。
神栄会の若頭補佐といえば、将来を約束されたのも同然の、極道世界ではエリート中のエリートである。そのような貫目のある極道が一般人の護衛に就くことなど有り得ないことなのだ。
「こちらにも事情ってものがありますので……」
峰松は思惑有り気に言ったが、森岡はそれ以上詮索することは止め、
「ところで奴らは何者でしたか」
と話題を戻した。
「虎鉄組の者ですわ」
「しかし、虎鉄組が私を襲うとよくわかりましたね」
「森岡はん。前にも言いましたやろ、わしらがその気になれば、わからんことはないと」
峰松が胸を張った。
たしかに東京の広域指定暴力団・稲田連合が京都別格大本山・法国寺裏山の霊園開発計画を知っていたことからも、その情報網の威力を森岡も認識していた。
「なあに、森岡はんが使っている探偵が襲われましたやろ。そこからですわ」
峰松が種を明かした。
「伊能さんが襲われたことを知っておられるのですか」
森岡が眼を剥いた。
「何を驚いてはるんですか。寺島の親父が、ブックメーカー事業を森岡はんに、と思い立ったとき、徹底的に調べさせてもろうたんですわ」
峰松は事も無さげに言った。
森岡の脳裏に、いつかの、
『その気になれば、ケツの毛の数まで調べることができる』
と自慢げに言った峰松の言葉が過っていた。
「これは驚きました」
と頭を掻いた森岡だったが、眼には疑念が残っていた。
峰松は察したように、
「森岡はん。警察とは持ちつ持たれつでんがな」
と不敵に笑った。
言われてみれば、警察と暴力団には癒着の関係があった。いや、警察組織ではなく不心得な個々の警察官との癒着と、正確に言わなければならないだろう。
警察官の中には、暴力団から拳銃所持や麻薬取引の情報を得て、手柄を立てさせてもらう代わりに、警察の内部情報を漏らす不心得者がいる。
もちろん、拳銃所持や麻薬取引は「やらせ」であり、暴力団の被害は最小限に止まるように仕組まれている。
これは明らかにノルマ制度の弊害である。公務員試験合格以外の出世の道は実績を上げることだからである。また、個人だけではなく課や部、引いては署単位でのノルマがこのような暴力団との癒着や調書偽造、証拠捏造に走る警察官を産んでしまうのである。
「では警察から情報を?」
峰松は無言で肯くと、
「せやから、足立の叔父貴から東京ナンバー車の不審者が境港へ入ったという知らせを受けて、もしやと出張ったんですわ」
「それはそれは……」
森岡は頭を下げた。
「もっとも、足立家と森岡はんの生家との関係には驚きました」
森岡が故郷の浜浦へ帰省すると知った峰松は、旧知の足立万亀男に不穏な動きの情報収集を依頼をした。その際に、灘屋と足立家の交誼を知ったのだと言った。
「落とし前はどうされますか」
「金で決着を付けま。そこで相談ですが、三割貰えまへんか」
峰松は恐縮そうな顔で言った。本来であれば、この種の話は折半が応分である。だが、負い目を感じている峰松には三割でも虫が良いと思っていた。
「いえ。一円も要りません。全額峰松さんが受け取って下さい」
森岡は即答で遠慮した。
「ええんでっか」
「虎鉄組から分捕った金は使い道に困ります。影警護の費用にでも充てて下さい」
森岡は苦笑いをした。金に名前は書いてないというが、裏社会の金である。どのような悪縁のある金かわからない。森岡はそのような筋の悪い金を表社会の活動に使う気はなかった。
「何やようわかりまへんが、おおきに」
峰松は思わず頬を綻ばせた。
「ところで」
と、峰松があらたまった。
「その件は、近々六代目に直接ご返事を致します」
森岡は峰松の言葉を封じるように告げた。
「そうでっか」
峰松はそれ以上問い質すことができなかった。ブックメーカー事業は、蜂矢直々の要請なのである。
それからしばらくは、再び平穏な日々が戻った。
神村の大本山本妙寺の貫主就任は揺るぎないものと思われ、その恩恵で坂根好之もまた数ヶ月ぶりにゆるりとした休日を満喫しようとしていた。
新たに足立統万が加わったことで、各人の役割分担が変更された。
坂根は、極力裏社会との接触から外され、南目輝もブックメーカー事業に専念することになったため、常時森岡に従うのは蒲生亮太と足立統万の二人となった。
その日、坂根は久々に電車に乗った。
森岡の直属となり、社長車運転の役割も担っていた彼は、通勤にも車の使用を許可されていたため、電車に乗る機会から遠ざかっていた。
坂根は阪急電車・千里線の「北千里」という駅前のマンション住んでいる。駅まで徒歩二分という利便性の高いマンションで、前職の大手広告代理店に勤めていたときから住んでいた。
夕刻に大学時代の友人と大阪梅田駅で落ち合う約束だった。梅田方面行の始発駅と北千里駅だが、休日とあってか、行楽帰りの家族連れなどで結構な混雑となっていた。坂根は椅子には座らなかった。日頃の運動不足を解消しようと、梅田までの所要時間である五十分ほどを立っていることにしたのだ。
電車が次駅である「山田」を出発した直後だった。
若い女性が「先生」と声を上げた。
近くに大学があることから、坂根は学生が教授にでも声を掛けたのだろうと思った。
「先生」
少し声が近づいていた。坂根は、自分の近くに教授がいるのだと思い、何気なく周囲に目を配った。そのとき、こちらに向かって来る女学生が目に留まった。
可憐な女性だった。
――こんな可愛い女性に声を掛けられて気が付かないとは、よほど暢気な野郎だな。
などと思いながら、坂根が外の景色を眺めていると、
女性の足音がすぐ後方で止まり、
「坂根先生」
と少し焦れたような声で呼び掛けた。
――えっ、僕?
