(6)
見相寺に泊まる神村を置いて、洋介ら四人はホテルに戻った。
洋介は湯船に浸かりながら、茜のことを考えていた。車中での話に触発されたわけでもないだろうが、茜は見相寺で甲斐甲斐しく体を動かしていた。いかに商売柄慣れているとはいえ、勝手のわからない宴席となると遠慮がちになり、酒の酌、食器を片付け、料理を運ぶことなどできそうで、なかなかにできないものである。
洋介は、茜の姿に経王寺での奈津実の面影を重ね合わせていた。
ちょうどそのとき、電話の着信音が洗面室に響き渡った。
着信を確認すると茜からだった。時ならぬ電話に、洋介の胸は期待と不安が交錯した。
「どうかしたんか」
「あのね。昼間は森岡さんの話ばかり聞いていたでしょう」
「そう言われりゃあ、そうやな。俺一人でしゃべっていたな」
「だから、今度は私の話を森岡さんに聞いてもらいたいの」
――そういうことか……。
言われてみれば、森岡は彼女の私生活のことは何も知らなかった。いかな彼女の美貌でも、二十六歳の若さでロンドのような最高級クラブは持てない。だが、彼女の背後にスポンサーらしき男の影はない。洋介でなくても、素性に興味が湧くのは当然だった。
「駄目ですか」
「いや、ママが話したいのなら、俺も聞きたいな。今風呂に入っとるから、三十分後に最上階のラウンジでどうや? ラウンジは0時までやから、一時間ぐらいなら話せるやろ」
「では、ラウンジでお待ちしています」
洋介は、速まる胸の鼓動に気づいていた。短い会話の中に、久しくなかった胸のときめきを覚えていた。心を寄せる女性の身の上話を聞くことなど、奈津実以来のことだった。
三十分後、洋介がホテルの最上階にあるラウンジ・バーに足を踏み入れると、すでに茜はカウンターの奥の椅子に座っていた。
洗い髪を束ね、その綺麗なうなじを誇らしげに晒していた。薄黄色のセーターにポニーテールのいでたちは、着物のそれとは違う色香で洋介を惑わせ、横に座るや否や、火照った身体から発散された石鹸と香水の入り混じった匂い立つ芳香が、彼の脳を刺激し性欲を喚起した。
ひととき、甘い気分に浸った洋介だったが、茜の告白が始まると、たちどころに雲散霧消した。
そして彼は、茜が自分の過去にあれほどの涙を流した理由を知ることになった。
「私の父は広島で的屋の親分をしていたの」
茜はいきなり極道の娘だと告白した。
洋介は『広島の的屋』という言葉に引っ掛かりを覚えたが、すぐに放念した。彼女の話に集中するためである。
茜は広島で、神社の縁日などで露店を開く、いわゆる的屋の元締めの子として生まれた。幼少期は、世間の父親と同様、それなりに可愛がられて育ったが、小学校に上がった頃、愛人に男子の赤子が生まれると、妻娘への愛情は若い妾とその子供に移っていった。
彼女は自身の宿命を呪い、母を粗略に扱う父を恨んだ。彼女のそのやるせない不満の捌け口は、中学の頃から不良仲間を集め、傍若無人の行いをすることに向かっていた。万引き、恐喝、美人局等々の悪行を重ね、警察の補導など日常茶飯事だった。
しかし、彼女が十七歳のとき、的屋の頭だった父が広島での勢力拡大を狙った神王組と反目することになった。
その結果、組織は解散させられ、父もまた刑務所送りとなった。虎の威が無くなった彼女は、立場が逆転し、いじめられる立場に追い込まれた。それまでの反動で、凄惨ないじめを受けた彼女は、母と共に這這の体で大阪に逃れたのだった。
「私ね、輪姦されたことがあるの」
目に涙を浮かべ、震える声でそう告白した茜の唇は震えていた。洋介に嫌われるかもしれないという恐れであった。
「俺なんかよりずっと辛酸を舐めたんやな」
指でそっと茜の涙を拭いた洋介の胸には罪悪感が広がっていた。
極道の娘というだけでなく、輪姦に遭ったという忌まわしい過去まで告白した茜に比べ、彼は自身の精神を蝕んだ本当の理由を隠していたのである。
――これだけは、まだ茜にも言えない。いや愛した女性だからこそ言えない。
洋介は心の中で手を合わせた。
茜の話は続いた。
自分たちの過去を知る者がいない新しい土地で、心機一転出直しを始めた母娘だったが、裏を返せば頼る者もいないわけで、必然的に困窮生活を強いられた。茜は家計を助けるため、アルバイトを掛け持ちした。その一つがレストランでの皿洗いだったのだが、これが彼女に幸運を齎した。
