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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)

 昔話が一段落した頃、トイレと断わって席を立った洋介の後をほどなく万亀男が追った。洋介の目の合図を受けてのものだった。

「今夕、東京ナンバーの車で、三人の怪しい男たちが境港に入りました」

「ほう、何者ですか」

「洋介さんを襲う危惧を抱いています」

「まさか」

 と、洋介は小さく呻いた。

 たしかに探偵の伊能剛史が東京の虎鉄組に襲撃されていたが、別格大本山法国寺の件は決着が付いている。いまさら、洋介をどうにかしようとする目的がわからないのだ。

――それともRなのだろうか。そうであれば、蒲生を連れて来れば良かったか。

 と、洋介は唇を噛んだ。

「取り越し苦労であれば良いのですが」

 万亀男は厳しい目で応じた。

 境港市は、人口が三万七千人ほどの街である。重要港湾に指定されているほど船舶の往来が激しく、外国船の寄港も多い。従って昔から、いわゆる「他所者」に対しては警戒感が強かった。

 ホテルや旅館、民宿などもその傾向が残っており、違和感を抱いた客に対しては足立興業に一報を入れていた。民事不介入の原則が有る警察は、揉め事を事前に防ぐ手段としては当てにできないし、そうかといって暴力団へ相談などできはしないのである。

 ホテルの支配人には、東京弁を話す彼らが観光客でも釣り人でもなく、ましてビジネスマンには見えなかった。いや、ともすればその世界の雰囲気が漂う男たちに不審を持ったという。

足立興業うちの者が見張っていますが、峰松がこちらに向かっています」

 万亀男は、森岡との関係を承知の目で言った。

 彼は峰松重一を呼び捨てにした。神王組随一の看板組織である神栄会の若頭にして、神王組本家の若頭補佐の要職にある峰松重一と、一地方都市の弱小組織、ましてや正式に傘下組織ではない足立興業の社長に過ぎない万亀男とでは、比べるまでもなく峰松の方が貫目は上であり、例えば共同で敵との抗争に当るときは、万亀男は峰松の指示の下に動くことになる。

 しかし、親分である寺島龍司と兄弟分ということは、峰松にとって万亀男は「叔父貴」に当るため、盃事上は万亀男の方が目上となるのである。

「峰松さん直々ということは、何か情報を握っているのでしょうね」

 洋介が安堵と不安の混じった眼で万亀男を見た。

「そういうことでしょうな」

 同意した万亀男は、

「しかし経緯は知りませんが、総領は神王組にとっても最重要人物らしいですな」

 と嘆息した。

「正直に言えば閉口しています」

「閉口?」

 万亀男は意外という顔をした。

「万亀男おじさん。これでも私は堅気ですよ」

 と、洋介は弱々しい笑みを浮かべた。

 そのとき、万亀男の脳裡にずいぶんと遠い昔の、ある夏の記憶が蘇った。

――ま、まさか、総領は……。

 万亀男は思わず武者震いをした。

「どうかしましたか」 

 蒼白となった万亀男を洋介が気遣った。

「いえ、何でもありません」

 万亀男はあわてて取り繕い、

「この件は当方で方を付けるのでご懸念なく、という峰松の言伝でした」

 と気を取り直したように言葉を加えた。

「そうですか。大阪に戻ったら仔細を伺うとします」

 そう言い残し、トイレへ向かおうとする背に万亀男が声を掛けた。

「総領のお連れは大分酔っぱらっていますので、念のため統万を置いて帰ります」

 万亀男の配慮に、洋介は黙って感謝の頭を垂れた。

 洋介の背を見つめる万亀男の脳裡をある妄念が支配していた。

――まさか、総領は六代目の……、そんな馬鹿なことが……、いや、あの夏の六代目の執着振りを考えれば有り得なくもない。だからこそ、神王組は総領を丁重に扱っている……、辻褄が合う。

