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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)

 思い立った森岡の行動は素早く、二日後にはもう意外な場所に姿を現していた。

「いやあ、まさか貴方から連絡があるとは夢にも思いませんでした」

「突然のお呼び出しにも、快く応じて下さいまして恐れ入ります」

 森岡は恐縮して頭を下げた。

「なんのなんの、神村上人の懐刀から連絡を頂いて、断る者などいないでしょう」

 笑いながら、その巨漢を揺するようにして近づいて来た男こそ、妙智会会長の弓削広大であった。

 谷川東良と別れた直後、森岡は早くも弓削に対して、仙台市内のホテルでの密談を求めていたのである。森岡は、初めて会ったときの神村に対する言動と、その後の妙智会の指導振りから、彼の才覚を評価していた。弓削ならば何か良い知恵があるかもしれない、と望みを掛けての仙台入りだった。

 一方、弓削の方も森岡の能力を高く評価していたので、自身の将来のためにも懇意になっておいて損はないと思っていたのだった。

「なるほど、谷川東良上人はそんなことをおっしゃっていましたか」

 森岡の話を聞き終えた弓削は、その太くて短い首を傾げた。

「そうじゃないのですか」

「いえ、間違ってはいないと思います。私も、規律委員会はそのように運営されると承知しています。ただ……」

「ただ、なんでしょうか」

「私には、総務さんが情報を流したとは、どうしても思えないのです」

「何故ですか」

「元々、私は清慶上人の法国寺貫主就任に反対なのであって、総務さんの法主就任には異論がありません。もっとも、私如きが異を唱えてもどうにかなるものではありませんがね」

 弓削は苦笑いしたが、すぐに真顔になった。

「そういう私から見ると、総務さんがそのような汚い手段を採られるようには、とても思えないのです」

「そういえば、いつか神村先生も総務さんは法主に相応しい方だとおっしゃっておられました」

「私も同感です」

「そうだとすると、いったい誰が清慶に情報を流したのでしょう」

「それは私にも見当が付きません。それこそ、執事の誰かが総務さんの胸中を推し量り、泥を被る覚悟で独断専行したとも考えられます。ちょうど、神村先生を慕う貴方のようにね」

 ふむ、と森岡は相槌を打った。

「そう考えると納得します」

 脳裡には、景山律堂の名前が浮かんでいた。彼ならやる、という確信もあった。だが森岡は、このような汚い反撃にあっても尚、景山に対して敵対心が沸かないどころか、親近感すら抱く自分が不思議でならなかった。

「しかし、そうだとしても疑問は残ります」

「何が、です?」

「元々久田上人の暗部は、総務清堂上人が宗務総長時代に持ち込まれたのです。清堂上人は、当時総務であられた現法主さんと相談のうえ、不問に伏すことにされたのです。当然、暗部を持ち込んだ本人には、かん口を厳命されたということです。ですから、総本山でも最上層部だけの秘事になっているのです。噂自体はある程度広がりましたが、その内実を知っているのは、今の法主さんと総務さんだけだと承知しています」

「その暗部を持ち込んだ人は誰なのですか」

「それも、極秘扱いで不明なのです」

「では、その人物が情報を漏らしたということはありませんか」

「それは私にもわかり兼ねますが、仮にそうだったとしても、総務である清堂上人の命に逆らうことになるのですから、余程の覚悟が要りますね。たとえ、それが総務さんの利益になるとしてもね」