そこである人物と出会うことになったのだが、その人物というのが北新地でも指折りの老舗高級クラブ「花園」のオーナーママ・花崎園子だったのである。
園子は、一目で茜の素養を見抜き、夜の世界へと導いた。花園のホステスになった茜は、水を得た魚のように輝き始め、ある時その姿が日本経済界の大立者で、世界的大企業である松尾電器の会長松尾正之助の目に留まり、彼の愛人になった。
だがこれは、かつて松尾の愛人だった園子が、茜に悪い虫が付かないようにと仕組んだ親心であり、いざというときには、睨みを利かせてもらうつもりの保険だったのである。
園子の頼みで、形ばかりの愛人に応じた松尾だったが、茜の心根に感心し、しだいに情が移っていった。そして、いつしか実の孫のように可愛がるようになり、二年前に影の後見人となってロンドを出させたのだった。
「何や、お袋を憎んできた俺と、父親を恨んできたママは似た者同士のようやな」
洋介はため息混じりに言った。
「本当ですね。森岡さんの子供の頃の話を聞いているとき、環境は違うのに、なんだか身につまされるようで、胸が締め付けられましたわ」
あっ、そうかと洋介が目を見開いた。
「ママが殊の外極道者を嫌うのは、そういう生い立ちやったからか」
そうです、と茜は正直に認めると、不安げに訊いた。
「森岡さん。私の身体は汚れているし、おまけに極道者の血も流れています。嫌いになりました」
「いや、逆や。正直言うと、ますますママに惹かれとる」
「まあ、嬉しい!」
茜は頬を赤らめ、少女のような声を上げた。
「だがなあ、ママ。俺はそんな自分が怖いんや」
「怖い? 何が? 私の気持ちはもうご存知でしょう」
「ああ、だから怖いんや。いっそのこと俺の片思いの方が、どんだけ気が楽やと思うくらいにな」
「どうして? 何を怖がっているの」
茜は、それが洋介を苦しめる棘であると直感していた。
「ママ、俺が車の中で話したとおり、俺の大切な人は、皆早くに俺から離れて行ったり、死んでしまったり、不幸な目に遭ったりしとる。お袋は親父の暴力に絶えかねて、俺をおいて何処かへ行ってしまい、親父も祖父ちゃんも祖母ちゃんもみんな早死にや。おまけに唯一の親友だった秀樹は、病魔に襲われてあんな身体になってしまった」
洋介は、一段と悲しげな顔をした。
「そして、奈津実や。俺が最も愛した女性が最も短く、俺の許を去って行ってしまった。繰り返すようやが、俺はなママ、俺の人生は俺と親しくなった人の人生を犠牲にして成り立っていると思えてしょうがないのや。それでも血肉を分けた近親者やったらまだ気が楽やが、他人となるとそうはいかんのや。俺は、ママを愛してしまうと、ママに悪いことが起きそうで怖いんや。俺は奈津実を失ったときの悲しみを二度と味わいとうない。せやから、それやったら最初からママを好きにならん方がええとずっと思ってきたんや。朝、車の中で言い掛けて止めたんはこのことやねん」
洋介は心の葛藤を切々と吐露した。彼は近しい人、特に愛する女性に縁が薄い宿命にあるのではないかという屈託を持っていた。
幼くして母に捨てられた寂しさと、初めて愛した妻に早々と先立たれ、深い悲しみを味わった彼の心の底に、そのような屈託が澱のように堆積していたとしても、無理のないことではあった。
だが、茜は強く反駁した。
「そんなばかなことがあるはずがないわ。単なる偶然よ。仮にそうだとしても、そのことで女性に対して臆病になるなんて、貴方らしくもないわ」
とまるで怒ったような語調だったが、
「それに……」
と一転して茜は口籠った。
「それに、なんや?」
「いえ」
彼女は口を滑らしたことを後悔していた。
「そこまで言ったんなら、最後まで言ってくれや」
洋介は、躊躇する茜に強い口調で催促した。
「怒らないで聞いてね」
茜が念を押した。
森岡は黙って肯いた。彼女の言いたいことがわかっている顔つきである。
「それなら神村先生はどうなの? 貴方の理屈だと先生が最も近しい人でしょう? それこそ、血肉を分けた肉親よりも……」
「そうやねん。確かにママの言うとおりや。せやけど俺は、先生は人間やない、半分生き仏様や思うとる。そんな先生には疫病神も死霊も近づけんのやないかな」
