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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)

「いったい、どうしたというのです」

 南目が前杉母娘に訊いた。

「あの男、勝部に騙されたのです。南目君」

 恭子は無念さを露にした。

「勝部? いったいどういうことですか」

 京子の口から出た因縁の名に、南目の心は千々に乱れた。

 経王寺での同居生活で、森岡に感化された南目は、一念発起して大学検定試験に合格し、関西私立大学の雄・立志社大学に合格した。

 立志社に入学した南目は、経王寺を出て、大学前のマンションに住み移った。二DK、風呂、トイレ付きで、当時の相場で月額七万円の家賃であった。願った以上の更生を喜んだ父昌義が、毎月二十万円の仕送りをしたのである。

 六畳間が二間あり一人住まいには十分な広さだったが、そこにある居候が転がり込んで来た。

 その男、勝部雅春まさはるはある事情があって親に勘当されたため、金銭的な援助が当てにできず、大学で同級生の南目輝に縋り付いてきたのである。

 南目は、おそらく二、三ヶ月のことだろうと思い、仕方なく居候を認めた。

 ところがである。アルバイトはしていたようだが、勝部の貧困は極まりなく、二人で行動するときは全て南目の持ち出しとなった。

 喫茶店、ゲームセンター、ボーリング、食事等々、とにかく勝部は南目に集った。

 ある日その勝部が、

「南目。裏の喫茶店で、もの凄く可愛い女性を見つけた。お前も一緒に行かないか」

 と仰々しく話し掛けた。

 勝部は、俳優並の男前で女性にもてた。その彼が興奮気味に言うのだから相当な美貌の持ち主なのだろう、と南目は思った。

 だが、コーヒーや食事代を浮かせようとする勝部の魂胆も透けて見えたので、何かと理由を付けて断っていた。しかし、あまりのしつこさにとうとう根負けし、一度だけ付き合うことにした。

 その喫茶店「エトワール」は、大学本通りから一本北の筋の、住宅が建ち並んだどん突きにあった。南目の住んでいるマンションからすぐ裏手に位置するのだが、なにせ住宅街である。とても喫茶店があるとは思えない場所であった。

――こんな辺鄙なところに喫茶店が?

 南目は訝しく思った。

 だが、勝部の話によると、大変に流行っている店らしい。およそ客商売が成り立つはずのない場所で人気を博しているということは、とりもなおさず勝部が興奮気味に言った、

『もの凄く可愛い女性』

 というのも、まんざら大袈裟でもないことの証明であろう。

 南目も少なからず興味が湧いた。

 また彼女は両親にとても大切に育てられた、いわゆる箱入り娘らしく客商売を手伝っているのにも拘らず、擦れたところが全く無いという言葉も頭の片隅に残っていた。

「いらっしゃいませ」

 店の扉を開けると、カウンターの中にいたママと思しき女性と傍らにいた若い女性が声を掛けた。可愛いらしい女性だったが、南目はこの娘ではないと直感した。

 コーヒーを注文したときだった。

 ツカツカ、という足音がしたかと思うと、カウンターの奥の扉が開いて、若い女性が入って来た。転瞬、一閃の涼風が吹き抜けたような、店内照明のルックスが上がったような、辺りが実にさわやかで華やかな雰囲気に包まれた。

あっ、と南目は思わず息を呑んだ。

――これは、男は参るなあ。

 率直な感想だった。

 瞳は潤みを帯びた光を湛え、鼻は高からず低からず形が整い、唇は少し厚めでルージュが映える。額が広く、細やかでさらりとした黒髪が肩の先まで靡いていた。

 大阪梅田辺りを歩いていると、必ず声を掛けられるという。ナンパではない。芸能事務所のスカウトなのだそうである。東京の新宿や渋谷、原宿ならわかるが、大阪でも素人をスカウティングするのだろうか、と抱いた疑念は氷解した。

 勝部が、躍起になって口説こうとしているのも理解できたし、彼女がいっこうに靡かないため、アルバイトの女性と自分を含めて、グループ交際から始め、そのうちに活路を見出そうと画策していることも察せられた。

 それほど、彼女は魅力的な女性だった。

 

 さて、二週間後のことである。

 勝部が真顔で南目に相談を持ち掛けた。

 当時、立志社大学の正門を出てすぐの右手に、閉鎖された食堂があった。歴史は古く、おそらくかつては学生相手の安価な食堂として繁盛していたのだろう。

 ところが、大学側が自前の学生食堂の設備を拡充したため、徐々に需要が減ったのだろうか、とうとう不渡り手形を出し、倒産したらしい。

 五十坪の敷地は二分割され売りに出された。いや正確にいえば、債権者である関西庶民信用組合が、事前に得意先に打診し、買い手はすでに決まっていた。

『その土地が何とかならないか』

 というのが、勝部が持ち掛けた相談だった。彼の知人がそこに喫茶店を出したいというのである。なるほど、経営者としてみれば、喉から手が出るほど欲しい一等地ではあった。

 しかし勝部の話では、すでに仮契約まで済んでいるとのことで、手の打ちようが無いのは明らかであった。

『仮契約をした人より、多額の預金をすれば何とかなるかもしれんな』

 南目は精一杯の気休めを言った。

 金融会社の特性として、関西庶民信用組合が打診したのは、自社の上得意先であることは間違いなく、そうであれば、その得意先を上回る預金をすれば、可能性があるかもしれないと思ったのである。

