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黒い聖域   作者: 久遠
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               (5)

 野島真一は意外な男から連絡を受け、大阪梅田のパリストンホテルに出向いた。

 九頭目弘毅くずめひろきという高校時代の親友である。親友でありながら意外と言ったのは、彼が高校二年生とき突如退学し、以来音信不通だったからである。

 野島と九頭目が通っていた高校は、大阪でも有名な進学校で、九頭目の成績であれば、最高学府の帝都大学法学部への進学も可能であった。

 野島は、九頭目の高校中退の理由が家庭に不幸があったためだと知っていたが、それでも何の一言も無く、目の前から姿を消したことにわだかまりを持っていた。

 それが、突然十八年ぶりに連絡があったのである。野島は、胸に込み上げるものを感じながらパリストンホテルへ向かった。

 ホテルの喫茶店に到着すると、九頭目はすでに席に付いていて、野島の姿を認めるや、

「よう」

 と、まるで昨日会ったばかりのような気さくな声を掛けた。

「よう、やないがな。いったい、どうしてたんや」

 野島は心とは裏腹の口調で言った。

「そう怒るなよ」

 九頭目は、野島の心底を見透かしように笑みを返した。

「突然高校を中退したうえに十八年間も音沙汰なしだったのだぞ。怒りたくもなるというものだ」

「すまん。のっぴきならない事情があったのだ。今日はゆっくりとその辺りの話をするから勘弁してくれ」

 九頭目は頭を下げた。

「そういうことなら水に流すが……」

 野島は、九頭目を舐めるように見た。

「ずいぶんと羽振りが良いようやな」

 九頭目はアルマーニという高級服を着用していた。一般のサラリーマンが気安く購入できる服ではない。しかも、柔和な顔に反して眼光が鋭い。

 眼光が鋭い商売と言えば、極道と警察官が双璧である。特に暴力団担当の刑事は、本物以上に極道に見える。そうでなければ、仕事にならないからだ。

 だが、公務員である警察官がアルマーニを購えるわけがない。そうなると、残るは極道ということになるが、野島には高校時代の面影から、九頭目が裏社会に足を踏み入れるとは思えなかった。いや、思いたくなかった。

「水商売でもしているのか」

「なんでや」

「その恰好で一般のサラリーマンはないやろ」

「そりゃそうだな」

 九頭目は自身の身形を確認して言った。

「俺は今こういうことをしている」

 九頭目が差し出した名刺を見て野島は、

――やはりそうか。

 と心の中で舌打ちをした。

 名刺には、神王組を現す桐の代紋と、『神栄会・若頭補佐』という肩書が印刷されていた。

「神栄会だと、本当か」

「ああ」

 と、九頭目は小さく肯き、高校を中退した理由と、その後の経過を話した。 

 それによると、彼が高校二年生のとき、父が事業に失敗し、挙句に借金を残したまま失踪したため、債権者からの執拗な取り立てに遭った。債権者の中にいわゆる街金もいたため、悪質な取り立てに耐え切れず、精神を病んだ母が自殺してしまった。一人取り残された九頭目の人生観が変わってしまった瞬間である。

 人生に無常を感じ、自暴自棄になった九頭目は、ある意味母の復讐の想いを込めて、その街金で働くことにした。金を生涯の仇と定めたのである。

 九頭目はすぐに頭角を現した。元来優秀な頭脳の持ち主で、しかも腕力の方も小学校低学年からボクシングジムに通い、高校一年時のインターハイでは準優勝をした逸材だった。言わば文武両道の彼が、極道世界でも重宝されるのは必然であろう。

「それにしても、お前が極道者とはなあ」

と、嘆息した野島に、

「お前だって、コンピューター技術者は道が違うだろうが」

 九頭目が言い返した。

 野島は京洛大学工学部の大学院修士課程卒だが、専攻は化学である。同じ理系と言ってもコンピューターソフトウェアーの技術者とは畑違いだった。

「知っていたのか」

 と言った後、

「森岡社長の線からか」

 野島が訊いた。

 森岡は霊園開発事業を巡って、神栄会若頭の峰松と交渉をしていた。九頭目が峰松の部下である以上、野島の名が彼の耳に入るのは自然の流れと言えた。

 うむ、と黙って肯いた九頭目に、

「俺も大学のときに人生観が変わったんや」

 と、ある出来事を話した。

 野島が大学四年生のときだった。サークルの友人から特殊な血液型の収集に協力してくれないか、との依頼を受けた。浪速大学の『森岡』という男が知人のために広く大学生仲間に呼び掛けているというのだ。

