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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)

 それは鴻上智之が榊原の許を訪れた直後であった。

 幸苑に於いて榊原、福地との会食を終えた森岡は、ある存念を抱いて東京へと飛んだ。大手総合商社三友物産の専務で、神村の幼馴染でもある日原淳史あつしに面会を求めたのである。

 森岡は、持ち株会社構想を抱いたときから、味一番の社長として彼に白羽の矢を立てていた。

 三友物産の本社ビルは、日本経済の中心地ともいうべき、千代田区丸の内にあった。受付で姓名、用件を述べると、受付嬢が直々に応接室まで案内した。坂根と南目、蒲生を喫茶コーナーに待機させ、森岡は一人で面会に臨んだ。

 案内された部屋は、巨大な楕円卓に高級背凭れ椅子が三十二脚もあった。応接室というよりは会議室のようである。

 十分ほど待ったであろうか、扉が開いてにこやかな顔をした日原が入って来た。

「よう、森岡君。久しぶりだな」

 森岡は素早く立ち上がると、スーツの前ボタンを閉め、

「御無沙汰しております。お元気でしたか」

 と軽く頭を下げた。

「元気だけが取り柄のようなものでな。相変わらず、毎週球を転がしておる」

  日原はゴルフのスイングをして見せた。

「それは何よりです。八十は切れましたか」

「それだ。スコアだけは上手くいかんでな」

 苦笑いをした日原だったが、すぐさま折り畳んだ。

「お上人は元気でおられるかな」

 日原淳史は五十七歳。中肉中背で、切れ者というよりその篤実さが滲み出ているような面立ちをしている。神村と同じ鳥取県米子市の生まれで、神村より一歳年上だった。日原家は、神村一家が一時寄宿していた大経寺の檀家役員をしており、神村と日原は幼馴染だった。

 京都の京洛大学から三友物産に就職した日原は、順調に出世を重ね、大阪支社長を経て、二年前本社に戻り専務の要職に就いた。大阪支社長時代に神村から紹介されたのだが、その後二人は神村のいないところでも飲食を共にするほど懇意になった。

 日原が、出雲大社の流れを汲む由緒正しき浜浦神社の大祭を観光するため、幾度も浜浦を訪れていたことがお互いの距離を縮めたのである。

「お元気はお元気ですが、例の件が揉めておりますので、心労はいかばかりかと案じております」

 森岡は気遣うように言った。

「うむ。私もこれほど厄介なことになるとは思ってもいなかったが、今日の用件とはそのことかな」

「いえ。今回は私事で御相談がありまして、時間を取って頂きました」

「君自身の事で私に相談事とはまた珍しい。何かな」

「失礼ながら、転職される気はございませんか」

「転職? 私が、か」

 突然のことに、日原は目を見開いた。

 はい、と肯いた森岡は、福地正勝の身に降り掛かった一連の騒動を詳細に話し、日原に味一番株式会社の社長に就いてもらえないかと持ち掛けた。人柄も承知しており、大商社である三友物産の専務であれば、このうえない適任者であった。

「これはしたり……」

 日原は予想だにしなかった転職話にしばらく沈思したが、やがておもむろに口を開き、

「何時の話かな」

 と確認した。

「福地社長の年齢を考慮致しますと、遅くとも五年後ぐらいにはお願いしたいのですが」

「五年後か」

 日原は呟くように言うと、再び目を瞑った。

 大都会の一角とは思えないほど、深閑とした時間が流れていた。正面のビルの窓に夕日が反射して、木漏れ日のような光を散りばめていた。

「承知した。その話、前向きに考えよう」

 日原がそう言ったのは、森岡が熟れた果実のような洛陽に見惚れていたときだった。

「君も知ってのとおり、どうせ三友物産ここではトップにはなれそうもないし、いずれ子会社に流されるのがお決まりだからな」

 日原は自嘲した。

 たしかに日原は優秀だった。豪快さはないが、誠実で真面目、地道に努力を重ねるタイプだった。四十七歳で取締役に抜擢され、出世コースといわれる大阪支社長も務め上げた。だが、彼は京洛大学出身であり、帝都大学閥が幅を利かせる三友物産において、社長まで上り詰めるのは至難の業といえた。 