茜の指摘は、洋介が最も恐れていたことであった。だからこそ彼自身は、心底そのように信じようとしていたが、茜はきっと突拍子もないことを言った自分に呆れるだろうと思っていた。
ところが予想に反して、茜は真摯に受け止め、
「なるほど、そういう考え方もできるわね。でも、貴方に疫病神や死霊が付いているとしたら、それは貴方のそういう考え方自体なんじゃないの。私に言わせると、貴方の近親者に対する否定的な考え方そのものが、邪気を引き寄せていると思うわ」
と重ねて反論したのである。
「うっ」
洋介は、心の奥底を鋭い錐で突かれたような痛みを覚えた。茜の言葉は、真に洋介の精神の奥深いところを射抜き、彼に論語の「気」に関する記述の中に、そのような一文があったことを思い出させた。
「確かにママの言うとおりかもしれんな」
洋介は観念したように呟いた。
「絶対そうよ」
「……それなら、ママ……、その」
洋介が急に優柔不断になった。
「なに? はっきりと言って」
「その、俺の死霊がママに取り憑くかどうか試してええか」
「……」
茜はしばらく目を白黒させていたが、やがて、
「うっぷぷぷ……、ああ、おかしい」
突然、堪え切れないように腹を抱えて笑った。
「吹き出すなよ。俺は大真面目なんやから」
「ごめんなさい。だけど、こんな口説かれ方したの、初めてだもの」
そう言うと、一転真顔になった。
「でも、嬉しいわ。だって貴方、いえ洋介さんが神村先生に出会うために辛い思いをしたように、私のこれまでの苦労は、洋介さんに出会うためのものだったと思うことができるから」
清々しい表情の中にも目には光るものがあった。
「それにしても……」
突然、森岡が溜息を吐いた。
「なあに」
茜は甘えた声で訊いた。
「後見人が松尾正之助とは恐れ入った」
「形だけよ」
「もちろん、これぽっちも疑ってはいないが……」
洋介は指先を弾く仕種をした。
「よほど気に入られているんやな」
「園子ママの手前だと思うわ」
茜は洋介の懸念を払拭するように言った。
「いや、変な意味やないで」
森岡は茜に笑い掛けると、思わぬことを言った。
「松尾会長は、茜を女としてというより事業家として見込んだのかもしれんな」
「それは、もっと有り得ないと思うわ」
そう言った茜に笑顔が戻っていた。
二人は、カクテルで未来に乾杯した後、洋介の部屋に戻って行った。
無人のエレベーターの中、欲情を抑え切れない二人は、どちらからともなく堰を切ったように激しい抱擁とキスを交わした。エレベーターを降りると、部屋までの廊下を、唇を重ねたまま歩いた。
部屋に入っても言葉はいらなかった。お互い背を向けて、無言のまま慌しく服を脱いだ。
「あっ」
一足早く、全裸になってベッドに潜り込んだ茜を追って、シーツをたくし上げた洋介は、彼女のあまりの見事な肢体に思わず息を呑んだ。白いシーツの上に、抜けるような純白の裸体が浮かび上がっていた。それは血の筋が青く浮かび上がるほどの白さだった。
彼の目を真っ先に奪ったのは豊かな乳房だった。着痩せするタイプなのか、それとも意識的に隠していたのだろうか、和服のときもドレスのときも気づかなかった。脇に流れるほどの広く丸い乳房の中央には、乳房に比して小さめの乳輪と乳首が身を硬くして佇んでいる。その淡いピンクの乳首を指で戯れると、乳房全体の産毛が波を打って逆立つのがわかった。四肢は細くすらりと伸びているが、華奢というわけではない。腰は括れているが、尻や大腿には適度に肉が付いていた。
洋介は乳首から腰、腹、尻へと手を這わせた。
「ふう」
茜が息を押し隠しているのがわかる。
丸みを帯びた身体全体がやわらかく、少し汗ばんだ肌は、掌に吸い付くように纏わりつき、指を押し返す弾力もあった。
洋介は手を止め、ふと、
――この身体を何人の男が通り過ぎたのだろうか。
と思った。男の性である。悲しいほどの本性である。
――こんなことを考えるのは俺だけなのかもしれないな。
と、洋介が苦笑いを押し隠したとき、茜の目と目が合った。
「私が愛したのは、貴方が三人目よ」
と言った彼女の目が笑っているように、洋介の目には映った。
彼女は心の内を見透かしていた。どうやら、こういう事は男は女には適わないように創られているようだ。彼はもう一度苦笑いを噛み殺した。
――三人目か。
