(3)出逢
幸苑を出ると、すっかり雨は上がり、代わって風が出ていたが、雲を払い退けるほど勢いではのなかった。星は南の空の一角で疎らに輝いているだけで、幾層もの薄黒い雲が森岡の心に覆い被さるように低くたち込めていた。
谷川東良は、ママの山尾茜目当てで、在阪のときは足繁く通っていたが、全く相手にされずにいた。だが彼女には、それでも足を向かせる魅力があるようだった。
二年前、山尾茜は二十六歳という若さで、北新地でも指折りの最高級クラブをオープンさせ巷の耳目を集めた。北新地の高級クラブでは最年少だったため、誰もが後ろに控えているであろう「パトロン」の存在を詮索した。
だが、それらしい人物がいっこうに浮かび上がらず、下心のある男たちは謎めいた素性に益々興味を惹かれ、店は彼女目当ての客で盛況を極めていた。
森岡もロンドの評判は耳にしていたが、彼はわざわざ足を運ぶほど酔狂ではなかった。
ロンドへと向かう階段の前に来たとき、森岡の携帯が鳴った。道すがら、野島に明朝の臨時幹部会議開催の旨を該当者に連絡させていた。その返事だろうと思われた。
森岡は谷川東良に先に入店するよう勧めた。
「いらっしゃいませ。谷川上人、ずいぶんと遅かったですね。待ちくたびれてしまいましたわ」
奥の席に座っていた和服姿の女性が、早足で近づいて来て声を掛けた。
ママの山尾茜である。
「いやあ、すまん、すまん。ちょっと込み入った話になってな、思いの外時間が経ってしまったんや」
東良は片手拝みをしながら弁解した。
「あら、三名様と伺っておりましたが、御一人ですか」
「いや、あとの二人は外で電話中や」
東良がそう言ったとき、入口の扉が開いた。
「あっ」
「あら、まあ」
と、森岡と茜がお互いを見つめ合ったまま言葉を失った。
なんと目の前に、夕方チンピラに絡まれていた女性が立っているではないか。
森岡は思わず息を呑んだ。何たる奇遇もさることながら、あまりの美形に言葉を失ったのである。先刻は薄闇ということもあって、はっきり窺い知ることはできなかったが、こうして煌々たるライトの下で見ると、その麗しさに目が眩むほどだ。
噂に違わず、いやそれ以上だった。
森岡は一見しただけで、彼女の魅力がわかった気がした。単に美形というだけでなく、垢抜けている割には家庭的な雰囲気も纏っている。そして何よりも。夜の世界で生き抜いているとは思えない清楚な佇まいが、男の心を惹き付けるのだろうと思った。
これほどの女性ならば、この若さでロンドのような高級クラブを切り盛りすることも肯けたし、それなりの社会的地位にいる男共が、揃って熱を上げることも納得できた。
「どうしたんや。二人とも」
谷川東良が懐疑的な声で訊いた。
「なんでもありません。あまりに美人なもので」
森岡はそう誤魔化すと、茜に目配せした。
茜は森岡の意図を理解した。
「そりゃあそうやろ、北新地一の美形ママやからな」
東良は自分の彼女が誉められたかのように破願すると、
「ママ、彼がIT企業を経営しとる森岡君で、若いのが部下の坂根君や」
と二人を紹介した。
「え、森岡様?」
茜は再び絶句した。東良の目がまたも疑いの目を向けた。
「なんや、やっぱりママは彼を知っとんのと違うか」
「存じ上げてはいないのですが」
茜は言葉を濁すと、凝っと森岡の目を見つめた。
その射抜くような眼差しに、
――遠い昔にこの眼を見たことがある。
と、森岡は思った。だが、いつ、どこでだったのか思い出せなかった。というより、脳が追憶を拒んだと言った方が正確かもしれない。過去を辿ることは、同時に忌まわしい少年時代の記憶もまた蘇らすことになるからである。
「おいおい、いつまで見つめ合うとるんや」
東良の嫌味口調で我を取り戻した茜は、
「失礼致しました、ママの山尾茜です。今後とも宜しくお願い致します」
と名刺を差し出した。
「やっぱり、知り合いやないのんか。まさか、昔恋人同士やったりしてな」
なおも懐疑的な谷川東良の嫌味を無視した茜は、
「申し訳ありませんが、お名刺を頂戴できないでしょうか」
と請うた。ところが、