そう言った後、弓削は独り言のように呟いた。

「もしかすると、私たちはとんだ見当違いをしているのかもしれません」

「見当違いとは……」

 森岡は、その真意を聞こうとしたが、

「いえ、当てが有るわけではないのです」

 と顔の前で手を振った。

「それより話を本題に戻しませんか。この話は埒が明きません」

「……そうですね」

 心にわだかまりも残しながらも森岡は肯いた。

「規律委員会の件ですが、全く付け入る隙がないか? といえば、そうでもありません」

「えっ、付け入る隙があるのですか。それはどのようにすれば……」

 一変して、森岡の表情が色を成した。希望の光を感じ取った森岡の両眼には、弓削の福々しい顔が大黒様のように映り込んでいた。

「規律委員会の前に、御前様に対して査問があるのはご存知ですよね」

「査問? いえ、知りませんが」

「そうですか。東良上人はそのことはおっしゃっていなかったのですねえ」

 弓削は含みのある言い方をした。

「ともかく、御前様から今回の件に関して事実関係を聴取し、併せて御前様の抗弁も許されるのですが、その査問をするのが、宗務総長の永井上人なのです」

「永井上人といえば、規律委員会のメンバーでもありますよね」

「そうです。この永井上人がキーパーソンといっても良いでしょう。というのは、規律委員会は清慶上人が提出した証拠書類と、査問した結果の上申書を元に話し合われるのです。清慶上人が提出した書類の内容にもよりますが、この上申書は大きな意味を持ちます。たとえばですよ。仮に蔵王興産や石黒組との付き合いが、石黒組からの強制であったという上申書が提出されれば、御前様は一種の恐喝を受けていたのですから、無罪放免になるというわけです」

「はい」

 森岡は得心の声を上げた。

「もちろん、恐喝されていたとなれば、警察も動くことになりますから、それは考え難いでしょうけどね。とにかく上申書の内容が大きな影響力を持つことは変わりないのです」

「つまり、査問のときに御前様がどのように抗弁されるか、ですね? 相手が御前様となれば、いかに宗務総長といえども、その抗弁を鵜呑みにせざるを得ない」

「いいえ、そうではありません」

 弓削は太い首を横に振った。

「えっ、違う?」

「御前様のことですから、おそらく御自身の誇りに掛けても、一言も抗弁なさらないでしょう。むしろ肯定されるかもしれません」

 そう言い終わると、弓削はにやりと意味ありげに微笑んだ。

「……そうか、そういうことですか」

  森岡の頬も緩んだ。

「後は、永井宗務総長の胸三寸ということですね」

「そのとおり。永井上人がどこまで御前様のお心を斟酌するかに掛かるということです」

 確かに久田帝玄ほどの人物が、この期に及んで見苦しい抗弁などするはずもなかった。

「永井宗務総長に会えますかね」

「条件次第でしょう」

「一億では足りませんか」

「いち、一億? 会うだけで?」

 弓削の声が裏返った。

「いえ、口添え料として五千万、今回の件がこちらの望みどおりに御前様が軽微な罪で終わり、首尾よく法国寺の貫主になられたときに五千万の、合わせて一億です。もし、お力添え頂いても、残念な結果になったときは五千万のみということでどうでしょうか」

「しかし、永井上人は法国寺の件には、直接の関わりがないでしょう」

 弓削の言うとおり、宗務総長に法国寺貫主選出の任はなかった。大本山の貫主たちが選出した人物を承認するだけである。余程の瑕疵がなければ却下できなかった。

「そうでもないと思いますよ。現に妙智会の署名を受け取っていらっしゃいますし、できましたら大河内貫主に声を掛けて頂ければ有難いのですが」

「声を掛ける? 永井宗務総長から大河内貫主に圧力を掛けろと」

「いえ、何か口実を付けて連絡を入れた際に、ついでのようにして処分の結果を伝えて頂くだけで良いのです」

 弓削はしばらく沈思した。そして、

「なるほど。確かに、それだけで意思は十分に伝わりますね」

 と、森岡の考えが読めたように答えた。

 だが森岡の狙いは、宗門ナンバー三の永井宗務総長が久田側に付いたという事実を知らしめ、大河内貫主に無言の圧力を掛けるだけではなかった。

 もう一つ、別の意図も潜ませていたのだが、弓削の推察がそこまで及ぶことはなかった。

「ただ、首尾良く永井宗務総長を味方に付けても、総務さんが強硬に出られると予断を許さなくなります。何かもう一つ、宗務総長を援護する材料があれば磐石なのですが」

 不安な点を包み隠さず言った弓削に、森岡が余裕の表情を向けた。

「相殺というのはどうでしょうか」

「相殺とは?」

 弓削は訝しげに訊いた。

「こちらも、スキャンダルを暴露するのです。そして同じように規律委員会に掛け、取引材料とする」

「そのような格好の材料がありますか」

 弓削は半信半疑の面で訊いた。

「大本山国真寺の作野貫主について、おもしろいネタを握っています」

 森岡はおもむろに話し出した。

 

