(4)
浪速大学に受かった洋介は、そのまま経王寺の離れに寄宿をしたのだが、信者や神村の知人からの苦情により、一旦寺を出た。そして半年後、再び経王寺に戻り、さらに三ヶ月が過ぎた大学二回生の春だった。
神村は、相変わらず多忙を極め、全国を飛び回っており、しょっちゅう自坊を留守にしていた。当時、神村はまだ独身であったし、宗教上の弟子はいなかったので、洋介は一人で留守を預かることになった。
そんなある日の夕方、洋介が帰宅すると、玄関の鍵が開いており、中に人の気配がした。神村が戻るのは二日後のはずで、予定が変わったという連絡もなかった。
――空き巣か?
と身構えて中に入ると、奥の方から同い年くらいの女性が顔を出した。彼女は洋介を看とめると、近づいてきてぺこりと頭を下げ、にこやかな顔で挨拶をしたのである。
彼女の名は福地奈津実といった。
取り立てて美形というのではなかったが、その清新な心根が滲み出ているような顔立ちをしていた。
洋介は彼女に見覚えがあった。この一年の間に、経王寺に於いて何度か仏教の年中行事のお祭りがあり、多くの信者の集まりがあったのだが、その度に、当日いち早くやって来ては、奥向きの仕事をてきぱきと手伝っていたのが彼女だった。
洋介は好感を持ってその姿を見ていた。彼も準備や接客を手伝っていたが、役目が違ったので、お互いすれ違いざまに会釈するぐらいで、言葉を交わした事は一度もなかった。それでも彼女の立ち振る舞いは彼の心を捉えていた。
洋介は、おそらく近所に住んでいる信者の娘なのだろうと思っていた。神村は留守勝ちであったから、用心のためにときどき様子を見に来たついでに、掃除などをして帰るのだろうと思っていたのである。
洋介が自己紹介を返して、離れの自分の部屋に戻っていると、しばらくして彼女が呼びに来た。
夕食の準備ができたというのである。洋介は戸惑いながらも、彼女の作った料理を口にした。
そのようなことが三度ばかり続いた。そして四度目のとき、洋介は奈津実にこのような行動は最後にして欲しいと告げた。彼女の両親も承知のうえであること、洋介も神村に報告しているとはいえ、さすがに二人きりでいることは、世間に有らぬ風評を生むと思ったのである。男の洋介はともかく、奈津実は嫁入り前の女性である。
それから数日後だった。
神村に呼ばれて、洋介が応接室に出向くと、立派な身なり中年の紳士がソファーに座っていた。
洋介はこの男性にも見覚えがあった。その人物もまた、寺院の行事に姿を見せていた人だったのである。
その男性の名は福地正勝。大手食品会社・味一番株式会社の創業者であり、奈津実の父親だった。かねがね洋介を気に入った福地は、四姉妹の末っ子の奈津実を彼に嫁がせたいと考え、短大を卒業を機に、とりあえず夕食を作りに向かわせたというのが真相だったのである。
「それで、二人は御結婚されたのね」
茜は得心の表情で言った。
「いや、俺はこの話を丁重に断った」
「どうしてですの」
「奈津実が気に入らなかったのではないで。むしろ好意を抱いてはいたんやが、俺は少なくとも大学生の間は、先生の許で一心不乱に修行に打ち込みたかった。当時の俺は、この書生期間で得るものによって、自分の将来が決まると思っていたのや。だから、そのような正念場の時期に、女性に興味を持つことなど不謹慎極まりない、と自らを律していたんや」
「へえー、そうなんだ」
茜は俯き加減で言った。揶揄されたと思った洋介は、
「別に格好つけていたわけやないで。そのときは真剣にそう思っていたんや」
と仏頂面になった。
「誤解しないでね。格好つけている、だなんて思っていません。私は、そのときの奈津実さんはどんな気持ちだったのだろう、と想像しただけです」
茜は、己の心情を奈津実に重ね合わせたのである。
「俺の外連味のない心情を聞いていた福地さんは、益々俺のことが気に入ったらしく、是が非でも娘の婿にしたいとの思いを強めていったそうや」
「当の奈津美さんはどうされたの」
茜は、洋介に拒絶されたときの奈津美の心情を知りたかった。
「ふふふ……」
と、洋介は思い出し笑いをした。
「何が可笑しいのかしら」
「いや彼女がな、これがまた思いも寄らぬ行動に出てきたんや」
「思いも寄らぬ? ですか」
洋介の昔を懐かしむような声に、茜は複雑な心境になった。
「数日後にな、昼食の弁当を届けに、突然大学へやって来たんや。そしてな、学生課に行って学内放送で俺を呼び出すやないか。これには俺も驚いたなあ。それも、よくよく話を聞いてみると、父親の指示ではないと言うやないか。さらにな、驚く俺に向かって、これから毎日届けると、平然と言ってのけたんや」
「失礼ながら、たしかにお嬢様育ちにしては、とんでもない発想ですね」
「そうやろう」
と、洋介は肯いた。
「俺もな、大人しそうな奈津実の、どこにそんな大胆な行動を取らせる源があるんやろう、と不思議に思ったものや。奈津実は俺と同い年でな、短大を卒業後、家事手伝いをしながら花嫁修業をしている身やったさかい時間は十分にあったんやな。俺は奈津実の気迫に負けて、弁当を食べる時間だけなら一緒に居るという約束で、二人の奇妙な関係は始まったんや」
