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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)

 こうして藤井清慶の力を削ぎ、大河内法悦を説得するに万全の環境を整えた森岡であったが、そこに大きな落とし穴が待ち受けていた。

 何事にも頃合というものがあり、按配を間違えると手痛いしっぺ返しを食らうものである。若さに任せ、一気呵成に奔った森岡の、その辺りのさじ加減に疎いことが裏目に出た。

 その昔、戦場においての上策は、味方の兵を無傷で帰還させ、勝ちを得ることだった。そのため、必ず敵の逃げ道を残しておいたという。

「窮鼠猫を噛む」の例えではないが、実兄清堂の後ろ盾を奪い、吉永幹子の支援の打ち切りを画策して清慶を追い詰めたことは、予想以上に彼の焦りと憤りを生み、常軌を逸した行動を取らせることになってしまった。

「森岡君、これを読んだかね」

 森岡を幸苑に呼び出した谷川東良は、硬い表情で足元に置いていた週刊誌を手に取ると、テーブルの上を彼の眼前に滑らせた。

「週刊現代潮流ですか。いえ、私はこの類の雑誌は読みませんので」

「そうか。ちょっと、表紙をよく見てくれ」

 森岡は目を凝らした。

「表紙ですか? あっ!」

 思わず息を呑んだ。

「こ、これは……」

「そうなんや。御前様と蔵王興産の速水社長との関係が暴露されてしまったんや。速水だけならまだしも、指定暴力団・稲田連合の傘下、石黒組の組長との関係も書かれとる」

「蔵王興産と石黒組……」

 森岡はつい口を滑らしてしまった。

「なんや、森岡君。知っとるんか」

「いえ、両方とも前にちょっと耳にしたものですから」

 森岡は心の乱れを押し隠し、如才なく誤魔化した。

――そうか、真鍋さんはこのスキャンダルを気に掛けていたのか。そして若頭が言っていたのはこういう事か。

 彼は真鍋高志の忠告と、峰松重一の不適な笑みを思い出し、心の中で苦虫を噛み潰した。

 ようやく、お膳立てを整えたのに、何と言う皮肉なことだろうか。

 久田帝玄が抱える唯一の弱点が、しかもただの弱点ではない、彼の息の根を止めかねないほどの痛恨事が、ついに白日の下に晒されてしまったのである。 

 はたしてこの醜聞は、たちまち全国の諸寺院を駆け巡り、宗門内は騒然となっていた。

 森岡に面に沈痛の色が射していた。

「これは清慶の仕業ですか」

「おそらくな。総務さんから情報を受けたのかもしれん」

「それにしても、血迷ったとしか思えませんね。御前様だけでなく、宗門全体を貶めていることがわからんのでしょうかね」

「形振り構わんということやろう。それだけ、切羽詰ったということやな」

 東良も吐き捨てるように言った。

「これは、大きな問題になりますか」

「いや、これ自体はそれほどの問題やない。宗門の中枢部は、今回ほど決定的なものではないにしろ、過去にも一度だけ御前様の黒い交際話を聞き付けたことがあったらしいが、そのときは帝法上人と御前様の親子二代に亘る貢献を考慮し、不問に付したらしい。せやから、宗門内では単なる黒い噂話で収まった」

「それなら、今回も……」

 穏便に済ませるのでは、という森岡の顔色を東良が掌で制した。

「此度も、週刊誌に掲載されスキャンダルになったことは問題やが、御前様が刑事罰を受けるような罪を犯したのならともかく、いかがわしい連中と付き合いがあるという程度では、今さら問題視はせんかったやろ」

 谷川東良は含みのある言い回しをした。

「せんかった、ということは今回は問題になるのですか」

「ああ、すでに大問題になってしもうた。清慶は自分でスキャンダルを週刊誌にリークしたばかりか、それをネタに御前様を宗務院の規律委員会に掛けよった」

「規律委員会? そんなものがあるのですか」

 森岡は初めて耳にした組織に、つい問い返してしまった。

 東良が呆れ顔になった。

「そりゃあ、天真宗かて組織である以上、当然あるわな。坊主といえども、罪を犯す不心得者がおるやろ」

 侮るような口調である。

「それは、そうですね」 

 確かに東良の言うとおりである。間抜けなこと聞いた、と森岡は後悔した。

「その犯罪に応じて、社会とは別に宗門内でも処罰を下すんや。一番重い僧籍剥奪から、一番軽いけん責までのな」

「なるほど。それで、今回の件はどの程度の処分対象になるのですか」

「それやがな、問題は……」

 谷川東良は一旦言葉を切り、ビールを飲んで喉を潤した。森岡がグラスに注いで満たす。

「もちろん、今のところ刑事事件やあらへんから、僧籍剥奪や僧階の降格という重い処罰にはならんし、御前様は宗門の公職には就いておられんから、免職ということもない」

「では」

 森岡が先を促した。

「考えられるのは、一定期間の謹慎やな」

「謹慎? それなら別にどうってことないですよね」

 謹慎と聞いて、森岡はほっとした気の緩みを表に出した。

「なんでやねん! 大問題やろうが。謹慎いうて、ただ家の中に居れということやないんやで。新たな役職には就けんということや。もし謹慎の処分が下れば、最低でも一年は公職には就けんということや。つまり、法国寺の貫主にはなれんということなんやで!」