 松江で高校時代の恩師である藤波芳隆から耳寄りな情報を得た森岡は、大本山国真寺の当時の執事長と押し問答したという教え子と直接会い、さらに詳細な状況を掴んでいた。

 教え子の名は相良浄光さがらじょうこうと言った。

 島根県西部に位置する浜田という街の天真宗寺院に生まれ、宿世に従い、寺院を継ぐ決心をした相良は、宗門の大学である立国大学に進学した。

 相良は後学のため、暇を見つけては天真宗に限らずあらゆる宗派の寺社仏閣を見学して回っていた。むろん、所属する天真宗の大本山と本山は全て参詣しようと考えており、その一環として、大本山国真寺にも立ち寄ったのである。

 彼はまず、本堂入り口付近を清掃していた若い僧侶に声を掛け、当寺院の歴史と縁起について問うた。しかし、その僧侶は『作業を中断させられた』という思いがあったのか、面倒臭そうな顔つきで、宗派の機関紙である「天真宗・本山総覧」という冊子を読むように薦めた。

 言われるまでもなく、相良はすでに読破していた。

 次いで、相良は国真寺の本尊について質問した。というのも、この天真宗本山総覧にも、国真寺の本堂に何が祀られているか、明記されていなかったからである。

 若い僧侶は、

「栄真大聖人手ずから彫られた釈迦立像です」

 と答えた。

 相良にとって国真寺の本尊が、栄真大聖人が手ずから彫った釈迦立像というのは初耳だった。

「その立像はいつ大聖人が彫られたのですか」

 相良の、この質問には驚くべき答えが返ってきた。

「二回目の京都巡教です」

 相良は腰が抜けるほど驚愕した。栄真大聖人が手ずから彫った釈迦立像は五体あるが、最古の立像でも、

『第三回京都巡教の折』

 というのが通説なのだ。第二回京都巡教から五年後のことである。現に、宗務院公認で、天真宗の教義を研究する団体である「天真宗奥義研究会」が発行している書物でも、最古の物は「寛元二年」と記しているのだ。西暦一二四三年のことである。

――そのような馬鹿なことがあるものか。

 相良は重ねて確認したが、答えは同じであった。

 そこで相良が、

「栄真大聖人が手ずから彫った最古の釈迦立像は第三回京都巡教の折ですよ」

 と言うと、若い僧侶の顔から血の気が引き、それ以降何を聞いても押し黙ったままとなった。

 その二人のやりとりが、ちょうど本堂を出ようとした執事長の目に留まった。只ならぬ雰囲気に、執事長は何事かと訝り、二人の許へやって来た。

「どうされましか」

 執事長は穏便な口調で聞いた。だが、相良が若い僧侶とのやり取りを説明した途端、顔を紅潮させて

『当寺院の御本尊は第二回京都巡教の折、当寺院に立ち寄られた栄真大聖人が彫られた物』

 という主張を変えなかった。

 しかし相良の、

「では、ご本尊を拝観したい」

 という要望には、門外不出を建前にして断固拒否したのである。

 これ以上の押し問答は無益と思った相良は、そこで引き下がったが、詳細にメモを認めていた。相良の寺院巡りは、大学の卒業論文の取材も兼ねていたからである。

 学説上、栄真が彫った最古の釈迦立像は、総本山の瑞真寺に奉納されたことになっている。むろん、確認された釈迦像が五体というだけで、実際には栄真手ずから彫った釈迦像は他にも存在しているかもしれないし、その中には寛元二年より以前のものもあるかもしれない。

 しかし、そうであるなら正々堂々と公に発表し、御本尊を開帳すれば良いのだ。然るに国真寺は、秘宝中の秘宝仏である、と安全面を盾にして開帳を拒否しているのだ。

 ホテルに戻ってもわだかまりが消えない相良は、恩師である藤波に電話を掛け、鬱憤をぶちまけたのだった。

 森岡は、吉永幹子の糾弾記事を書かせた件のルポライターに執筆を依頼し、週刊誌に掲載させる腹積もりだと言った。

 

