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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)

 しかし彼女の号泣は、ただ単に自分の生い立ちに同情したためではない、と直感した森岡は、気分転換にと、話題を変えることにした。

「せやせや、坂根」

 と、いかにも今思い付いたように話し掛けた。

「いつか話が途中になった株の話やけどな。元手になったのは、預貯金と死んだ祖父じいさん、親父、祖母ばあさんの生命保険金、、底引き網漁及び定置網漁の会社の株式と船、網の一切、そして俺が生まれ育った家を売った金や。これらi一切合財を合わせて八億ちょっと手元に残った。本来であれば、底引き網漁の船の価値は倍以上の値打ちが有ったが、事情が事情だっただけに買い叩かれた」

 森岡は苦笑いをした。

「俺はその内の二億で株を始めたんや」

 洋介は、以前坂根から問われた株式投資の元手となった資金の出所を明かした。さらに、株式相場の手ほどきを受けたプロの投資家の正体も話し始めた。

「少々オカルトチックな話やから、信じる信じないは別やがな」

 洋介はそう相前置きした。神秘というか摩訶不思議な世界の話だと言ったのである。

 洋介の目を株式相場に向けたのは、ウメが彼の行く末を相談していた霊能力者の老婆である。

 その老婆は、鳥取県米子市と島根県松江市の間にある、小さな村に娘と二人で暮らしていた。その界隈では有名人であり、いつも多くの相談者が訪れていた。洋介も祖母の勧めで、何度か一緒に訪ねたことがあったのだが、彼はすぐさまその老婆を絶対的に信用することになった。

「坂根、何故だかわかるか」

「いきなりそのように訊かれましても……」

困惑した坂根だったが、

「その方の言われることが良く当たったからですか」

 と答えた。

「いや、そうやない」

 洋介は即座に否定した。

「確かにお前の言うとおり、お婆さんの『神さんのお告げ』というのは、よう当たっとった。だがな、俺はそんなことより、お婆さんが相談者から一円たりともも受け取っておられなかったということに好感を持ったんや。それだけ良く当たる霊能力者やったら、言い値でも相談者は来るやろうが、お婆さんは頑として、お金は受け取らなかった」

 その証拠でもないが、老婆の住んでいた家は掘っ立て小屋に毛の生えたような、みすぼらしいものであった。洋介は、最初にその家を見たとき『これは本物だ』と思ったのである。

 もっとも、相談者の方も気を使い、米とか野菜、魚などを持参していたので、全くのボランティアということではなかったが、それでも老婆の精神が汚されるものではないと洋介は思っている。

「そこで、生活に必要な現金は株で儲けていた、ということですね」

「そういうこっちゃ。とはいえ、お婆さんの名誉のために言うとくけど、そないに大儲けをしていたわけやないで。ほんまに、水道や光熱費といった日常に必要な最低限の現金を捻出しておられただけや」

「なるほど、そう言う事ですか。しかし、今どき奇特な方ですね。世間では霊感商法が蔓延る時代ですのに……」

「俺がお婆さんを信頼した気持ちがわかるやろ」

 はい、と坂根は肯いた。

「社長は金に執着しない、清新な心の持ち主がお好きですからね」

「まあ、そうやけどな」

 洋介は照れくさそうにした。

「そんなある日のことやった。俺がお婆さんの家を訪ねると、ラジオから会社の名前と値段を、次々と早口で言っている妙な放送が流れていたんや。俺はお婆さんに『これはなんですか』って訊くと、『株式相場』という答えが返ってきた。それから、俺は株についてお婆さんから色々教わったや。といっても、教わったのは基本的なことだけやった。何故かと言うとな、お婆さんは神様のお告げの銘柄を買っておられただけやから、銘柄の選別方法は特に無いというわけや」

「それで、オカルトチックな話と言われたのですね」

 坂根が得心したように言った。

「これをプロの投資家というかどうかも、俺が手ほどきを受けたことになるかどうかもわからんが、とにかくきっかけになったことだけは間違いない。その後のことは、前に言うたとおりや」