 谷川東良は鋭い目つきで睨み付けると、森岡の緩んだ気持ちを断罪した。それは、森岡の後塵を排して来たこれまでの鬱憤を晴らすかのようであった。

「せやから、なんとしてもけん責で収まってくれなあかんのや」

「不見識で申し訳ありません」

 森岡は素直に詫びると、

「その処分というのは規律委員会が決めるのですよね」

 と思惑めいた口ぶりで訊いた。

「そうや」

「では、その委員たちに働き掛けることはできないしょうか」

「それはできんのや」

 東良は素っ気無く答えた。

「どうしてです」

「規律委員会はな、処罰対象の僧侶の位によってメンバーが異なるんや」

 東良の説明によると、

「大僧都」以下の僧階の場合は、常設されている委員会が判断を下して、宗務総長が承認する形を採り、その上の二つの僧階である「僧正」と「権僧正」の場合は、四十六子院の中から僧正以上の僧侶六名を選び、それに宗務総長を加えた七名で合議のうえ処分を下し、総務が承認する形となる。

 さらにその上の「権大僧正」は、全国四十八ヶ寺の大本山と本山の貫主の中から五名を選び、それに総務と宗務総長が加わった七名で合議のうえ処分を下し、法主の承認を得ることとし、過去に例は一度もないが、「大僧正」である法主の場合は、大本山の貫主全員と総務で合議をするのだという。

 規律委員会への告発は、対象となる僧侶と同等以上の僧階を持つ者であれば誰でもできた。むろん告発を受けても、むやみやたらに規律委員会で審議されるわけではない。

 僧侶の身分に関わる決定を下すことには慎重を期したため、余程の証拠が提出されない限り、却下された。

 尚、審議入りの有無は、対象が法主の場合のみ総務が、それ以外は宗務総長が決断を下した。

「ともかく、御前様は大本山や本山の貫主になられたことはないが、天山修行堂が特例で本山格扱いになっとるから、権大僧正の位をお持ちなんや」

「それでは、今回の判断を下すのは大本山と本山の貫主五名と総務、それに宗務総長の七名なのですね」

「そういうことや」

「では、その七名に働きを掛けたらどうでしょう」

 森岡は再び謀を持ち掛けた。

「それができんと言うのや」

 東良は何度も言わすな、という顔をする。

 森岡は黙って先を促した。

「あんな、選ばれる五名の貫主は、兄弟弟子はもちろんのこと、処罰対象者の出身地や寺院が所属している地区など、とにかく縁故が考えられる貫主は前もって外され、残りの貫主たちから無作為に抽選で選ばれるんや。そうして選ばれた五名は当日まで公表されんし、本人たちにも守秘義務が課せられるから、当日までは接触することができん。もちろん、総務と宗務総長にも厳格な行動が義務付けられとるから、これまでのように買収することなどできやせんのや。もし強引に買収工作などすれば、却って心証を悪くする」

 そこまで言うと、谷川東良は再び眼つきを鋭くし、

「同門に対する処罰……森岡君、いくら腹黒い奴でも、これに関わることには、まだ良心の欠片というものが残っているんや」

 と凄んで見せた。

――良心だと? 何を今さら……。

と腹の中で冷笑しつつも、

「つまりは、結果が出るまで、私たちにはなす術がないということですか」

 と確認した。

「そういうこっちゃな」

 東良は愛想の欠片もなく答えた。

「ところで、御前様の処分が決まるのは、一ヶ月後ですよね」

「そうや」

「法国寺の合議の日と重なりますが、それはどうなりますか」

「心配無用や。それも相応に日延べとなる。それより、森岡君。今回はくれぐれも余計な事をせんと自重してくれよ。勝手な真似をして、問題がいっそう拗れるようなことはせんでくれ」

 東良はいつにもまして力説し、さらに、

「これに関しては、兄からも重々釘を刺すようにと言い付かっている」

 と、わざわざ東顕の意向も持ち出して牽制した。

「わかりました」

 と表向きには了承した森岡だったが、彼がただ指を銜えて待つはずがなかった。大金を使って策謀を巡らし、身内から裏切り者を出す代償まで払っているのだ。その彼が運命を決する裁定を、黙って第三者に委ねるほど御人好しであるはずがなかった。



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