(4)
日付が変わった頃、森岡らはホテルの部屋に戻った。
東京での定宿は、帝都ホテルのエグゼクティブスイートである。一泊三十万円に加え、坂根と南目、蒲生の部屋代を加えると、正規の代金は四十万円ほどになるが、彼は常連客として二十五%割引の特典を受けていた。
通常、月に一、二度の滞在ぐらいでは常連客とは見なされないが、森岡の場合はルームサービスやホテル内の飲食を加えると、一度の滞在で百万を超えることもしばしばあり、ダイナースのプラチナカードで精算しているという信用保証もあったため、特例扱いとなっていた。
深夜の一時頃になって、インターホンが鳴り響いた。
普段であれば、坂根、南目、蒲生のうち誰かが応対するのだが、三人はすでに自分たちの部屋に戻っていたため、森岡自身が出た。
モニター画面には美佐子の姿が映っていた。怪訝に思った森岡だったが、ともかく彼女を部屋の中に入れた。
「すんなりと中に入れて下さるとは思ってもいなかったですわ」
美佐子は言葉とは裏腹に、自信有り気な表情を浮かべている。
「ホテル内とはいえ、深夜に追い返すわけにはいかないだろう。タクシーを呼んで下まで送るよ」
「やさしいのね」
妖艶な笑みを返した美佐子は、
「それにしても凄い部屋、IT企業ってそんなに儲かるの」
と、森岡の言葉を無視するかのように、部屋中を散策した。
「大したことはない。もっと儲けている奴もいるし、バブル時代はこんなものじゃなかったと思うよ」
森岡の言は正しかった。バブル全盛の頃の東京の場合、高級ホテルであればあるほど、しかも高額な部屋から予約が埋まって行っていた。
ある年の週末、日帰りの予定で東京へ出向いた森岡は、思いの外仕事に手間取り、最終の新幹線に乗り遅れてしまった。急遽、ホテルの部屋を探したが、いわゆるシティホテルはどこも満室だった。そこで森岡は、始発の新幹線まで飲み明かすことにして、真鍋高志にも連絡を取った。むろん、一晩中付き合わせるつもりはなかった。
ところが事情を聞いた真鍋が、そういうことならと真鍋興産が接待客用として年間契約をしていたプリンストンホテル赤坂の部屋を用意してくれたことがあった。
「ところで、こんな時間に何の用かな」
「こんな深夜に部屋を訪れたのよ、目的は一つに決まっているでしょう」
美佐子は思わせぶりな返事をした。
「君みたいな美人が、そっちから飛び込んで来るなんてラッキーというべきだな」
森岡はそう言うと、冷蔵庫からドン・ペリニヨンを取り出した。
「まずは乾杯しようか」
美佐子をソファへ導き、グラスを差し出した。
「何にかしら」
「もちろん、二人の出会いにさ」
森岡は、軽くグラスを当て口に含んだ。
「じゃあ、契約は成立ということで良いわね」
美佐子は一口飲んだ後で言った。
「契約? 何の」
「惚けないで。決まっているじゃない、愛人契約よ」
「残念だけど、それは無理だな」
「だって今、出会いにって……それにその気が無いなら、なぜこんな深夜に部屋の中に入れてくれたの」
「深夜だからさ。そのまま追い返すわけにはいかなかないだろう。それに、俺には大切な人がいる」
「奥さんね」
「いや、女房はいない」
「あら、独身だったの」
美佐子は意外という顔をした。
「一度結婚したけどね」
「離婚したのね。浮気でもしたんでしょう」
「そうじゃない。七年前に死別した」
揶揄するように言った美佐子に森岡は神妙に応じた。
「あら、ごめんなさい」
一転、美佐子は殊勝な顔つきで詫びた。
「俺には、結婚を約束した女性がいる。だから、君とはそういう関係にはなれない。それに、君だって辰巳さんとの関係があるだろう」
「辰巳さんって何のこと? 彼とは何でもないわよ」
美佐子口調には嘘を吐いている気配がない。
「僕の勘違いかい」
「辰巳さんにはしつこく口説かれたのは事実だけど、タイプじゃなかったから断ったわ」
「彼がばつの悪い顔をしたのはそういうことか」
「それと……」
そこで美佐子は口を閉じた。
「それに、何?」
「興味あるの」
「そりゃあ、あるさ。何といっても、大銀行の頭取候補だからね」
「でも、その先はただでは言えないわ」
