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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)

 ついに別格大本山法国寺の新貫主を決定する運命の日が訪れた。

 大河内法悦からは、最後まで良い返事を貰えずにいたが、同時に悪い返事もなかった。どうやら、合議の場で意思表明をするつもりのようである。

 その決戦となる合議は、総本山の宗務院内で行われた。

 ところが、七名の貫主が着座した直後、思わぬ事態が起こる。

 合議の冒頭、宗務総長の永井大幹が、大河内からの傳法寺貫主辞任の届けを受け取り、昨日付けでこれを了承した旨を公表し、それを受けて当の大河内が一礼して退席しまったのだ。

 貫主辞任は、板ばさみになっていた大河内の苦しい胸の内を表していた。

 総務清堂が手を引いたとはいえ、これまで良好な関係にあった藤井清慶をあからさまに裏切っては心が痛む。さりとて、厳然たる力を持つ久田帝玄はもちろんのこと、これから先の長い神村正遠に、結果として刃向かったことになれば、自分亡き後の家門のことが心配でならなかった。

 久田や神村自身は、遺恨を我が子孫に残すような人物ではないと信じているが、周囲の者が仇なすかもしれない、と危惧していた。

 特に久田と稲田連合・石黒組との関係が週刊誌に取り沙汰されたことは、大河内が闇の世界から無言の圧力を意識するという、清慶にとってはなんとも皮肉な副作用を生じさせていたのだった。

 辛い選択を迫られていた大河内だったが、事の発端は何かということに思いが至ったとき、自ずと答えが出た。別格大本山法国寺貫主の座を巡る争いとはいえ、元を辿れば大本山本妙寺の問題が遠因にあることは明らかだった。

 本来、前山際貫主が遺言さえ残していれば、神村が本妙寺の次期貫主になっていたのだ。一つのボタンの掛け違いが、今日のような争いを生じさせた。そして、その雌雄を決するキーパーソンに立たされてしまったことは、何とも悲運なことであったが、彼は久田をそして神村を選択し、清慶に対する詫びの印として、傳法寺貫主の職を辞する決心をしたのだった。

 大河内法悦には、自分が辞任した後の成り行きが見えていた。

 合議の末、どちらかに決まらなければ、採決ということになるが、大河内が辞任したため、藤井清慶支持が大真寺の結城、法真寺の窪園、国真寺の作野、神村正遠支持が興妙寺の立花、龍門寺の大塚、澄福寺の芦名の三対三となる。

 そうなれば、最後の決は永井宗務総長の手に委ねられることが決まっていた。これまでの経緯からして、永井がどのような結論を出すかは明白である。

 これこそ、森岡が弓削と面談したとき、永井宗務総長からから大河内貫主への連絡を所望した真の狙いであった。

 森岡は、大河内に永井の態度を明確に知らせることにより、彼の退路を暗に示唆したのである。

 かくして数日後、久田帝玄に法国寺貫主の辞令が下った。

 久田はさっそく法国寺に入り、四ヶ月後の晋山式に向けて周到な準備に入った。晋山式を終え、久田が正式に法国寺の貫主となれば、それから二ヶ月後には合議が開催され、神村の本妙寺貫主が決定する運びとなる。その後、大河内が辞した傳法寺貫主選出の段取りであった。

 晋山式とは、新任の僧侶が寺院に住職するための儀式のことである。晋とは進むという意味で、昔は寺院の多くが山にあったことからこの言葉が生まれた。

 森岡は、久田を支持してくれた興妙寺の立花、龍門寺の大塚、澄福寺の芦名、そして宗務総長の永井に謝礼をした。

 また、大河内に対する配慮も忘れてはいなかった。彼の退位により、霊園事業の主体は傳法寺から本妙寺に移すことにしたが、観世音寺が無量会に加わることはそのままにした。それが、森岡の大河内に対する謝意であった。

 同時に森岡は、来るべき本妙寺の貫主を決める合議を睨んで、神村の支持者にも心付けをする気配り見せた。大河内が辞任したことにより、情勢は六対四とさらに好転したが、彼が気を抜く事はなかったのである。


 一週間後、森岡はロンドにおいて、神村、谷川兄弟と共に勝利の宴に興じていた。

「それにしても、こんな美形のママがいる店で飲んでいたとは……なぜ黙っていたのだ、東良」

 乾杯の後で、東顕は茜の太腿を摩りながら、下卑た笑みを浮べた。

――まさか、東顕上人も好色なのか……まさに仏道の堕落、ここに極まれり、だな。

 と、森岡は嘆息した。

 正面に座る東良は渋い顔で押し黙っている。

「まあ、谷川さんは御兄弟揃って口がお上手ですこと」

 茜は、さりげなく東顕の手を退かすと、神村に向かって、

「神村先生、法国寺の貫主様の件、御前様に決まったそうですね。あらためましておめでとうございます」

 と、話題を変えた。彼女は神村と東顕の間に座っていた。

「ありがとう。こんなに美味い酒を飲んだのは久ぶりだ」

 神村は満面に笑みを浮かべていた。

「これで、次はいよいよ先生の番ですね」

「ようやくここまで来た。それもこれもここに居る三人のお陰だよ。東顕上人、東良上人、森岡君改めて礼を言うよ。有難う」

 神村が頭を下げた

「お止め下さい、先生」

 森岡が恐縮したのに対し、東良はどこか上の空で、

「しかし、不思議だなあ」

 と首を傾げるばかりだった。

「先ほどからずっと難しい顔をして、東良上人は何がそんなに不思議ですの」

「私がこんなことを言うのもなんだが、未だにようわからんのが、御前様の処分が戒告で済んだことや。聞くところによると、宗務総長の永井上人が、殊の外頑張って下さったらしいのやが、その場には総務さんもおられたのやから、ようそこまで頑張って下さったものだと不思議に思うんや」

