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黒い聖域   作者: 久遠
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               (4)

「森岡はん、そのブックメーカーやが、どうやろ、あんたが仕切ってくれんかの」

「はあ?」

 森岡は、脳天から空気が洩れるような声を出した。鋭敏な頭脳を持つ森岡にしても受け止め切れなかったのである。

「い、いま何とおっしゃいましたか」

「ブックメーカー事業を任せたい、と言ったんや」

「御冗談は止して下さい」

 今度は悲鳴のような声を上げた。難題は覚悟していたが、想像の範囲を超えていた。

「冗談や無いで。あんたと会ってみて腹を決めた」

 勝手に腹を決められても困る、と森岡は思わず口にしそうになったが、辛うじて留まった。

 蜂矢は真顔で見つめている。極道者が真剣な顔つきをすると、大抵は凄んだような強面になるのだが、このときの蜂矢の表情は、至極真摯なものに森岡の目には映った。

「私などに務まるはずがありません」

 森岡は慎重に言葉を選んだ。

 ブックメーカー事業に関わることは、これまでの峰松重一との関係とは根本的に意味合いが異なる。峰松とは仕事を依頼し、その対価を支払う都度関係である。仕事が介在しなければ会う必要もなく、時間を置けば関係を清算することも可能である。

 しかし、蜂矢の依頼を受けることは、永続的な緊密関係が持続されることを意味しているのだ。

「あんたには極道者顔負けの度胸がある。仁義も弁えとるし、神村上人を通じてわしらの世界とも因縁がある。しかも、都合のええことにITのプロや。この事業を任せられるのは、あんたしかおらん」

 蜂矢にとっては背水の決断だった。

 阿波野が神王組直系の組長の実子ということで、全国数十ヶ所の事務所に警察の捜査が入り、幹部クラスまでが検挙されてしまった。

 それから三年と数ヶ月が経ち、ほとぼりが冷めているとはいえ、二度と同じ過ちは許されない。事業の再開に当っては、責任者は全くの堅気であることが最低条件で、欲をいえば社会的信用のある人物が望まれたのである。

 神王組が直接差配に乗り出さない真の理由は、警察の目ではない。そうであれば、阿波野が話を持ち込んだとき、先代は彼に任せることなく、川瀬に実権を握らせていたであろう。警察の目から逃れる術は無くもないのだ。

 神王組にとって最大の障害は、どの組が担当するかということである。

 ブックメーカーは巨大な利益を生む事業である。仮に神栄会が受け持ったとすれば、神王組における神栄会の発言力は益々絶大なものになる。それも半永久的に、である。

 それでは他の組の反発は必死となり、引いては神王組崩壊の引き金ともなりかねない。急拡大した代償というべきか、神王組は寄り合い所帯という側面が否めないのだ。

 幸運なことに、IT技術の発達によりベッティングした客のパソコンのIPアドレスから、縄張りの組が特定できるようになった。その恩恵で事業者を外部に委託し、上納金を神王組全体に利益配分することが可能になった。

 蜂矢の言ではないが、森岡ほどの適任者はそうそういないだろう。

「あんたの好きなようにしてええ」

 蜂矢はそう言って缶ビールを手にした。

 森岡は、一瞬グラスを手に取ることを躊躇った。頭の片隅に、この話の流れで蜂矢の酌を受ければ、了承したと受け止められないか、との懸念が奔ったのである。

「考えてみてはくれへんかのう」

 森岡の心中を察した蜂矢は、語気を弱めた。

「はあ……」

 酌を受けた森岡は、生返事をしながらすばやく頭を働かせた。

 六年前、森岡が阿波野と会ったのも、心の片隅にブックメーカー事業に興味があったからである。興味というより色気といった方が正確であろう。手切れ金としては多額の一千万円を払ったのが、それを如実に証明している。

 なにせ合法であれば、巨大賭博の胴元に成れるかもしれないのである。わかり易くいえば、競馬、競輪、競艇といった国内の公営ギャンブルの主催者、あるいはアメリカのラスベガスや香港、マカオなどのカジノホテルの利権獲得に匹敵するのだ。いや、やり方次第ではそれ以上かもしれない。

