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黒い聖域   作者: 久遠
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         第四章 家門(1)

 灘屋の総領である森岡洋介の、久しぶりの帰郷の報に親戚中が沸き立った。

 現在でこそ灘屋は廃家同然だが、親族一同は等しく洋介がいつ家門を再興するか、密かに期待をしていた。中でも、灘屋の敷地と屋敷を買い取った門脇修二は、もし洋介が望めば、再び譲り渡すつもりでいたほどである。

 洋介にとって修二は、実の兄とも慕う親戚一族の中では一番に気の許せる従兄だった。彼は幼い頃から洋介を実の弟のように可愛がったが、洋介の母が不倫の末、男と駆け落ちしてから、いっそう頻繁に灘屋を訪れ、遊び相手となって寂しさを紛らわそうとした。洋吾郎と洋一が立て続けに逝去したときにも、修二は洋介の心の支えになろうとし続けた。

 門脇修二は、子供の頃から喧嘩が滅法強く、世間からはいわゆる不良と呼ばれていた。中学校に進学する頃には、身長はすでに百七十センチを越え、二年生のときに通学していた中学校の番長になり……現在では古い言葉かもしれないが……三年生のときには近隣の六つの中学校の総番長になった。

 その後は、中学生相手では飽き足らなくなり、高校生を相手に喧嘩に明け暮れるようになった。それでも、一度も負けたことがなく、後にこの界隈だけでなく、松江市から米子市に至る一帯の不良たちの間では、神格化されたほどであった。  

 その門脇修二が、この世で唯一恐れていたのが、自身にとっても母方の祖父である洋吾郎だった。修二によると、自身より遥かに小柄な洋吾郎なのだが、その両眼で睨み付けられると、蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かなくなるとのことだった。さしずめ、人間力の違いということなのであろう。

 だが、修二はそれでも灘屋にやって来ては、洋介の遊び相手となった。洋介は子供心に、粗暴な振る舞いとは異なり、心根は優しい人間なのだと見抜いていた。

 修二は、中学校を卒業と同時に漁師となったが、腕が良くほどなく弁才師に取り立てられた。その頃は豊漁続きでもあったので、有能な弁才師である門脇修二の歩合金は相当な額となった。

 洋介が故郷を離れるとき、屋敷や船、網などの売却話を真っ先に門脇修二に持ち掛けたのも、最も信頼を寄せていたというだけでなく、彼がかなりの高収入を得ていた事実を知っていたからである。

 そうはいうものの、漁師になって僅か八年、到底十三隻の船全てを買い取れるはずもなく、定置網漁用の三隻と比較的新しい網の購入に止まった。また、門脇修二の親もいくらか都合したものの、全額を一括支払できたわけでもなく、洋介と修二の間で、不足分は分割払いということで話を付けた。それも七年前に完済していた。

 門脇修二の屋敷、つまり元灘屋は浜浦のほぼ中央にあった。

 敷地は約七百坪。祖父が建てた平屋建ての母屋と、父が建て増した二階建ての離れがあった。洋介は、門から一歩中へ足を踏み入れた瞬間、懐かしさで胸が塞がった。その佇まいが、十六年前と寸分も違わなかったのである。

 門を入ったすぐ脇の松も、桜も紅葉も、金木犀、銀木犀、椎の木、躑躅、石榴といった木々も、何一つ変わっていなかった。敷地全体を囲う白壁、屋敷の西側にある納屋と古井戸、そして物心が付く頃から祖母と一緒にお参りした「地主さん」の祠。地主さんとは、戦国時代に一時この地を支配していた尼子の落ち武者を手厚く祭った地蔵菩薩である。彼は浜浦を離れるまで、毎朝夕この地蔵菩薩へのお参りを欠かさなかった。

 こうして玄関先に佇み、屋敷内を見渡していると、幼い頃の思い出が走馬灯のように洋介の脳を駆け巡り、胸を締め付けた。

――やはり、幸苑の松とは枝ぶりが全く違うな。

 洋介はあらためて祖父洋吾郎が愛でた松の木を眺めながら、料亭幸苑の村雨初枝との会話を思い出して苦笑いした。

 門脇修二の家族は、洋介一行を歓待した。彼の家族は、妻の照美てるみと八歳の長女洋美ひろみ、二歳の長男修おさむである。

 特に修二が南目を見るなり、

「おお、坂根君。久しぶりだがや」

 と笑顔で声を掛けたものだから、南目はことさら大きな身体を縮めるようにして詫びたものである。

 それというのも、後日南目は、門脇修二が山陰の悪童の間で語り継がれていた伝説の不良だと知ったからである。約百五十人のメンバーを従えていた暴走族の頭にとっても、門脇修二は憧れの人物だったのだ。

