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黒い聖域   作者: 久遠
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第三巻 修羅の道 第一章 転落(1)

 一九九八年七月中旬、久田帝玄の別格大本山・法国寺晋山式は滞りなく執り行われ、残るは二ヶ月後の、本山本妙寺の新貫主選出を待つばかりとなった。神村は支持者に対して、根回しを兼ねた挨拶回りを行うなど、周到な準備に余念がなかった。

 そのような折である。

 平穏な日々に風穴を開ける、急転直下の展開が森岡を巻き込んだ。

 その日の早朝、森岡を一人の中年女性が訪ねて来た。社長室に通された女性は切迫した様子でいきなり森岡に泣き付いた。

「洋介さん、父を助けて下さい」

 必死の形相で縋った女性の名は須之内早苗さなえ。福地正勝の次女であり、須之内高邦の妻であった。

「お義姉さん、いったい何があったというのですか」

「須之内が、夫が、父を拉致監禁したようなのです」

 早苗は唇を震わせながら呻いた。

「何ですって!」

 森岡も思わず驚愕の声を上げた。

「証拠は、拉致監禁したという証拠はあるのですか」

 早苗は黙ったまま首を左右に振った。

「ですが、姉によると昨晩から父の所在が不明で、連絡も取れないということですし、高邦とも音信不通なのです」

 福地正勝は長姉夫婦と同居していた。

「……」

 森岡は無言のまま早苗を見つめた。森岡の、二人とも良い大人なのだから、という顔つきに早苗も気づいた。

「父も夫も几帳面な性格で、夜遅くなるときは必ず連絡がありました。それが無断外泊なんて考えられないのです。それに……」

 そこで早苗は口籠った。

「お義姉さんには、何か思い当る節があるのですね」

 森岡は優しい声でその先を催促した。

 はい、と肯いてから早苗は重い口を開いた。 

 彼女の話によれば、須之内高邦は味一番株式会社臨時取締役会で、義父である福地正勝の、代表取締役解任の緊急動議を提案したのだという。須之内は前もって過半数の役員に根回しを済ませており、正勝の解任は必須だと思われていた。

 福地自身も予想済みであった。

 食品業界大手の味一番株式会社は非上場会社である。したがって、創業者である福地正勝が大半の株式を直接及び間接的に所有しており、株主総会で否決すれば復権は可能だが、それでは社内に対立と混迷が深まるばかりである。福地は、一旦は身を引いても、いずれ森岡の力を借りて態勢の建て直しを図る腹積もりでいたらしい。