 しかも、日本裏社会の首領である神王組六代目直々の要請である。この時点で、最大の懸念である身の安全は保証されている。

 もちろん、日本の裏社会には神王組以外にも、稲田連合をはじめとして多数の暴力団が存在しているが、面と向かって神王組と事を構えるとは考え難いのだ。

 これだけの魅惑的な話を前にして、触手が伸びないといえば嘘であろう。

「私の好きなようにして良い、というのは本当ですか」

「おお」

 と、蜂矢は肯いた。

「売上の五パーセントを上納してさえくれたら、後はあんたに一切を任せ、口出しはせん」

――五パーセントか……。

 森岡にとっては悪い条件ではなかった。一見、利益の有無に拘らず売上の五パーセントの上納は厳しい条件のように映るが、そうではない。

 賭博の胴元には二種類の形態がある。

 一つは、所謂「てら銭」を取る形式で、日本の公営ギャンブルは全てこの形式である。掛け金から一定額を差し引いた残額を払い戻しに充当するため、胴元には必ず利益が残ることになる。

 もう一つは、胴元自ら掛けを引き受ける形式である。この場合は初期段階でハンデが付くことが多い。

 例えば、大相撲で横綱誰某が優勝するかしないかという賭けがあったとしよう。てら銭形式だと、掛け金に応じて、払い戻し率が随時変動するが、これをどちらになっても、ハンデを含めた払い戻し率を一定にするため、胴元自らが支持率の低い方に掛けて調整するのである。

 仮に、横綱誰某が「優勝する」方の掛け金が圧倒的に多かったとしよう。胴元は、一定の配当率に調整するため、大金を「優勝しない」方に掛けることになるので、もし横綱誰某が優勝すれば胴元は大損し、優勝できなければ大利を得ることになる。

 それこそ一か八かの大博打であり、胴元には損失を補填できるだけの体力が必要となる。八百長の多くは、こうした掛け方式を資金力に乏無い胴元が仕切った場合によく起こる。

 ともかく前者の方法ならば、上納の五パーセントに必要経費と利益を乗せた数字をてら銭にすれば、薄利ではあるが確実に利益は上がることになる。

「親父さん。ただいまのお言葉は、この先代替わりしても保証して頂けますか」

 森岡は恐る恐る訊いた。堅気が、神王組の頂点に立つ男を問い質すなど無謀極まりないことだった。

 だが、蜂矢は機嫌を損ねるどころか、

「未来のことを百パーセント保証することはできん。せやけど、何事も無ければわしの跡目はこの寺島が継ぐ。仁義に厚いこの男が、あんたを裏切ることはないやろ。そして寺島は、自分の眼鏡に適った男に後を継がせるだろう。あんたにはそれを信じてもらうしかない」

 とむしろ誠実な言葉を返した。大抵の者がそうするように、言葉巧みに丸め込もうともせず、保証はできないと正直に言ったのである。森岡は、その物言いに信頼感を抱いた。

 森岡が腹を括って口を開く。

「親父さん、阿波野さんと石津さんはどうなっていますか」

「なに?」

「なぜ二人の名を?」

 蜂矢と寺島が同時に驚きの声を上げた。さしもの二人も、森岡の奇しき因縁まで推し量ることはできない。

「実は、あの事件では私も少々痛い目に遭いました」

「どういうことや」

 蜂矢は興味深げな顔を突き出した。

「私も阿波野さんから資金提供の依頼を受けていたのです」

 森岡は、阿波野と知り合った経緯を掻い摘んで話した。

「なら、あんたも捕まったかんかいな」

「いえ。その頃私は独立したばかりでしたので、手元に余裕がありませんでした。そこで、活動資金として僅かばかりの金を渡して終わりにしたのです」

 森岡は偽りを話した。彼はその頃、すでに二十数億円の資産を手中にしていた。しかし、警察庁最高幹部である平木の助言を受けて断ったとは言えない。

「じゃが、そこから足が付いたということやな」

 蜂矢は察したように言った。

「ご賢察のとおりです。家宅捜索と事情聴取を受けましたが、金額が小さかったので免罪になりました」

 これも当然のことながら、事情聴取の過程で平木の名を明かし、不起訴になったことも秘匿した。

「なるほど、そういうことなら、ますますわしらと因縁があることになるの」

 と言った蜂矢の口調ががらりと変わった。

「そういうことや川瀬。これでも文句があるか」

「も、文句など、とんでもありません」

 川瀬は蒼白の面で首を何度も左右に振った。

 極道社会は親分が絶対の世界である。黒いものでも親分が白と言えば、白になる世界である。川瀬は否と言える立場になかった。

 何とも皮肉なことだが、厳格な階級社会という点で言えば、宗教界と双璧なのがこの極道組織であろう。

「二人共、すでに出所しています。何か二人に用がありますか」

 寺島が訊いた。

「いえ、何となく気になったまでです」

 森岡は如才なく誤魔化した。

 彼は、ブックメーカー事業を手掛けるのであれば、特に石津の協力は不可欠と考えていた。事業のノウハウにもっとも精通しているのは石津である。ただ、この場で明言してしまうと、承諾したと誤解される恐れがあった。