 洋介は真っ先に仏間に入り、線香を手向けた。彼は菩提寺に先祖の永代供養を依頼していたが、門脇修二は次男だったため、灘屋の仏壇をそのまま残し、護ってくれていた。

「洋介さん、私も回向させてもらって良いかしら」

 茜が神妙な面持ちで願い出た。

「おう。それは御先祖様もお喜びになるやろう。何かの縁だ、坂根と南目も線香を手向けてくれるか」

 と、森岡は頼んだ。

――御先祖様方、山尾茜と申します。どうぞ、宜しくお願い致します。

 茜は目を閉じ、心の中で祈った。

 しばらく合掌していた茜が、目を開けると何気に横を見た。

「これは」

 茜は目を剥いた。

 ほう、と洋介は満足気な笑みを浮かべた。

「わかるんやな」

 茜は、洋介向かって肯くと、

「なんだか、暖かい光に包まれているような、安心感を覚えるわ」

 もう一度、温もりを放つ先へ視線を戻した。

 灘屋の仏壇の横には、間仕切りの板を挟んで禅宗系の御本尊が祭ってあった。祖母のウメが信心した観世音菩薩立像である。

 一見したところ、荒削りで完成度は低いように見受けられたが、それでいて人の心を引き付ける魅力があった。

「もしかすると、案外茜にも霊感ってやつがあるのかもな」

「霊感? そんなものはないと思うけど、この仏像に心が惹かれるのは事実だわ。さぞかし値打ちのある仏像なのでしょうね」

「値打ち? これがそんなに高価なものなのですか」

 線香を手向け終えた南目が口を挟んだ。

「怒られますよ、輝さん」

 坂根がすかさず助け舟を出した。

「茜さんが言ったのは値段のことではなく、尊さのことですよ」

「そ、そんなことはわかっている。尊いということは貴重な品ということだろう」

 南目は坂根に向かって嘯くように言い、

「何か曰くがあるってことか、兄貴」

 と顔を向けた。

「曰くってほどじゃないが、なくもない」

 門脇修二、照美夫婦も仏間に入って来て耳を傾けた。


 それは、六十年前のことである。

 洋吾郎の母、つまり洋介の曾祖母に当たるトラも信心深い人間で、毎朝夕、自宅の神棚、仏壇への読経だけでなく、村の神社、寺院への参拝も欠かさなかった。実は、トラは洋吾郎の実母ではなく叔母に当たる。このことが洋介の出生に大きく関わるのだが、今はそれは置いておく。

 ある晩秋の、まだ夜が明け切れぬ早朝のことである。

 トラがいつのように浜浦神社へ参拝して帰宅しようとしたところ、神門横の軒下に若い男が蹲っていた。衣服は泥に塗れ、頭髪は埃と蜘蛛の糸に覆われ、髭は伸び放題といった有様だった。一言で言えば、軒下で一晩を明かした浮浪者の体であった。