 ところが、蓋を開けてみて驚いた。須之内の緊急動議に賛同した役員が一人もいなかったというのである。

 当の須之内には何が起こったのかわからなかった。福地は誰一人として役員の懐柔をしていなかったが、この機を捉えて須之内の専務取締役解任動議を逆提案した。

 その結果、動議はすんなりと可決された。

 この決定に逆上した須之内が、暴力団風の男たちを雇って、福地正勝を監禁するという暴挙に出たのではないかというのである。

「暴力団風?」

「最近、須之内の周囲に眼つきの悪い連中がうろついていたのです」

「須之内さんの目的は何ですか」

「会社の実権を父から奪いたいのだろうと思います」

 早苗は、今にも泣き崩れそうになるのを必死で堪えている。

「私が馬鹿でした。夫の口車に乗って父に引退を強要するなんて」

 早苗は後悔を口にした後、

「ただ私は、父の身体を心配し、隠居して余生をのんびりと過ごしてもらいたかっただけなのです。洋介さん、これは本心です」

 と切実な目で訴えた。

「お気持ちは良くわかります。それで、警察には連絡しましたか」

「それはできません」

「なぜですか。最悪の場合、お義父さんの命に関わるかもしれないのですよ」

「……」

「須之内さんを庇っていらっしゃるのですね」

「……はい」

 早苗は力なく肯いた。

 森岡は、この期に及んでも夫を気遣うとは、まさに「女のさが」だなと嘆息した。

「どこか心当たりの場所はありませんか。そうですね、たとえば須之内さんが所有する別荘とか」

 森岡は、もし暴力団の拉致監禁だとすれば、案外灯台下暗しではないかと考えた。その方が手っ取り早いし、事が露見したとき、組関係の建物より抗弁も可能になる。

「北海道と軽井沢に別荘がありますが、違うようです」

「では、暴力団風の男たちについて、他に何か情報はありませんか」

「それらしい風体の男たちと一緒にいるところを、何度か見掛けたくらいです」

 首を左右に振りながら答えた早苗が、何やら思い付いたように森岡を見据えた。

「そういえば、聞き慣れない名前を耳にしたことがあります」

「どのような」

「高邦が、電話で『いっしんかい』とか何とか、口にしていたような気がします」

「いっしんかい……」

 森岡は首を捻った。聞いたことのない名称であった。

「何かの親睦団体かもしれませんし、雲を掴むような話ですね」

 と難しい顔をした森岡に、

「父は、日頃から口を開くと洋介さんの話しばかりをしていました。このようなことになってしまい、頼れるのは洋介さんしかいません」

 早苗は必死の形相で懇願した。

「もう一度、確認します。警察へは届けないのですね」

「これは姉妹も同意しています」

 わかりました、と森岡は肯いた。

「とりあえず、お義姉さんの意に沿って私なりに動いてみますが、結果は保証できませんよ」

「覚悟しています」

「探索調査の途中でお義父さんの命が危ういと判断したら、迷わず警察の力に頼りますが、それで良いですね」

「宜しく、宜しくお願いします……」

 森岡の手を取った早苗は、力尽きたように泣き崩れた。

 このとき、森岡は自身の責任も感じていた。情に絆されてしまい、福地正勝の懇請を受け入れ、味一番の株式取得を受諾してしまった。それが須之内高邦の焦りを生み、非道のきっかけになった、あるいは拍車を掛けたと推察できたからである。

 同時に、暗澹たる気持ちにもなっていた。須之内がまさか義父である正勝の命までは奪わないだろうと思っていたが、暴力団が絡んでいるとなると、一筋縄では行かないことが明白である。


 苦渋の末、森岡は神栄会の若頭・峰松重一を頼ることにした。

 神栄会との関わりを今以上に深めることは、森岡自身も実に危うい行為だと重々承知していた。世間からウイニットは暴力団と一蓮托生の企業だと認定されかねないからだ。

 だがしかし、須之内の背後に暴力団員と思しき男たちが蠢いているとなれば、峰松ほど心強い者はいないというのも事実である。早苗の希望もあって、当面警察を当てにできないとなれば、残る手立ては『毒には毒を以って制す』ことしか他に手立てが思い付かなかった。

 森岡は、この場に蒲生亮太一人を伴っていた。

 いずれ何某かの事業を任せるつもりでいる坂根好之と南目輝は、可能な限り裏社会から遠ざけて置きたいとの思惑がある一方、この先も、護衛役として命を預けることになる蒲生には己の生きている世界を全て晒すつもりだった。

 蒲生にしてみれば、事前に伊能剛史から情報を得ていたとはいえ、経済界から宗教界、果ては暴力団までと、その幅広い人脈に驚愕したが、森岡の人物、器量と相まって新しい世界に生きる覚悟を固めていた。

 帝都ホテル大阪のスイートルームにおいて、森岡は一連の事情を峰松に説明した。

 開口一番、峰松が耳寄りなことを口にした。

「確かに、神王組うちの傘下に『一神会』という組はあるがな」

「本当ですか」

 森岡は目を大きく見開いた。期待はしていたが、まさかこうも早く当たりが付くとは思ってもいなかった。

「おう。それで、森岡はんはその福地社長とやらを監禁をしているのが、その一神会だと睨んでいるのでっか」

「いえ、それは断定できません」

 森岡は首を横に振った。

「義姉も電話の会話中に出た言葉に過ぎないと言っていますから……ただ、義姉は須之内が暴力団風の男と接触しているのを目撃していますし、『いっしんかい』という言葉から、今言われた一神会の可能性は低くないと思います」

 森岡は一呼吸間を置いてから、峰松を覗き込むようにした。

「それとなく探って貰えませんか」

「うーん」

 峰松が困惑の体で考え込んでしまった。

「何か不都合でもありますか」

「たいていの組とは談判できるが、一神会はちと厄介な組でな」

「厄介?」

 森岡は、峰松の煮え切らない態度を初めて見た。

「実はな」

 峰松は腹を括ったように口を開いた。

 五代目が年内中の勇退の意向を発表した神王組では、六代目には現若頭で、神戸竜神りゅうじん組、蜂矢司はちやつかさ組長の襲名が内定していたが、その若頭の座を巡って、大阪神栄会会長の寺島龍司と、京都一神会会長の沖恒雄おきつねおとの間で激しい綱引きが行われていた。

