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六兵衛を出た森岡は、日原を銀座でも最高級のクラブである「有馬」へ招待した。有馬は森岡が真鍋興産グループ・三代目御曹司の真鍋高志と初めて会った夜、彼に招待された店である。以来、上京した折は顔を出し、顔馴染みとなっていた。
有馬は銀座でも指折りの老舗の名店である。
開店は昭和三十年代の後半で、ママの勝代の実母多恵が始めた。辰緒という源氏名で赤坂の売れっ娘芸者だった多恵は、当時首相だった曽根隼人に見請けされて愛人となり、有馬をオープンさせたのである。
時の権力者の肝煎りである。有馬はたちまち政界、財界の社交場となり、活況を呈するようになった。勝代は認知こそされていないが、紛れもなく曽根の実娘であり、大物政治家の血を受け継ぐだけあって肝の据わった豪気な性格だった。
所用のため、食事だけで退席した平木に代わり、森岡と同年代の男性が顔を出した。日原が紹介したいと言った人物だと思われた。
交換した名刺には「富国銀行参事・辰巳拓也」とあった。銀行の社員が役職名ではなく、階級のみを記載していることに違和感を抱いたが、日原の説明で謎が解けた。
「辰巳君は現在、労組の委員長をしているのだよ」
辰巳は、森岡より一歳年上の三十七歳。
中背のがっしりとした体躯で精悍な顔つきだが、森岡には目に険があるように見受けられた。それにしても、この若さで労働組合の委員長を務めるとは驚きであったが、森岡をいっそう驚嘆させたのは日原が付け加えた言葉だった。
「森岡君、労組の委員長と聞くと、出世ラインから外れているように思うかもしれないが、富国銀行の場合は全く逆でね。役員候補生には必ず労組の幹部を務めさせるのが慣習なのだ。しかも、三十七歳で委員長というのは、いわばトップまで視野が広がっているということだ」
「それは素晴らしい」
森岡は思わず辰巳を見て唸った。
「とんでもありません。日原専務の買い被りですよ」
辰巳は謙遜したが、森岡は彼が帝都大学経済部卒と聞いて、営業畑の日原が二十歳も若い辰巳と交誼を結んでいる理由がわかった気がした。
日原は経済人の親睦団体である東都ライオンズクラブに入会していたが、同じく会員である富国銀行の役員から辰巳を紹介されたのだという。東京ライオンズクラブは、経団連や経済同友会、あるいは商工会議所とは異なり、あくまでも私的な親睦団体である。
しかし、そこは日本の中心東京である。錚々たる政財界人が名を連ねていた。その中で辰巳が最年少の会員だったことからしても、富国銀行の彼に対する期待の高さが窺えた。
「ところでウイニットさんは上場を計画されているそうですね」
「ご存知でしたか」
「富国も株の引受銀行になっていますからね」
「大銀行の富国さんにとって、ウイニット(うち)のような小さな会社はゴミみたいなものでしょう。それなのに労組の委員長をしている貴方にまで情報が入るのですか」
「正直に申し上げて、通常であれば入りません。ですが、前もって日原さんから貴方のお名前を伺っていましたので調べさせてもらったのです。IT企業として将来有望な会社だと承知しています」
「有難うございます」
辰巳の真摯な物言いに、森岡は素直に頭を下げた。
「ITと言えば、君のライバルだった……えーっと、何と言ったかな、彼は……」 もどかしそう記憶を辿る日原に向かい、
「鴻上のことですか」
辰巳が渋り口調で言った。
――IT……鴻上だと?
