第五章 過去(1)
森岡洋介と神村正遠は、ロンドで久しぶりに旨い酒を酌み交わしていた。
仙台市・北竜興寺の弓削広大をはじめとする妙智会幹部らの署名活動は予想を上回る進展を見せ、神栄会と話を付けたことで、霊園地買収作業も滞りなく捗っていた。
二人にとっては、束の間の休息であった。
「ところで、森岡さん。この間のおかしな電話はいったいどういうことでしたの?ずっと気になって仕方がありませんでしたわ」
神村が他のホステスと会話を始めたと見るや、すかさず茜は森岡を問い詰めた。
しまった、と森岡は悔やんだ。その後、彼女に事情を説明していなかったのである。
「電話一本下さらないし……」
「ああ、あれか。ごめん、ごめん、おかしな電話をしてしもて」
森岡は平身低頭で詫びると、
「いや、たいしたことやあらへん。ちょっと、芝居を打つ必要があったんや。そこで、ママに電話したというわけや」
と曖昧な言い訳をした。
「どういう芝居ですの? その、女の人ですか」
茜は不安そうに訊いた。彼女に嫉妬の情が募った瞬間だった。
「ちゃう、ちゃう、そんなやあらへんがな。ちょっと、その筋が絡んどったんや」
女性の影を慌てて否定した森岡だったが、
「えっ、その筋? 森岡さん、そういう人たちと付き合いがあるのですか。私、その筋の人は大嫌いですから」
茜は極道を指す言葉に過剰な反応を示した。
「付き合いなんてないがな。霊園の買収の件で、どうしても話を付けにゃならんかったんや」
「仕事なら仕方ないとしても、個人的な付き合いは止めて下さいね。特に、ロンド(ここ)へは絶対に連れて来ないで下さい」
「わかっている。ロンドは、極道者の入店は断っとるからな」
「そうですけど、森岡さんが御一緒だと断れませんもの。ですから、絶対に連れて来ないで下さい。とにかく、大嫌いなんです」
茜は、いかにも忌々しげに言った。
「そないに心配せんでも、ママの嫌がることはせえへん。せやけど、そこまで毛嫌いするとは何かあったんかいな」
極道者が世間の嫌われ者であることを否定はしないが、茜の態度にはそれ以上の拒否感があった。
「……」
茜は、黙って顔を顰めた。珍しいことだった。商売上、茜はどのような場合でも嫌な顔は見せないはずであった。
「いや、言い難かったら、言わんでええ。すまん、すまん」
つい軽い調子で口に出した言葉で、彼女を殊の外不快にさせてしまったことは、森岡を酷く後悔させた。彼は禁断の領域に足を踏み入れたことを察し、低姿勢で詫びた。
だが森岡は、神栄会の一件以来、心に纏わり付いている疑問があった。そのため、茜に気兼ねしながらも、極道者の話に及ばざるを得なかった。
顔を戻した神村に、
「ところで、先生。榊原さんから先生と金刃正造という極道者との関わりを伺ったのですが、榊原さんは何故そのことをご存知だったのでしょうか」
と訊いた。
「金刃正造? ああ、あの金刃さんね。またずいぶんと昔の事を引っ張り出してきたね」
神村は遠い昔を思い起こし、懐かしむように言った。
「どうしても先生にお伺いしたかったものですから」
「何故って、あの時は私が初めて総本山から下りて間もない頃だったから、何分世俗の事には疎くてね。葬儀のことについて、私の方から榊原さんに相談を持ち掛けたのだよ。だから、その経緯は一部始終ご存知なのだ」
森岡は、全身から血の気が引いて行くのがわかった。
「ちょっと待って下さい。先生のおっしゃるとおりですと、先生と榊原さんは、私が経王寺に入る前から知り合いということになりますが」
「もちろん、そうだよ」
神村は、至極当然とばかりに答えた。
「でも、私が初めて榊原さんとお会いしたとき、経王寺は初めてだとおっしゃっておられましたが」
森岡は不審げに訊ねた。
「そうか、君はまだ榊原さんから事実をを聞いていないのだね」
「事実、ですか」
森岡は目を見開いた。
「そう。君も覚えていると思うが、あの頃は宗教上の弟子すら持たない私が、こともあろうに一般学生を書生にしたということで、物議を醸していただろう。信者や知人の中には、君を品定めしたいという者まで現れた」
「はい」
「榊原さんがイの一番だったのだよ」
「え? 福地の義父ではないのですか」