「悪いけど、飲み屋に名刺は渡さんことにしとるんや。勘定は、いつも個人で持つことにしとるし、現金で払う主義やしな。せやから、名刺を渡して来店を請う案内状など送られても鬱陶しいだけやし、会社に訪ねて来られるのは以ての外や」
と、森岡は酷く不躾な物言いで断った。
その、ずいぶんと横柄な態度に、東良とその場にいたホステスたち皆が我が目を疑った。
東良は、大学生時代の森岡はそのような不遜な若者ではなかったと記憶していたし、ホステスたちは、茜にこのような無礼な態度をとった客を初めて目にしたからである。
気まずい雰囲気が漂う中で、坂根ただ一人が、このやり方でママを試すのが、森岡の流儀だということを承知していた。
「では、どちらの森岡様でしょうか? 会社のお名前だけでもお教え願えないでしょうか」
さすがに北新地で名を馳せているだけのことはあった。森岡は気分を損ねたはずの茜が、いつその感情を表に出すかと凝視していたが、顔を顰めるどころか、穏やかな笑みを絶やすことなく、いっそう謙って請うたのだ。
彼女の真摯な態度に、森岡もまた身を正すと、内ポケットから名刺を取り出し、言葉もあらためた。
「大変失礼しました。ウイニットの森岡です。こちらこそ宜しく」
「まあ、やはりそうでしたか」
茜は、ほっとした表情でそう言い、
「つい先日、店のお客様から森岡様の噂を耳にしたばかりでしたので、このような奇遇に驚いたものですから、不躾をしてしまいました」
と熱い眼差しの理由を明かし、恭しく頭を下げた。
――なんだ、そういうことか。てっきり彼女も、俺と同じ印象を抱いたのかと勘違いした。
森岡は、肩透かしを食った想いになりながらも、
「俺の噂? どなたですか」
と訊いた。
「菱芝電気の柳下さんです」
「柳下? まさか」
ロンドは、北新地でも最高級のクラブである。いかに菱芝電気といえども、営業であればともかく、システム部長では敷居が高いはず、との思いである。
「取締役に昇進されたそうですよ」
茜が森岡の疑念を察したように言った。
「へえー、取締役になりはったんか」
「来月から東京本社勤務になるので、送別会の流れで来られたのです」
「それは良かった」
と懐かしげに言った森岡の面に、ほどなく陰影が宿った。
茜にはそれが理解できなかった。
「せやけど、どうせ裏切り者とか、ろくな噂やないでしょう」
森岡は大変に優秀な技術者だった。通常、そのような技術者が退職すれば、会社にとっては大きな損失となるため、直属の上司の失点とされることが多い。これは決して大袈裟なことではなく、それほど優秀な技術者はなかなかに育たないのである。
いわゆるシステムエンジニアやプログラマーといった技術者は、一定の時間を掛けて教育すれば誰でも一流になれるという類の職種ではない。また、学歴もさほど重要な要素ではない。
確かにシステムエンジニアは、幅広い知識を身に付けているに越したことはない。だが、プログラマーは知識など無用の長物で、ひとえに「センス」が大きくものをいう。画家や作曲家といった芸術家の感性に通ずると言っても過言ではないほど、異能を必要とする分野なのである。
当然、森岡も再三再四柳下の慰留を受けたが、それでも彼は我を通した。しかも、数人の仲間を引き連れての独立だったため、
――菱芝電気から遺恨を買った。
と、森岡は憂慮していたのである。
「いいえ。部長さんたちを連れていらっしゃったのですが、凄く仕事ができたと、それはもうベタ褒めでした」
「ベタ褒め?」
森岡は耳を疑った。彼には存外なことである。
「それはもう」
茜は大きく肯くと、。
「自分が役員になれたのも、部長時代に、直属の部下だった森岡さんの会社に対する貢献が大きかったからだとおっしゃっていました。そうそう、森岡さんの仕事ぶりは、菱芝では伝説にまでなっているともおっしゃっていましたわ」
「伝説とは、またずいぶんと大袈裟なことを……」
柄にもなく照れた森岡の傍らから、
「しかし、ママ。名前だけで、ようわかったな」
痺れを切らしたように、谷川東良が二人の会話に割り込んできた。
「ええ。お名前が同じで、IT企業を経営されていると伺い、もしかしたらと思ったのですが、何よりも話を伺ったときに描いたイメージとピッタリでしたので、確信しましたわ」
