(2)
後日思い出したことであるが、彼は幼少の頃、信心深かった亡き祖母に連れられ、何度か真興寺を訪れていたのである。その記憶が導いたのか、あるいは宿世なのか、真興寺に足を踏み入れた景山は、心の落ち着きを感じたものである。
景山は、タクシーではなく自らの足で、本堂を目指した。
早春の御山は、あちらこちらに残雪が見られたが、木々の新芽は命の息吹を鮮烈に放っていた。景山は心身が洗われてゆくのを感じながら、中腹までやって来た。
そのときであった。
どこからともなく、轟々たる水の落下する音に混じり、時折読経が伝わって来た。気になった景山は、本道から外れ、声のする方角に向けて山道を分け入った。
すると、鬱蒼とした森林の向こうに、十メートルほどの滝と小さな滝壺、そして、滝壺の中央に胡坐を掻いた初老と思しき男性が、水に打たれながら、無心に読経する姿が目に飛び込んできた。
僧侶が滝行を行っていたのである。
早春の岩清水は、雪解け水を含み、凍るような冷たさのはずであったが、僧侶はそれから三十分以上も打たれていた。なんという精神力、なんという肉体であろうか。景山は僧侶を見守っているうち、込み上げる思いに、なぜだか目頭が熱く潤んだ。
やがて、読経も終わり、景山がその場を立ち去ろうとしたときだった。
「そこの若い人。お待ちなさい」
とその僧侶が声を掛けてきた。
――えっ?
景山は驚愕した。彼は木の葉に身を隠して様子を伺っていた。しかも、僧侶は目を閉じ、一心不乱に読経していたはずである。
――然るに、なぜ?
と不思議に思うのも無理がなかった。
僧侶は手早く身支度を整えると、手招きをして、
「私に着いて来なさい」
と背を向け、歩き出した。
景山は、場所柄何やら狐につままれたような面持ちで僧侶の後に続いた。景山は道なき道を、僧侶の背を頼りに進んで行くと、やがて大きな寺院の裏手に辿り着いた。
表に廻ると、玄関の庇の下に掛かった古びた檜の扁額に「華の坊」とあった。
そう。この僧侶こそ、二十年前の藤井清堂その人だったのである。
本堂に参拝した後、景山は下山して静岡の温泉宿にでも泊まろうと思っていた。
目的のない傷心旅である。だから清堂の、
「泊まって行きなさい」
との言葉に否はなかった。
その夜、清堂と景山は夜を徹して語りあったという。
翌早朝、一睡もしなかった清堂が、再びあの滝行に入ったのを見て、景山は体力回復のための貴重な時間を割いてくれたことに恐縮し、同時に修行僧の凄まじい執念に深い感動を覚えずにはいられなかった。
清堂は、妙顕修行堂において八度目の荒行を達成し、その仕上げとしての、十日間の滝行中だったのである。年齢からして、清堂にとって最後の荒行であった。その最後の最後に景山が現れた。これを守護霊不動明王のお導きと受け取ったと、後年景山は清堂自身から聞いた。
あの日、滝行中の清堂は、偶然景山を見つけたのではない。八度目の荒行の終盤ともなると、心身はいよいよ清まり、呼吸は大自然のそれと調和して、肉体は同化の極地を迎える。
滝に打たれている間、清堂はまさに大自然の一部だったのである。
そのとき、極限まで研ぎ澄まされた清堂の神経を異波が掠めた。
景山の呼吸である。その僅かな空気の揺れを清堂は感じ取ったのだという。
荒行を重ねた高僧や恐るべし、と言ったところであろう。
清堂は景山の姿を見留めたときから、彼の虚無感を見抜いていた。見抜いて、景山を諭しはしなかった。ただ、酒の相手をしただけである。もっとも荒行の間、飲酒は厳禁であるから、水を飲んでいただけであるが。
ただ清堂とたわいもない話をしているだけで、屈託が消え失せて行くのを感じていた景山は、
――このお方だ!