「なんと、そのような情報をお持ちでしたか」

 弓削は複雑な表情を見せた。森岡の情報収集能力には舌を巻くと同時に、大本山貫主の幼稚ぶりに呆れ果てているのだ。

 確かに、なぜこのような軽率な行動に出るのだろうかと疑問を抱くが、実は同じような事例は、各宗において幾つも見られることである。

 たとえば、宗祖の御真筆による本尊の有無や、宗祖の御真骨勧請の有無等々、宗教団体同士、寺院同士が主張し合っているのが現状なのである。

 国真寺の執事長とて、最初は軽い気持ちで口にしたのであろう。次期貫主の座が内定していたので気分が高揚していたのかもしれない。

 また、参拝客が末寺の信徒団体であれば発言には気を付けたであろうが、個人の参拝客であったため、つい優越感と自己満足に浸ろうと口が滑ったのだとも推察された。

 しかし、当時は執事長、現在は貫主である。事実であれば、魔が差したでは済まされない。 

「この話は使えそうですか」

「国真寺の作野貫主は総務さんの弟弟子ですから、事実であれば情の深い総務さんがお見捨てになることはないと思います。ですが、何か証拠がありますか」

「メモしかありません」

「それでは『言った、言わない』の水掛け論になりませんか。白を切られたら、どうにもなりません」

 弓削は悲観的な意見を述べた。

「そうでしょうか」

 と、森岡は意味有りげな笑みを零す。

「と言いますと」

「この件は、真実がどこにあるか、が問題なのです。この話、私は事実だと確信しています。そうであれば作野貫主がいくら白を切っても、心の動揺までは隠せないでしょう。それが肝心なのです」

「……」

「私は、週刊誌で大々的にキャンペーンを張るつもりです。もし、作野貫主が沈黙を通せば、すなわち事実と認めたことになりますから、彼は事実であってもなくても、名誉毀損で訴えるしかありません」

「なるほど、それで」

「この際、私にとって裁判での勝ち負けは問題ではありません。敗訴すれば金を支払えば済むことです。しかし、裁判が続く限り、作野貫主はやましい心を隠し続けなければなりません。余人はいざ知らず、総務清堂上人に対して、そのようなことが可能でしょうか」

「そうか」

 弓削は両手を打った。

「もし事実であれば、森岡さんは最高裁まで徹底的に争うことが目に見えている。たとえ、久田上人の規律委員会には間に合わなくても、いずれ可愛い弟弟子が汚名を浴び、退任に追い込まれることになる。必ずや総務さんは、そのような事態は避けたいとお考えになる。森岡さんはそう読んでいるのですね」

「そのとおりです。ですから、こちらは不退転の覚悟を見せ、総務清堂上人に事実だと思わせなければなりません」

「そうであれば、役に立つと思います」

 弓削は確信めいた声で言った。

 森岡は相殺と言ったが、厳密にはそうではない。久田帝玄と作野貫主では置かれている立場が全く異なるからだ。作野が厳罰を受けても投票権を失うだけだが、久田は立候補自体が取り消されるのである。

 それでも森岡は、一矢を報いることになると考えていた。

「ところで、弓削さんへのお礼なのですが」

「いえ、それには及びません」

 弓削は右手のひらを森岡に向け、言葉を途中で遮った。

「しかし、そういうわけにはいきませんよ」

「いえ、今は頂戴しないという意味です。私はまだ三十九歳です。そして、貴方もまだ三十六歳。森岡さん、貴方を見ていると、この先もっともっと大きな人間になりそうだ。ならば、今ここでお礼を頂いて、それっきりになってしまうよりは、ここは一旦貴方に貸しを作り、いずれの日にか、十分な利息を付けて頂戴しようかと思っているのです」

