(2)
道案内をしたのは神栄会若頭の峰松重一だった。
「森岡はんのお陰で、寺島の親父が本家の若頭になることができました。おおきに」
峰松は両手を膝に置いて腰を折り、深々と頭を下げた。
日本最大の暴力組織、神戸神王組は先頃代替わりをし、六代目の若頭に神栄会会長の寺島龍司が就任した。それに伴い、本家の若頭補佐の一人に昇進した峰松の貫目も応分に上がっていた。
この、寺島の若頭就任の裏に森岡の金銭的助力があったことは、森岡当人と寺島、峰松そして六代目の蜂矢の四人しか知らない事実であった。
釣り人の装いをした森岡は、同様の峰松が神戸港に用意した漁船から、淡路島付近に停泊してしたクルーザーに乗り込んだ。全長約三十七メートル、全幅約九メートル、二階建てでベッドルームやサロンなど兼ね備えた大型モーターヨットである。
価格は十億円。蜂矢が神栄会からの上納金で買い求めたものだ。大変な豪華船ではあるが、バブル崩壊でずいぶんと買い求め易くなっていた。
余談だが、所有者登録は堅気の別人である。
静かな夜だった。
沖合十数キロにも拘わらず、瀬戸内の海はどこまでも波穏やかで、日本海の荒波しか知らない森岡は、まるで湖上にいるような錯覚を覚えるほどであった。
夜空は眼に痛いほど澄み渡っていて、大阪の薄幕の張った天空とは違い、数多の星が煌きあっていた。明かりはその星々の瞬きとサーチライトのみという闇の中、空の高さと海の深さを量りあぐねる森岡の耳には、人の道を外れつつある彼を咎めるかのようなスクリュー音だけが届いていた。
峰松の案内で、デッキから一階のサロンに足を踏み入れた途端、森岡は思わず身震いした。ソファーの中央に座っていた小柄で中肉の男に、久田帝玄に会ったときと同じ威圧感を感じたのである。
サングラスを掛けているため、両眼を窺い知ることはできないが、風貌も紳士然としていて、むしろ優男のようにさえ映る。しかし、男の手前に座っている旧知の寺島龍司と共に、奥には見知らぬ二人の男が同席していたが、この優男こそ神王組六代目組長の蜂矢司だと森岡は確信した。
「六代目、森岡さんをお連れしました」
峰松が緊張の声で言った。
「ご苦労さんやったな。まあ、こっち来て座りや」
やはり、優男が答えた。
蜂矢は三代目姉の時子、つまり伝説の大親分田原政道の妻に溺愛された。蜂矢は十三歳のとき、田原の許にやって来たという。むろん堅気である。少年を堅気というのも妙な話だが、極道修行のためではないということである。
幹部候補生としての本家での修行は、早くても二十歳過ぎ、遅ければ三十歳手前が通例である。経緯が不明のまま、中学生になったばかりの少年を田原が手元に置いたことで、組内には隠し子ではないかという噂が広まったほどであった。
田原の死後、四代目は若頭が継いだが、五代目相続のとき、時子が強力に蜂矢を推したため、ますます実子説の信憑性が増した。
結局、時期尚早との周囲の諫言を時子が聞き入れたため、五代目には他の者が就いたが、このときの彼女の肩入れぶりが蜂矢の六代目を確定させたと言っても過言ではなかった。
「さあ、こちらへどうぞ」
奥に控えていた若衆のうちの一人が森岡に近づき案内した。森岡が座ったのは蜂矢の真向かいの席だった。
「とりあえず一杯いこう。ビールでええか」
蜂矢は自ら缶ビールを手に取って酌をした。
「恐れ入ります」
森岡は、グラスに注がれたビールを一気に飲み干した。
「ご返杯致します。何を飲んでいらっしゃいますか」
「わしはブランデーを飲んどるが、ビールをもらおうか」
蜂矢はそう言ってグラスを差し出した。そして、蜂矢もまたグラスを一気に飲み干した。
「そないな格好をさせてすまなんだの」
