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黒い聖域   作者: 久遠
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               (5)

 二人は、三人の待つ離れの応接間の扉を開けた。門脇修二の姿はなかった。気を遣い、退席したようだ。

「おう、洋介。懐かしいのう」

 真っ先に利二が声を掛けた。その顔には、いかにも取って付けた笑みが張り付いている。

「ご無沙汰しちょうます」

 洋介は軽く会釈をした。

「慶叔父さんも久しぶりだの、盆で帰っちょったかい」

「あ、う、うん」

 慶吾は歯切れの悪い返事をした。達也も硬い表情である。

「その人は、お前の嫁さんかい」

 利二が話題を茜に向けた。

「まだ、一緒にはなっちょうらんけど、そのつもりだが」

「がいな美人だの」

「山尾茜です。宜しくお願いします」

 茜は緊張した声で言った。薄々、用向きを推察しているのだ。

「ところで、おらに用って、なんだかい」

 洋介はいきなり本題に入った。

 利二から笑みが消えた。

「実はのう、お前に頼みがあってやって来ただが」

「おらに頼み?」

 洋介が利二に鋭い視線を送った。

「どげなことだかい」

 利二は甥の圧力に身を縮めながら、

「いまさら、どの面さげて頼み事なんぞ、と思うだらなあ。けんど、もうお前しか頼る者がおらんだが」

 と苦渋の面で言った。

 洋介は視線を弱め、苦笑いをした。

「まあ、そう難しい顔をせんと、話してみっさいの」

「実はの、お前に金を借りたいだが」

「金? なんぼだかい」

「それが、その、五千万ほど」

「五千万? そげな大金を何に使うだかい」

 洋介の問いに、利二は言葉を躊躇い、慶吾の顔を見た。そして慶吾が肯いたのを見て意を決した面になった。

香夜かよの手術費用に充てるだが」

「かよ?」

 洋介は初めて耳にする名だった。

「お前の姪になるだが」

「おらの姪?」

 思わず洋介の声が上ずった。一人っ子の彼には兄弟姉妹などいないのである。

「小夜姉さんと駆け落ちした男との間に娘が生まれての、寿美子すみこというだが、その寿美子が結婚して生んだ娘が香夜だがな」

「ああー、そういうことかい」

 小夜子が灘屋に嫁いだのは二十一歳であった。七年後に洋介が生まれ、彼が八歳のとき男と駆け落ちをした。小夜子が三十六歳のときである。たしかに子供が生まれていても不思議はなかった。

「手術ってどげなことだかい」

「それが、香夜は生まれ付いての心臓疾患持ちでの。いろいろ治療はしたんやが、後はもう移植しかないということだ。日本ではドナーが見つかりそうもないし、アメリカで手術を受けさせたいんだが」

「それは不憫だの。しかし、渡米して心臓移植手術となりゃあ、五千万では話にならんだら」

 うむ、と利二は応じた。

「費用は二億ほど掛かあが、民間団体の募金の協力で一億が集まった。寿美子の夫の親が三千万と、おら達が出し合って二千万を用意しただが。だけん、あと五千万ほど足らんのだが」