「いや、榊原さんだ。彼は、君が受験勉強をしていた頃からご存知だった。そして、大学受験を終えても、私が君をそのまま寄宿させていたので、どういうことかとお訊ねになったのだよ。そこで、経緯をお話しすると、それならば私の留守中に一度君を観てみたいとおっしゃったのだが、生憎その直後に体調を崩されてしまった。そのうち、一旦君が経王寺を出たものだから、ますます機会を失ったということなのだ。ともかく、榊原さんはただ観るだけではなく、君を試してみるつもりでおられたのだが、君と会った後、すぐ私に電話があってね。予想以上の青年で大いに気に入った、そこで自分にも育てさせて欲しいとおっしゃったのだ」
「……」
森岡は、思いの外の話に、ただ唖然と聞いていた。
「言われてみれば、私は宗教以外のことには全く疎いだろう。君は宗教上の弟子ではないから、実務というか、社会的なことを学ぶには榊原さんが適任だと思って、申し出を受け入れたのだよ。すると榊原さんは、それなら私とは先に付き合いが無いことにしようと申し出られたのだ」
「それはまた、何故でしょうか」
「もし、私と榊原さんが自分より先に知り合いだったと知ると、筋目ということを重んじる君のことだから、何事も私の判断を仰ぎ、了解を得ようとすることが目に見えている。それだと、決して君のためにはならないと考えられた。さすがに榊原さんだ。君との会話の中で、君の性分を見抜かれたのだよ。本来であれば、年中行事のときに出会っていてもおかしくないのだが、どういうわけか君たちは顔を合わせていなかった。榊原さんは、それも天の配剤だとおっしゃったのだ」
森岡は、はたと思い当たった。
榊原が何かにつけて寺院を訪れたのは、いずれも神村の不在のときだったのである。いかに多忙の神村とはいえ、寺院の内情に通じている榊原のこと、その気になれば神村の在院の予定を把握することなど、さして難しいことではない。商売を第一に考えたならば、榊原が何度も無駄足を運ぶはずがなかった。
「そういうことだったのですか」
森岡は呻くように言った。
「だから、森岡君。榊原さんを責めてはいけないよ。それもこれも皆、君のことを思っての、親心から出たことなのだからね」
「重々承知しております。榊原さんを責めるだなんて、とんでもないことです」
森岡は顔が赤らんでいるのを感じた。穴が有れば入りたい気持ちだった。
常識の上に立って考えたならば、榊原のような一流人が、ただの一学生如きに興味など持つはずもなかった。それを勘違いして、自分が見込まれたなどと、自惚れも甚だしいことだった。
「それなら良い。しかし、榊原さんも、どうしていまさら君に知られるような昔の話をされたのだろうね」
「それは、霊園地買収に関して問題が起こりまして……」
森岡は、神栄会との一件を詳細に話した。
「それはまた、君たちに苦労を掛けたね」
神村は詫びるように言い、
「あの葬儀の件は、榊原さんも当事者の御一人だから、詳細に話されたのだろうね」
「そうなのです。榊原さんのお陰で話が纏まりました」
森岡が小さく肯くと、会話が一段落したのを見て、
「とても素敵なお話ですね。三人とも全く赤の他人なのに、森岡さんの神村先生を慕う心、神村先生と榊原さんの森岡さんに対する親心、何だが狐と狸の化かし合いのような世界にいる私には、心が洗われるような関係ですわ」
傍らに居た茜がしみじみと本音を漏らした。
彼女の言葉に、神村が何かを思い浮かべた顔つきになった。
「そうか、心が洗われるかね」
「心の垢が取れそうです」
「それなら、もっとその垢を落としてあげようか」
神村の目は童のような光を湛えている。
「どういうことでしょうか」
戸惑う茜に、
「ママは来週の土、日は空いていないかね」
と、神村が訊ねた。
「来週の土、日ですか? ええーと、特別な用事はありませんが」
「では、どうかね。土曜日一泊で、鳥取へ行ってみる気はないかい」
神村の眼光がますます輝きを増した。
「先生と鳥取へ一泊旅行ですか? でも……」
茜は、およそ神村の口から出るはずのない誘い文句に、戸惑いの眼差しを森岡に向けた。
森岡は、笑いを噛み殺している。
あははは……、と神村もまた破顔し、
「おいおい、ママ。勘違いしてもらっちゃ困るよ。もっとも、ママほどの器量良しなら、私もそういう誘いをしてみたい気もなくはないがね。だが、残念ながら今回はそういうことではないのだ」
と、茜の想像を否定した。
