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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)

 神村は法要の準備で前日に出向いていたため、当日は森岡、坂根、南目、茜の四人で鳥取へと向かっていた。

 鉛色の空と際限の無い群青の海。

 岩を打ち付け、空に舞い上がる白い波飛沫と、それを避けるように帆翔はんしょうを繰り返す海鳥。

 車が日本海の海岸沿いに差し掛かってくると、森岡は堪らずウインドを少しだけ開けて潮風を入れた。

 山陰の冬場独特の薄暗い風景と子守唄代わりに聞いた波の轟き。

 そして焦げた潮の臭いが、森岡に生まれ故郷を思い出させ、胸を強く打つのだった。

 物憂げに日本海を眺めていた森岡に、茜がそっと声を掛けた。 

「ねえ、森岡さん」

「なんや」

「森岡さんは、どのようにして神村先生と出会ったの」

 森岡は一瞬たじろいだ。

「なんでそんなことを訊くんや」

「だって、どう見たって普通の関係には見えないもの。何か肉親以上の強い繋がりを感じるから、いったいそれは何なのかなあって思って」

 茜は出会ったときからずっと抱いていた想いを素直にぶつけた。

 森岡は再び視線を窓の外に戻すと、瞬きも忘れたように見つめていた。

 重苦しい静寂の時が流れた。

 茜は森岡の躊躇いの様子に、触れてはいけない過去なのだと察し、

「言いたくないのであれば、良いのよ」

 と半ば諦めの言葉を掛けた。

 すると、それに反応して森岡が振り向いた。

「長い話になるで、しかもきつい話ばかりで、ちっとも楽しくないけど、ええか」

 森岡は、愛する彼女には自分の過去を知って貰いたいと覚悟を決めた。

「はい、大丈夫です」

 茜は力強く答えた。彼女は、その表情から森岡の決意の程を十分に感じ取っていた。だからこそ彼女もまた、すでに愛してしまった森岡であれば、たとえどのような過去であっても、真正面から受け止める覚悟を決めていたのだった。

「実はな……」

 森岡が、いよいよ話始めようとしたとき、助手席の坂根が急に音楽のボリュームを上げて水を差した。それが、坂根の気遣いだとわかった森岡は、穏やかに問い質した。

「坂根、どないしたんや」

「社長のお話が聞こえないようにと思いまして」

「そないな気を使わんでええ。お前と関わりのある話も出てくるから、聞いといてくれ」

「私が、ですか?」

 坂根は、森岡の言葉に全く心当たりがなかった。彼が森岡と初めて会話をしたのは三年前であり、森岡の過去に関わりがあるはずがなかった。坂根は不思議に思いながらも音楽を切り、森岡の話しに耳を傾けた。

「俺は関係ないやろうから、ヘッドホーンでもしますわ」

 南目もそう言ったが、

「この際や、輝も聞いといてくれ」

 と、森岡は彼の気遣いも遠慮した。


 森岡は、まるで映画のワンシーンを切り取ったかのように、鮮明に刻み込まれた記憶を話し始めた。

 森岡の故郷は、いま車が走っている道のずっと先、鳥取県との県境近くにある浜浦という漁村である。

 森岡の生家灘屋はこの界隈の分限者で、権力者であった。

 灘屋にとって洋介は、待望の嫡男誕生ということで、大変に可愛がられて育った。

 だが洋介自身は、なぜかわからないが、小学校に上がる少し前の頃から、幼心に『この安寧は長く続かない』と不安を抱いていた。

 洋介の、その漠然とした予感は的中した。彼が八歳のとき、母小夜子が、突然家を出て行くという不幸に襲われたのである。

 父の洋一は、素面のときは無口で真面目な働き者であったが、酒が入ると人格が変わったように狂暴になった。

 飲酒は会社経営の重圧から逃れるためのものだった。豊漁のときはまだ機嫌が良く何事もなかったが、不漁のときは些細なことで小夜子に八つ当たりをして、よく暴力を振るった。