にやりと勿体ぶった笑みがまた魅惑的だった。
「いくら欲しい」
「一千万でどうかしら」
森岡は無言で立ち上がって寝室へ向かうと、札束を手に戻って来た。
「これで良いかな」
「参ったわ。法外な金を吹っ掛けられて、断らないだけでも驚きなのに……」
美佐子は呆れ顔で言った。
「どんな情報かも聞かずにに大金を払うというの。ネタを聞いてから、返せはないわよ」
「そんなケチくさいことはしないよ。その代わり、君の本当の目的を教えてくれないかな」
美佐子のグラスを口にしようとした手が止まった。
「本当の目的って?」
「僕だって、君がここに来たのは色事でないことぐらいはわかる」
「なあんだ。見破られていたのか。あっさりと部屋の中に入れたのは、他の男と同じで私の身体が目的だと思ったのに」
「正直に言うと、その気が無くもない。外見だけで惹かれそうになった女性は君が初めてだしね」
「あら、それって誉め言葉かしら」
美佐子は挑発するように言った。そのきりっとした目元につい吸い込まれそうになる。
「そう受け取ってもらって結構」
「嘘でも嬉しいわ」
「嘘じゃないけど、それより君の本当の目的は」
森岡は誤魔化しは許さないという眼つきをした。
「貴方でもそんな目をするのね」
美佐子は観念した表情になった。
「ある人から貴方の名を耳にしていたの。それで、興味が湧いたというわけ」
「ある人とは?」
「それは秘密、でもすぐにわかるわ」
そうか、といって森岡は圧力を弱めた。
「しかし君も良い度胸をしているね。もし、僕が無理やり肉体関係を迫ったら、どうするつもりだったんだい」
森岡は興味深げに訊いた。
「私だって、貴方はそんなことをする男じゃないことくらいお見通しよ」
「どうしてわかる」
「お店でのホステスに対する態度を見ればね」
「男を見る目には自信が有るようだね」
「男性経験が豊富っていうことじゃないわよ。素直に人を見る目が有ると受け取ってね」
「わかった。でも、物好きが過ぎるといつか痛い目に遭うから気を付けた方が良い」
はい、と意外にも美佐子は素直に応じた。そして、
「実は、他にも話があったの」
と話題を転じた。
「話? なんだい」
「有馬で私が席に着く前、鴻上という人の話をしていたでしょう」
「え?」
思わず驚きの声が漏れた。
「どうかしたの」
「いや、なんでもない。会話が聞えたのかい」
森岡は取り繕うに言った。
ええ、と顎を引いた美佐子が眉を顰めた。
「実はね、その鴻上さんが銀行から追い出されるように仕向けたのは辰巳さんだったの」
「ほう。出世競争のライバルを罠に嵌めて蹴落としたとでもいうのかな」
そう言いながら森岡は、
――面白い展開になった。
と内心ほくそ笑んだ。
「そうだけど、それが陰険なやり方だったの」
思い出すのもうんざりといった顔つきで言った。
「実は、辰巳さんの指示で鴻上さんを借金漬けに仕向けたのは私だったの」
美佐子は、有馬の前は六本木の「バンカトル」という高級クラブに在籍していた。政財界の社交場である有馬に対し、バンカトルは芸能人やスポーツ選手が屯する店として名を轟かしていた。
そのバンカトルに、先に足を踏み入れたのは辰巳だった。
美佐子に一目惚れをした辰巳はしつこく交際を迫ったが、彼女は適当にあしらっていた。そのうち、辰巳が鴻上を連れてやって来たのだが、鴻上もまた美佐子にぞっこんとなった。当時、独身の辰巳に対して鴻上は妻帯者であったが、以来美佐子を目当てにバンカトルに足繁く通うようになった。
しかし、いかに大銀行の幹部候補生とはいえ、所詮はサラリーマンである。収入の限られている彼が、借金塗れとなるのに時間は掛からなかった。それも、消費者金融からの借り入れに留まれば問題は起こらなかったが、彼は一線を超えてしまった。街金にまで手を出してしまったのである。
街金が取立てに手段を選ぶことはない。ついに、会社まで押し掛けるようになり、事が露見してしまった。銀行に居辛くなった鴻上は退職し、IT会社を起業したというあらましだった。
「なぜそういうことを?」
