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ブックメーカーとは賭博の胴元のことで、有名なのは英国政府公認のそれである。
一九六十年まで、英国のブックメーカーは裏社会、つまりマフィア組織が運営していた。当時、不況に苦しんでいた英国政府は、過去の所業を免罪するという条件で、それらの地下経済活動を合法化して実態の把握に努め、併せて税収難の打開策としたのである。日本でいえば、暴力団の「ノミ行為」を合法化したようなものである。
とにかく自国、他国の競馬やサッカーをはじめとして、バスケット、ハンドボール等々のリーグ戦だけでなく、オリンピックやサッカーのワールドカップ、各競技の世界大会を賭けの対象としていた。日本でいえば、大相撲や野球などもその対象に含まれていた。
また、スポーツに限らず、有名スポーツ選手や俳優といった著名人の生まれて来る子供の性別や、英国皇太子がその年に結婚するかどうかまで、つまり世間の興味を惹いていると判断すれば、ありとあらゆることが賭けの対象となっていた。
こうした営業方針の結果、ブックメーカー各社は順調に売上げ伸ばし、世界最大のブックメーカーである「ウイリアム・ゴールド社」の年間売り上げは三兆円、利益は五千億円という巨大企業に成長した。
この時代の日本企業等に照らせば、売上はJRA(日本中央競馬会)、利益はソニークラスと同程度の規模という超優良会社である。十数年前、世界的ホテルグループの「トリトンホテル」を一兆円で買収したのもウイリアム・ゴールド社であった。
日本において、ブックメーカーの存在が一般的に知られるようになったのは、一九九〇年頃からであるが、当時はインターネットが普及しておらず、専ら海外の大きなスポーツイベントのニュースを報道する際の、刺身のつま的に紹介された。
一九九〇年代の中頃からのインターネットの急速な普及と共に、その認知度は高くなり、単なるニュースから実践の対象へと移り変わった。
肝心の法令に関してであるが、警察当局の見解は、ブックメーカー事業はサーバーが国外にある限り、賭博開帳図利には当たらず、日本からのインターネットによるベッティング(賭け)行為も、非合法ではあるが、実効性のある取り締まりがきないとのことである。いわば、グレーゾーンになっているのが実情なのだ。
本来、英国でのブックメーカーのライセンス発行は二百社と限定されていた。それ以上の乱立は、お互いの利益を損ねると業界が談合したのである。
したがって、新規の参入は二百社に欠員が出た場合のみとし、有資格者も英国国籍を有する経営責任者に限るとしていた。
しかし十年前、市場を全世界に求める強化方針を打ち出し、十社に限り他国籍の者も認めると変更した。その流れに乗って七年前、日本人が始めてライセンスを取得したのである。
その日本人は、ウイリアム・ゴールド社の日本市場担当だった石津という三十代の男だったのだが、現実問題として、彼が日本で事業展開するには二つの難題があった。
一つは多額の資金確保である。
日本人を客とすれば、法規制を逃れるため、海外にホストを置くコンピューターシステムの整備が不可欠で、その初期投資には十数億円掛かると試算されていた。
また、胴元になる場合の、払い戻しの資金も必要であった。なぜなら、入金は安全性を考えカード決済にせざるを得ず、一方で現金の払い戻しとなると、流動資金にタイムラグが生じるからである。石津は、それだけの資金を持ち合わせていなかった。
もう一つは、暴力団との関係である。
言うまでもなく、ブックメーカー事業は、ともすれば暴力団のしのぎを犯すことになるため、彼らの了解を得なければ命の保証がない。しかも、事業性からいって特定の組組織がどうこうという問題ではなく、いずれの暴力団組織であっても上層部の了解が必須であった。
そういう点では、石津は大変に運が良かったといえた。
石津の片腕として、ブックメーカーのライセンス取得に奔走した男の知人に、阿波野という暴力団と縁の深い者がいたのである。
阿波野は、神王組三代目の田原から盃を貰った直参組長の実子であった。父親が亡くなったとき、まだ高校生だった彼は極道の道に進むかどうか悩み抜いた末、跡目を若頭に譲った。実は、その譲られた若頭というのが、現在本部長の要職にある河瀬なのである。