 洋介は、稀代の相場師・是井金次郎の相場に提灯を点けて儲けていた。

「話をお聞きしますと、社長はあのとき『あぶく銭』とおっしゃっていましたが、御家族と御先祖様の遺産ですから、魂の籠ったお金ではないですか」

「そうだよな、そんな貴重な金を四分の一とはいえ、よくもまあ、ある意味博打のような株に投入するという不遜なことをやったものだと、今になって考えると、恐れ多くて鳥肌が立つ思いになるよ」

 洋介は神妙な口調で言った。

「でも、社長はなんだかいつも大きなものに護られているような気がします。今回の神村先生の件にしても、社長の才能や努力というだけではない、運の良さと言うものを感じます。世間には頭の良い人や、仕事のできる人は大勢いますが、強運な人というのは少ないと思います。正直に言いますと、私が社長に惹かれるのは、その強運に対してなのかもしれません」

「俺が、運が良い、てか?」

「はい」

「俺の過去を知ってもそう思うか」

「生意気なことを言うようですが、確かに社長は幼い頃より、散々辛く悲しい思いをされてこられたでしょうが、一度も人の道を外すことなく、今日に至っておられます。それは、その節目節目に社長を導いて下さる人が現れるからでしょう。社長のお祖母さんはもちろんですが、他人でありながら、株を教えてくださった霊能者のお婆さんや、卒業させて下さった藤波先生もそうだと思います。そして、その最たる方が神村先生ではないでしょうか」

「そうね。怒られちゃうかもしれないけど、森岡さんの度重なる不幸は、神村先生に出会うための試練だったようにも思えるわね]

 茜は落ち着きを取り戻すと、森岡が思いもよらぬ観念的なことを言った。

 このとき、茜には心に響くものがあった。

――そうか、彼の心は初めて神村先生に出会った十代のままなのだ。いかに事業に成功しようと、大金持ちになろうと、神村先生の前では永遠に一書生でしかなく、彼はそれで幸せなのだ。居心地が良いのだ。だからこそ、先生に対する思慕の念は、書生時代のまま色褪せることがなく、それがまた女性に対する純粋さにも繋がっているのだろう 。

 茜は、心惹かれた源泉を突き止めたような気がしていたのである。

「ママの口からそんな運命論的な言葉が出るとは思ってもいなかったな」

 森岡は感心顔で言った。

「そうですか? 森岡さんなら、きっとそういう風に考えておられると思っていましたけど」

 茜のこの言葉は、意図していたものかはともかく、森岡の心を強く揺さぶった。

「正直に言うと、俺もそう思わないこともなかったが、その想いはずっと心の奥底に封印して来たんや」

「どうしてですの」

「もし、それを他人が知れば、ただの負け惜しみのように聞こえるやろうし、それに……」

 洋介が躊躇いを見せた。

「それに」

 茜は洋介の手に自身の手を重ねて先を促した。

「それやったら、俺の人生は家族の犠牲の上に成り立っているということになるやろ」

 森岡は物憂げな目をして言った。

「罪悪感が湧くのですね」

 洋介は黙って肯いた。

「でも、多かれ少なかれ、皆誰かの犠牲の上に生きているんじゃないかしら。私には、あの世とやらがあるかどうかわからないけど、もしあるとすれば、森岡さんの御家族は、空の上できっと今の成功を喜んでいらっしゃると思うわよ」

「ママは本当にそう思うか」

 茜は黙って洋介を見つめ、

「生意気なことを言ったのならごめんなさい」

 と詫びた。

「いや、謝らんでええ。ママのお陰で、将兄ちゃんの件に続き、長年心に突き刺さっていた棘がまた一つ取れたようや」

 洋介は、茜にだけ聞えるように言った。

――また一つ? 他にもまだあるの。

 茜は、森岡にそう問おうとして止めた。

 森岡の表情には、いくぶん明るさが戻っていた。彼女は、それが再び曇るようなことは聞くまいと遠慮したのである。

「でもな、坂根の話やないが、八歳のときにお袋に捨てられてから、十九歳で先生に出会うまで、俺の精神を救ってくれたという意味では、恩人がもう一人おんねん」

 坂根が、まさかという顔で振り向いた。

「そのとおり。そいつが、お前の兄貴、秀樹やねん」

「兄貴が、どうして」

思いも寄らぬ言葉に、坂根は思わず声を高めた。

「秀樹はほんまええ奴やった。中学に入ったとき、俺は家の事を引け目に感じ、とにかく暗い陰湿な性格やった。その点、秀樹はまるで太陽のような奴やった。性格は明るく朗らかで、成績は常に学年で一番やったのに、少しも偉ぶったところがない。スポーツも万能で、野球部の主将もやり、男前で女子にもてたのに、浮かれたところもなかった。ほんと、非の打ちどころのない良い奴やった」