森岡は思わず声を出しそうになった。真鍋高志からの元銀行マンという情報と重ね合わせれば、榊原を訪ねた鴻上智之という男と同一人物の可能性が高い。
「そうそう、その鴻上君もIT企業を設立したそうじゃないか」
「ええ」
「同僚の方がIT企業を?」
森岡は興味有り気に訊いた。といっても、同業者としてのそれを装ってである。
「私と同期入社でした」
「どのような分野ですか」
「そこまでは……」
知らない、と辰巳は首を左右に振った。
「では、調べることはできますか」
「それはちょっと……」
「何かあるのかね。森岡君」
困惑顔の辰巳に日原が助け舟を出した。
「そういうわけではないのですが、ITと聞くと気になってしまいまして」
森岡は差し障りが無いように弁明した。
「ITといってもまだ設立したばかり、上場間近の君の会社とは比較にならんだろう。それに辰巳君と鴻上君は頭取候補のライバルだったのだ。鴻上君の退社で彼に軍配が挙がったのだから、二人は疎遠だろうよ。なあ、辰巳君」
「はあ」
辰巳は日原の言葉を受け流した。森岡の目には、何やら曰くがありそうに映っていた。
そのとき、ママの勝代がホステスを連れて席にやって来てしまい話が途切れてしまった。
「美佐子ちゃんです。宜しくお願いします」
勝代から紹介された美佐子は、森岡と日原へ一瞬目を配っただけで、辰巳に目を留め、
「まあ、奇遇ですこと」
と驚いたというより皮肉の籠った声を上げた。
年は二十五歳前後か、日本人離れした彫りの深い端正な顔立ちと透けるような白い肌。百七十センチほどの長身でスタイル抜群の美女だった。森岡は、その後の雑談で日本人の父とロシア人の母を持つハーフと聞いて納得した。
「辰巳君は彼女を知っているのかい」
日原が興味有り気に訊いた。
「知り合いというほどではありませんが」
「前の店によくお見えになっていたのです」
口を濁らした辰巳に比べ、美佐子は頓着がなかった。
「まさか、このお店でお会いできるなんて思いも寄らなかったですわ」
「僕も君が店を変わったとは聞いていたが、まさか有馬とはね。普通なら、再会することもなかっただろう」
どこか落ち着かない様子の辰巳に、
――二人の間には何かあるな。
森岡は二人の間に男女の関係を直感した。辰巳は新婚らしいが、エリートサラリーマンと、クラブのホステスの不倫など日常茶飯事である。まして、不倫など全く興味のない森岡はすぐに放念した。
「こら。美佐ちゃん、ご挨拶する順番が違うでしょう」
二人の会話を聞いていたママの勝代が叱責した。表面上は笑顔を繕っていたが、
「ごめんなさい」
と過ちに気づいた美佐子の顔色は変わっていた。勝代は、礼儀には殊の外厳しいようである。
「申し訳ありません、森岡さん。あらためまして、新しく入った美佐子ちゃんです」
勝代が森岡に謝ったのは、有馬の常連客はあくまでも森岡であり、日原と辰巳は初見だったからである。
ご他聞に洩れず、有馬も会員制を謳っているが、多くのクラブのように暴力団関係者を入店させないためというよりは、京都の御茶屋のそれに意味合いが近く、たとえ資産家であれ、大会社の役員クラスであれ、会員の紹介がなければ入店させなかった。年長の日原がいても、あくまでも有馬の主賓は森岡なのである。
森岡は真鍋高志の紹介で会員となったが、真鍋自身は父清志が旧曽根派所属の国会議員の後援会長を務めており、その縁から常連となっていた。
「大変失礼しました。美佐子です。宜しくお願いします」
「森岡です。私は大阪の人間なので、月に一、二度ぐらいですですが、宜しく」
そう言って手渡した名刺を見て、一瞬美佐子の表情に緊張が奔った気がしたが、むろん森岡に理由などわかるはずもなかった。
その後も美佐子は、まるで辰巳が存在しないかのように森岡をまじまじと見つめ、席を移っても、ときどき遠くから視線を送って来た。それは色恋といった熱視線ではなく、どちらかといえば指名手配書の人相と重ね合わせているかのようであった。
――もしかして、彼女は俺のことを知っているのか。
有馬での二時間ばかり、森岡はそのことが気になり、酒の味も何もあったものではなかった。