 神栄会は、万人が認める神王組随一の武闘派組織であり、組の悲願である全国制覇の先陣を切って来た本流中の本流、徳川幕府で言えば譜代である。

 一方、一神会は後発組、つまり外様でありながら、経済面で神王組を支えてきた、いわゆる経済ヤクザである。

 一神会は、一昔前のバブル時代には地上げや土地の転売で巨万の利益を得、数年前から始まったITバブルでは、新興市場の上場基準や株主監査が甘いと見るや、IT関連企業を設立、上場させて創業者利得を得るなど、思うがまま巨利を手にしていた。

 そうして得た潤沢な資金は、株式や商品取引相場、貸しビルや金融業などで運用され、さらなる利益を生み出していた。この経済力を背景に、神王組内で発言力を増している新興勢力だった。

 暴力団対策法の施行以来、暴力団のいわゆる「しのぎ(経済活動)」は窮屈になり、経済的に追い込まれて行く組が続出する中、そうした資金量にものを言わす組に光が当たり始めていた。

 また、全国制覇を成し遂げたことで、皮肉にも目立った対立抗争が無くなったため、今や武闘派というだけでは、その存在価値が損なわれつつあった。

 まさに、時代は武闘派から経済ヤクザ組織への転換期にあった。

 ともかく、神王組六代目の若頭の座を巡って対立している一神会に口を挟む行為は、内部抗争の火種になりかねないのである。

「そういう事情がありましたか。それでは、いかに峰松さんといえども、迂闊に手が出せませんね」

 森岡は落胆の色を露わにした。

 だが、反して峰松の両眼が鋭く光った。

「いや。森岡はんの協力次第では、なんとか出来んこともない」

 峰松にとって、親分である寺島龍司が六代目の若頭の座に就くことは、己の栄達へのよすがとなる。六代目若頭の地位は、七代目の筆頭候補ということであり、首尾よく親分の寺島が七代目を襲名すれば、峰松はその若頭の有力候補の一人に浮上することになるのだ。

「私は何を」

 すればよいか、と訊いた。

「金やな」

 峰松は単刀直入に答えた。

「何しろ、神栄会うちは金にはは無頓着やったから、一神会にはとうてい太刀打ち出来ん。そこでや、森岡はんがなんぼか融通してくれはったら、大いに助かる」

 この場合の無頓着というのは、同業の他組織に比べてという意味である。極道者はすべからく金銭感覚は鋭い。したがって、一般人の能天気ということではない。

「しかし、バブル時代に儲けたとなれば、一神会の資金力は相当なものでしょう。数百億、いや数千億じゃないですか」

 たぶんな、と峰松は肯いた。

「せやけど、全額国内にあるわけやない。むしろ、当局の監視の目がうるさかったから、ほとんどは海外に置いているはずや。となると、一度にそないな大金は、国内に持ち込めん。それに、一神会に真っ向から金で張り合うつもりなど、努々思ってはおらん。せやけど、丸腰というのもいかにも具合が悪い」

 森岡は峰松の意図が読めた。

「金額によっては、戦える目途が付くということですか」

「まあ、そういうことやな」

「いくらですか」

 峰松は親指を立てた。

「大きいのを二本と言いたいところやが、神栄会うちもあらゆる手段を講じて金を集めとるから、といっても恥ずかしながら、たった一本しか都合が付かんがな……そこで、何とか一本融通してもらえたら助かるんやがな」

 彼らの世界では人差し指が百万、親指が億を表し、大きい方と言えば、それぞれ一千万と十億を指すことになる。大抵の経済活動はこの二本で事足り、その他は直接口にした。

 森岡は、過去にある事業計画を巡って、極道絡みの男と接触した経験からこれを承知していた。

「十億ですか」

 森岡は腕組みをして目を瞑った。

「いや、十億全部をくれとは言わん。七億は借りということにしてくれんかの」

 手間賃は三億円だと言った。

 森岡は返事をせず、瞑目を継続した。

「森岡はんでも無理でっか」

 様子を窺っていた峰松が焦れたように声を掛けた。

 このとき、森岡が熟考していたのは金額の多寡ではなかった。峰松に頼み事をするとなれば、見返りとして多額の金銭を要求されることは覚悟していた。

 彼も三億円までなら自身が現金を用立て、痕跡が残らないようにするつもりだった。だが、総額十億円ともなれば、おいそれと右から左へ動かせる額ではない。森岡は如何にして証拠を残さずに用立てることができるかを思案していたのである。さらに言えば、七億円も返らないことを前提にしていた。