坂根は耳を疑った。先生と呼ばれる謂れがないのだ。
坂根は奇妙な面持ちで振り返ると、その可憐な女性が凝っと見つめてきた。
だが、やはり坂根には心当たりがない。
「先生、私です。敦子です」
彼女はそう言って微笑んだ。
「敦子……えっ、敦ちゃん?」
坂根は口を半開きにしたまま彼女を見つめた。
女性は池端敦子といって、坂根が大学時代に講師のアルバイトをしていた塾の生徒であった。
坂根は、我が国でも有数の大学である浪速大学に通っていたが、高校時代の偏差値からいえば、最高学府である帝都大学法学部への進学も容易いことだった。だが、東京の空気感が生理的に受け付けない、と拒否した。
浪速大学での成績は抜群で、首席での卒業も可能だったが、なにぶん頑固というか、意固地というか、気に入らない教授の講義は欠席を繰り返したため、その分成績が下がり首席を逃した。
それほど優秀な学生だったため、有名進学塾の講師として教壇に立っていたのである。当初は、テキストや試験問題の作成などの事務員として雇われたが、その優秀さが買われ、授業を受け持つようになったのだ。
坂根は、授業料以外の生活費は全て自分で賄っていた。家族の勧めに逆らって浪速大学へ進学した手前、親に負担を掛けることに気後れがあったのである。
坂根が受け持ったのは中学二年生の数学だった。当時、坂根は二十一歳、池端敦子が十四歳であった。
「本当に敦っちゃんなの?」
坂根は見違えるほど美しく成長した彼女に目を見張った。池端敦子は特別優秀な生徒というわけではなかったが、授業後にもよく質問をする快活な努力家だった。
「先生、どう? 大人になったでしょう」
おどけて見せた敦子に、
「ああ、とても信じられなあ」
と正直な気持ちを吐露した。
「先生はどこへ行くのですか」
「もう先生は止めてくれないかな、現在は普通のサラリーマンだから」
「そっか。じゃあ、坂根さん、で良いですか」
「良いよ」
「それで、梅田ですか」
「うん。大学時代の友人と会う約束をしているんだ」
「君は」
「私も友人と食事をする予定です」
「デートかな」
坂根は冷やかすように訊いた。
「違います、女性の友達です。先生こそ彼女と会うんでしょう」
彼女は少し怒ったような口調になった。
「ははは……残念ながら彼女はいない。僕も野郎たちと一杯飲むことになってね」
と、坂根は頭を掻いた。
「じゃあ先生、じゃなかった、坂根さんは何時頃まで飲むのですか」
「特に時間は決まっていないけど」
「だったら、私は二十一時には友達と別れるので、それからどこかの店に連れて行って下さい」
――彼女の快活さは相変わらずだな。
などと坂根は思いながら、
「僕は構わないけど、お家は大丈夫なの」
と確認した。
彼女は吹田市の津雲台という住宅街に住んでいると承知していた。関西の大学生ならば両親と同居のはずである。
「電話をすれば、最終電車まで大丈夫です」
「そうなら、電話番号を交換しておこうか」
坂根はそう言って携帯を取り出した。
祇園の高級クラブ・菊乃は開店以来繁盛していた。
何と言っても、京都でも格式の高い天真宗・別格大本山法国寺の新貫主が祝賀パーティーに使用したほどの店である。その名はたちまちに京都中に広がり、天真宗寺院の僧侶、信者、業者を中心に、他宗の関係者も足を運ぶ人気店となっていた。
また、ママの片桐瞳は元芸者である。昔馴染みの置屋の女将や芸妓たちが菊乃を推薦したり、客と同伴したりと何かと贔屓にしてくれていた。
その日、天真宗・別格大本山法国寺貫主の久田帝玄がふらりと顔を出した。お付は若い修行僧ただ一人だった。
ママの瞳が接客中の常連に断りを入れ、久田の席に付いた。
「お久しぶりでございます。御前様」
瞳は恭しく頭を下げた。
「本当にのう」
と言った久田の顔には憂いが宿っていた。
「ずいぶんとお疲れの御様子ですが」
「法国寺の貫主というのも存外でのう」
帝玄は力のない笑を浮かべた。
さすがに天真宗において別格の冠の付く寺院である。久田帝玄ほどの大人物でも、法国寺の宗務は気疲れするのか、と瞳は推察した。
「ところで、森岡君はやって来るかの」
「洋……」
久田の口から出た意外な名に、瞳は思わず口にしそうになったが、
「森岡社長は久しくお顔を見せられません」
と虚しく首を横に振った。
「晋山式の祝賀会パーティーの打ち合わせに来られて以来、とんとご無沙汰です」
「彼も案外冷たいの。これだけの別嬪さんに目もくれんとはな」
「彼には、茜さんという決まった女性がいらっしゃいますから」
「茜? ああ、鳥取で森岡君に付き従っていた美形か」
「お会いになられましたか」
「会ったというほどではないが」
久田は言葉を濁し、
「そうか、森岡君は来ないのか」
と呟いた。
久田は手にした数珠の球を一つ一つ弾きながら、暫し思案に耽っていた。
天真宗において影の法主とも敬われる久田にしては、らしからぬ気弱な表情だった。
瞳は気遣いながら声を掛けた。
「森岡社長に御用でしたら、私から連絡いたしましょうか」
「いや、それには及ばない。用というほどの用ではないのだ」
その弱々しい笑みの裏に苦悩の色が滲んでいた。