 坂根は何度も肯いた。彼の知る兄秀樹もそうだったのである。

「その秀樹が、なぜかしらんが俺のことを気に掛けて、様々なことに誘って仲間に入れてくれるんや。他の奴らも、秀樹には一目置いていたから、秀樹の言うことやったらというて、俺を仲間の輪に入れてくれた。そのお陰で、俺は疎外されたり、いじめにあったりせんで済んだんや。二年生の二学期に、秀樹が生徒会長になったときには、俺を副会長に指名までしてくれた。彼のお陰で、俺の病も中学の三年間は影を潜めていたんや」

「兄が恩人だとおっしゃった意味がわかりました」

 坂根が得心した口調で言うと、

「友人には恵まれたのですね」

 茜が羨ましげに言った。

「その秀樹が、五年前脳梗塞で半身不随の寝たきりになったと聞いたとき、俺は『なんで秀樹やねん。こんなに良い奴が、こないな酷い目に遭わなあかんのや』と、神仏を恨んだものや。俺をそんな気持ちにさせたのは、死んだ奈津実とお前の兄貴だけや。それでな、俺はそのときに勝手に誓ったんや。こないな身体になった秀樹のためにも、俺が兄代わりとなってお前の面倒を見る。それが、中学生のとき情けを掛けてくれた秀樹への恩返しやと思ってな。それでお前をウイニットに引き入れたんや。ただ、引き入れただけやない。お前を一人前に育て、いつかウイニットを背負って立つ人物にしたいと思ったのもそういうこともあったからやねん」

「兄貴との間に、そんな関係があったなんて初めて知りました」

 坂根は噛み締めるように言った。

「お前にとっては、有難迷惑な話やったかもしれんがな」

「とんでもないです。前の会社に比べて、給料を倍近くにして下さっているのは、私が兄貴の家族に援助していることを、社長が気づいていらっしゃるからだろうと感謝していました。それに、あのまま前の会社にいたら、たとえ多少の出世をしたとしても、平々凡々で退屈な人生を送っていたでしょう。社長に拾って頂いたお陰で、通常では出会うことすらできない方々と飯を食ったり、酒を飲んだりして、色んな世界を知ることができて楽しいですし、勉強になります」

 それは坂根の偽らざる気持ちだったが、森岡はそれに水を差した。

「だがな、坂根。本当はその平々凡々こそが、真の幸せかもしれんのやで。今のお 前にはわからんかもしれんがな」

「はあ」

 坂根は気の抜けた声を発した。前途に洋々たる希望を抱いている彼には、森岡の真意が理解できないのも無理のないことではあった。

 一方で、森岡の過去を知った茜は、彼の神村に対する想いの強さの根源を知り、胸の痞えが取れた気分だったが、わだかまりも残っていた。

 森岡の亡妻・奈津実である。

 茜は、それが森岡の心に刺さっている棘の一つであることを十分承知していながら、森岡の心を射止めたのはいかなる女性だったのか、という興味を胸の中に押し込めておくことができなくなった。いや、興味というより、森岡を愛してしまった女心というべきであろう。

 彼女は、返り血を浴びることになるかもしれない棘に触れる決断をした。

「ねえ、もう一つだけ良いかしら」

 茜は遠慮がちに言った。

「他に何を訊きたいねん」

「嫌だったら良いんですのよ」

 茜は森岡の心中を気遣い、今度は前もって断りを入れた。

「亡くなった奥様のこと」

「……」

 森岡には迷いがあった。

 奈津実を亡くしてから六年が経ち、昨年の春に七回忌の法要を済ませ、気持ちに区切りを付けたばかりだった。したがって、彼女との思い出の記憶を辿ることに、少なからず抵抗があったのである。

 しかしその反面、自身の生い立ちを吐露したことで、長年覆っていた心の闇に、風穴が開いたような清々しさを覚えていたのも事実だった。

 洋介は、さらにその闇から開放されるかもしれないという期待から、亡妻奈津実についても語る決断をした。


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