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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)

 その道恵が思わぬことを口にした。

「さてさて、こちらの懸案も一つ二つ解決しましたし、総領さん、法国寺の件も久田上人に落ち着いて良かったですのう」

「え?」

 洋介は身体を堅くした。

 なるほど、別格大本山・法国寺の貫主を巡る藤井清堂と久田帝玄という、次期法主と影の法主の戦いは、天真宗のみならず他宗の耳目を集めたことを彼も承知していた。

 したがって、片田舎といえども京都に程近い出雲の地の末寺であれば、噂が届いてもおかしくはない。だが、なぜ自分がその一件に関わっていることを道恵が知っているのであろうか、と訝ったのである。

 道恵は、洋介の心中を読み取っていた。

「久田上人とは、大学の同級生でした」

「では、御先代様も帝都帝国大学だったのですか」

 洋介は得心顔で訊ねた。彼は道恵の僧階もまた、権僧正であったことを思い出した。道仙の艱難辛苦は語り草となっていたが、道恵が現帝都大学の前身である、帝都帝国大学出身であれば、さもありなんと思ったのである。

 考えてみれば、浜浦のような片田舎の末寺の住職が、二代続けて権僧正の位を授かることなど、稀有なことであった。昨今では、総本山に多額の上納をすることによって、僧階を得る、つまり『金で位を買う』という嘆かわしい風潮もあるが、園方寺はそこまでの肉山、つまり裕福な寺院ではない。

 両名とも正真正銘、弛まぬ研鑽の賜物として授かったものであり、おそらくは本山の役職の声も掛かったであろうと推察された。

 また、最前抱いた疑念も晴れた。道恵が久田帝玄と懇意であれば、彼を通じて神村と交流があっても不思議ではない。

 尚、肉山の逆、つまり貧しい寺院を「骨山こつざん」という。

「文学部の宗教哲学科で同窓でした。まあ、戦前の混迷期のこと故、たいしたことではありませんがの」

 謙遜した道恵ではあったが、洋介は思い出したことがあった。

 幼い頃、祖父から、

『洋介は、この界隈の村から戦後初めての帝都大出となるのじゃぞ』

 と言い含められていたのである。戦後と言ったからには、戦前には居たということになる。まさか、それが道恵だったとは知らなかった。

 ちなみに、この洋吾郎の言葉を実現したのは、坂根好之の長姉の真子である。

「私が関わっていたことを久田上人から聞き及びになられたのですね」

 そうです、と道恵が顎を引いた。

「まさか他宗の私が、彼の法国寺の晋山式に出席するわけにもいかなかったので、先日管長へのご挨拶に出向いた帰りに法国寺を訪ねたのです」

 園方寺が所属する道臨宗の大本山太平寺は滋賀県にあった。

「そうでしたか」

「何かの話に総領さんの名前が出たもので、私も彼も何たる奇遇に大いに驚きました。聞けば、帝玄を法国寺の貫主に押し上げたのは総領さんだとか。二重の驚きでしたが、さすがは洋吾郎さんが自慢されていた総領さんだと、感じ入ったものです」

「お恥ずかしい限りです。私は、然したることは致しておりません」

 洋介は、老僧の誉め言葉に照れた。

「何をおっしゃいますか、帝玄は総領さんのことをえらく誉めておりました。あの男は、昔から滅多なことでは他人を誉めたりはしません」

「御先代、その話はもうこれくらいで勘弁して下さい」

 森岡はとうとう苦笑いをした。すると道恵が、

「じゃが、せっかく苦労して法国寺の貫主に就いたというのに、あやつ、殊の外浮かぬ顔をしておりましての、どうかしたのかと訊いてみたのですが、口を濁すのです」

 と首を傾げた。

 その訝しげな表情に、森岡は胸の中に細波が立つのを感じた。

「天山修行堂の後継の事ではないでしょうか」

 道仙が思い当たったように言った。

「おお、そうかもしれんのう」

 道恵が手で顎を撫でた。

「どういうことでしょうか」

「帝玄には息子がおりませんでの。一人娘の婿も坊主なのですが、天山修行堂を受け継ぐ器量が無いようで、あやつも悩んでいるのです。もう年ですからの、何時お迎えが来るとも限りませんでの」

「なるほど。しかし、天山修行堂は久田上人個人所有のお寺ですから、いざとなれば後継者はどうにでもなるのではないでしょうか」

「いえ、そのように簡単ではないでしょう。天山修行堂は、天真宗僧侶の僧階を決定するお堂です。荒行を導く導師ともなれば、相当に修行を積んだ者でなければなりません」

 道恵がやさしく諭した。

「私としたことが、そうでした」

 洋介は赤面して言い、

「具体的な後継の資格というのはあるでしょうか」

 と問うた。彼の胸中には、ある思惑が浮かんでいた。

「私の推測ですが」

 道仙が前置きすると、

「荒行五回達成というのが、大本山及び本山貫主就任への条件のようですから、天山修行堂の後継ともなれば、荒行を七回、できれば八回というところでしょうか。そうすれば、法主の資格とも符号します」

