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黒い聖域   作者: 久遠
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         第三章 首領(1)

 中国自動車道の上月パーキングエリアで休憩をした後、車は西に向かって再発進した。数十分で米子自動車道へと移り、中国山地越えとなる。

「今一つは、懸念というより差し迫った難題や」

 森岡の厳しい語調に三人は身を引き締めた。


 これもまた一週間ほど時間が遡る。

 坂根好之と南目輝にとって、その夜の酒は酷く不味いものだったに違いない。

 夕方、蒲生亮太を含め社長室に呼ばれた三人は、森岡から、

『今夜は拠無い所用があるので定時前に帰宅する。その後は自由にしろ』

 と言い渡されたのである。

 森岡が一人きりで外出することは滅多にない。あの忌まわしい凶刃に遭った以降は一度もなかった。当然三人は帯同を求めたが、森岡は有無を言わせぬ形相で首を横に振った。

 素直に引き下がるわけにはいかない三人は、森岡を尾行することにした。陰ながら護衛しようと試みたのだが、見事にまかれてしまった。森岡の想定内だったのだ。

 義兄弟も同然の自分たちにさえ、固く秘匿したい用件というのに見当が付かない坂根と南目は、不満と不安に苛まれていたのだった。

「あら、扉を開けておいて帰っちゃうなんて、ずいぶんとつれないですわね」

 三人の背中越しに茜の声が届いた。

――し、しまった……。

 目を合わせた坂根と南目は、その表情にお互いの胸中を察した。もしや、森岡はロンドに顔を出しているかもしれない、と期待を胸に足を運んだ三人だったが、黒服から不在を告げられたため、そのまま踵を返そうとした矢先だったのである。