サングラスを外した蜂矢の目尻に皺が寄っていた。口元も緩んでいるが、さすがに両眼は鋭い。極道者に馴れているはずの森岡も身体が竦む思いである。
「いいえ」
「北新地のクラブを貸し切っても良かったんやが、若頭が人の目が無い方がええ、と言うもんでの」
「私もこちらの方が良かったと思います」
「ほうか、なら良かった。何というても、この船の半分はあんたに買うてもろたようなもんやからな。のう、若頭」
「はい。その通りです」
寺島は畏まって答えた。
「組長さん、いや六代目……何とお呼びしたら良いのか」
森岡は困惑気味に訊ねた。
「何でもええがな」
蜂矢は鷹揚に笑った。その両眼から威圧は消えている。
「そういうわけには……」
「なら、親父でええわ」
「えっ!」
一同が一斉に怪訝な視線を蜂矢に向けた。いくらなんでもそれは、と言った驚きも含まれている。
それもそのはずで、極道世界において「親父」と呼べるのは、正式な盃を貰った子分にしか認められていない。いや、神王組には直系若中、つまり蜂矢から直接盃を貰った直参と呼ばれる子分が百十七人いるが、その多くはたとえ直系といえども、気安く親父と呼べる雰囲気はなく、若頭補佐や支部長などの側近までしか口にできなかった。大半は「組長」又は「六代目」と呼んでいたのである。それを、全くの堅気でしかも初対面の森岡に許したのだ。
一同が目を剥いたのも当然だったが、森岡がそのような実情を知るはずもない。
「では、親父さん。岳父の件では大変お世話になりました」
彼は言われるがまま、そう言って頭を下げた。
「いや、こっちこそすまんかったの。沖の知らんかったこととはいえ、あほなことを仕出かしよって。まあ、水に流してくれ」
蜂矢も詫びると、缶ビールを手に取り、森岡のグラスに注いだ。
一神会による味一番株式会社社長・福地正勝の拉致監禁という蛮行は表沙汰にはならなかった。蜂矢が一神会会長の沖恒夫に因果を含め、福地自身も会社の体面を考慮し、警察へ刑事告訴しなかったからである。
「しかし、若頭から聞いてはいたが、なるほど肝の据わった男やな。わしらの前でも顔色一つ変えんとは……」
「とんでもないです。このような状況で平然としていられるわけがありません。心臓が飛び出るくらい緊張しています」
「そうは見えんがの。わしの酌を受けて手が震えんのは、幹部の数人だけやで。生粋の武闘派極道の峰松でさえ、コチコチや。のう、重」
「は、はい」
森岡の後方に控えていた峰松は恐縮して答えた。
「峰松さんにとって親父さんは、雲の上の人だからでしょう」
「まあ一理あるけど、あんたには何かありそうやな」
「取り立てて、そのようなことは……」
「いや、何かあるな。隠すなやな」
蜂矢が少し語気を強めただけで、森岡は心臓を鷲掴みされたような圧迫感を受けた。
「敢えて申しますと、私が一度死んだ身だからでしょうか」
「ほう。なんや曰くがありそうやな」
ようやく蜂矢の目が笑った。このとき、彼にはある思惑があって品定めしていたことなど森岡が知る由もない。
「お耳を汚すことになりますが」
「気にせんでええ」
森岡は物心が付いたときから、今日までの出来事を詳らかにした。その途中、「母小夜子」の失踪を語ったとき、蜂矢がほろ苦いような懐かしむよな複雑な表情を見せたのだが、それに気づいたのは寺島龍司だけだった。
「なるほどのう。十二歳のとき、海に身を投げたか」
「自暴自棄になっていました」
「それに、やっと身籠った奥さんをのう。辛かったやろうな」
蜂矢は心の底から労わるような声で言った。
「喜びが大きかった分、悲しみは倍化しました」
「あんたも辛酸を舐めて来たということやな」