「ほおー、どんなイメージか知りたいものだな」
東良は、冗談とも本気ともつかぬ拗ねた態度を取った。お目当ての茜が初見の森岡に関心を寄せたことが気に入らないのだ。
だが彼女は、
「谷川上人もごらんの通りのイメージです。でも話を伺ってから、なぜだか近い内にお会いできるような予感があったのです。それが当たって嬉しいわ」
東良の揶揄をさり気なくかわし、
「そうだわ、噂の森岡社長さんとお近づきになれた印ということで、今日は私の奢りとさせて頂きます」
と若さに似合わぬ気風の良さを見せつけた。
「おお、ママ。ずいぶんと腹が太いのお。なんか、後が怖い怖い」
体よくあしらわれた東良は、懲りずに精一杯の嫌味を浴びせたが、
「その代わり、今後とも足繁くお運びのほど、宜しくお願いいたします」
彼女は開けっ広げに言うと、お茶目にペロっと舌を出してそれをも一蹴した。
「ははは……」
東良は力のない笑みを浮かべるしかなかった。
まるで役者が違った。茜の小悪魔のように愛らしい仕草は、東良の返す言葉を見事に封じ込めてしまったのである。
――なるほど。大変な美人で、気風が良くて、頭の回転も速い。そのうえ少女のような可愛らしさもある。これじゃ、大抵の男は参るな。
森岡は、あらためて現在の彼女が有る理由の一端を垣間見た気がした。
「ところで、森岡さん。『ウイニット』ってどういう意味ですの」
それは、茜に感心しきりの森岡の不意を突いた。
「えっ? ウイニット? ああ、ウイニットね。英語で『WN IT』つまり、『勝ったあー』とか、『やったー』という意味です」
「まあ、ずいぶんお洒落ですね」
「いえ。本当のことをいえば、あまりお洒落でもないのです」
森岡は頭を掻いた。
「八年前、英国に行ったときに、アスコット競馬場に行く機会がありましてね。それまで、静かにレースを観ていた紳士淑女が、馬がゴールした瞬間、何か喚いている様子だったので、何を言っているのかとガイドに訊いたら、『WIN IT』、つまり『馬券を取った』ということだったのです。それが、頭にこびりついていて、会社作ったときに社名にしたのです。我が社も、やったあーと何度でも叫ぶことができる会社にしたいという願いを込めましてね」
森岡はつい力説していた。
「まあ、そこまで詳しくおっしゃらなくても……森岡さんって、悪ぶっていらしても、意外と素直な方なのですね」
茜は、凝っと森岡の目を見つめた。彼女の潤んだ瞳に、いつもは平静な森岡も、微妙な心のときめきを覚えずにはいられなかった。
しばらくして、トイレの用を済ませた森岡を、茜が扉の前で待っていた。何事かと身構えた森岡に、彼女はお絞りを差し出しながら小声で話し掛けてきた。
「また、お会いできましたね」
「ほんまに。偶然とは恐ろしいものですね」
「再会できただけでも奇跡ですのに、これほど早いとは運命を感じます」
「運命というのは少々大袈裟ですが、何某かの御縁はあるのでしょうね」
森岡は、過去にどこかであっているという想いを念頭に言った。、
「そうそう、あのご老人は」
老人は同伴の客だったはずである。そうであれば、店にいるはずだったが、姿が無かった。
「一足違いでした」
森岡らがロンドにやって来たのは二十一時三十分頃だった。老人は食事をした後、二十時過ぎに同伴し、一時間ほどで帰宅したのだという。
「あの御老人はかなりのお方でしょうね」
「はい。新大阪の……」
と言い掛けた茜を、森岡が手で止めた。
「今は聞かないことにしましょう。いずれまたお会いすることもあるでしょうから」
「そうですわね」
と同意した茜が意外な言葉を口にした。
「そうそう、森岡さん。週末の金曜日、お店に来て頂けませんか」
「金曜日に何かあるのですか」
「今日のお礼をしたいですし、実は今週の木曜日が私の誕生日なので、水木金の三日間はお店で誕生会を開きますの。金曜日は最終日なので、最後に打ち上げもするのですが、それにも参加して貰えませんか」
「誕生会ですか。ただでさえ客が多いのに、ママの誕生会やったら、それこそ大勢の客が来るんでしょう」