 万亀男はもう一度ブルッと身体を振るわせた。


 二十二時になって、洋介と茜は照美が用意した浴衣を着て海岸に下りた。

 盆踊りが盛況となる時刻だった。酔い潰れた坂根と南目に代わって、統万が付き添った。南目はともかく、慎重居士の坂根にしては珍しいことだった。故郷に戻ったということで安堵感があったのかもしれない。

 洋介が浜浦を出るまでは、盆踊りは灘屋のすぐ脇で行われていた。浜浦は、決して広くない敷地に三百五十件余の家が立ち並んでいたため、路地は細く、まとまった広さの空き地はなかったが、一ヶ所だけ灘屋の南西の一角に、災害時の避難場所用としてそれなりの空き地があった。

 盆踊りはその空地で行われていた。しかも、洋介が幼少の頃は世を徹して行われていたため、彼は盆踊りの口説きを子守唄代わりに聞きながら、眠りに付いたものだった。

 その後、海岸を埋め立て老人福祉の一環として、ゲートボール場などを整備した。近年では、盆踊りの櫓はそのゲートボール場に設営されているのである。

 海岸に着くと、すでに大勢の人だかりができていて、踊りの輪は三重にもなっていた。海岸通りに並んだ夜店の前には、色とりどりの浴衣を着た子供たちが、眠気も忘れて金魚すくいやら、的当てやらの遊興に没頭し、年に僅かの機会しか許されない夜遊びを満喫していた。

 洋介は、さりげなく茜の横顔を窺った。夜店を見て、的屋だった父を思い出したのではないかと気遣ったのだが、彼女は洋美と手を繋ぎ、綿あめ菓子を舐めていた。その穏やかな表情に洋介は、ほっと胸を撫で下ろした。

 二人は、薄紫の生地に朝顔が描かれた揃いの浴衣を着ていた。実の母娘だといっても、誰も疑わないだろうと想ったその刹那、茜の姿が奈津実に、洋美の姿が見ることの適わなかった我が娘のそれと重なった。無事に生まれていれば、娘は洋美と同い年である。

――奈津実……。

 洋介が心の中で呼び掛けると、奈津実と女児が振り返り、

『洋介さん、茜さんと幸せになってね』

『パパ……』

 と微笑んだように見えた。その瞬間、洋介の眼に熱いものが溢れ出し、二人の姿が揺らいだ。そして、胸の奥底から、

――子供が欲しい……。

 との切なる望みが込み上げてきた。


「洋介さん」

 統万の声で、洋介は我に返った。

「例の三人組が車でこちらに向かったそうですが、この状況を見てすぐに引き返したと見張りの者から連絡がありました」

 統万が耳打ちした。

「こ、この賑わいを見て凶行を諦めたかな」

 洋介は浴衣の袖で目を押さえながら言った。

「それと、峰松さんが境港に着かれたそうです」

「では、後は彼に任せよう」

 洋介の言葉に、統万が肯いた。

「洋介さんって、もしや灘屋の総領さんかね」

 統万の、洋介を呼ぶ声を耳に留めた村人が声を掛けた。

「はい、そうです」

「久しぶりですの」

 村人は懐かしげに言うと、

「総領さんは踊らんだかい」

 と踊りの輪に加わるよう促した。

「だいぶと踊っていないので、覚えているかどうか」

「なんが、子供の頃に覚えたもんは、いつまで経っても身体が忘れんけん」

 村人は笑い、

「お連れの別嬪さんは総領さんの嫁さんだかい」

 と冷やかすように訊いた。

「そうです」

「それなら、一緒に輪の中に入らさいの」

 洋介たちは急き立てられるように、踊りの輪の中に混じった。茜は洋介のすぐ後ろ、間に洋美を挟んで踊っていた。むろん、踊るのは初めてだったが、簡単な振り付けだったので、見様見真似でも十分もすればすっかり覚えてしまっていた。

 盆踊りに区切りが付いた頃、再び統万が、

「峰松さんらが例の三人組の身柄を確保したそうですので、私は一旦帰ります」

 と、洋介に耳打ちした。



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