神村の誘いとは、来週末に鳥取市の見相寺で行われる亡き先代の住職・喜多堂海上人の、七回忌法要に参列することだった。喜多堂海は天山修行堂において、一時期久田帝玄を補佐していたことがあり、神村も何度が教示を受けていた関係で、法要の脇導師を務めることになっていた。
とんだ見当違いに、茜は身の置き所がないほどに照れた。そして、神村がトイレに立った隙を見計らって森岡にその身をすり寄せた。
彼女はすっかり恋人気分で、頭を森岡の肩に預け、甘える仕草で訊いた。
「ねえ、ねえ、森岡さん。法要はどうなさるの」
「もちろん、参列するけど」
「それなら、私もお誘いを受けようかな」
茜は、思惑が有り気な口調で言った。
「止めとけ。法要なんて参列したことがないやろ? あったとしても、一般人のそれとはわけが違うんや。まして、縁もゆかりもない法要に参列したって、時間の経つのが苦になるだけや」
森岡は、無造作に茜の頭を手で退かしながら、強く反対した。高僧の法要ともなると、そうでなくても儀礼的なものが、さらに格式ばったものになり、読経も長時間もとなった。茜がことさら宗教に興味を持っているとも思えず、退屈するだけだと思ったのである。
だが、森岡のせっかくの忠告にも、茜は神村が席に戻って来ると、
「先生、私も参列させて頂きます」
と子供が親の言い付けに逆らうように、あっさりと承諾してしまった。
「そうかね。それなら、森岡君の車に乗せてもらって行きなさい」
「えっ、先生も御一緒ではないのですか」
「私は準備があるから、君たちとは一緒には行けないよ」
神村は喜色満面でおどけた。それは、意図したことが上手くいったからなのか、法国寺の件が良い方向に動き始めたことによる、心の余裕の表れなのかは定かでないが、ともかく、森岡は初めて見る師のお茶目な一面に、心が癒されて行くのを感じていた。
と、そのときだった。フラッシュ・バックのように昔の記憶が過ぎった。
――いや、先生のこの表情は初めてではない。遠い昔に何度も見ている。
森岡は勘違いに気づいた。
森岡が書生を始めた当初、神村が在院している日の食事は、外食や出前で済ますか、あるいは近所の信者が料理を運んでくれたりしていたが、稀に森岡が夕食の支度をすることがあった。
言うまでもなく、それまで一度も厨房になど立ったこともない森岡に、料理などできるはずもなかった。米を研ぐこと一つ取り挙げて見ても、彼は白く濁っているのは米の汚れだと思い、洗い水が完全に澄み切るまで研いだりしていた。
おかずといえば、彼の大好物で祖母によく強請っていた卵焼きを、記憶を辿りながら見様見真似で作ったのがお決まりで、それも玉ねぎがふんだんに入っている特製だった。
おまけに、山陰は塩でも醤油でも濃い味が一般的で、少年時代に米子を離れ、関西の薄味に慣れていた神村の口には合わなかったであろう。他はといえば、伯母が送ってくれた若布の茎の漬物と鯵の開きという粗末なものだった。
しかし、神村は森岡が卵焼きを作る度に、美味いはずがないそれらを、
『なかなかいける』
と言って、笑って食してくれていた。
今、目に映る神村の笑顔は、
『まさに、そのときのもの』
と思い起こしたのだった。
森岡は、懐かしげに神村の面影を追っていた。神村は大変に品の良い顔立ちだった。四角ばった輪郭で、少しえらが張ってはいたが、それが読経の美声へと繋がっていると思われた。涼しげ目元に、少し大きめの鼻が居座る面立ちは、美男と言うよりは、気品があると言う方が当てはまっていた。
今頃になって、何故か森岡の脳裡に、遠い記憶が駆け巡っていた。
帰り際、フロントで支払いをしている森岡に、茜が請求書を持って近づいて来た。神村と谷川東良が溜めた「付け」だった。明細を確認すると、二人は森岡の知らないところで十数回訪れており、金額は三百万近くになっていた。
「森岡さん、本当に宜しいの? 私がこんなこと言うのもおかしいけど、神村先生も御一緒ならともかく、半分以上は谷川さんお一人でいらっしゃったものですのよ」
「構へん。前も言うたとおり、しばらくは俺が払う。すまんけど、これを俺個人宛で、会社に送ってくれるか」
「承知しました。話は伺っていましたけど、高額だったので、いちおう事前に森岡さんの耳に入れておこうと思いまして……」
「おおきに。それよりママ、いろいろ頼みがあんねんけど」
森岡は口調をあらためた。
「あら。なんですの」