 弓削は包み隠さず本音を漏らした。

 野心を抱く彼は、いずれのときか、己の出世が懸かる正念場まで、森岡の助力を温存しておいた方が得策と考えていたのである。

「結構です。この御恩は決して忘れません。この先、私の力が必要なときは何時でもおっしゃって下さい」

「では、そういうことにして、今回の件は前もって、私が永井宗務総長にお伝えし、その後お付の者を外して、二人きりになれる機会を作りましょう」

「宜しくお願いします」

 森岡は丁重に頭を下げた。

「それにしても、妙智会の署名を持ち込んだことで、宗務総長とお近づきになれていたことが、こんなところで役に立つとは……。森岡さんには、天も味方しているようですね」

 と言った弓削が何かを思い立った。

「いや、もしかして全てを見通した上で、私を訪ねて来られましたか」

 弓削が覗き込むように訊いた。

 森岡はとんでもない、という顔の前で手を振り、

「私にそんな眼力などあるはずがないでしょう」

 と真っ向から否定した。

「では、やはり森岡さんは強運の持ち主ということになりますね。私もいつの日か、その運に肖ることを楽しみにしておきます」

 弓削が森岡の運を強調した裏には理由があった。

 このとき、弓削は妙智会の署名の一件を機に、将来の法主の有力候補である永井大幹と親交を深め、極秘に盟約を交わす仲にまでなっていた。

 すなわち、永井の法主就任へ協力をする代わりに、いずれ大本山や本山の貫主への道を拓くべく、適当な人脈を紹介してもらう手はずを整えていたのである。

 頭の切れる弓削広大は、総本山に永井大幹、在野に神村正遠と、それぞれ宗門の将来を担うであろう二人と誼を通ずることに成功していたのだった。

 もちろん、森岡はそのような裏事情を知るはずもなく、弓削もそう認識していた。にもかかわらず、まるで生まれたばかりの目の開かぬ赤子が母の乳房を見分けるように、森岡は頼るべき者を的確に嗅ぎ分けて自分の許にやって来た。

 弓削は、そこに森岡の天運を感じ取ったのである。だがそれは、天運というより本能あるいは森岡自身も気づいていない霊力といった方が正確かもしれなかった。

「ところで、森岡さん。一つお伺いしても宜しいですか」

「何でしょうか」

「不躾ですが、どうしてそこまでなさるのでしょう。もちろん、貴方が大学時代、神村上人の書生だったことは伺っています。しかし、ただそれだけでここまでされるとは、正直不思議なのです。お金のことを持ち出して恐縮ですが、本妙寺の件から法国寺、そして今回と相当な出費のはず。たとえ、貴方が相当な資産家だとしても、私には解せないのです」

「ふっふ、ふ……」

「何かおかしなことを言いましたか」

「いえ、失礼しました。突然、ある人の言葉を思い出したものですから」

「ある人の言葉?」

「ええ、その言葉が答えになるかどうかわかりませんが、私の大切な人にこう言われたことがあります。『貴方は神村先生に母親の影を追っている』と」

「母親ですか? 父親ではなくて」

「そうです、母親です。もっともそれは比喩でして、神村先生自身に母親を求めているということではないのです」

「何か観念的ですね」

「お恥ずかしい話ですが、ある事情があって、私はずっと母を憎んで生きて来ました。ところがその人に言わせると、それは母を求めている裏返しだというのです。私が事業家として成功したいと願っているのも、先生を支援するのも全てそうだと」

「うーん」

 弓削は腑に落ちない様子を見せた。

「実を申しますと、私はいつか母に巡り会ったときに、『貴女がいなくてもこれだけ立派になった』、と見返してやりたいと思い、今日まで頑張って来たのですが、それ自体が母を求めている裏返しだとね」

「なるほど。しかし、お母上を見返すだけなら、事業に成功するだけで十分ではないのでしょうか」

「これもまた、その人の言を借りると、私は単に金持ちになるとか、社会的立場を得るだけでなく、いわゆる徳も積んだ人間として、つまり非の打ち所のない立派な人間として、母の前に立ちたいと願っているのだ、ということらしいのです」

「そうか、お母上と再会されたとき、ただの成金だと否定されて、再び心が傷つくことを恐れる貴方は、神村上人の許で心も磨こうとなさっているということですか。だから『神村上人に母の影を追っている』、という言葉に繋がるのですね」

「どうもそういうことのようです」

「見事に深層心理を突いていますね。どうやらその方は、余程深く貴方を理解していらっしゃるようだ。いや、理解というより愛、ですかね」

 弓削は冷やかすように言ったが、森岡は少しも不快にはならなかった。


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