 洋介は無抵抗で父に殴られている母をただ見ているだけだった。彼は悲しかったし、何もできない自分が腹立たしかった。

 あまりに酷いときには、小夜子は洋介を連れて実家に逃げ戻り、玄関先で喚き散らす父の悪態を、押入れに隠れながら小夜子と一緒に聞いていたものだった。

 幼い洋介の心に暗い影を落としていたのは、まさしく父の母への暴力だったのである。

 ある日のことだった。

 小学校から帰ると、祖母から母が家を出たと聞かされた。

 そのとき洋介は、『今度はいつものように俺を連れて行かんかった。ああ、俺はお袋に捨てられたんや』と思い知ったのだが、そのときはまだ、母を許せる気持ちがあった。父の暴力は酷かったので、『これでお袋は殴られずに済むし、俺も修羅場を見なくて済む』、そう思ったのである。

 ところが、小夜子はただ出て行ったのではないということが後になってわかった。小学校で、これまで一緒に遊んでいた友人達が洋介を避けるようになった。それだけなく、陰口も叩くようになった。

 あるとき、洋介はその中の一人である石飛浩二を捕まえて問い質した。

 すると浩二は、洋介にこう言った。

「わいのお母ちゃんは男を作って逃げたがの。男狂いや」と。

 言った方も聞いた方も、男狂いという意味を正確に理解してはいなかったが、両親の陰口をそのまま口にした思われる浩二の言葉は、洋介に脳天を金槌で打ち付けられたような衝撃を与えた。同時に、その無邪気な悪口に含まれる漠然とした背徳と侮蔑の臭いは、浩二に対する憎悪を駆り立てた。

 森岡は茜を見て、小声で言った。

「俺の心のどこかに、コーちゃんを恨む気持ちがあったことは否定せえへん」

 茜は黙って頷いた。

 あの夏の日の悲劇には、このときの森岡の屈託も関連していたのだと、茜は憶測した。

 洋介は授業そっちのけで、学校を抜け出し家に帰り、祖母を問い詰めた。

 すると、最初は誤魔化そうとして祖母のウメも、洋介の表情を見て誤魔化しきれないと悟ったのだろう、涙を浮かべながら洋介をきつく抱きしめた。

 頭の片隅でかすかに抱いていた『何かの間違いだ』という望みを打ち砕かれた洋介は、とにかく頭の中が真っ白になり、いったい何が起こったのかわからなくなった。ただひたすら、寒むかったことだけは覚えていた。身体の芯から、それこそ血とか骨とか肉とか、すべてが凍ってしまうような寒さが襲ってきて、洋介はガタガタと震えていたのである。

 おそらく、突然我が身に降り掛かった不条理な現実に、極限に達した怒りや失望が外に発散されず内面に向かってしまったのであろう。

 その頃は数年続きの不漁で、小夜子は家計を助けるために保険の外交員を始めていた。漁というのは水物と言われるように、不漁だと大きな損益が出る。十三隻の一日の油代だけでも数十万円、一ヶ月だと二千万円近くなり、てご漁師たちの給料を加えると二千五百万円ほどにもなる。

 つまり一年では、休漁期間を差し引いても二億円超の損失が出ることもあるのだ。むろん、これは全く漁が無いという仮定での計算で、実際はどんなに不漁といっても一億円の赤字を出す年など滅多にない。

 灘屋には、数年不漁が続いても問題が無いほどの貯えはあったが、子育ても終わり、籠の鳥状態だった小夜子の気晴らしの意味も含めて、外に出ることを許可したのだった。

 それが裏目に出てしまったのである。

 保険の勧誘の際に知り合った顧客の男性と親密になり、駆け落ちしたのである。都会であれば、特段あげつらうこともない行状なのだろうが、昭和四十年代のしかも地方の閉鎖された村社会にあっては、前代未聞の醜態であった。

 一転して灘屋には村人の侮蔑と好奇の目が注がれることとなった。表面上は、取り立てて変わりはなかったものの、心の奥底では皆嘲笑っていたと思われた。

 いかに灘屋といえども、小夜子の不倫の末の駆け落ちは、それほどまでに取り返しの付かない痛恨事だったのである。洋介にしても同様で、その後しばらく、彼は小さな身を針で突き刺されたような痛みに耐えて行かなければならなかった。