「少し考える時間を頂けませんか」

「もちろんや。無理を言うてるのはこっちやからな。一つ前向きに頼むわ」

 蜂矢が軽く頭を下げると、

「森岡はん。急かすようですが、時間があまり無いんで、なるべく早う返事を下さい」

 その横で、寺島も頭を下げた。さらに沢尻と川瀬、後方に控えていた峰松らもそれに倣った。

「わ、わかりました」

 森岡は、押し切られる形でそう言った。神王組のトップ連中が挙って頭を下げることなど尋常ではないのである。

 寺島龍司が急かせた裏には、もう一つ頭痛の種を抱えていたからである。

 阿波野が取得した英国のライセンスは、毎年更新手続きが必要だった。その際の更新料は、本部長の河瀬が肩代わりし権利を継続保有していたが、業界で組織するブックメーカー協会には、五年間営業実態が無ければライセンスを剥奪するという内規があった。警察の摘発により、営業を中断してからすでに三年半が経っていた。彼らには時間も無かったのである。 

「そこでや。森岡はん、これはわしからのプレゼントや」

 蜂矢は護衛の若衆に持って来させた品物を森岡に差し出した。外観から察したところ、宝石か時計の入れ物のようだった。

「いえ。お気遣いなく」

 高級品だと察した森岡は、丁重に断ろうとしたが、

「五億の礼と、今夜の出会いの記念やから、取っといてや」

 と品物をさらに森岡の方に突き出すようにした。有無を言わせぬ体だった。

「では、遠慮なく」

「さっきの保証の話しやないが、お守り代わりにはなるやろ」

 蜂矢の謎めいた笑みが気になった森岡は、

「この場で開けてみて良いですか」

 と訊いた。

「ええで」

 ゆっくりと上蓋を開けた森岡は中身を確認して驚愕した。なんと、神王組の代紋である桐の徽章だったのである。それもただの徽章ではない。プラチナ製である。

「おお!」

 驚いたのは森岡だけではなかった。舎弟頭の沢尻、本部長の河瀬、そして森岡の後方にいた峰松までもが思わず溜息を漏らした。

 それも無理からぬことだった。

 神王組では、貫目によって徽章の素材を分けていた。最上級はプラチナ製で、組長本人、若頭、若頭補佐、舎弟頭、本部長、舎弟頭補佐など、二十数名の最高幹部に付与された。

 次級は金製で、直系組長や最高幹部を有する組の若頭が該当した。峰松も金バッジである。

 中堅の組員は銀製、それ以外の正規の組員が銅製だった。

 つまり形式上、森岡は神王組最高幹部の仲間入りをしたことになるのだ。このときの森岡はそのような区別があることなど理解してはいない。ただ、神王組の徽章に戸惑っただけだった。

 騒然とした中で寺島龍司一人だけが冷静だった。

 彼の心には、蜂矢が森岡に「親父」と呼ばせたとき、そのあまりの特例待遇に、ある疑念が芽生えていた。その疑念は、森岡の告白に対する蜂矢の反応によって増幅し、蜂矢が己の出生の秘密まで吐露したことで限界点に達した。

 そして、決定打がこのプラチナの徽章授与である。

――もしかしたら、森岡はんと親父は……。

 寺島の疑念は確信へと変わりつつあった。

「親父さん、いくらなんでもこれは遠慮します」

 森岡は上蓋を閉じて、ゆっくりと小箱を蜂矢の方に滑らした。

「勘違いするなや。これは、ブックメーカー事業とは関係ない。あんたが断っても、渡すつもりやったんや」

「しかし……」

「今後もあんたには世話になることもあるやろ」

 蜂矢はそう言って小箱を手に取り、もう一度森岡に差し出した。蜂矢にそうまでされては、これ以上断るわけにはいかなかった。

「よし、難しい話はこれで終りや。女たちを呼べ」

 蜂矢の一声で扉が開かれ、隣の部屋に待機していた十数名の女性がサロンに入って来た。その後はカラオケパーティーとなり、森岡も何曲か歌ったが、心から楽しむことなどできるはずもなかった。


 

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