と心の中で叫んでいた。
東京へ戻った景山は、すぐさま帝都大学に退学届けを提出し、その足で華の坊に舞い戻り、得度して清堂に師事したのである。したがって、景山の両親や中川美那子は、彼が出家した本当の理由を知らない。
以来、景山は得度の遅れを取り戻すかのように精進を重ね、すでに五度の荒行を成満し、大本山・本山の貫主の座に就く資格を得ていた。だが彼は、在野に下ることなく、師清堂のため己が力を傾注してきたのである。
景山は己の能力を信じていた。滅多な者に遅れは取らないという自信があった。それが、自分より若い森岡という男に手玉に取られてしまった。いまさらながら世の中は広いと鼻をへし折られ、畏怖さえ抱いた。ただ、悔しい気持ちが湧かないことが不思議だった。
森岡も部屋に入ったときから、景山の視線を感じていたが、面談中は一度も目を合わせることなく、いよいよ退室の段になって、初めて彼の方を向き、軽く会釈をして立ち去ったのだった。
その会釈が呼び水になったのか、景山は森岡の後を追い、面会場から宗務院へ向かう廊下の途中で、
「森岡さん」
と声を掛け、彼の足を止めた。
その声に反応して、森岡が後ろを振り返ると、景山は足早に近づき、
「ですよね?」
と確認した。
「はい。そうですが」
森岡が答えると、
「初めまして、総務の執事をしております、景山律堂と申します」
景山は丁寧に頭を下げると、森岡を控えの間に誘った。
「大変失礼を致しました。実は、前々より一度森岡さんとお話がしてみたいと思っておりまして、この機会を逃しますと、当分お会いすることも叶わないと思い、無理強いをしてしまいました」
「いえ、気になさらないで下さい。ところで、お話とはなんでしょう」
「率直にお訊ねいたします。森岡さんは、この世界にお入りになるおつもりはないのですか?」
「この世界とは、天真宗のことですか」
「そうです」
「あははは……」
森岡は所構わず大声で笑った。あまりに突拍子もない問い掛けだったのである。だが、景山の真剣な眼差しに、全く変化が見られないことを看取った森岡は、
「これは、大変失礼しました。全く予想外のお訊ねだったものですから」
と丁重に詫び、表情をあらためた。
「それは全くありません。私は宗教人には向いておりませんから」
「そうでしょうか。私にはそうは思えません。貴方と戦っていた私は、姿の見えない貴方が恐ろしくて仕方がなかった。それは、貴方からの目に見えない気力を感じていたからです。そのことだけでも、宗教人に向いていると思いますよ」
「そう言って頂けるのは光栄ですが、景山さんの買い被りだと思います。私は金儲けの方が好きですから」
「お言葉ですが、それは解せませんね。それなら、何故湯水のごとく大金をお使いになるのでしょうか」
「あくまでも先行投資ですよ。神村先生が本妙寺の貫主になられたら、色々なことに利用させて頂いて、十分に元を取るつもりでいます」
「そうですか」
そう言った景山も、それが森岡の本心ではないことがわかっていた。
「ところで、景山さん。私の方も一つお訊ねして宜しいでしょうか」
「どうぞ」
「景山さんは、いつまでも総本山に残られるつもりではないのでしょう? いつか総本山を降りられて、御自分のお寺を持たれ、いずれは大本山や本山の貫主の座を目指されるおつもりではないのですか」
「そうですね。貫主の件は別としても、自坊は持ちたいですね。それも、叶う事なら自らの手で開山したいですね」
宗門所有の末寺ではなく、単立寺院を開基開山したいと言った。
「でしたら、そのときは是非私に御一報下さい。差し出がましいようですが、必要とあらば御助力致します」
「えっ! 貴方が私を?」
景山は素っ頓狂な声を上げた。いかにお互いを認めた間柄とはいえ、先頃まで敵対した相手に違いないのである。
「決して冗談ではないですよ。大変失礼ながら、今回の件で私は貴方の能力を高く評価しています。また、身辺も調べさせて頂きましたが、帝都大学法学部在学中の成績は大変に優秀なものでいらした。その気になれば、大企業に就職することも、高級官僚となってこの国を動かすこともできたでしょう。ところが、そのような利得を捨てて、仏門に入られた。私は本来、一旦敵となった相手は叩き潰すまで容赦はしない性格ですが、どうも貴方に関しては例外のようで、途中から親近感さえ抱くようになりました。自分で言うのも何ですが、これは大変に珍しいことなのです」