と説明した。

 洋介は感心顔で唸った。、

「良くご存知ですね」

「総領さん。坊主の修行方法や僧階の決め方など、どの宗派でも大差はありませんよ」

 と、道仙は笑って答えたものである。

 さすが、田舎の末寺には過ぎたる人物である。権僧正の僧階を得た力量は伊達ではない。

 大僧正だの、権大僧正だのと、高僧ばかりを述べてきたが、権僧正とて相当な位なのである。たとえば、天真宗に照らし合わせてみると、大僧正は法主を含めて二、三人――法主を退位した者は、そのまま大僧正の身分である――権大僧正は現役の貫主を含め百人前後、僧正は四百人ほどという少数である。権僧正は、さすがに二千人ほどいるが、これとて全体の十パーセント、つまり十人に一人の狭き門なのである。

 この割合は、他宗派とてそう変りがなく、おそらく全国全仏教宗派の末寺の大半は、天真宗でいうところの、僧都以下の者で占められていると推察できた。

「それとも、あの事やもしれんな」

 道恵が独り言のように呟いた。

「あの事、とおっしゃいますと」

「総領さんは、天真宗には法主と影の法主とも言われている久田帝玄以外に、もう一人隠然たる影響力を持つ者がおるのをご存知ですかの」

 洋介は、しばらく宙を見て思案すると、

「もしや、瑞真寺のことでしょうか」

 と問い返した。

 道恵は目を細めた。

「さすがにご存知でしたか」

「先代は人品骨柄の優れたお方でしたが、当代は才気に奔り過ぎて、何やら良からぬことを仕出かそうとしておるようですな。帝玄の憂いはそのあたりやもしれません」

「良からぬ企てとはいったい」

 どういうことか、と洋介は訊いた。

 だが道恵は、、

「それは、私の口からは申し上げられません。他宗のことですし、ただの推量ですからの」

 と口を閉ざした。

 そのとき、数人の男たちがどかどかと押し入って来たため、話はそこで打ち切りとなった。

 男たちは、園方寺の檀家役員たちだった。

「申し訳ありません。応接間でお待ち頂くように申し上げたのですが」

 道仙方丈の妻がすまなさそうに頭を下げた。

「灘屋の総領さんがおいでなのに、挨拶をせんわけにはいかんだら」

 総代が言うと、

「悪いけんど、おらは総領さんより、そちらのお嬢さんが目当てでの」

 副総代がにやにやと笑った。

「ほう。これはまた噂に違わぬ、いやそれ以上の美形だがな」

 もう一人の副総代が驚嘆の眼差しで言い、

 最後に相談役が、

「総領さんが、がいな別嬪さんを連れて帰らさった、と村中の噂になっちょうけんど、噂は所詮噂、がっかりさせられることがお決まりだと思っちょったが、なんとまあ、ええ目の保養になったがや」

 と感じ入ったように漏らした。

 小さな村は噂が広がるのが速い。森岡らが岸壁前広場の共同駐車場から門脇修二宅へ向かう道すがら、あるいは園方寺へ向かう途中、誰彼となく挨拶を交わした村人たちが、灘屋の総領のご帰還を触れ回っていたのである。

「これは皆さんお揃いで……明日の初盆供養のご相談ですか」

 顔を真っ赤にして俯いた茜の傍らで、洋介が訊いた。

「いや、他にちょっと込み入った相談もありましてね」

 道仙は苦笑いし、

「総領さん、私は失礼致します」

 と頭を下げ、役員らを連れて座を離れた。

「そのうち、総領さんを呼びに来ますよ」

 皆の姿が消えると、道恵が意味深いことを言った。

「私に何の用がありますか」

 訝る洋介に、

「ははは……、最後の最後は総領さんに頼ることになりましょうな」

 道恵は達観した笑みを浮かべた。

 然して、ほどなく総代が洋介を呼びに来た。

「茜さんのお相手は拙僧が承りますので、総領さんは相談に乗ってやって下さい」

 道恵に頭を下げられて、洋介は応接間へと移った。

「総領さんに相談とは、お金の無心ですよ」

 二人きりになると、道恵が茜に告げた。

「ああ、そういうことですか、安心致しました」

 茜は胸を撫で下ろしたように言った。

「ほっとされた? 金の無心に遭うのにのう」

「お金で済むことなら容易いことです。洋介さんは、きっとお頼みをお受けになりますよ」

「そうですか。欲の無いところは、昔とちっともお変わりにならないのですなあ」

 道恵は感慨深げに呟いた。

「御先代様は洋介さんの幼い頃をご存知ですか」

「ご存知もなにも、生まれたときから知っておりますわい。なにせ、洋吾郎さんの自慢のお孫さんでしたからのう。それに、園方寺うちは副業で幼稚園を経営しておりましたでの。拙僧が園長でしたわい」

 道恵は禿げ上がったつるつるの頭を撫でた。

「御先代様、洋介さんの子供時代の話をお聞かせ下さい」

 茜の頼みを、道恵はにこやかな顔で応じた。



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