 若い男の様子が気になったトラは声を掛けた。 

「そこの若い人、大丈夫ですか」

 だが、返事はなく、弱々しい唸り声が返って来ただけであった。

 どうやら、トラが懸念した通りどこか患っているらしい。

 トラは迷うことなくその若者を灘屋に連れ帰った。

 医者に見せると、風邪を拗らせていて、肺炎になる寸前だということだった。

 トラは、その若者を灘屋の一室で養生させ、治療代も肩代わりした。霊験灼かな浜浦神社での出会いを疎かにできなかったのである。

 半月後、体力の回復した若者は、礼の代わりにと言って仏像を彫った。

「それが、この仏像や」

「なんや、ただの若造が彫ったやつか」

 南目は軽んずるように言った。

「お前は相変わらずやな。上辺や肩書きに拘っていると、いつまで経っても物事の本質は見抜けんぞ」 

 と、南目を咎める洋介に、

「その若者というのは、どうして仏像を」

 彫ったのか、と茜が話を戻した。

「それや、なんでも仏師になるための見聞を広めようとしていたということやった」

「仏師って仏像を彫る職人さんね」

洋介は小さく肯くと、

「そのために全国を回って仏像を拝観していたらしい」

 仏師を志していた若者は、由緒のある仏像を求めて全国を巡っていたのである。浜浦へ辿り着いたときには、旅費が底を付き、神社の軒下で野宿していたのだという。

「しかし、兄貴。こんな田舎に目の肥やしになるような仏像があるんか」

 南目が懐疑的な声で訊いた。

 森岡の眉間に皺が寄った。

「茜ならともかく、輝、お前は生まれも育ちも米子だろうが」

「近所には、行基和尚が開基したといわれる仏国寺という浄土宗の古刹があるんですよ」

 坂根が、森岡の言葉の先を奪うように言った。

「それだけじゃないですよ。仏国寺には後鳥羽上皇と後醍醐天皇が数日逗留され、隠岐へ配流されたという伝えもあります」

 うむ、と洋介は肯いた。

「さすがは、坂根や」

 だが南目は、

「行基和尚って、聞いたことあるな」

 と捻って考え込んだ。

「お前、本当に立志社に受かったんか」

「裏口やないで。せやけど日本史は苦手やったからな」

 南目は頭を掻いた。

「まあ、中学、高校とろくに勉強しとらんやろうし、大学受験も付け焼刃やろうから行基和尚も知らんわな。坂根、教えてやってくれ」

 はい、と坂根が簡単に説明した。

 行基は朝廷の禁を破って民衆への布教活動をしたばかりか、併せて社会事業にも貢献し、民衆から篤く尊敬された奈良時代の高僧である。

 僧階の最上位である「大僧正」の称号を最初に授かったのも行基であった。

「その仏国寺には、出雲様式という重文に指定されている仏像が四体もあるのです」

「それを拝観しにこの地へ来られたのね」

 茜が得心顔で肯いた。

「ついでに、出雲大社の流れを汲む浜浦神社にも参拝しようとして病に倒れたらしいのや」 

「お名前は何という方でしたの」

「それが、祖母ちゃんから聞いていたんやけど、忘れてしもたんや」

「この御本尊様が若い頃の作品だとすると、きっと名のある仏師になられたことでしょうね」

「となるとや、この仏像は初期の作品ということになるから、相当な値がつくかもな」

「兄貴も俺と一緒やないか」

 間髪入れずに南目が口を尖らせた。

 あははは……その子供じみた不服顔に皆が大笑いした。


 荷を解いて一服した後、次に森岡らが足を運んだのは、屋敷内の北西の角であった。

 灘屋には、民家にしては立派な祠があった。

「あれは『地主さん』といって、灘屋のそして俺の護り御本尊様だ」

「護り御本尊様?」

 茜が不思議そうに聞き返した。

「灘屋の者は、地主さんと呼んでいたが、正式には正一位月光地主大明神しょういちいげっこうじぬしだいみょうじんといって、大変に位の高い地蔵菩薩でな、戦国時代、毛利元就に滅ぼされた尼子の家臣の遺骨が祭ってあるねん」

 正一位とは、諸王や人臣における位階、神社における神階の最高位である。たとえば、源頼朝は正二位、北条氏の歴代執権は従四位でしかなく、徳川家康でさえも従一位に留まった。

 つまり、灘屋は民家にも拘わらず最高位神を祭っていることになる。

「そういえば、道端のあちらこちらに小さなお地蔵さんがあったわね」

「それも、全部尼子の兵の遺体を祭ったものや。この辺りは戦場になったらしく、灘屋だけでなく、祠を建てて祭っている家は多いんや」

 そう言った洋介が、ふふふ、と含み笑いをした。

「どうかしたの?」

「いやな、子供の頃、道端のお地蔵さんに悪さをすると祟りがあると祖母から戒められていたんやが、あるとき友人が俺の忠告に逆らって小便を掛けたんや」

 洋介は意味ありげな顔をした。

「どうなったの?」

「数時間後、友人のチンチンがパンパンに腫れ上がった」

「あははは……」

「まあ」

 坂根と南目は大笑いし、茜は顔を赤らめた。

「親は病院へ連れて行ったが、いっこうに治らんかった」

「それで?」

「原因不明の症状に、とうとう俺の祖母ちゃんを頼ってきた」

「お祖母様を?」

「祖母ちゃんはな、信心深い人で毎朝夕の読経を欠かさん人やったんやが、そのうち霊能力が付いたらしい。簡単なことやったら近所の相談に乗っていたんや」

「へえ、凄い」

 茜は素直な感想を漏らした。

「祖母の祈祷霊視で事情を知った親が、あわててその地蔵さんを綺麗に清めたら、たちまち腫れが引いたということや」

 洋介は懐かしむように言った。

 おそらく、霊とか神仏といった類のことについて、信じない人にとっては全く退屈な話であろうと思ったが、すでに洋介の人物に触れ、また神村とも親交を持つ三人は神妙な顔つきで納得の肯きをした。

 思い出話のついでとばかりに茜が訊ねた。

「ところで、洋介さんは霊を見たことがあるの」

 洋介は経王寺に寄宿していた際、神村に霊について問い、見解を聞いていたが、そのことには触れず、

「俺自身、正直に言えばこれまで霊を見たことは一度もない。祖母に言わせると、俺は『正一位』という最高位の守護霊様が護って下さっているので、他の霊が近づくことを許さないのだということらしい。俺は、その守護霊様すらも目にしたことはない。だがしかし、何がしかに加護されている、と感ずる時があることも事実なのだ。俺は、そういった世界が有る、無しに拘らず、あるいは信じる、信じないに拘らず、少なくとも人は自分自身の力で生きているのではなく、何かによって生かされている、あるいは何かによって助けられ、護られていると思う謙虚さを持つことが大切なのだと思っている」

 と言い切った。

 これは実に彼の率直な気持ちであった。


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