「ええ、おそらく」
「正直に言うと、あんまり慌しいのは好きじゃありません。できたら、落ち着いて静かに飲みたい方なので……」
「駄目ですか?」
茜は気落ちした声で言った。
「それより、ママ……」
と言い掛けて、森岡は思い止まった。
「何でしょうか」
少し首を傾けた仕種が愛らしい。少女のような好奇心を輝かせる瞳に吸い込まれそうにもなる。
「いや、何でもない……それに、俺は今日が初めての客ですよ、もっと馴染みの客を呼んだ方が良いのと違いますか」
森岡は、咄嗟に言葉をあらためた。
以前どこかで会っていませんかと訊ねて、使い尽くされた陳腐な口説き文句を吐いた、と誤解されたくなかったのである。
「だって、馴染みのお客様は皆年配者ばかりですもの。森岡さんのように若くてハンサムな男性がいらっしゃると、女の子たちも張り切ると思いますので、是非お願いします」
茜は、両手を合わせて拝む格好をした。彼女の恋人にでも 甘えるような仕草に、
――なるほど、こうやって客の心を掴むのか。
森岡は、見え透いた手練手札に少々嫌気が差したのも事実だったが、このときある思惑が浮んでいたこともあって、
「うーん。約束はできませんが、時間が取れたら足を運ぶということで良いですか」
と曖昧な言葉を残して席に戻った。
二十三時近くになってお開きとなった。
森岡は谷川東良の車を見送ると、今後の段取りを確認するため、坂根を伴い同じ北新地にある馴染みのショットバーに河岸を変えた。
「明日の幹部会議で通達するけどな、お前は今度の件が落着するまで、臨時に俺の直属とする。まあ、畑違いの仕事になるが、これも良い経験となると思うで。おそらくな、色んな人間に会うことになると思うから、顔を覚えてもらえよ。それが将来、お前の人脈になるからな」
この諭すような助言に、
わかりました、と気合の籠もった声で応じた坂根は、
「ところで、社長は今後どのように動かれるおつもりですか。谷川上人が仕切るような感じですが、上人は先生とも久しく会っておられないような話でしたし、あの方に任せておいて大丈夫なのですか」
と訊いた。
その不満げな物言いに、森岡はにやりと微笑んだ。
「さすがにお前は心得ているな。お前の言うとおり、谷川さんだけに任せておくわけにはいかん。別に金を出すから口も出すというのやあらへんけど、俺は俺の人脈を使って情報を集め、対策を立てるつもりや。そうでないと、どっちに転んでも後悔することになるからな」
と本音を明らかにした。
谷川東良の話では、村田から拒否の旨の連絡を受けた神村が、東良の兄、谷川東顕に相談の電話をしたとき、ちょうど東良本人が居合わせており、こういう仕儀になったということであったが、森岡はタイミングが良過ぎると思っていた。
森岡は疑り深い人間で、滅多に人を信用するということがなかった。彼が心を許しているのは、神村他極々一部の者だけであった。もっとも彼にとっての神村は、取替えの利かない絶対的な存在であり、信用などというありきたりな言葉ではとても言い表せぬほど別格ではあった。
「では、谷川上人は信用できないと」
坂根は、実兄の秀樹から森岡の生い立ちを聞かされており、良くも悪くもそれが彼の人生観を決定付けたことを知っていた。
「別に疑っているというのやあらへんで。今回の件では力になってくれはるやろ。ただなあ、谷川さんは俺が書生の頃、何度も会ってそれなりに人柄はわかっているつもりやけど、どうも丸ごと信用する気にはなれんのや。それに、谷川さんは別の意味であまり好きにはなれんしな」
「別の?」
坂根には、森岡の言葉の意味がわからなかった。
「せや。もっとも、それは谷川さんに限ったことではないけどな」
森岡は苦々しい顔付きをした。
彼の心の奥底には、
――宗教人は、神村をもって鏡とすべし。
という信念があった。
宗教人であるからには、世俗の欲を捨て、己の精神を磨き、衆人の魂を導くのが使命だと考えていた。それに照らし合わせると、この時代、多少の飲酒や家庭を持つことぐらいはまだ許せるとしても、金や権力や女色に固執する生臭坊主が多過ぎると嘆いていた。此度の件にしても、根底に欲が絡んでいるのは明白であった。