「鴻上さんが私に言い寄っていることを知った辰巳さんが、適当に繋ぎ止めて欲しいと金をくれたの」
共に帝都大学出身である辰巳と鴻上は、入社以来出世レースのライバルであった。だが法学部卒の鴻上に対して、経済学部卒の辰巳は後塵を拝していた。辰巳は起死回生の策として、鴻上の美佐子への恋慕の情を利用したというのである。
「今になって思えば、売上のためとはいえ馬鹿なことをしたと思っているわ」
美佐子は沈んだ顔で言った。有馬でもそうだが、バンカトルでも彼女は口座持ちだった。売上アップは死活問題ではある。
「夜の世界は狐と狸の化かし合いだ。当然のような顔は感心しないが、必要以上に気に病むこともない」
「客が皆貴方のような人だったら、どんなに楽なことか」
遊び慣れていない男が、いきなり東京の銀座や大阪の北新地などの高級クラブに足を踏み入れてしまうと、そのあまりの華やかさに我を忘れての減り込んでしまうことが往々にしてある。特に子供の頃から勉強一筋で、恋愛や酒、たばこ、麻雀や競馬も知らない真面目な男は罠に陥り易い。
高校時代までの森岡もまた、別の意味で世間知らずだったが、大学に入って神村というその道の粋人に仕えたことで道に迷わずに済んだ。
また、クラブやキャバクラのホステスを性の対象でしか見ない男も多いが、その点でも真摯な態度で接する森岡は稀有な存在だったのかもしれない。
「しかし、なぜそのような話を俺にしたのかな」
鴻上を罠に嵌めたなど、自身にとっては都合の悪い話のはずである。というより、もし森岡が悪人であれば脅迫のネタに使うことだって考えられるのだ。
「久しぶりに辰巳さんと出会い、鴻上さんの名まで聞いたとき、罪悪感が充満したの。その再燃した心の鬱積を貴方に吐き出してしまいたくなったのね」
「初対面なのに?」
「そうだけど、なぜだか貴方なら優しく受け止めてくれそうな気がしたの」
美佐子は憂いの宿った顔で言った。
「それでわだかまりは消えたかい」
「少しだけ心が軽くなったみたい」
「それは良かった」
森岡は優しい笑み浮かべると、
「何しても良い話を聞かせてもらった。約束どおり、この一千万を受け取ってくれ」
札束を美佐子の方へ押しやった。
「お金は冗談よ、悩みを聞いてもらったのにお金は受け取れないわ」
と、美佐子は押し返した。
「しかし、ただというのでは俺の気持ちが済まない」
「じゃあ、明日同伴してくれないかしら」
「そうしたのはやまやまだけど、明日は大阪で大切な仕事があるんだ」
「残念ね」
「近いうちにまた上京するから、そのとき同伴すると約束しよう」
そう言うと、森岡は分厚い茶封筒を差し出した。
「これは受け取ってもらうよ」
「タクシー代にしては多いわね。どういう魂胆かしら」
美佐子は疑いの視線を送った。
「有馬は政財界の溜まり場だから、高度な情報が飛び交うと思う。それを教えて欲しい」
「情報屋をしろと」
美佐子の目が鋭くなった。森岡は、とても素人の目ではないと感じた。
「いや、意識して情報を集めなくても、客との会話を漏らしてくれればそれで良い」
「どういった類の?」
「特にない。君が面白いと思ったことで良いんだ」
「私の感覚で良いのね」
「うん」
「うふ」
一転、美佐子は謎の笑顔を零し、
「面白そうね。このお金は前渡しの報酬っていうことかしら」
「そういうこと」
にやり、と口元を緩めた森岡は、少し前屈みになった。
「ところで、鴻上について、もう少し訊きたいことがある」
「何かしら」
「鴻上の借金はいくらだったの」
「一千万近くだったと思うわ」
「うーん」
森岡が考え込んだ。
「それが何か?」
「一千万の借金に困っていた男が、半年も経たないうちに会社を起業したということは、誰かスポンサーが付いたということになる。心当たりはないかい」
「銀行を辞めた後は、一度も会っていないから確信はないけど、バンカトルには何人かと一緒に来ていたわね」
「名前は憶えている?」
ううん、と美佐子は首を横に振った。
「でも、名刺を調べればわかるかも」
「じゃあ、今度会うまでに調べておいてくれるかな」
「お安い御用だわ」
美佐子は快く請け負った。