 しかし、仮契約した者がどの程度の得意先なのかわからないし、仮契約を引っくり返すには、その何倍の預金をすれば良いのかもわからない。当然、勝部の知人の資産を知るはずも無く、そもそもそのようなことが可能なのかどうかさえもわからないという、ないない尽くしの、全く当てにならない提言であった。

 それから数日が経った。

 南目は年中行事の手伝いで、久々に神村の許を訪れた。法会が済んだ後、外で飲食となったのだが、手伝いの慰労ということで南目も相伴に預かることになった。

 このとき、藪中やぶなかという五十代の男性が同伴していた。神村との会話から銀行員だとわかった南目は、勝部の話を相談してみた。すると、一般的事例として匿名で相談した南目に、実名を明かして欲しいと薮中が要望した。そこで、後日当事者である勝部を紹介した。


「えっ! 藪中専務さんを紹介してくれたのは南目君だったの」

 母親の恭子は、酷く驚いた様子で訊いた。

「ということは、勝部の知人というのは前杉さんだったのですか」

 南目も愕然として言った。

 勝部に藪中を紹介した南目だったが、それ以上の深入りを避けるため、相談中は席を外していた。為に、詳細を把握していなかったのである。

 一方、前杉母娘にとって表通りへの進出は悲願だった。路地裏の辺鄙な場所でさえ、それなりに繁盛しているのだから、表通りに店を構えられれば、と皮算用するのは人の欲として理解できる。

「勝部から相談を受けまして、藪中さんを彼に紹介したのです」

「まさか、そんな。勝部は自分の知り合いだと自慢していたのよ」

 恭子は憤慨した。

 藪中の尽力により、前杉母娘の念願は適った。彼が関西庶民信用組合に直接出向き、支店長と話を付けたのである。というのも、後日わかったことだが、関西庶民信用組合は、藪中が専務の要職にある大手都市銀行・日和銀行の孫会社だったのである。

 南目が、かつて神村の自坊に寄宿していた学生だと知った藪中が、神村との関係を慮って尽力したというのが真相であった。

「ああー、なんと愚かだったのでしょう。そうとも知らず、私は大切な美由紀をあんな男と一緒にさせたなんて……」

「美由紀さんは勝部と結婚したのですか」

 南目は、何とも言えぬ声を出した。

「念願が適って有頂天になり、目が塞がっていたのね。あんなクズ男を過大評価してしまい、つい美由紀との交際を認めてしまったの」

 恭子は歯軋りして悔しがった。

「その勝部に騙されたのは、どういうことですか」

 南目が話を戻した。

 美由紀がやるせない表情で口を開いた。

「結婚した途端、彼が豹変したの」

「豹変?」

「それまで優しかった彼が、結婚した途端、暴力的になったの。会社も勝手に辞めてしまい、定職には就こうとはせず、私たちの収入を当てにし出したの」

 涙声の美由紀に、南目は切なさで胸が塞がった。 

「いえ、ヒモでも大人しいヒモなら良かったのですが、そのうち競馬、競輪、競艇、パチンコといった博打に手を出し、挙句に借金までしてしまったのです」

 恭子が吐き捨てるように言葉を加えた。

「その果てがあの金融屋ですか。それで、勝部は今どうしているのですか」

「わかりません」

「わからない?」

「三年前、借金を残して行方を暗ましたのです」

「なんと、無責任な!」

 南目は怒りを露にした。

「店の土地、建物を当てにして東京に逃げたようです」

「あのやろう、やはりいい加減な男だったか」

 詰るように言った南目が、恭子の言葉尻に気づいた。

「店を当てにして? もしや、あの喫茶店は……」

「うう」

 美由紀は両手で顔を覆った。

「借金の形に取られました」

 恭子が口の端を歪めて言った。

 喫茶店は、病死した夫の生命保険金を元手にしたものだっただけに思い入れもひとしおだったのだろう。

 勝部が姿を暗ました後、彼女らが取り立てに遭い、店の売上から少しずつ返済していた。だが、なにせ法外な利息である。元金一千万円の利息は、三年で一億円を超えてしまった。とうとう立ち行かなくなり、土地と店舗を売却し、その一部を返済に充てたばかりだったのである。しかも、残金精算のため、美由紀を風俗店で働かせようとまでしていた、という経緯だった。