「有難うございます。福地の義父も喜ぶと思います」

 森岡は安堵の表情で頭を下げた。

「私にも了解を得ねばならない人もいるから、正式な返事は後日ということにしてくれるか」

「承知しました」

「しかし、君はとんでもない奴だな。あのお上人が目を掛けられたほどだから、只者ではないとは思っていたが、まさか縁が切れたはずの君に、味一番を任せたいと望まれるとはなあ」

 日原は感心しきりで言った。

「だたただ運が良いだけです」

 森岡は謙遜した。

「俗に、運も実力のうちと言うが、運だけで成し遂げられるものとそうでないものがある。君の場合は運も有るだろうが、それ以上に君の能力だと私は思う」

 日原は何度も肯くと、突如笑みを浮かべ、

「ところで、今夜は期待して良いのだろうな」

 と意味有り気な口調で言った。明らかな饗応の催促である。

 森岡が相当な資産家であることを知っていた日原は、大阪支社長時代にも、しばしば接待の催促をしていた。断っておくが、日原が強欲で集り癖のある人間だというのではない。

 彼は、そうしてわざと借りを作ることによって、此度のように森岡が気楽に相談できる素地を整えていたのである。森岡は榊原や福地、そして日原といった目上の人物に、こういった親心を抱かせる徳も備えていた。

「もちろんです」

「ならば、他に二人を同席させたいのだが、良いかな」

「構いませんが、どなたでしょうか」

「一人は平木さんだ。もう一人はその場で紹介するよ」

 日原は謎めいた面で言った。

 平木直正は警察庁内閣官房審議官であり、探偵の伊能剛史を紹介してもらった人物である。森岡に否はなかった。


 森岡が接待の場に選んだのは、銀座の六兵衛だった。かつて別格大本山法国寺の貫主に久田帝玄を担ぎ出すため上京した際、決起集会の場所となった高級寿司店である。

「伊能は役に立っていますかな」

 平木の穏やかな面には、後輩への気遣いが看て取れた。

「それはもう大変な力添えを頂いております」

 森岡は緊張の面で答えた。何といっても、次の次には警察庁長官間違いなし、と呼び声の高い平木である。森岡も普段とは勝手が違った。

「先日、暴漢に遭われたようで、申し訳ないことをしました」

 森岡が頭を下げると、平木の顔が引き締まった。

「そのことは私も承知している。上がって来た情報では、どうやら虎鉄こてつ組が関与しているようだ」

「虎鉄組ですか」

 森岡も顔を顰めた。

 広域指定暴力団・虎鉄組は、神戸神王組、東京稲田連合に次ぐ大組織である。構成員の数では神王組、稲田連合の後塵を拝しているが、合従連衡や抗争の果てに傘下に組み入れるなどして巨大化した二団体とは違い、江戸時代の香具師に始まり、幕末、明治の博徒が源流の虎鉄組はすこぶる結束力が強い。

 そのため一度抗争ともなれば、最後の一人まで戦い抜く気概を持つ組織であり、組全体が神栄会のようなものなのである。したがって、神王組としても決して侮れない相手であった。

「暴対法施行の下、虎鉄組がわざわざ警察を挑発するようなことはしないだろう。とすれば、裏で彼らを動かした者がいるということになるが、残念ながら公安部もそこまでは掴めていないようだ」