森岡は笑みを浮かべて言った。
「いやあ、実は私も貴方に同じような感情を抱いていました」
景山の口元も緩んでいた。
「反対に、この人は、と思う優秀な方にはでき得る限りお力になろうという信念も持っています。特に若い方ならなおさらです。たとえば、景山さんと同年代である弓削さんも、そうしようと決めています。貴方には、何度も危うい場面に追い込まれました。繰り返しますが、私は此度の戦いを通じて、貴方の能力を高く評価しているのです」
「弓削? あの妙智会会長の……」
「そうです」
「では、弓削さんも貴方が? もしかして、その繋がりでいえば、宗務総長の永井上人を動かしたのも、森岡さん、貴方ですか」
「……」
森岡は黙って小さく肯いた。
「参ったなあ。スキャンダルが週刊誌に載った問題で、久田上人が規律委員会に掛けられたとき、私はすでに清慶上人の許を去っていましたけど、これで不戦勝だと思い、天の思し召しに感謝しましたよ。結局は、ぬか喜びとなってしまいましたがね。なるほど、あの永井上人の暗躍も貴方の仕業ですか」
大きく肯いた景山を前にして、森岡の顔色が失せていた。
「ちょっと、待って下さい。すると、御前様のスキャンダルは、そちらのリークではないのですか?」
「違いますよ」
景山は大きく首を振り、
「総務さんは宗門に傷を付けるような手段を採られるお方ではありません。むしろ、清慶上人の規律委員会への告発を、苦々しく思っておられました。その証拠に、規律委員会での懲罰会議のとき、ご自身はなるべく発言を控えられ、皆の決定を素直に受け入れられたのです。もし、総務さんがその気なら、永井宗務総長がどのように頑張られようとも、あのように軽い処分では済まなかったでしょう。むろん、弟弟子である国真寺の作野上人でさえ、切り捨てられることも厭わなかったでしょう」
ときっぱり否定した。話の筋も十分通っていたし、森岡にもこの期に及んで彼が嘘を付くとも思えなかった。
――たしかに弓削上人も、リークは総務清堂の仕業ではない気がすると言っていた。では、いったい景山が去った後、清慶に入れ知恵したのは誰なのだ? そして、その者の目的はいったい何なのだ?
そのとき、森岡の胸にある疑念が浮かんだ。
「付かぬ事をお伺いしますが、景山さんは、吉永幹子、柿沢康弘、筧克至の三人 をご存知ですよね」
「吉永社長は有力な支援者ですので、もちろん存じ上げていますし、その吉永社長から柿沢様のお名前だけは伺っておりますが、筧という方は存じません」
「柿沢はともかく、筧とも面識が無いと?」
「名前をお聞きしたのも初めてです」
景山は訝しげな目で森岡を見た。
彼の言葉を信用すれば、吉永幹子は筧の存在を総務清堂や景山には知らせていないことになる。
森岡にもう一つ疑念が過った。
「では、以前この部屋で策を弄されたことは?」
「策? 何のことでしょう」
「谷川東顕上人の耳に、澄福寺の芦名貫主が清慶上人を支持する腹を決めたというデマを流されませんでしたか」
「そのようなことがあったのですか」
景山は言外に私ではないと否定した。
森岡は暫し考え込んだ。
「貴方以外に、そのようなことをする人物に心当たりはありませんか」
「総務さんのために、他の誰かがやった可能性はなくはないですが……」
そうであれば、自分の耳にも届いているはずだ、という表情をした。清堂の腹心を自負している顔だった。
――俺はとんだ勘違いをしていた。景山が知らないとすると、噂を流したのは誰なのだ。
とそのとき、もう一つの疑念が森岡の脳裡を掠める。
――筧……。こいつは、いったい何をしに総本山へやって来ていたというのだ?
総務清堂との関わりを否定されたことで、筧の行動が不審なものとなった。
森岡は、また一つ二つ新たな鉛玉を飲み込んだような、後味の悪さを覚えずにはいられなかった。