 恭子が警察や弁護士に相談しなかったのは、ひとえに報復を恐れたからで、特に美由紀への災禍を心配しての自重だったと付け加えた。

「なんということを……」

 南目は、母娘を襲った災難に悲壮な声を上げた。

「今日、南目さんにお会いしてなければ、美由紀はとんでもないことになっていました。地獄で仏、とはまさにこのことです」

 恭子は手を合わせ、南目を拝むようにした。

「ママ。救いの神は俺なんかじゃなくて、兄貴、いや社長だよ」

 南目は、ちょうど談判を終え、席に着こうとしていた森岡を見て諭した。

「ああ、そうでした。社長さんは、森岡さんとおっしゃいましたか」

「あらためまして、森岡洋介です」

 森岡は軽く会釈し、

「私が肩代わりするということで話が付きましたので、どうぞご安心下さい」

 と笑みを向けた。

「うう……」

 両手で顔を覆った恭子に対し、美由紀は何やら思い当ったようで、

「森岡洋介さんって、もしかしたら、ウイニットというIT会社を経営する森岡さんですか」

 と驚きの目で訊いた。

「良くご存知ですね」

「何かの雑誌に掲載されていました」

 美由紀が種を明かした。

 確かにこの頃の森岡は、IT企業を経営する時代の寵児としてマスコミから注目され始めていた。

「今、南目さんは社長さんを兄貴と呼んでいらしたようですけど……」

 恭子が探るような目をした。

「ママ。学生の頃、不良だった俺を改心させてくれた恩人がいると言ったことがあったでしょう。それが、この森岡社長なのです」

「じゃあ、現在は森岡さんの下で働いているのね」

「そうです。命を懸けています」

 南目が真顔で言い切った。

「そうだとしても、何の縁もゆかりも無い私たちが、ご好意に甘えて宜しいのでしょうか。返済する当てなどないのですよ」

 恭子は恐る恐る訊ねた。そうはいうものの、森岡以外に頼りとする者はいなかった。

「ご懸念なく。輝は私の義弟も同然の男です。その義弟の想い入れのある知人の難儀を知って、手を差し伸べないわけには参りません」

 森岡は柔和な笑みを浮かべて言った。

「それに返済して頂く方法は考えています」

「はい?」

 恭子は首を傾げた。

「坂根、ウイニット(うち)のビルの一階の店舗はどうなってる」

 不思議顔の恭子を他所に、森岡が訊いた。

「まだ、買い手は付いていないようです。うちが取得すればレストランですから、少し手を入れるだけで使用できると思います」

 森岡の意図を察した坂根が答えた。

「よし、坂根。早急に奥埜清喜さんに連絡を取ってくれ」

 奥埜清喜というのは、元はJR新大阪駅界隈の豪農で、東海道新幹線の開通に伴う土地売却によって一気に金融資産家となった地元の名士奥埜家の御曹司である。祖父徳太郎とは、大阪梅田で彼と茜がチンピラに絡まれていたところに出くわしたことで知り合い、清喜自身とは西中島のスナックで出会い、意気投合していた。

 森岡はコーヒーを一口飲んだ。 

「失礼ですが、今仕事はどうされています」

「仕事どころか、住むところさえ困っています」

 恭子は気恥ずかしそうに俯いた。

「では、ウイニット(うち)で働きませんか。社宅も用意しましょう」

「……」

 前杉母娘は突然の申し出に声もない。

「あのレストランを喫茶店に衣替えするんやな、兄貴」

「そうや、そうすれば借金の取りっぱぐれがないやろ」

 森岡が茶目っ気に言うと、

「兄貴はえぐいからなあ」

 と、南目も笑顔で応じた。

 前杉母娘の目には、その冗談を言い合う様子が、まるで実の兄弟のように映っていた。

 奥埜というのは、元はJR新大阪駅界隈の豪農で、東海道新幹線の開通に伴う土地売却によって一気に金融資産家となった地元の名士である。ウイニットの本社が入っているビルも奥埜家の所有だった。

「前杉さん、ウイニット(うち)のビルの一階に閉店したレストランがあります。うちが権利を買い取って、喫茶店を始めようと思います。そこで、営業を前杉さんにお願いしようと思うのですが、いかがでしょう」

「いかがもなにも、私たちにとって願っても無いお話です」

「売上高に応じた歩合給も考慮します。そして、いつかその気になられたら権利をお譲りしても良いですよ」

「えっ、まさかそのような……まるで夢のようです」

 感極まった恭子は誰憚ることなく嗚咽した。

「喫茶店は福利厚生の一環です。担当は総務課長の輝ですので、よくよく相談して下さい」

 森岡が南目に視線を送ると、 

「二人だったら大丈夫。それにうちの社員がよう使うから繁盛間違いなしや」

 と大袈裟な仕草で太鼓判を押した。

「まあ、南目さんは昔とちっとも変わっていないのね」

 美由紀は眩しそうに南目を見つめた。その瞳の輝きに、森岡は新しい恋の産声を聞いた気がした。



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