洋介は一旦言葉を切って茜を見た。
「だがな、ママ。俺は正直にいうと半信半疑やった」
茜はなぜ、という視線を向けたが、
森岡の、
「ママも言った通り、何せ正真正銘のお嬢様やからな、最初は張り切っていても、そのうち根を上げるやろと思っていたんや」
という言葉に、ああなるほど、という目に変わった。
「ところがや。奈津美は根を上げるどころか、真夏の暑い日だろうと、土砂降りの雨の日だろうと、一日も欠かさず弁当を作って持って来るんや。それがまたおいしかったんや。食い物というのは恐ろしいものやな。俺はいつの間にか奈津実の弁当を心待ちするようになってしまい、しだいにお嬢様らしからぬ家庭的な性格に惹かれて行ったんや。俺は八歳のときお袋と別れてから、ずっと祖母ちゃんの作った料理を食べて育っていたからな。不味くはなかったんやが、年寄りの味付けは子供の俺の口には合わんかった。せやから、お袋の味に飢えていた俺には、奈津実の作った弁当は、余計心に沁みたんやな。思い起こしてみるとな、彼女はお寺のお祭りのとき、てきぱきと奥向きの手伝いをこなしていた。お寺の行事やからな、並の者なら要領がわからず、また気後れしてしまい、決して容易にできる事ではないんや。俺自身がそうやったから良くわかっている。しかも、彼女は良家のお嬢様やろ。お高く留まっていても不思議ではないばずや。それが率先して、下働きの雑用をすることなど考えられないことやと思わんか」
洋介は途中から堰を切ったように話した。奈津実との出会いの思い出を話す彼には屈託がなかった。
一方で、
「そうですね」
と相槌を打った茜の声には力がなかった。
彼女は、奈津実が良家のお嬢様だったことは知っていたが、あまりに正反対の境遇に育ったことを突き付けられ、落胆していたのである。
「きっと彼女は、小さい頃よりお寺に連れて行かれては、そのように躾られていたんやろうなと思ったとき、ふと彼女なら俺が抱いている夢を理解してくれるかもしれないとの期待が生まれたんや」
「森岡さんが抱いている夢?」
「それは、先生が絡む秘事やから今は言えんけど、彼女ならと思った瞬間、俺の気持ちが大きく動いたんや」
森岡は奈津美との結婚を決意したのだと言った。
それから、二人は順調に愛を育んで行き、卒業と同時に結婚した。神村の経王寺で仏前結婚を行い、親族、主賓への披露宴を幸苑で、同僚、友人への披露パーティーを大阪市内のホテルで行った
福地正勝は洋介を味一番に入社させ、秘書として傍らに置いて経営術を叩き込みたいと思っていたが、洋介はそこまで甘えることはしなかった。というより、夢の有った彼は、味一番である意味飼い殺しになることを恐れたのだった。
結局彼は、学生時代から携わっていたコンピューターソフトの製作会社に就職した。
二人の結婚生活は順調だった。しばらく子供に恵まれなかったが、洋介は家庭的な奈津実に子供の頃から引きずっていた心の痛みを癒され、会社では次々と重要な仕事をこなしていっていた。
そして、ついに至福のときが訪れた。結婚してから五年、ようやく子宝にも恵まれたのである。出生前診断では女児であった。
「天にも昇る心地っていうのは、あのときのような喜びを言うんやろうな。嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった」
そう言った後、一転して森岡の表情が暗くなった。
「だがな、そのような幸福から一気に地獄の底に落とされた。青信号の横断歩道を渡っていた奈津実が、居眠り運転のトラックに跳ねられ、お腹の子共々帰らぬ人となってしまったんや。それから俺は、悲しみから逃れるように仕事に没頭した。一年後に独立したのも、理由は色々あんねんけど、より切羽詰った重圧の中に自分の身を追い込んでいないと、ちょっとした隙間から、悲しみが胸の中に入り込んでしまう、というのが最大の理由やった」
洋介の長い告白が終わった。
「奈津実さんが羨ましいわ」
茜は森岡に聞こえないように呟いた。日頃の言動から、森岡の奈津実への愛の深さは十分想像できたが、あらためて本人の口から聞き、未だ森岡の心の中に生き続ける彼女に嫉妬した。
「もしかしたら、俺は……」
洋介はそこまで言って、口を閉じた。
「もしかしたら、なに?」
「いや、なんでもあらへん」
そう言った洋介の表情は物悲しいものだった。
茜もまた、辛い心境に追いやられていた。彼女は洋介の話で、彼の女性に対する真摯な態度も理解することができた。しかし、憂いに包まれた彼の微笑に、容易には溶かすことのできない心の障壁を感じた彼女は、暗くて深い不安の海に放り投げられ、今にも溺れそうになっていたのである。
鳥取へ向かう車中は、まるで外の景色と同化したかような澱んだ空気に包み込まれてしまい、その後ホテルに到着するまでの時間を沈黙が支配した。