蜂矢は得心がいったように呟いた。
寺島もその他の極道たちも皆、視線を落としていた。森岡の身の上話に共感しているのである。極道世界に身を投じる者は、大なり小なり似たような過去を持っている。経済ヤクザといわれる者の中には、平凡な家庭に育った者もいなくはないが、極稀なケースなのだ。
だからこそ「水は血より濃し」と、盃事を最重要視しているのである。
暫し沈黙していた蜂矢が思わぬ言葉を口にした。
「実はのう、わしもあんたと同じ年の頃、死のうと思ったことがある」
「な、なんですと」
森岡だけでなく、一同が蜂矢を見た。彼らにしても初めて聞く話だった。
「親に限って言えば、あんたはまだましやで」
そう言った蜂矢が寂しげな顔になった。
「わしは捨て子での、二親の顔すら知らん」
神王組の六代目といえども、人の子ということであろうか。父母への愛惜の情が滲み出ていた。そして、蜂矢のこの言葉によって、彼の田原政道実子説は否定された。
蜂矢は神戸のとある施設の玄関先に捨てられていた。
名前だけを書いたメモ用紙と共に、である。物心が付いた頃にその事実を知った蜂矢は、己の運命を呪い、憤慨し、悲嘆にも暮れ、再々施設からの脱走を試みた。だが、所詮行く場所などありはしない。夕方には、うな垂れながら施設に戻るしかなかった。
蜂矢はまた、凄まじいいじめにも遭った。
社会的弱者が集う施設であれば身を寄せ合うのが普通で、いじめなど存在するはずがないと思われるかもしれないが、実はそうでもない。人間とは悲しい生き物で、弱者であればあるほど、さらに弱い立場の存在を認めずにはおれないのである。
捨て子というレッテルは、蜂矢をより辛い立場に追い込んだ。ただ、そうはいっても、いじめの問題は本人次第という側面が大きいのも事実ではある。
さて、十二歳のときである。
蜂矢は、いつものように施設を飛び出て、神戸港の海を眺めていた。すると、後方に止まった車から声が掛かった。
「坊主、海の水は冷たいぞ」
振り返ると、大きな車の後部のウインドを開け、中から初老の男性が笑顔を覗かせていた。
「海なんかに飛び込まんわい」
蜂矢は虚勢を張った。心中を見抜かれていたのである。
「ずいぶん威勢がいいのう。どこの坊主じゃ」
「どこでもええやろ。あんたには関係ないことや」
「それが、あるんやな。ここはわしの縄張りやから、勝手に死なれても困る」
「せやから、死なんと言うてるやろ」
「そうか。せやったら、こっち来て車の中に乗れ。家まで送ったる」
「家なんか無いわい」
「家が無いってどういうことや」
「俺は捨て子や」
蜂矢は吐き捨てるように言った。
「そうか、捨て子か。ということは施設やな」
「ああ」
「園長さんも心配してるやろから、送って行ったろ」
それでも男は笑っていた。
最後まで優しい笑顔を絶やさなかったこの男こそ、日本最大の暴力組織で、全国制覇を成し遂げた神王組の三代目組長・田原政道であった。
これがきっかけとなり、田原は度々施設を訪れ、世間話をするうち負けん気が強く正義感のある蜂矢が気に入った。そして、彼が中学入学と同時に、堅気の知人に依頼して、書類上の養子縁組を交わしてもらったのだった。
だが、この事実は田原夫婦と蜂矢本人しか知らない密事であった。養子縁組は蜂矢を施設から引き取るための方便であり、蜂矢が成人すれば養子縁組を解消させるつもりだったからである。
田原に蜂矢を極道世界に引き込む意思など毛頭なく、大学へも行かせてから堅気の世界に送り出すつもりだった。したがって戸籍とは別に、呼称は蜂矢の姓のままにしておいたのだった。
蜂矢が成人すると、予定通りに養子縁組は解消させたが、その後彼が極道世界に生きる決心をしたため、田原夫婦はあらためて蜂矢の薫陶に努めたのである。