また、恩師だからというのではなく、客観的に見ても、神村が次の貫主になるのが筋であろう。それが、久保という坊主の出世欲が絡んだため、こういう事態になったのだと、憤慨もしていた。
森岡はその深浅を問わず、欲という意味では谷川東良も例外ではないと思っていた。
「社長が谷川上人を敬遠されるのは、上人が世俗に生きておられるから、とは別の理由があるのですね」
「そういうことや。その、とりあえずは仏道を究める努力を怠っている坊主は嫌いやで」
森岡は、不精進な坊主は嫌いだが、己の分を弁えて生涯を終えるのなら、仕方がないとも思っていた。寺院の子に生まれ、選択の余地がなかった職業坊主も多いからである。
「俺がもっとも嫌いなのは、何の努力もしない者が棚ボタ式に権力に近付いたり、出世したりすることや」
「谷川上人も今回の件をそういうことの足掛かりにしようとしていると」
「俺の勘に狂いがなければな」
森岡は吐き捨てるように言った。
「なあ、坂根。お前は、それなら今回の谷川さんと、山際上人が本妙寺の貫主の座を争ったときに先生が尽力されて、その功績で執事長に抜擢されたことと同じではないかと思うかもしれんが、それは全く違うんやで。確かに、先生の場合も恩賞人事という意味合いがあったことは否定せん。けどな、そんな恩賞などなくても、先生の僧侶としての実績そのものが、すでに十分過ぎるほど大本山の執事長に値するものやったんや。けど、谷川さんは違う。これまで荒行修行をおざなりにして、俗人のように生きて来たから、結果として己の出世など、とうてい考えられへんかったはずや。ところが思わぬ好機が訪れた。今回の先生の躓きを己の出世の機会と捉えているのが見え見えや。でなきゃあ、近頃は先生とも疎遠になっていたのに、タイミング良く現れて、しかもあんなに張りきるわけがないやろ」
坂根はそこまで聞いて、ようやく森岡の心中を理解した。
「社長はそういう意味でも、谷川上人に手柄の独り占めはさせない、ということなのですね」
「そういうこっちゃ。最初はそうでもなかったのやが、話をしているうちに気持ちが変わった」
森岡の勘は半ば当たっていた。彼が推量したほどではないにしろ、谷川東良にも少なからず打算があったのは事実だった。
宗門世界での出世など、きれいさっぱり諦めていた東良だったが、年を重ねて行くうちに、関西寺院会の会長を務める兄東顕に嫌味を言われない程度には、それを望むように変わっていった。だが、五十路を迎えた今日に至っては、その手立てがないことに苦悩し始めていたのである。
大本山や本山の貫主になるためには、百日荒行を五度以上達成すること、という内規があった。五十の坂を越えた東良には、体力的に不可能な修行であり、ここに至って望み得るのは、執事長の座ということになった。執事長は貫主の腹積もり一つだからである。
その矢先に、此度の騒動が持ち上がった。
谷川東良にとって、神村の頓挫はまたとない好機と言えた。彼は、神村が貫主になったあかつきには、見返りとして一時的にでも執事長に就くことを望んでいた。彼は、大本山本妙寺の執事長の歴史にその名を刻むことができれば、家門の最低限の面目は保てると考えていたのである。
「それにしても、あのときの女性がロンドのママさんとは驚きました」
坂根が思い出したように言った。
「確かにな。だが、考えようによってはそれほどでもないかもしれんぞ」
「どういう意味ですか」
「普通に考えれば、もの凄い偶然のように映るが、天運地縁によって導かれているこの世の中であれば、必然だったとも考えられる」
「では、社長はあのママさんと縁があるということですか」
「どの程度の深さかはわからんがな」
森岡は曖昧に答えた。
――やはり、遠い昔にどこかで会ったことがある。
彼はその想いを強くしていたが、心の奥に仕舞い込んだ。
「さあーてと」
森岡は大きな伸びをした。
「坂根、明日から忙しくなるぞ」
こうして戦いの幕は切って落とされたのだが、このときの森岡は、その醜い暗闘がまさか二年もの長きに亘ることなど、想像すらしていなかったに違いない。