 平木は、森岡と同様の見解を示した。

「公安は何も掴んでいないのですか」

 森岡はいかにも意外という顔つきで言った。

「少なくとも私の耳には入っていないが、君は何か知っているのかね」

「伊能さんは何も話しておられないのですね」

「取り調べの刑事には、頑として暴力団風の男たちに殴打されたとの一点張りだったらしい」

「うーん」

 森岡は視線を落として考え込んだ。

「何か知っているのなら、話してくれないか」

平木の声は催促を超えて、強制の色を滲ませていた。

「伊能さんが話しておられないのに、私が話すのも気が引けますが」

 森岡はそう断りを入れ、

「暴漢の口から天真宗の高尾山の名が出たそうです」

 と唯一の手掛かりを告白した。

「高尾山?」

「総本山の護山です」

「はて?」

 平木は訝し気な顔をした。

「高尾山には瑞真寺が有るのです」

 はっ、と平木は何かを閃いたように眼光が鋭くなった。 

「瑞真寺?」

 日原が怪訝な声を上げた。

「瑞真寺とはいかなる寺院かね」

「代々、宗祖栄真大聖人の血脈家が継ぐ寺院ということしかわかりません」

 森岡は伊能を見舞った後、すぐさま榊原に連絡を入れ、瑞真寺の簡単な縁起を聞いていた。

「宗祖の血脈か……なるほど、なるほど」

 平木が思案げに俯くのを他所に、

「天真宗内にどれほどの影響力を持っているのだろうか」

 と、日原が興味深げ訊く。

「そのあたりは全く未知数ですが、先ほどの平木さんのお話では、暴力団を動かすことができる力があるということになりますね」

 森岡がそう答えると、平木が吹っ切れた表情で口を開いた。

「ようやく心の霧が晴れたようだ」

「どういうことでしょうか」

「瑞真寺の縁起を聞いて、伊能の古い因縁の謎が解けたのだよ」

「やはり、そうですか」

 森岡は、平木に同意するかのように言った。

「やはり? 森岡君は伊能が警察を辞めた経緯を知っているのかね」

「ええ。御本人から伺いました」

「本人から、か」

 平木はそう呟き、

「伊能は君に絶大な信頼をおいているようだね。過去の経緯もそうだが、今度の災難も君だけには真実を話していることからもわかる」

 と納得したように言った。

「私には話せないことでしょうか」

 一人蚊帳の外に置かれていた日原が願った。

「実は……」

 日原は、伊能が警察を辞することになった経緯を詳細に話した。  

「では、宅間議員の事情聴取中止を監物氏に依頼をしたのが瑞真寺だということですか」

「おそらくは……」

「しかし、いまさら昔の事を蒸し返すはずもないから、伊能を襲った理由は此度の動きを嫌ったものだと考えるしかあるまい」

「そうなると、私にも責任があります」

 いや、と平木は首を振った。

「仕事上のことだ。君が責任を感ずることはない」

「恐れ入ります」 

 森岡は、ほっと安堵の息を吐いた。

「幸い法国寺の件は決着が付きましたので、これ以上の狼藉はないと思います」

「そうかな」

 平木は咎めるような目で森岡を見た。

「と、おっしゃいますと?」

「一連の騒動の裏には、思ったよりも大きな思惑が働いているかもしれないぞ」 「うっ」

 森岡には返す言葉がなかった。

 正直に言えば、彼もそのように思い始めていたところだった。確かに法国寺の件は落着した。だが、藤井清慶に久田の暗部を教えた人物は特定できずにいたし、「R」の実態も解明出来ていなかった。

「監物氏が相手側に付いているとなると、ある程度警察権力をも押さえ込むことができる。これは少々厄介なことになるかもしれない。森岡君、君も身辺に十分気を付けた方が良い」

 平木はいっそう険しい表情になった。

「ご忠告、肝に銘じておきます」

 森岡は神妙に答えた。

 虎鉄組とて、神栄会の若頭である峰松との関係は掴んでいるだろうから、迂闊に手を出すことはないと思われたが、森岡が警察庁最高幹部の平木の前で、それを口に出すことは厳禁だった。


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