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黒い聖域   作者: 久遠
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               (4)

 その日、梅田の高級料亭・幸苑に於いて、福地正勝による森岡と榊原に対する御礼の席が設けられた。神王組の六代目が内定している蜂矢司の出馬よって、福地正勝は無事に身柄を解き放たれた。 

 寺島から相談を受けた蜂矢は武闘派である神栄会の、二十億円もの臨時上納を訝り、金の出所を問い質した。寺島は正直にそのうちの十億円が森岡の智恵によるものだと打ち明け、併せて森岡の師である神村正遠と、神王組三代目の田原組長並びに彼の舎弟だった金刃正造との因縁も説明した。

 寺島の話を聞き終えた蜂矢は、半金の五億円を森岡に返金するよう命じた。蜂矢にとって金刃は親分の兄貴、つまり自身にとっては「伯父貴」に当たったため、遅まきながら神村の温情に義理を返そうとしたのである。

「此度、御両者には大変お世話になりました」

 正勝は畏まって頭を下げた。

「堅苦しいことはよして下さい」

 榊原が笑顔で言うと、

「お義父さん、もうそのようなことは……」

 と、森岡も恐縮した。

「しかし、苦肉の策とはいえ、勝手な振る舞いでお義父さんに七億円もの損害を与えてしまいました」

 森岡は低姿勢で詫びた。最終的に三姉妹が負担することになった七億円は、福地自身が調達する旨を聞いていたのである。

「何を言う。命さえどうなるかわからない状況だったのだ。それに、もし警察沙汰にでもなれば、娘婿による暴力団を使っての義父の拉致監禁など、マスコミの格好の餌食になるは必定。そうなれば、我が社の信用は失墜し、損害は如何ほどになったか知れやしない。それを未然に防いでくれたのだ。感謝こそすれ、君が詫びることなど何もない」

 と、福地が断じた。

「そう言って頂いて、肩の荷が降りました」

「しかし、須之内という男、とんだ食わせ者でしたな」

「私の見る目が無かったのです。早苗も目が覚めたようで、離婚する腹を決めたようです」

 榊原の慰めの口調に、福地はがっくりと肩を落とし、

「手切れ金として三千万をくれてやりました」

 と忌々しげに言った。

 福地は会社の体面を考え、須之内を告訴しなかった。そのうえ、当面の生活が成り立つようにと手切れ金を渡したのだという。

「ただ、須之内は自分の判断というより、誰かの指示を受けていたようでした」

「と、おっしゃいますと?」

「監禁中に何度か電話で連絡を取っておったが、時折『R』がどうのこうのと言っておった」

「R、ですか」

 森岡の声が上ずった。

「何か心当たりがあるのか」

「あると言えばあるのですが、私が耳にしたRと同一かどうか」 

 わからない、と森岡はその面を不審の色に染めて言った。

「ところで、須之内の要求はなんだったのですか」

「私と味一番研究所の持ち株のうち、全体の半数に当たる五千万株余を譲れということだった」

「評価額からすれば、二百五十億以上じゃないですか。須之内はそれほどの資産家ですか」

「とんでもない。あいつは平凡な一般家庭に育ったはずだ。それが、上手いこと早苗に言い寄ったのだ」

 福地は忌々しげに吐き棄てた。

「では、その金はどこから」

「わからんが、それがRじゃないのかな」

「うーん」

 森岡は首を傾げて唸ると、

「ともかく、今回の一件で娘夫婦らにも森岡君の力量が認識できただろうから、今後は何の遠慮もなく我が社への介入ができるようになった」

 と、福地が言ったものだから、

「介入とは……福地さん、まさか洋介に味一番の経営への参画を求めていらっしゃるのではないでしょうね」

 堪らず榊原が牽制した。

「本音を言えば、洋介君に会社を継いで欲しいのはやまやまですが、先約である榊原さんの手前、無理は承知しております」

 福地は寂しそうに言った。

 二人のやり取りを聞いていた森岡が居住まいを正した。

「お二人にご相談があるのですが」

「なんや、あらたまって」

「どうしたんや」

 榊原と福地が同時に森岡を注視した。

「口幅ったい言い方で恐縮ですが、私にとって神村先生が恩師であれば、年齢は別として榊原さんは実の祖父、福地さんは実の父とも思っている大切な方々です。お二人には、私のような若輩者に目を掛けて頂き、またご厚情を賜り、身に余る光栄と感謝に耐えません。過日は、榊原さんから榊原商店の行く末を託され、福地さんからは味一番の経営の一翼を担うようご依頼を受けてもおります」