「以前、筧のことで忠告してくれたことがあったやろ」
「その節は差し出がましいことを致しました」
茜はそう言って頭を下げた。
「いや、そうやない。ママの言うとおりやったんや」
「え、なにがです?」
「実は、筧が裏切りよった」
森岡は渋い面で言った。
茜は何とも言い難い表情で、
「まあ」
と口に手を当てた。
「そこで頼みなんやが、俺の入院中に筧が連れて来た客の名刺を貸してくれへんかな」
「……」
茜は黙って考え込んだ。
「いや、店の信用に関わるということは重々承知しているつもりや。その上でお願いしたいのや」
「実は名刺を頂いていないのです」
「そうか、名刺は出さんかったんか」
「誰かさんみたいに、駆け引きではなく、中には本当に名刺を下さらないお客様もいらっしゃるのですが、筧さんが連れていらっしゃった方は揃ってそうでしたので、おかしな差し出口をしたのです」
茜は嫌味な色を込めて言った。
「なんか、一生言われそうやな」
森岡は苦笑いをした。
「一生って、一生お付き合いしていただけるのかしら」
今度は言葉尻を捉えた。
「あ、あほ。言葉のあや、やがな」
森岡は突き放したような言い、
「そんなことより、真っ当な商談ではなかったのやろうな」
と口惜しげに呟いた。
その表情を見た茜が微笑んだ。
「でも、会社名と名前はメモを残しています」
「ほんまか」
はい、と誇らしげに肯いた茜だったが、同時に、
「ただ、でたらめかもしれませんから、当てにはならないと思いますが」
一抹の懸念も示唆した。
「構へん。そのときは諦める」
「では、自宅のノートに控えていますので、後日お知らせします」
「おおきに。もう一つやが、須之内さんはよう来られるのか」
「週に一、二度ぐらいのペースですけど、須之内様が何か」
「俺が法国寺の裏山を買収していることを知っていたんや。これは秘事でな、彼が知るはずがないんや」
「ロンド(うち)が怪しいと思っていらっしゃるのね」
「気を悪くせんといてな」
「でも誰かしら」
茜は首を傾げた。
「俺が買収地の話をしたのは、真鍋さんをお連れしたときだけや。となると、そのとき席に着いたホステスやないかと思うのやが」
「わかりました。それとなく調べてみます」
「宜しく頼みます」
森岡は丁寧に頭を下げた。
「ところで、週末は二人で旅行だなんて楽しみですわ」
茜は手のひらを森岡の胸に充てて、上目遣いで見上げた。
「あほ。南目が運転して行くし、坂根も同行するから四人や」
とぶっきら棒に言った森岡の目と目が合うと、茜は恥ずかしげに俯いた。
その、三十路手前の熟れた艶やかさの中に、少女の恥じらいが入り混じった、まるで麻薬のような禁断の色香に、森岡も戸惑いを覚えた。
「それでも良いわ。後部座席では二人きりですもの」
茜は、もう一度上目遣いで森岡を見つめた。
「物見遊山に行くんやないんやで、法要や法要! ママ、ちゃんとした服を用意しときや」
動揺を隠し切れない森岡は視線を逸らし、捨て台詞を吐いた。
後日、茜から情報提供を受けた森岡は、野島に筧が接触した五名を調べせた。野島は、筧の後釜として仕事を受け継いだ営業課長を連れて面会に臨んだ。その結果、五名とも実在したが、取り立てて疑わしい点はなかった。
明後日に鳥取行を控えていたその夜、森岡は西中島南方にある飲食ビルの店子のスナックを、一晩で梯子飲みをした。
実に十一店舗である。
坂根好之の誕生日の祝いを兼ねての馬鹿遊びだったのだが、午後八時から深夜の二時まで、六時間で十一店舗、つまり一店舗当り僅か三十分強という短い所要時間だった。
しかも、義理堅いことに全ての店舗でボトルを入れたのである。いずれの店でもヘネシー・VSOPをボトルキープした。スナックでは一万五千円から一万八千円もする高級酒だが、それでも北新地に比べれば半額という安さだ。
最初に入った最上階の「プロローグ」という店には、二十代後半と思われる男性の先客がいた。この飲食ビルは七階建てで、一階に焼肉店が入り、二階から六階までは二店舗ずつという間取りだったが、最上階のフロアーだけは一店舗だった。
森岡は、一番奥のカウンターでカプリという極細のタバコを銜えていた男は、ママの「色」だと直感した。ママは二十代前半という若さで、かなりの美形である。おそらく、北新地のホステスだったのを愛人にして店を持たせたのだろうと勘繰ったのである。