洋介は、嬉しいような悲しいような複雑な心境だった。輪姦は物の数ではない。野犬にでも噛まれたと思えば良い。そんなことより、彼女の心を奪った二人の男性に洋介は嫉妬した。
洋介は、女性には貞操を求めるタイプで、動物的なセックスより、視線に恥らう仕草を好んだ。その方が性欲を掻き立てられるのだ。むろん、茜は処女ではないが、頭のどこかで処女性を追い求めてしまうのだ。
洋介がそんなことを思いながら、彼女の美しい裸体に釘付けになっていると、
「恥ずかしいから、早くきて」
茜の顔が朱に染まっていた。
その言葉に促されて、洋介は唇を彼女の唇にそっと重ねた。もはや、エレベーターのときのような荒々しさはなかった。
「はあ」
彼女が堪えきれず吐息を漏らした。彼女の熱が口を通して、洋介の体中を駆け巡った。
翌朝の七時前、静寂を破って部屋の電話が鳴り響いた。
茜との情交の余韻に浸っていた森岡は、寝ぼけたまま受話器を取ると、久田の付き人からだった。
用件は一緒に朝食を取りたいというものだったが、途中からどうも様子がおかしいことに気づいた。久田の意向を伝えている風ではなく、本人の意思のような口ぶりなのだ。
しだいに意識が鮮明になった森岡は、受話器の向うにいるのが久田本人だとわかり、大いに慌てふためいた。久田は、てっきり見相寺に泊まったものと思っていた。いや、たとえ同じホテルに泊まっていたとしても、この程度の用件であれば、付き人が連絡を取るのが当たり前で、本人が直々に電話をすることなどありえないことだったのである。
急ぎレストランに向かった洋介は、そこでも再び信じられない光景を目の当たりにする。なんと久田が一人きりでいたのだ。久田ほどの高僧が、出先において付き人を廃することも、通常では考えられないことなのだ。
まさに異例尽くめだったのである。
「遅れまして、申し訳ありません。加えまして、まさか御前様から直々お電話を頂けるとは思いも寄らぬことでしたので、先ほどは大変失礼な物言いをしてしまいました」
つい先ほどまで、茜の肌の温もりの中に居たことを思い出すと、身も縮む思いの洋介だった。
「森岡君、そんなに硬くならないで……まあ、座りなさい」
直立不動で詫びを述べ、膝に頭が着かんばかりに深々と頭を下げた森岡に対し、久田は優しい言葉を掛けた。
「御前様はてっきり見相寺にお泊りかと思っておりました」
「皆もそのように勧めたのだが、ちょっと思うとことがあってね。ここに部屋を取ってもらったのだ」
「そうでしたか。そうとは知らないものですから、お電話を頂きましたときは事態が飲み込めておらず、大変失礼を致しました」
「それは、もう良いよ。それより、君と一度ゆっくり話をしたくてね。それで、一緒に朝食を取ろうと誘ったのだよ」
森岡は、久田の言葉にいちいち恐縮するばかりだった。世間にはあまり知られていないが、現在の日本仏教界において、間違いなく十本の指に入るであろう巨人であった。こうして一対一で言葉を交わしていると、かつて総本山真興寺で垣間見た、総務の藤井清堂とはあらためて格が違って見えていた。
「君に一つ聞きたいことがあるのだが」
「なんでしょうか」
「いや、立ち入ったことで申し訳ないが、君と神村上人との繋がりを聞きたくてね。君は実に献身的に神村上人に尽くしている。それは、傍から見ていても、とても尋常なこととは思えず、二人の間には宿縁のようなものさえ感じるのだよ。だから、これまでの経緯を話して貰えないかと思っていたのだ」
「私のことでしたら、いくらでもお話致しますが、御前様のお耳に入れるほどの話ではないと存じます」
森岡は、一旦丁重に断った。むろん、それは久田を警戒してのことではなく、彼の耳を汚すことを憚ったからである。しかし、久田の重ねての要望に、森岡は神村との出会いからの経緯を話した。そして話の最後に、
『己の命を掛けても、生涯神村に助力することを心に誓っている』
とまで告げたのだった。
森岡の誠実で一途な神村への想いを聞いていた久田は、その表情に一瞬だけ翳りを映した。だが、巨人久田を前にして、森岡に彼の心中を推し量る心の余裕などなかった。
このとき久田帝玄は、ある重大な告白を心に決めていたのだが、やむなく断念した。その躊躇が、彼の別格大本山・法国寺貫主就任への最大の障害を放置することになったばかりか、神村との関係にも微妙なずれを生むことになるのだった。