「有難う、今晩は実に有意義だった。これはボーナスだ」
森岡は一千万円の束から二百万円を手にして、茶封筒の上に重ねた。
「まあ、ずいぶんと太っ腹ね」
「そうじゃない。情報というのは金では買えないものでね。この話、今後の展開次第では、本当に一千万以上の価値が出るかもしれない」
「へえ。よくわからないけど、遠慮なく頂いておくわ」
美佐子は封筒と札束を手にしながら、
「この先もこれだけの報酬をくれるの」
と、森岡を覗き込むように訊いた。
「そうだな。情報次第だが、毎月最低百万は出しても良いよ」
「愛人契約でもないのに、月に百万も出す人がいるなんで信じられない」
言葉とは裏腹に、美佐子に驚いた様子はもうなかった。
「じゃあ、下まで送って行くよ」
「それは遠慮するわ」
美佐子は強い口調で断った。
「ホテル内とはいえ、用心した方が良い」
森岡は重ねて忠告したが、
「そういう意味じゃなくて、もうそろそろ迎えが来るはずなの」
美佐子は腕時計を確認しながら答えた。
「迎え? やはりそうか」
「やはり?」
「有馬で会ったときから気になっていたのだが、君はいったい何者なんだ」
内緒よ、と言って美佐子はウインクした。
「安心して、貴方の敵じゃないことは確かよ」
「それは信用したいが」
うふふ、と笑った彼女は半信半疑の森岡に向かって、
「そのうちわかるときが来ると思うわ」
と謎めいた言葉を残して部屋を出て行った。
ドアまで見送った森岡は、明らかに堅気ではない風体の男が立っているのを確認した。
――まさか、彼女は暴力団関係者なのか。
森岡の胸に不安が奔った。よくよく考えてみれば、初対面にしては口が軽過ぎる。心情を吐露したときの彼女に嘘は無かったと思うが、反面何かの目的のために近づいてきた可能性もある。
――彼女の真の目的はいったい何だったのだ?
森岡の心には新たな戸惑いが沸き起こっていた。
加えてもう一つ。
――もしや、筧か? 筧が鴻上のスポンサーとなって、形を変えた寺院ネットワークシステムの事業化を画策しているのではないか。
美佐子を送り出した森岡は、須之内高邦に続いて鴻上智之という男の背後に筧の臭いを本能的に嗅ぎ取っていた。
森岡は、榊原の存在を筧に教えてはいなかったが、裏切りを前提としていた彼であれば、目敏く嗅ぎ付けていたとしてもおかしくはない。
森岡の憂いは、仮にあれだけ恫喝しておいた筧が、それを承知のうえで榊原に触手を伸ばしてきたとすれば、いかにして身の安全を担保する勢力を持ち得たか、ということであった。
「R」というのは、資金力、政治力の他に神栄会にも刃向かえるだけの暴力をも有しているというのだろうか。
そして、探偵の伊能が総本山で筧の姿を看とめたことと、Rはどのように繋がるのか。森岡は、ますます頭を悩ますことになりそうな予感を本能的に働かせていたのである。
「筧がまた悪さをしてんのか」
南目が憤りを露わにした。
「まだ確証はないが、嫌な予感がする」
「普通であれば、あれだけ脅されたのですから、二度と敵対しようとは思えわないでしょうが、Rというのが気になりますね」
坂根は警戒の滲んだ口調で言った。
森岡は無言で肯き、
「ほんま、女というのは恐ろしいな生き物やな」
と嘆息した。
「なんや、急に」
「輝よ、実はな、茜は筧の裏切りを予見しとったんや」
「ほんまでっか」
「えっ」
南目と坂根が同時に振り返った。
「こら、輝、前を見んか」
森岡は南目に注意すると、
「筧がロンドで飲んでいる様子を見て忠告してくれたんだが、俺が無視してしまったんや」
「裏切りの予見だなんて大袈裟ですよ。私はただ胡散臭いと思っただけです」
「それでも大したもんやで、なあ、輝」
はい、と南目は同調すると、
「ところで、茜さんから見て俺はどうですか」
「どうですかって?」
「胡散臭くないですか」
ほほほ……と茜は笑った。
「胡散臭くはないですが、直情傾向は直した方が良いですね。そうでないと、いつまで経っても雷を落とされることになりますよ」
「綺麗な顔をして、言うことはきついな」
決まりが悪そうに頭を掻いので、車中に笑いの渦が巻いた。