蜂矢の話を聞いていた森岡は、正直な心情を吐露した。
「敦盛の『人生五十年、下天のうちを比ぶれば……』ではありませんが、現代でもせいぜい八十年です。一度死んだ身の私も三十六歳になりました。これまで好き勝手に生きて来ましたから、仮に今この場で殺されても、悔いはありません」
「あんたはそれでええかもしれんが、周囲の者を悲しませることになるで」
「今お話しましたとおり、祖父母、父母はすでに他界し、兄弟はいません。妻とも死別し、子供もいません。恋人や目を掛けた部下は数人いますが、彼らには申し訳ないと思いつつも、生へのしがらみにはなりません」
蜂矢は凝っと森岡を見つめていたが、
「どうやら、張ったりやないようやな。のう、若頭」
と息を吐いた。
「以前、神栄会で談判したときなどは、さすがの峰松も形無しでした」
「ははは……百戦錬磨の鬼軍曹も手玉に取られたか」
蜂矢は楽しそうに笑った。寺島をはじめ、幹部たちはこのように愉快げな蜂矢を見たことがなかった。
「森岡はんが、神村上人の弟子ということで納得がいったのです」
「そうらしいのう。神村上人なあ……お上人は元気でおられるかの」
蜂矢が懐かしげに訊いた。
「はい。親父さんは先生をご存知なのですか」
「知っとるというほどではないが、二、三度三代目のお供で酒を飲んだことがある」
「そうでしたか」
「ともかく、三代目は神村上人にぞっこんでの。何かと理由をこしらえて会いに行っておられたものや」
蜂矢が懐かしそうに語った。
「先生といえば、五億の返金、有難うございました」
森岡はテーブルに両手を付いて頭を下げた。
「なんの。金刃の伯父貴が世話になったということは、三代目からよう聞かされておったんでの。本来なら十億全部返さにゃなんのやが」
蜂矢が頭を掻いて決まりが悪そうにした。
「とんでもないです。五億は受けって頂かなければ、こちらが恐縮します」
森岡の偽ざる気持ちだった。彼は、極道者に借りを作る怖さを知っている。それは、六代目だろうとチンピラであろうと変わりはない。
「あんたにそう言ってもらえると、わしも気が楽になる」
苦笑いをしながらそう言った後、一転蜂矢が真顔になった。
「よし、腹が決まった。若頭の言うとおり、『B・K』を森岡はんに頼むとするか」
「それは、親父……」
蜂矢の隣にいた二人が同時に声を上げた。舎弟頭の沢尻と本部長の川瀬である。彼らは神王組のナンバー三とナンバー四であった。
「なんぼなんでも、あの大事業を素人に頼むんでっか」
「あほう! お前が下手を打ったからこうなったんやないか!」
不満顔を覗かせた川瀬に、すかさず蜂矢が怒声を浴びせた。
親分の一喝に、瞬時にしてその場が凍り付いた。さすがに、四万人の極道者の頂点に立つ男の貫禄は半端ではない。
「実はのう、森岡はん。あんたに会いたかったのには、もう一つ理由があっての。それで、密会場所をこの船にしたんや」
だが森岡に対しては、どこまでも穏やかな表情なのである。
「あんたに一つ大事な相談があるんや。若頭、説明せい」
――相談? やはり、そうか。
森岡は心の中で呟いた。
峰松を通じて申し出があったときから、天下の神王組六代目が堅気の自分に会いたいというからには何かある、と予見はしていた。まして、五億円を返金したうえでの相談というからには、かなりの難題だろうと想像できた。
「森岡はんは、『ブックメーカー』というのを知ってはりますか」
「ブックメーカー? 確か博打の胴元では……」
森岡は曖昧に言い、詳細は不確かな素振りをした。というのも、彼の脳裡にはある苦い思い出が甦っていたのである。