 森岡は、ゆっくりと目を開けた。

「良いでしょう。十二億、用意しましょう」

「十、二?」

「はい。しかし条件があります」

「うん、うん。何でも聞きまっせ」

 峰松の声に張りが戻った。

「まず、年間三億ずつの四年間に分割します」

「分割のう」

「峰松さんのところで、どこからか十億借りられませんか」

「神王組内で借りられんこともないが、利息が高いけんの」

 と言い掛けて、峰松が気づいた。 

「あっ、二億は利息やな」

「はい」

「よっしゃ。それは何とかしよう」

「次に、峰松さんには言い難いですが、私と神栄会の繋がりが世間の知るところになっては困ります」

「そりゃあ、そうや」

 峰松も納得顔で肯いた。

「噂の類は構いませんが、証拠を残したくはありません」

「もちろんやな」

「そのためには、金の動きには細心の注意を払う必要があります」

「なんか良い智恵はありまっか? こっちは、なんでも森岡はんの言う通りにしまっせ」

「宗教法人を利用しましょう」

 峰松の顔が曇った。

「宗教法人なあ。良い手やが、わしとこは持っておりまへんのや。すぐに買ういうても、昨今は厳しいでっしゃろ」

 宗務に関する収入が基本的に無税の宗教法人は、一昔前までは暴力団の格好の的となっていた。休眠法人も多く、一般の末寺であっても二、三億で売買されていた。そこには暴力団の資金が多く流入していたのは周知の事実である。

 京都の、とある有名な庵は、敷地が二百坪ほどにも拘らず、十五億円という値段で売りに出されていたが、すぐに買い手が付いた。寺院というよりお茶室が有名な庵だったが、京都に本拠を置く暴力団の傘下企業が落札したのである。それだけ、宗教法人は旨みがあったのだが、当局の監視が厳しくなり、迂闊に手を出せなくなっていた。

「それは心配要りません。友人が所有している宗教法人を利用します。毎年三億の寄進をし、そこを経由して神栄会へ廻しましょう」

「宗教法人まで用意してくれはるでっか……おおきに」

 峰松は相好を崩して頭を下げた。

「詳細は友人を交えて詰めるとして、この条件で一神会と話が付けられますか」

「その十億を合わせて二十億を蜂矢組長に上納するよう、寺島の親父に進言するわい」

 峰松は胸を張った。

「六代目に裁定を仰ぐのですね」

「そういうことでんな」

 峰松は肯くと、一転してばつの悪そうな仕草をした。

「それでや。今さら言い難いのやが、正直に言うとの、実は一神会の動向はある程度掴んどるんや」

「義父の監禁をすでにご存知だったのですか」

 森岡は驚きの目で訊いた。

「人物の特定までは出来へんかったが、どこぞの会社のお偉いさんを監禁していることは耳にしとった。せやから、森岡はんの話で繋がったということや」

「では、最初に話されなかったのは、私から金を引き出すための駆け引きですか」

 森岡の語調が強まった。

「いや、すまん。あんたには、もう駆け引きはせんつもりやったが、今回だけは背に腹は代えられんかったんや」

 峰松が面目なさそうに詫びた。

「いえ、峰松さんを責めるつもりはありません。それより義父の無事解放をお願いします」

 よし、と峰松は両手で両膝を打った。

「話が決まれば、腹を括って交渉するわ。なあに、今どき堅気を監禁なんてやらかしおって、沖会長が知ってのことか、それとも須之内とかいう男からの金を目当てに、下の者が独断でやらかしたことかはわからんが、こっちが弱みを握ったことには違いはない。警察沙汰になろうがなるまいが、一神会の失点やな」

 金の算段が付いたからか、峰松は余裕の笑みを見せた。

 神王組は日本最大の暴力団であり、約二千五百名の構成員を擁する神栄会は、神王組の中でも一、二を争う看板組織である。そのナンバー二である若頭ともなると、ただ腕っ節が強いだけではないということなのだろう。

 峰松は六代目神王組の若頭の座を巡って、一神会との鬩ぎ合いになると踏んだ頃より、一神会の内部に内通者を飼っていたのである。一神会は経済ヤクザだったため、血の結束を誓う武闘派より組に対する忠誠心は薄い。そのあたりに付け込んだ峰松の老練な仕掛けだった。


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