「いえ、飲みに来たのではないのです」

 坂根があわてて弁解したが、却って茜の疑念を生んだ。

「どういうことですの? 洋介さんが御一緒でないことと関係があるのかしら」

 茜の、いや女性の勘はすべからく鋭い。

――やはり、余計な心配を掛けてしまう。

 坂根は後悔したが、すでに遅かった。

「もしかしたら、社長がいらっしゃるのでは、と思ったものですから」

 と観念したように言った。

「やはり臭うわね。中に入って詳しく話してもらえるかしら」

「いや、しかし……」

 渋る坂根に、

「御代は良いから、入ってちょうだい」

 茜は命令口調で言った。森岡と将来を約束した彼女にそうまで言われると、三人は断ることができない。

「まさか、浮気?」

 三人から事情を聞いた茜は浮かぬ表情になった。森岡を信じているが、そこは惚れた弱みである。

「それは……」

 南目には適当な言葉が浮かばなかった。彼もまた同じ思いを抱いていたからである。

「社長はそのような人ではありません」

 坂根がきっぱりと否定したが、

「せやけど、社長はもてるからな。その証拠に京都の……」

 と、南目がうっかり口を滑らしてしまった。

「輝さん、それは……」

 坂根が揉み消そうとしたが、茜は聞き漏らさなかった。

「京都?」

「いや、なんでもないです」

「南目さん、誤魔化してもだめよ。京都って、どういうことですの」

「そ、それは坂根の方が……」

 茜の詰問に、堪らず坂根に救いの目を向ける。

 縋られた坂根は覚悟を決めた面構えで、

「京都の女性とは何でもありません。輝さんが誤解しているだけです」

 と前もって強く否定し、自分が知る限りの経緯を話した。むろん、片桐瞳が森岡の最初の女性だったらしいことは伏せた。

「正直に話してくれてありがとう。私は洋介さんを疑っているわけじゃないのよ。でも、女性に優し過ぎるから、間違いがなければ良いけど……」

 茜は、森岡の態度にロンドのホステスでさえ、自分に気があるのではないか、と勘違いしたことを知っていた。

「社長が優しいのは女性だけではありません」

 坂根が弁護した。

「そういやあ、兄貴は野島専務のために、極道者に手切れ金を渡したらしいな」

「まあ」

 茜は開いた口を手で隠し、南目を見つめた。

「専務の惚れた女性が極道者に言い寄られていたらしく、社長が間に入ったのです」

 野島に随伴して、真弓が勤めるクラブ檸檬へも顔を出していた坂根が説明した。

「あの人は自分のことを差し置いても、他人のために奔り回る人だから」

 茜はつれない言葉を吐いたが、その表情は満更でもなかった。

「蒲生君は何か心当たりがないか」

 南目が訊いた。蒲生は年下だったが、呼び捨てにできない存在感があった。

「お二人でさえ察しが付かないのに、新参の私に社長の行動が理解できるはずがありません」

 蒲生は、首を左右に振ってもっともらしい理屈を述べた。

「元警察官の経験に照らし合わせても無理ですか」

 坂根も一歳年下の蒲生に言葉を選んで訊いた。蒲生は元SPだったが、警察官には違いない。そこで、失踪者あるいは真犯人の行動分析を期待したのである。

「どんな些細なことで良いですのよ」

 茜の声にも期待が籠っている。

「では、私の勘で宜しければ……」

 と、蒲生は断りを入れた。

「社長と知り合ってまだ時間は短いですが、まず女性ではないでしょう」

 その力強い言葉に、茜がほっとした笑みを浮かべた。

「おそらく、全く異次元の人物と会っておられるのではないでしょうか」

「異次元?」

 三人が声を揃えた。

「異次元というのは大袈裟かもしれませんが、例えば政治家であれば大臣クラス、財界人であれば経団連の役員クラス、警察官僚であれば警視監クラス……」

 蒲生は一旦言葉を切ると、

「そうですね。宗教人あれば法主、管長クラスの人物と面会されていらっしゃるのではないでしょうか」

 と所見を述べた。

「なるほど、一理ありますね」

 坂根が得心したのに対し、

「なんで、俺らが遠ざけられんねん」

 南目は不満を漏らした。

「私たちがいてもどうにもならない。いや場合によっては、むしろ私たちの今後に害があるかもしれない、という社長の配慮だということです」

 坂根が噛み砕いて説明した。

「せやけどな」

 なおも納得のいかない南目に向かって、

「それだけ、皆様は大切に想われている証拠ですよ」

 と、茜が優しい声で説いた。

 

 その頃、当の森岡洋介は神戸灘洋上にいた。

 蒲生が推量した異次元の人物、神王組六代目組長・蜂矢司との密会のため、彼の待つクルーザーへと向かっていたのである。

 この密会は蜂矢が望んだものであった。

 裏社会の首領の要請を断れる人間がこの国に何人いるであろうか。少なくとも蜂矢と同程度の貫禄が無ければ適わない相談であろう。

 では、この国にそのような人物が何人居るかといえば、残念ながら覚束ないのが現状である。

 時代を明治から太平洋戦争前まで遡れば、政界をはじめ各界にはいわゆる国士こくしと呼ばれる人物が数多いた。各界の指導層は、その多くを元武士またはその血筋が占めていたため、国家国民のために身命を投げ打って尽くそうという気概のある人物に事欠かなかったのである。

 それが太平洋戦争後の民主教育によって「個」が重視されるようになり、「公」に対する奉仕という概念が薄れてしまった。

 むろん、個人を重視すること自体は間違っていない。しかし、同時にそれは公に対する義務と責任を伴うものでなければならないのだが、戦争への過度の反省から、国家や社会という公に対するアレルギーが災いし、その点が未発達になった。

 これもまた、絶対神を持たない民族の弱点が露呈したものと言えよう。一神教であれば、個を重要視しながらも、公共への慈善という神の教えに従うのであろうが……。

 ともかく、森岡が蜂矢の要請を断れるはずもなかった。というより、そもそも誘いを断る特段の理由が見当たらなかった。

 森岡の哲学は明瞭である。

 総務藤井清堂との面会を助言した茜もそうだが、社会のあらゆる分野、階層において、その頂点に立つということは、それ自体がその人間の有能さを表していると考えていた。極道社会もその例外ではない。むしろ、社会に従順な羊の群れではなく、一線を画す狼どもを束ねる力量は尋常でないと考えるべきであろう。

 もちろん、森岡は極道社会を是としているわけではないが、そうかといって頭から絶対否定をしているのでもない。反社会団体というレッテルは、今の社会でのことであって、未来永劫存続する価値観とは言い切れないからだ。

 現代社会では、殺人は悪だが、戦国時代におけるそれは、善とは言わないまでも、人を殺せば殺すほど出世するという、言うなれば是である。戦国時代まで遡らなくとも、僅か半世紀と少し前の社会でさえ、いかにして敵を倒すかが最上の命題だった時代である。もちろん大量の殺戮を想定したうえでのことである。

 そう考えれば、百年後はともかく、五百年後、一千年後の未来において現代の価値観や民主主義といった社会の理念、構造がそのまま残っている保証などどこにもないのだ。

 しかも、戦後しばらくの間は、国家権力が暴力団を自警団として活用していた事実がある。活用は言い過ぎでも、見て見ぬ振りをしていたことは間違いない。それを、復興を遂げるにつれてあからさまに排斥したのは身勝手と言わざるを得ない。

 重ねて言うが、森岡は暴力団自体を是としているわけではない。過去の経緯がどうであろうと、現代社会に生きる彼もまた法令順守は当然の義務だからである。

 だが一個の人間としては、四万人もの極道の頂点に立つ男に興味が湧かずにはおれないのである。言わば種類は違えど、神村正遠や久田帝玄に通ずる人間力に惹かれたと言っても良い。

 日本裏社会の首領との密会に、三人を同道させるわけにはいかなかった。坂根と南目に関しては、二人を裏社会に巻き込みたくないという想いの発露であり、蒲生に関しては、そもそも神王組の本丸相手に護衛など無意味だという考えからである。


 

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