森岡は何気に鼻をつまみ、サインを送った。
こういうとき、森岡は即席の芝居を打って遊ぶ癖があった。偽名を用い、大企業の社長の息子であるとか、地方の資産家の御曹司だとか、適当に正体を誤魔化して遊ぶのである。いずれも全くの嘘というのでもなく、当らずとも遠からずといった設定だった。
坂根や南目もよく心得たもので、森岡のアドリブに上手く話を合わせていた。
二人は、今夜はどういう設定だろうかと、ママの問い掛けを待っていた。むろん、この夜も三人は偽名を使い、名刺は渡さなかった。
初見で名刺を渡さないとき、森岡は現金を預けることにしている。ママの不安を解消するためだが、もちろん店側も、実際には現金を確認するだけで受け取ったりはしない。
ほどなく、ママが森岡の職業を訊いてきた。
「IT企業を経営しています」
森岡はそう言うと、声を低めた。
「実は、大きな声では言えませんが、神王組傘下の暴力団組長の息子なのです」
森岡は平然と言ってのけた。
唖然としたのは、ママだけはなかった。坂根と南目も、よりによって暴力団関係者を装うなどとは思ってもいなかった。
「私は後を継いでいませんから、堅気ですよ」
森岡は笑って見せたが、ママの緊張は解けなかった。何しろ、連れ立っている二人のうち、南目は身体も大きく眼つきも鋭いし、坂根は温和だが、拳には空手の修練でできた胼胝があった。二人が護衛役だとしてもおかしくはないのである。
微妙な空気が漂う中で、三人はカラオケを一曲ずつ歌った。
三人とも歌は上手かったが、特に坂根は玄人跣だった。戦後間もなくの頃の歌から最新の曲、演歌からポップス、果ては外国曲までとレパートリーは幅広かった。森岡や南目が歌い始めても、他の客は一瞬耳を傾け『上手いな』といった表情をした後、自分たちの世界へ戻ったが、坂根が歌い始めると、話に夢中になっていた客たちも彼の歌唱に聞き惚れ、歌い終えるとやんやの喝采となった。
そのせいでもないだろうが、夜の世界では坂根が一番にもてた。
南目は元暴走族の頭だっただけに、眼つきが鋭く強面である。森岡は資産家ではあるが、安易に他者を寄せ付けない雰囲気がある。その点、柔和な顔立ちで歌が上手く、知識も豊富な坂根は人気者だった。
さて、張り詰めた三十分間が過ぎ、森岡が勘定を頼んだときだった。
「これから、どうされますか」
件の男が話し掛けてきた。
「下の店に行きます」
森岡が答えると、
「気に入らないことでもありましたか」
男は困惑顔で訊いた。高級酒をボトルキープしておきながら、短い時間で席を立つのは気分を害してのものだと勘違いしたのである。
――やはり、ママのスポンサーだな。
そう確信しながら、
「いえ、いえ」
森岡が手を左右に振って事情を説明すると、
「でしたら、私もお供させてもらえませんか。いえ、勘定は自分で持ちます」
と切り出した。
来る者は拒まず、が哲学の森岡である。
では、と言って名刺交換をした森岡の目が丸くなった。
「奥埜清喜さんとは……もしかして徳太郎さんのお孫さんですか」
「はい。まさか貴方が森岡洋介様とは……祖父から話は聞いておりました」
奥埜清喜も興奮の体である。
「西中島南方は奥埜家の庭も同然とはいえ、こういう偶然もあるのですね」
「森岡さんは北新地が専門だと思っていました」
確かに、森岡の大阪での主戦場は北新地である。
「同郷の方が、この西中島南方で活魚料理店を経営しているものですから、その流れでこちらで飲むこともあるのです」
「とはいえ、西中島南方にも数百の店が有りますから」
運が良かった、と言った清喜が真顔になった。
「先ほどのお話は本当のことですか」
「先ほどの話?」
「いや、その、貴方の御実家が極道……」
ははは……と森岡が言葉を奪うように笑った。
「冗談ですよ。私は歴とした堅気、漁師の息子です」
「そうですか」
堅気と聞いて、奥埜清喜はむしろ落胆したような顔を見せた。
――俺に近づいたのは、何か曰くがあってのことらしいな。
そう推量した森岡は、
「それよりどうです、お近づきの印に、今夜は朝まで飲み明かしせんか」
「それはもう、喜んで」
森岡の誘いに、奥埜清喜は破願して応じた。
各スナックのママは一様に仰天した。森岡の遊び方も豪快だが、西中島界隈の大地主で、大家でもある奥埜家の御曹司が下手に出ていたのである。