 洋一は、後日小夜子から郵送されてきた離婚届に黙って判を押した。

 小夜子が出て行った後、悪霊にでも呪われているかのように、不幸が立て続けに灘屋を襲った。まるで、積み木の一片を抜き取られたように、家族崩壊が始まった。

 翌々年、洋介を一番に可愛がっていた祖父の洋吾郎が、それから一年も経たずして父の洋一までが相次いで死去したのである。

 洋吾郎はくも膜下出血、洋一は小夜子が去った後、益々酒に溺れた挙句に肝臓病を患い、食道静脈瘤破裂、と二人とも信じられないほどあっけなく往ってしまった。二つの大黒柱を失った灘屋の威光が地に堕ちたのは言うまでもない。

 かけがえのない家族が、次々と傍から姿を消して行く現実に、洋介の喪失感は雪だるまを転がすように、どんどん大きくなっていった。そして、あっという間に彼の小さな胸を埋め尽くしたとき、ある結論に至った。

――おらはこの世に拒まれている、と。

 ときには、この世から疎まれている以上、早くあの世へ行きたい、とさえ思ったこともあった。

「そして……」

 洋介は口籠った。

「……」

 茜は黙って洋介を見つめた。

「一度、海にな」

 洋介は言葉を切ったが、茜には意味がわかった。洋介が金槌であることを知っていたからである。

「もしかして、笠井の磯」

「うん」

 洋介は切なそうに肯いた。

「たまたま、近くで磯釣りをしていた人が居てな。助けてあげてという女性の声で気付き、俺を助けてくれたんだそうだ」

「女性って、まさか石飛浩二君のときの」

 茜が驚いたように訊いた。

「それはわからない。そのときの俺には周囲を見渡せる余裕など無かったからな。結局、波の音を聞き間違えた幻聴ということになったらしいが、ともかく運が良かったということで片が付いた」

 むろん洋介は、凶刃による死地から救ってくれたのも同じ女性だということはわかっていが、敢えて曖昧に答えた。

「ああー、俺は死ぬことも出来へんのかって、自分の運命を呪ったものや」

 この一件は、公には事故として処理されたが、浜浦の人々は皆、洋介が自殺を図ったものだと察していた。釣り下手の洋介が、よりによって一人で笠井の磯へ釣りに出掛けたのを訝ったのである。

 さて、そのような洋介の唯一の支えは、一人生き残った祖母のウメであった。

「恥ずかしい話やが、ときたま悪い夢にうなされて夜中に目が覚めたりするとな、俺はお祖母ちゃんの布団に潜りこんで、萎んだ乳房をまさぐっていた。五年生にもなってやで」

 森岡は恥も外聞も無く言った。

「きっと、お祖母様の肌の温もりでしか、生きていることを確認できないほど淋しかったのね」

 茜は目に涙を溜めながら言った。

 坂根好之と南目輝は息を詰めて聞き入っていた。

 坂根は、兄秀樹から耳にしていた森岡の人生観を変えた詳細な経緯に圧倒され、南目は経王寺の同居時代を思い出し、自分より遥かに辛い過去を生きていたはずの洋介の明るい振る舞いに、感動すら覚えていた。

 結局、小夜子の家出がきっかけとなり、知らず知らずのうちに蝕まれていた洋介の精神は、度重なる不幸で、その症状が徐々に酷くなって行った。

 そして、それが決定的に表面化したのが、大学受験が近づいた高校三年の秋頃であった。とうとう、人前に出るのが怖くなった彼は、不登校が目立つようになり、部屋に閉じこもりがちになってしまった。現在でいうところの引き籠もりである。そのときの後遺症なのだろうか、彼は人混みが苦手である。

 それでも、洋介は教師に恵まれていた。一年次の担任だった藤波芳隆である。

 彼の尽力で、洋介はどうにか卒業はできた。だが、とても大学受験どころではなかった。当然、浪人する羽目になったのだが、その後も症状はますます酷くなる一方で、家から一歩たりとも出なくなった。

 目を覆うばかりに変わり行く孫の姿を前にして、なす術を知らない老いたウメの辿り着いた先は、神仏に救いを求めるということだった。

 元来、ウメは日頃より暇を見つけては方々の神社仏閣を参拝するという、大変に信心深い人間だったので、ますます神仏に傾倒し、孫の病を治そうと、霊験あらたかと噂に聞けば、一縷の望みを抱いて洋介を連れて参拝した。