「……」

 二人は無言で肯いた。

「そこで私案ですが、私のウイニットと榊原商店、そして味一番の三社の持ち株会社を設立して、三人がその会社の役員に就任するというのはいかがでしょうか」

「うっ」

「なにっ」

 二人は思わず見合った。

「なるほど、そのような方法があったか、それならば、いずれわしとこも福地さんとこも、洋介が経営するということやな」

 はい、と森岡は肯いた。

「ただ、現在味一番が年商八千億円、純利益が三百五十億円、榊原商店が同三百億円と十五億円、ウイニットが同百八十億円と十三億円というように、味一番が年商、利益共に他の二社の数十倍の規模ですので、持ち株比率は調整しなければなりませんが……」

「なんの持ち株比率など問題ではない。前にも言ったとおり、私の持ち株は全部洋介君に譲るつもりでおるから、懸念には及ばん」

 福地が声高に言った。

 福地正勝は、元来が学者であり研究者である。金銭的な欲望など微塵もない。彼の発明した調味料「味一番」関連の特許権は、味一番研究所が所有しており、販売権を味一番株式会社に貸与している。

 したがって、調味料味一番の売上の三パーセントがロイヤリティとして味一番研究所に入る仕組みとなっていた。

 昨年度の調味料味一番関連の売上は約二千億円、つまり約六十億円が味一番研究所の収入となった。福地は、障害者の息子と娘夫婦たちへの相続はそれで十分だと考えていたのである。

 もっとも、味一番研究所が味一番株式会社の五十パーセントの株式を所有しており、その味一番研究所の九十五パーセントを福地正勝が所有しているのだから、実質的には福地が味一番を所有していることに変わりはない。

 だが、福地正勝亡き後の状況を考察すれば、味一番研究所の株主は、彼の家族に分散されることが濃厚であり、二十パーセントという筆頭且つ大株主となる森岡の発言権が強大なものになることは間違いない。

「そうやで。わしとこも、わしら夫婦の持ち分はもちろん、娘たちの持ち株の大半も譲るつもりでおるから全く問題ない」

 と、榊原も賛同した。

 二人がこうまで森岡洋介を信用し、また引き立てるのは、稀代の高僧で人格者の神村正遠の薫陶を受けているからというだけではない。森岡であれば必ずや自分たちの孫を、立派な後継者に育ててくれるという確信もあったからである。

「では、この件は私が法律に則って素案を立て、その都度お二人とご相談するということで、宜しいでしょうか」

 森岡が念を押した。

「おお。それならば、今後は頻繁に洋介君と酒が飲めるということだな。雨降って地固まる、の例えではないが、七億は洋介君が後を継いでくれるための肥やしと考えれば、少しも惜しくないわい」

 福地がにやりと笑うと、

「福地さん。洋介にバトンを渡すまで、お互いもうひと頑張りですな」

 榊原も張り切って見せた。

 森岡は五年後を睨み、自らは持ち株会社の代表に座り、ウイニットは野島に、榊原商店は正直で律儀な住倉に任せ、所帯の大きい味一番は意中の人物に数年間経営を委託する腹積もりを固めていたのである。

 こうして衝撃を齎した須之内高邦による福地正勝監禁事件は、森岡に新たな事業構想を発案させる素因となったのだった。

 ただ、森岡の心には暗雲も生じていた。

 須之内高邦と筧克至の間に「R」という共通の隠語が存在する。

 もし、須之内と筧がRを介在して繋がっていれば、彼らは個々に敵対しているのではなく、Rの意思により共謀しているとも考えられ、霊園の買収地の情報は偶然ではなく、必然的に漏れたものだと考えざるを得なくなる。

 しかも、そのRは巨額の資金を調達できるらしいこと、仮に警察沙汰になったとしても、須之内のみをトカゲの尻尾として切り捨て、事を収束させる政治力も有しているらしいこと、つまり想像以上に巨大な組織、または個人だと推測されるのである。

 いずれにせよ、Rなるものの正体が掴めない以上、敵視される理由もまた見当が付かなかった。このことが森岡の苛立ちをいっそう増幅させていた。


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