元の主家筋に当る阿波野の相談を受けた河瀬は、その旨を神王組五代目に上申した。五代目はこの申し出を受けた。
賭博に限っていえば、彼らの最大のしのぎは、競馬や競輪、競艇などのノミ行為である。競馬であれば、てら銭を十五パーセントにして、JRAの二十五パーセントと差を付け、一定の客を確保している。
それでも、昨今は電話投票が拡大し、ジリ貧の一途を辿っている始末だった。加えて、いずれインターネットが活用されれば、客数は激減すると想像された。五代目は新しいしのぎの手段の一つとして、ブックメーカーを活用しようと決断したのである。
だが二年後、この事業は頓挫する。
目先の金に目が暗んだ沖縄の末端組織が、本部の指示を無視して直接客にベッティングさせてしまい賭博開帳図利の嫌疑で、警察当局の捜査を受けてしまったのである。結局、全国の組織が芋づる式に摘発され、押収総額は四十五億円という当時の史上最高額に上った。
実はこの捜査の過程で、森岡も神奈川県警の家宅捜査を受けていた。押収された銀行通帳の一刷に、最初のページの二行目、つまり口座開設後のイの一番に一千万円入金の記載があったのだが、阿波野はその出所が森岡であると自供してしまったのである。
捜査当局は、森岡こそ事業の首謀者の一人、影の黒幕だと狙いを付けたのだった。
森岡が一千万円を融通したのは奇妙な縁からだった。
六年前、森岡がウイニットを設立して間もない頃である。ある見知った男から連絡が入った。
男の名は杉浦と言い、森岡が菱芝電気でコンピューターシステムを構築した最後の顧客の担当者の一人だった。ウイニットを設立する二年前のことである。
大阪に本社のある大手空調機メーカーで、森岡は全国七ヶ所の工場にもシステムの説明をして回っていた。
杉浦は兵庫県朝来市にある工場の電算室係長だった。朝来市は人口が四万人に満たない小さな街だったが、創業者の出身地だったため、地元に対する貢献の意味で工場を建設していたのである。
さて、コンピューターシステムの説明後、杉浦が一席設けたいと申し出た。森岡は好意を受け、一泊することにした。係長である杉浦に潤沢な接待費があるはずもなく、彼が身銭を切っての誘いだと推察したからである。
小料理屋で腹を満たした後、返礼として森岡がカラオケスナックへと誘った。酒好きの杉浦は二つ返事で同意した。
杉浦はよほど気分が良かったのか、そのスナックで初対面にも拘らず森岡に鬱積した心情を吐露した。初対面であっても、相手の懐に上手く入り込むのが森岡の真骨頂の一つなのである。榊原や福地は、このあたりの人徳にも惚れ込んていたのかもしれない。
杉浦の話によると、彼は遠縁ということで社長から目を掛けられ、昨年までは本社の経理課長という出世コースいたのだという。しかし、好事魔多し、というべきか杉浦に災難が降り掛かった。
酒好きの彼は、夜な夜なネオン街に出没していたのだが、そこで暴力団関係者の女性に手を出してしまい、慰謝料として二千万円を要求されるというトラブルを起こしてしまったのである。
自業自得といえばそれまでであるが、男は会社にまで押し掛けて来てしまったため、報告を受けた社長の逆鱗に触れ、朝来工場に左遷されてしまったのである。慰謝料は、先祖代々の山林を売却し用立てたのだという。
さて、奇縁はここからである。
それから二年後、暴力団関係者の男は、再び杉浦の前に姿を現した。杉浦は困惑したが、男の用件は二年前の女性の件ではなく、ある事業資金の調達に協力して欲しいというものだった。慰謝料の捻出に山林を売り捌いたことで、男は杉浦を資産家の息子だと勘違いしたのである。
だが、杉浦家には山林も田畑も残ってはいなかった。杉浦は事情を説明して申し出を断ったが、当てが外れた男は勤め先の社長に紹介するよう無理難題を言い出したのである。杉浦が社長の遠縁だということまで調べ上げたうえでのことだったのだが、当の杉浦にとっては首が飛びかねない要求だった。
窮地に追い込まれた杉浦の脳裡に、ふと森岡の姿が浮かんだ。耳にした噂によれば、IT企業を設立し、日の出の勢いだという。そこで、森岡に泣き付いたという経緯なのである。