 そう、南目輝の実父昌義の心臓疾患手術のために必要な血液だった。

 人助けである。野島は一も二もなく承諾し、率先して協力した。

 その後、森岡から南目昌義の手術が無事成功したとの連絡を受け、併せて感謝の宴を催すので是非参加して欲しいとの要請を受けた。

 野島は、所詮は大学生の開く宴会である。せいぜい大衆居酒屋だろうと思っていたのだが、参加者の二十歳以上の男子大学生十三名が連れて行かれたのは、なんと京都でも一、二を争う老舗のお茶屋だったのである。

 京都の大学に通う野島は、そのお茶屋「吉力きちりき」が、一見お断りの看板を掲げていることを知っていた。しかも、大学生ばかりの団体を入店させるはずがない。

 ところが、店側は入店させたどころか、女将らしき人物は森岡とずいぶん親しげに談笑しているではないか。

――この男はいったい何者なのだ。

 野島は、何か得体の知れない、これまで自分が生きて来た世界と対極に生きる人間のような気がしていた。

 野島の驚きはこれだけでは済まなかった。

 なんと、芸妓や舞妓を総勢十三名も呼んでいたのである。つまり、一対一で酌をさせようというのである。

 森岡は、目にしたことも耳にしたこともない高級酒を次々と注文し、芸妓や舞妓と楽しげに遊んでいる。そして、野島と同様、あまりの場違いに身を堅くし、顔を引き攣らせている連中の気持ちを解きほぐしながら遊びの輪の中に引き入れていた。

 野島は吉力の料理代金を知らないし、芸妓や舞妓の花代がいくらなのかも知らなかったが、安く見積もっても百万円単位であることは容易に推測できた。

――なんという規格外の男なのだろう。

 野島は、堪らず女将に森岡の正体を訊いた。そして、神村という高僧の許で書生修行をしていること、その神村に同伴して何度も吉力に訪れていることを知ったが、なぜ森岡が豪遊できるのかまではわからなかった。

 それからというもの、野島の脳裡から森岡のことがこびり付いて離れなくなった。予定通り大学院に進んだものの、卒業を前にしてこのまま内定している化学系の会社に就職してよいものだろうか、と想い悩むようになった。

 そこで野島は、もう一度森岡に会うことにした。

 快く応じてくれた森岡から、いずれ独立するつもりだということを聞かされたとき、思わず、

「私にも手伝わせて下さい」

 と言ってしまった。

 森岡は、にやりと笑うと、

「だったら菱芝うちに入れ。俺が鍛えてやる」

 事もなさげに言った。

 野島は唖然となった。たしかに新卒者採用期間は終了していないが、どの会社もすでに内定者は決定している。まだ求人を継続しているような会社は、それこそ学生も敬遠する会社なのだ。菱芝電気は、旧財閥系の大手情報処理機器の製造販売会社である。採用活動は終了しているに決まっている。

 さらに、俺が鍛える、とはどういう意味だろうかと野島は首を捻った。

 森岡は一歳年上だが、浪人していたので現役合格した野島と同学年である。したがって、大学院修士過程を終えて就職する野島の二年先輩になるだけであった。コンピューターの技術スキルが、たった二年で他人を教育するだけのレベルに達するものなのだろうか、と野島は訝ったのである。

 しかし森岡は、実に自信に溢れた表情を浮かべていた。


「なるほど、そういう出会いだったのか」

 と言った九頭目の目が厳しくなった。

「その森岡社長やが。実際に付き合ってみてどうや」

「何を考えているんや」

 野島は気色ばんだ。

 森岡から、土地の買収問題は解決したと聞いていた野島だったが、相手は暴力団である。簡単に心変わりしてもおかしくはない。

「心配するな。森岡社長をどうこうするつもりはない。というより、もし俺が社長に何か手出しでもしようものなら、指を詰めるだけでは済まないだろう」

 九頭目は苦笑いした。

 野島は、肩から力が抜けたような表情になると、話を続けた。


 野島の心から疑念が消え失せるのに時間は掛からなかった。

 菱芝電気に就職した野島は、あらためて森岡の凄さに圧倒される。野島が森岡に相談したときは、子会社から二年間という契約で出向していた森岡を、システム部長の柳下がヘッドハンティングしていたときだった。