「なるほど。向こうの親は三千万も出したかい」

「普通のサラリーマンだけんの、退職金の前借りまでしてくれたらしい」

 ふーん、と洋介は頬を緩めた。

「もし手術が出来んと、どげんなあかい」

「余命は二年と言われちょう」

「まあ」

 茜が思わず嘆息した。

「手術したらどげだかい」

「成功したら、激しい運動は出来んが普通の生活はできるということだが」

「そげか」

 そう言うと、洋介は瞑目して思案に耽った。

「お前にとって、寿美子はこの世でたった一人、血の繋がった妹だし、香夜もまた姪だが。なんとか助けてごさんかの」

 利二が頭をテーブルに擦り付けるようにすると、慶吾と達也もそれに倣った。だが、洋介は顔色一つ変えずに思案を続けた。

 長い沈黙のときが流れた。

 利二は堪え切れず、

「無理だわな。虫のええ話だわなあ」

 と落胆の声で呟いた。

 やがて、洋介はふうーと息を吐いて、おもむろに目を開けた。

「このこと、寿美子さんは知っちょうかい」

 洋介は、実の妹に「さん」付けした。いきなり顔も見たこともない妹の存在を知らされたのである。戸惑いは当然だろう。

「いや、寿美子夫婦は何も知らん。というか、小夜姉さんは灘屋のことは胸に仕舞って何も話しちょらんけん、お前と兄妹だということも知らん」

 そうか、と洋介は呟くと、

「利叔父さん。悪いけんど、おらはこの世には血の繋がりよりも、もっと大事なものがあると思っちょう」

「うっ」

 利二は、洋介の血を吐くような言葉に答える術を持たなかった。慶吾と達也も断られたと思った。

 ところが、同じ口から意外な言葉が出た。

「ええよ。一億円用立てるが」

「一億?」

 利二は目を剥いた。

「あい。口座番号を教えてごしない。そこに振り込むけん」

「いや、一億もいらんけん。五千万でええだが」

 利二は、喜びと困惑の入り混じった顔で遠慮した。

「心臓移植となりゃ、後々も金が掛かるかもしれん。その度に、無心に来られても迷惑だが」

 洋介はつれない素振りを見せた。浜崎屋の三人は戸惑いを隠せなかった。

「この先、何があっても二度とお前には迷惑を掛けんけん」

 利二が念を押すように言った。

 その必死の形相に、

「叔父さん。洋介さんの本心は別ですよ」

 と、茜が穏やかな声を掛けた。彼女には、照れ隠しだということがわかっていたのである。

 茜の言葉の意味に気づいた利二は、

「おお、ほんなら、後で電話するけん、頼むわ」

 と顔の前で両手を合わせ、拝むようにした。

「ただし、条件が一つある」

 利二は息を呑んだ。

「どげなことだ」

「寿美子には俺が用立てたことを黙っていてごしない」 

「しかし……」

 言い澱んだ利二は、助けを求めるように慶吾を見た。寿美子から、どのように金の工面をしたのか、と問われたとき答える術がないのである。

「浜浦出身の資産家に頭を下げたとでも言えばええがの」

「それで、寿美子が納得するだらか」

 利二が不安な顔を覗かせた。

「出来ないのなら、悪いけどこの話はなし、ということになるが」

「わ、わかった。何とかするけん。援助してくれ」

 利二があわてて頭を下げた。

 だが……、と洋介が首を捻った。

「なんでおらに頼もうと思っただかい」

 洋介が資産家になった事実は、門脇修二ら父方の親戚と菩提寺の道恵、道仙父子しか知らないはずだと訝った。父方、母方の親戚筋は互いに疎遠のはずであるし、道恵と道仙は口が堅いと承知していた。

「おらが、ITの専門雑誌を見ての。お前が何百億の資産を手にすると知っただが」

 初めて達也が口を開いた。

 何百億円というのは少し誤解がある。全額を現金で手に入れることはないからだ。その大半は保有する自社株の時価総額であり、会社を手離す気がない限り、売却することはないのだ。だが、洋介は細々しい説明を避けた。