森岡は義理人情に厚い男である。事情を知ってしまった以上、無下に断ることができなくなった彼は、とりあえず男と会ってみることにしたのだが、その暴力団関係者というのが、河瀬に跡目を譲った阿波野だったのである。
跡目を河瀬に譲った見返りとして、二億円を手にしていた阿波野は、街金業者に出資したり、ショットバーや宅配ピザ屋などの事業に出資したりしたが、いずれも失敗し大半を使い切ってしまっていた。
そのような折、阿波野と暴力団との繋がりを知っている灰色紳士から、石津を紹介されたのだった。起死回生の好機と捉えた阿波野は、あらゆる知人に声を掛けて、資金の調達に奔走していたのである。
大阪梅田のパリストンホテルにやって来た阿波野は、さほど大柄ではなかったが恰幅が良く、髪をオールバックに固めていた。
「いくらですか」
と金額を問うた森岡に、阿波野は、
「できれば大きい方を一本」
と、親指を立てた。
意味がわからず戸惑いを見せた森岡に、阿波野は親指が億、人差し指が百万を表し、大きい方というのはそれぞれ十億と千万を指すのだと説明した。
只ならぬ雰囲気と独特の金銭表現に、素性を問うた森岡に対して、彼は正直に身の上を正直に話した。
阿波野が暴力団と関わりがあると知った森岡は、むしろ安堵した。何しろ、暴力団のしのぎを犯すブックメーカー事業に手を出せば、下手をすると、いやたとえ上手くやったとしても、命はいくらあっても足りたものではない。
その点、阿波野が神王組と話を付けてくれるのであれば、自身は警察当局と交渉すれば良い、と森岡は思ったのである。そこで三友物産の日原淳史を通じ、当時大阪府警本部長だった平木に会い、腹蔵の無い意見を求めた。これが平木との交誼のきっかけであった。
だが、平木の見解は、
『法令適用に関しては、法務省も精査中であることから、しばらく自重せよ』
というものだったため、森岡は阿波野に断りを入れたのだが、その際後腐れの無いようにと、活動資金として一千万円を融通したのである。
この手切れ金にしては少々高額過ぎる裏には、その後の成り行きに含みを持たせるという森岡の下心があった。
いずれにせよ、森岡としては阿波野個人にくれてやったものであり、足が付かないようにと現金で渡したのだが、阿波野は事業資金の一部に算入してしまったのだった。
森岡に断られた阿波野は、その後首尾よく東京の実業家から五億円の現金融資を受けることに成功し、一旦は事業化に成功したのだが、末端組織の不手際によって司直の手に落ちたのだった。
この実業家というのが、ギャルソンの柿沢康弘であった。つまり、森岡との因縁は、すでにこのときから始まっていたということになる。
事件発覚から一月後、森岡は国営放送のニュースで阿波野らが逮捕されたことを知り、その一週間後、神奈川県警・青葉台署の刑事三人が令状を持参し、家宅捜査にやって来た。さらに、一ヵ月後、同署に於いて事情聴取を受けたのである。
事情聴取の過程で、森岡は平木の名を口にした。森岡としては、洗いざらい正直に話したに過ぎなかったが、思わぬ警察庁最高幹部の名に、取調官は蒼白となった。犯人扱いも同然の、それまでの高飛車な態度が一変し、丁寧な口調になった。
「大阪府警の平木本部長に間違いありませんね」
取調官の半信半疑の念押しに、森岡は平木の名刺を取り出して見せた。
「確認して貰っても良いですよ」
森岡は余裕の笑みを浮かべて言ったが、内心では確認されれば拙いと思っていた。平木との関係は嘘ではないが、今後の交誼に差し障りとなる懸念があった。
暫し森岡の面を凝視していた取調官は、
「ちょっと、失礼します」
と言って、取調室から出て行った。
数分後、取調室に戻って来た取調官は、上司と思われる男性を伴っていた。
「いやあ、大変失礼しました」
複雑な笑みを浮かべながら、男が差し出した名刺には「捜査一課長」の肩書きが記されていた。警察機構における課長というのは、一般企業のそれとはずいぶんと重みが異なる。神奈川県警の一所轄署の課長といえども、強大な権力を保持し、同時に重大な責任を負っている。
捜査一課長は、もう一度森岡から聴取を行ったが、終始物腰の柔らかい態度で接した。そして最後に、調書から「平木」の名を削除したい旨を申し出た。
森岡に否はなかった。言外に、森岡に対する聴取を終了し、不起訴処分とすることを仄めかしていたからである。