 東良が茜の問いに答える。

「確かにそれは言えるね。永井宗務総長は御前様の処分が決まったときも、法国寺の合議の後も、直接私に結果を連絡されてきた。まるで、私の味方であるかのようにね」

 神村も東良に同調した。

「永井上人にも何か思惑があるのではないでしょうか」

 森岡は、そう言って惚けた。

「思惑? そりゃあ思惑といえば、自身の法主のことやろうな。しかし、妙智会のように数が有れば影響力はあるかもしれんが、失礼ながら、いくら神村上人といえども、一大本山の貫主に過ぎんのやから、総務に逆らってまで得られるものなどあるんかな……それが解せんのや」

「先を見越して、先生や御前様に恩を売っておこうという考えなのではないでしょうか」

「それは考えられんこともないが、総務と敵対してしまったら、本末転倒やからなあ」

 それでも尚、東良は納得がいかない様子だった。

「まあ、私たちがここで永井上人の胸の内を詮索したところで、仕方のないことでしょう。それより、本妙寺の件が正式に決まるまでは、気を引き締めてまいりましょう」

 森岡は、自分が永井に働き掛けをしたことを、結果の良し悪しに拘わらず、弓削にもそして当の永井にも公言しないように頼んでいた。

「森岡君の言うとおりだな。とにかく、今日は大いに飲もう」

 神村はいつになく上機嫌だったが、

 森岡は、

「ですが先生、飲み過ぎには注意して下さい」

 と、神村に釘を刺すことを忘れなかった。

 この頃から、森岡は神村の様子に異変を感じ始めていた。神村は、すっかり酒が弱くなり、しばしば醜態を見せるようになっていたのである。書生をしていた頃の神村は、滅法酒が強かった。

 神村が酒に酔ったところなど、一度も見たことがなかった。

 その神村がロンドを出て、帰宅する頃にはすっかり酩酊するようになっていた。酷いときには、幸苑で酒を飲み始めて然程時が経たないうちに、座敷で横になることもあり、あるときなど、そのまま眠ってしまうことさえあった。

 森岡の心配したとおり、この日の神村もほどなく酩酊してしまった。馴染みの個人タクシー呼び、神村と谷川兄弟を見送った後、席に戻って腰を下ろした森岡は、そこはかとない哀愁のようなものを感じていた。

「どうしたの、浮かない顔をして、おめでたい日でしょう」

「さっきの神村先生のお姿が胸に引っ掛かってしょうがないんや」

 森岡は溜息を吐いた。

「だって、お年だもの。仕方がないでしょう」

「年と言ったって、まだ五十七歳やで」 

「きっと、今回のことでずいぶんと心労が重なったからじゃないの」

「確かにな。俺ら外野とは次元の違う苦悩を抱えておられたから、精神的疲弊は波大抵やなかったやろうけどな」

「先生は、昔はずいぶんとお強かったのでしょう」

「強いなんてもんじゃなかったな。俺がビール一本飲むのと、先生が一升瓶を空にされるのが同じペースやった」

「えっ! そんなに」

 茜は腰を浮かすほど驚いた。

「おいおい勘違いするなよ。今の俺が飲むペースやないで。書生している頃は、酒を覚え始めた頃やからな。鳥取へ行ったときに話したけど、俺は親父を反面教師にしていたから、酒に対してかなりの抵抗感があった。せやから、たとえ正月の御屠蘇やお祭りの振る舞い酒であっても、決して口にすることがなかったんやが、書生となってまもなく、先生の勧めもあって、少しずつ嗜むようになっていったんや。その頃の話やで。でも、俺がビールを二本飲む間に、先生は二升飲まれたからな。それも三時間は掛からんかった」

「嘘やろう、兄貴」

「二升を三時間足らずで、ですか」

 南目が訊き返し、坂根も驚いた表情をする中、一人だけ冷静な顔つきの男がいた。数日前、森岡の秘書として雇われた蒲生亮太である。

 蒲生は二十八歳。南目と同体格の偉丈夫で、前職の仕事柄か運転技術にも優れていたため、南目の役割は無くなった。だが、彼が頑として森岡の傍を離れようとしなかったため、坂根を含めた三人体制となっていた。

「本当や、それでも先生は素面かと思うほど、言動に微塵も変化がなかったんやがなあ」

「その頃を知っていらっしゃる森岡さんにしてみれば、あのお姿はたまらないものが あるのでしょうね」

 茜は、しみじみとした声で言った。

「あの頃は、今の俺の年より少し上ぐらいやからな。体力、気力ともに充実しておられた頃やから、それとは比べようもないが、しかしあまりにも急激な酩酊ぶりはショックやな」

「本妙寺の件が片付けば、きっと気苦労も無くなって、お元気になられると思いますわ」

 茜は力付けるように言った。

「そうやな」

 森岡は、今度の一件が神村には余程精神的に堪えているのだろうと思っていた。そして、書生の頃を思い出し、初めて神村に老いを感じていた。彼は、生きていれば父洋一に感じたであろう哀愁を神村に馳せていたのである。


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