 洋介が救われたのは、赤子の頃から家事に追われていた小夜子に代わり、ウメに育てられたということであろう。彼は毎日、朝な夕な神棚や仏壇に読経するウメを傍らで見聞きして育っており、神仏のもつ神秘性に抵抗感がなく、疑念も抱かなかったのである。

「俺自身もな、胸の片隅で何とかせねばという思いを抱いていたから、素直にお祖母ちゃんに従っていた。よくよく考えてみれば、それが俺に神仏の御加護というべき幸運をもたらしたんやな」

「神村先生との出会いね」

 茜が得心したように言った。

森岡は力強く肯いた。

「俺が二浪も覚悟していたその年の暮れ近く、神村先生が荒行通算千日達成という偉業を成し遂げて、故郷の米子に凱旋されたんや。先生の偉業は米子だけでなく、近隣地域にも隈なく知れ渡っていてな、ある伝説を生む事になった」

 それは、神村が米子駅に到着したときであった。駅から大経寺までの約二キロ沿道が、宗祖栄真大聖人の生まれ変わりと噂に名高い神村を、ひと目だけでも拝みたいという信者で埋め尽くされたのである。

 交通規制された車道の中央を、警察車両の先導を受けた神村が、読経を唱えながら歩みを進める様は、まさに聖者の行進だったという。

 ウメは、その沿道の人込みの中にいたのである。神村を眺めた彼女は、後光の射したその姿に生き仏様を見た心地になり、

――このお方こそ、孫の心の病を治して下さるに違いない。

 と確信したということである。

 神村が三日間滞在していた大経寺には、連日大勢の信者が相談事を持ち込んだ。ウメも伝手を頼り、何とか三日目の遅くに神村への面会を許された。

「忘れもせんわ、年の瀬も深まった十二月二十九日の夕方やった。初めて先生の顔を見た瞬間、俺は心の中で『この人だ!』と叫んでいたんや。この人が俺を救ってくれる。俺の心を満たしてくれる、ってな。それまで、数多くの神社仏閣を参拝し、世間から偉いと尊敬されているお坊さんと面会してきたんやけど、皆出会った瞬間『ああ、この人では俺は救われない』と絶望感が沸いていたもんやった。それが先生のときは、初めて俺の心が弾けたんや」

 洋介は、とにかく胸の奥底に鬱積していた想いを、次から次へと神村にぶつけた。神村は、その一つ一つに丁寧に答えた。神村の言葉を聞いているうち、洋介は再び生命を吹き込まれたかのように立ち直っていった。全身を駆け巡る血液の流れを感じるほどに、気力が漲っていったのである。

 正直に言えば、洋介には神村の話の内容がほとんど理解できていなかった。

 仏教の世界観と中国哲学。

 小難しい言葉を並べられても、外国語を聞いているようだった。しかし、その良くわからないというのでさえ、不思議と心地良かったのである。

 どう言えば良いのか。赤子のウンチでさえ愛しいと思う母親の心情に通ずるといったところだろうか。高僧の言葉をウンチに例えるなど畏れ多いことなのだが、要するにそのときの洋介には、神村の口から出たものであれば、どのような言葉でも有り難かった、ということなのである。

 最後に神村の、

「年が明けたら、私の許に来るか」

 との誘いに、一も二もなく、

「はい!」

 と即答していた。

 年が明けて、ウメとの最後の正月三が日を過ごすと、洋介は直ちに故郷浜浦を離れ、経王寺に寄宿し、神村が手配した家庭教師の教えを受け、浪速大学に合格したのである。

 ウメは、洋介が大学に入学して間もなく、神村に引き取られたのを見届けると、まるでこの世での役目を終えたかのように、身罷ってしまった。

「故郷におじやおば、いとこ連中はいるけど、家族という意味では天涯孤独になった俺は、その寂しさを埋めるかのように、先生を父とも兄とも慕い、先生の思想哲学に傾倒していったというわけや」

「そんな辛い過去があったなんて、今の森岡さんからは想像もできない」

 茜は涙が止まらなくなっていた。化粧はすっかり剥がれ落ち、鼻水まで垂らしている始末なのに、その泣きじゃくる素顔が、森岡の目にはとても美しく映り込んでいた。


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