「達兄ちゃんが、なんでITの雑誌を?」

 読むのかと訊いた。達也はトラック輸送の仕事に就いているはずである。

「仕事の暇潰しに読むのだが、どうせなら、くだらん週刊誌よりITを勉強しようと思っての……。この年でパソコンも触っているだが」

「ふーん」

 と鼻で返事をした洋介に、達也は恐縮した。目の前にいるのはITのプロ中のプロなのである。

「そいだいてが、お前に頼むのは虫が良すぎるちゅうことは重々わかっちょる」

 すかさず利二が弁明した。洋介が達也に立腹していると誤解したのである。

「利叔父さん、それはもう気にせんでええだが」

 洋介は微笑しながら言った。

 利二は、ふうと安堵の息を吐くと、

「そげか。そげなら……」

「どげしたかい」

 利二が神妙な顔つきになった。

「そげなら、一度小夜姉さんに会ってやってごさんかい」

「お袋に? お袋はどこにおるだかい」

浜崎屋うちに泊まっちょうだが」

「浜浦に戻っちょっただかい」

 極めて冷静な声だった。その落ち着いた響きは浜崎屋の三人、そして茜にも意外なものだった。

――やはり、あれはお袋だったか。

 洋介は、昨夕の墓参帰りの視線を思い出していた。

「おらがの、連れて帰ったんよ」

 これまで沈黙を通していた慶吾が気まずそうに口を開いた。

「慶叔父さんが」

「小夜姉さんたちはの、浜浦を出たものの行く当てがなくて、俺を頼って広島に来たんよ。俺が仕事の世話をしてやって、住むところも近所に見つけてやったんよ」

「慶叔父さんに世話になっちょったらかい」

「世話っちゅうほどでもないけど、そういうわけで小夜子姉さんの家の事情は何でもわかったんよ。なもんで、洋介君に頼んでみたらどうやって助言したのも俺なんよ」

 慶吾が極度に緊張していた理由だった。

「ということは、現在のおらのことも知っちょうだの」

「ああ、がいに出世したと喜んじょうがの」

 利二が我ことのように言った。

「自分が引き取らんで良かったとも言っちょった」

「引き取る?」

「ウメさんから聞いちょらんかったかい」

「いや、何も」

 洋介は困惑の顔で言った。

 そげか、と利二は嘆息した。

「実はの、洋一さんが亡くなってウメさん一人になったとき、小夜姉さんはお前を引き取りたいとウメさんに願い出たんだが」

 まさか、と洋介は息を吐いた。

「そがんことがあっただかい」

「だいてが、ウメさんはきっぱりと断らさった。何と言ってもお前は灘屋の総領だけんな。小夜姉さんは、ウメさんの年を心配してずいぶん粘っただが、ウメさんは頑として首を縦に振らんかったらしい。けんど、それは正解だったが。ウメさんの手で育てられたお前は、こがいな出世をしただけんの」

 利二は何度も肯いた。

「ようわかったが。そいで、お袋の男はどげしちょうだ」

「四年前に癌で死んだが」

「そげか。そいなら、お袋は一人で住んじょうだの」

「いや、それが寿美子の夫はしんびょな男での、小夜姉さんを一人に出来んと、一緒に住んでごいちょうのよ」

 しんびょというのは「やさしい」という意味の方言である。

「ほう。なかなか良い男のようだの」

 洋介は目を細めた。 

「そげだが。そいで、どげだ。会ってやってごさんかの」

 利二がもう一度頭を下げた。

「いや。止めておく」

 洋介はきっぱりと言い放った。

「やっぱり、まだ恨んじょうか。そりゃあ、そげだらな」

 利二はうな垂れた。

「誤解してごっさあな。今は会えんということだけん」

「うん?」

「おらはの、今大きな仕事をよおけ抱えちょうだが、だけん他の事に気を取られたくないんだが。一、二年もすりゃあ、全部落ち着くと思うけん、そのときに会うだが」

「ほんとか」

「あい。それに、そっちも香夜ちゃんの手術で、気が気じゃないだろうけん。手術が成功した後の方がお互い気掛かりがのうてええと思うが」

「言われてみればそげだの。お前がその気になってごいたなら、慌てんでもええわの」

 利二も納得したように言った。

「利叔父さん、お袋に伝えてごっさい。おらはもう恨んじょらんけん、と」

「おうおう」

 利二の顔が明るくなった。

「正直に言えば、高校を卒業するまでは恨んじょった。恨んで恨んで、恨らみ尽しちょった。親父が悪いのはわかっちょったが、そいでも恨まずにはおれんかった」

「そりゃ、そげだら。どげな理由があろうとも、子供を捨てる親は最低や」

 利二も洋介の手前、小夜子を詰った。

「だいてがの、今はお袋に感謝しとる」

「感謝?」

 意外な言葉に、利二は怪訝な目をした。

「感謝というのは、おかしな言い方かもしれんが、とにかくお袋がいなくなってごいたけん、かけがえのないお方と巡り会えたと思うちょる」

「神村上人のことかの」

 洋介は無言で肯いた。

「もし、この身に不幸がなく、灘屋の総領として平々凡々に生きちょったら、神村先生とは出会っちょらんと思うだが。これは皮肉じゃないけんの」

「そげか、そげに凄いお方か」

「生仏様みたいな人だが。あんな尊いお方の傍に居れるなんて、おらはがいに幸せ者だと思っちょる」

 洋介は清々しい顔つきで言った。その表情に嘘はないと利二は安堵の息を吐いた。


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