 そこで森岡は、自身の転職の条件に野島の追加採用を提示した。柳下は上司の役員を説き伏せ、縁故枠を使って野島の採用を人事部に認めさせたのだという。

 しかも森岡は、出向して柳下の部下になると同時に、重要なプロジェクトリーダーに抜擢されていて、野島は教育期間を終えてから幾つかの実戦を経験した後、森岡のプロジェクトチームに配属される予定だということも知った。

 何という桁外れの男なのだろうと、野島は驚嘆した。

 また、森岡は大学時代からプログラム言語に精通していたのだということもわかった。野島は、俺が鍛えてやると言った森岡の真意も理解したのだった。

「入社以来、社長に追い着こうと努力してきたが、追い着くどころが、一ミリとて距離を縮めることさえできない。いや、むしろ社長の背は遠ざかっている」 

「頭脳優秀なお前でも近づけないのか」

 ああ、と野島は肯いた。

「社長は大きい。大き過ぎる人や。経営者としてだけやない、社長なら政治家でも宗教家でも天下を狙える器やと思う」

「そう言やあ、寺島の親父がわしらの世界に来てもええ極道者になるやろうと言いはったらしいわ」

「極道世界のことはわからんが、表の社会やったら何をしても成功されるのは間違いない」

「ええ人に巡り会うたの。森岡社長は人情にも厚い人やで」

「なんで、お前にわかるんや」

「お前、檸檬の真弓という女に惚れたらしいの」

 うっ、と野島は言葉に詰まった。

「それも霊園事業の件からやな」

 いや、違うと九頭目は首を左右に振った。

「森岡社長から直に聞いた」

「なんだと」

 野島は素っ頓狂な声を上げた。

「森岡社長はな、塩谷というチンピラに真弓さんから手を引かせて欲しいと若頭に頭を下げはったんやで」

「なんやて」

「しかも、金も積みはった」

「金? いくらや」

「それを聞いてどうする」

「それは」

「森岡社長に返す気か」

「これでも多少の蓄えはある」

「そうだとしても、金を返すというのは筋が違うんやないか、野島」

「……」

「というより、そもそもが金の問題やないんや」

「どういう意味や」

「お前が知らんのも無理はないが、うちの若頭の貫目はな、高々数千万の金で動くほど軽くはないんや」

 神栄会の会長である寺島龍司は、神王組の若頭補佐をしているが、若頭補佐の序列では三番目だった。したがって神王組内ではナンバー八ということになる。すなわち、組長、若頭、舎弟頭、本部長、筆頭若頭補佐、筆頭舎弟頭補佐、次席若頭補佐の次ということである。

 だが、神栄会は神王組でも一、二の看板組織である。したがって寺島の貫目は序列通りではなく、若頭を努める峰松の貫目もそうである。おそらく、峰松の実質上の序列は二十五番目あたりだと見込まれた。

 構成員が四万人の団体の二十五番目である。

 単純に四万人の従業員を抱える大企業に照らし合わせても、取締役という肩書が付くのではないだろうか。

 その峰松が、数千万のはした金で、しかも男女の色事に首を突っ込むことなど、通常では有り得ないことなのである。

「森岡社長の頼みだからなのだな」

 そうだ、と九頭目は肯いた。

「寺島の親父と若頭にすっかり気に入られたようだ。二人が素人を誉めることなど滅多にない」

「そうなのか」 

 野島は複雑な面をした。

「その証拠でもないが、塩谷に引導を渡す役目を俺が任された」

「な、な……」

 なんという因縁に、野島はもはや返す言葉を見つけられなかった。

「ということだ。俺がきっちり因果を含めたから、後顧の憂いは一切ない」

 野島を安心させるように言った九頭目は、

「次は夜を徹して酒でも飲もうや」

 と言い残して席を立とうとした。

「極道世界のことはよう知らんが、命は大事にせえよ」

 野島が声を掛けた。

 ふふふ、と声もなく笑うと、

「これから先、俺が命を掛けにゃならん機会は滅多にないとは思うが、身体を張らにゃならんときはきっちり張る。せやけど、必ず生き残ってトップを目指す。だからお前も森岡社長に追い着けるよう頑張ってくれや」

 九頭目は生きる世界は違っても、お互いその世界で頂点を目指そうと言った。


 

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