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黒い聖域   作者: 久遠
28/185

               (3)

 伊能が退室すると、森岡は隣の部屋に待機していた坂根と南目を呼び付けた。その森岡の形相に二人は状況を悟った。

「輝。お前、余計なことをしたな」

 森岡は南目を睨み付けた。

「すまん、兄貴。悪気があったわけやないんや。俺は、どうしても兄貴を酷い目に遭わせた奴を探し出したかっただけだ」

 後ろめたさのある南目は首を竦めた。

 森岡が入院中、南目は毎日欠かさず見舞いに病室を訪れており、森岡が茜に告白したときもそうであった。

 僅かに開いていたドアの隙間から垣間見えた二人の深刻な様子に、南目は中に入ることを憚った。すると、会話の内容こそわからなかったが、「石飛浩二」という森岡の幼馴染の名が耳に届いた。南目は、森岡の悄然とした様子から、その石飛浩二こそ坂根の言った因縁の相手だと推察した。

 米子市出身の彼は、夏になるとよく海遊びに出掛けていた経験から、島根半島の地理には覚えがあり、休日を利用して浜浦を訪れていたのである。

 続いて、鉾先は坂根に向かった。

「坂根。誰にも言うなと命じたはずやで」

「申し訳ありません、社長。輝さんが、あまりにも必死でしたので、つい口を割ってしまいました」

 坂根も肩を落として詫びた。

「あらためて、二人に言うとく。この事、他言は厳禁やぞ。坂根、万が一にも無いとは思うが、野島にもよう言うとけ。それと輝。今後余計なことをしたら、お前かて容赦はせんぞ」 

 森岡の厳しい口調に、二人の顔面は蒼白となっていた。

 

 翌日、森岡は緊急の幹部会議を開いた。

「急なことで悪いが、皆に報告せにゃならんことがあるんや。他でもないのやが、京都の霊園予定地の買収が上手いこといっとらんのは皆も知っとるわな。そこでだ、このままではいっこうに埒が明かんから、最後の手に打って出ることにした。光陽実業にな、抑えている土地を一坪あたり五万円までなら買い取る用意があると告げるつもりや。そうなるとな、さらに二、三億の金が必要になってくる。これは俺にとっても予定外の出費でな、新たに調達せにゃならんのやが、俺はそれを真鍋さんに頼もうと思っているんや。そこで、皆の了解が欲しいんやが、真鍋さんからは借金という形は取りとうないんや。この際、ウイニットの安定株主になってもらおうと思う。つまり俺の持ち株の内、全体の五パーセントにあたる三百株を一株百五十万円で真鍋さんへ売却しようと思うんやが、どうやろうか」

 突然の株式放出話に、幹部たちに波紋が広がった。金融機関以外の外部への株式譲渡は初めてだったのである。

 皆が動揺の色を隠せない中で、野島と坂根の二人だけは、これが森岡の芝居であることに気づいていた。

 二人とも事前に知らされてはいなかったが、野島は先の五人に仕掛けた罠の延長線上にあると推察し、坂根はそれに加えて、森岡が二、三億の金に困るはずがないことを知っていたからである。

 ざわめきが収まらない中で、野島が皆の心情を代弁した。

「あのう。宜しいですか」

「野島か、ええよ」

「社長が真鍋さんと個人的に親しくされているのは知っていますが、ウイニットの株主になるとなれば、話は違ってきます。場合によっては経営にも口出しされるようになると思われますが、その点は大丈夫なのでしょうか」

 全体の五パーセントということは、十分な発言権を有することになる。

「野島の懸念はもっともや。そこでだ、会社ではなく真鍋さん個人に株を持ってもらおうと思っているんや。野島が心配するとおり、会社だと真鍋さんの意向に逆らって、我が社に役員を送り込もうとするかもしれんが、その点、真鍋さん個人なら信用してええやろうからな」

 野島の質問は続いた。

「そういうことできたら、構いません。ただ、それによって社員に割り当てられる株数が減らされるということはないでしょうね?」

「それは心配いらん。約束どおりの株数を持たせる。真鍋さんの分はあくまでも俺の持分を減らす」

 幹部社員の懸念を払拭した森岡は、最後に一言付け加えた。

「皆には、気に入らんこともあるやろうが、俺は今回の件から手を引くわけにはいかんのや。とことんやるつもりやが、そうは言っても、おのずと限度というものもある。光陽実業との駆け引きはこれで終わりや。これが最後通告で、それでも折り合いが付かん場合は、他の土地を買収するつもりや」

 そこまで言うと、森岡は声を低めた。

「実はな、もう他の土地を探してはいるんや。せやけど、ちょっと不便なんでな、できることなら、今の買収が上手くいけばええと思って粘っていたんやが、それもこの提案を最後にしようと思ってる」

 全てが森岡の作り話だった。

 この情報が漏れれば、敵は慌てるに違いないと読んでいた。いかに吉永幹子や柿沢康弘であっても、元は坪当たり五千円の土地を、十倍の五万円で買い取る約束などしてはいないだろう。

 さすれば、彼らに苦渋の選択を迫ることになる。彼らがあらためて同額以上での買収を約束しなければ、光陽実業はさっさと土地を森岡に売却するだろう。そうかといって、同額以上で買収する約束すれば、森岡は他に土地を求めることになり、結果として彼らがこの土地に投じた資金は全くの無駄金になる。

 なにしろ、この土地を利用しての霊園事業を考えても、すでに山の入り口を森岡に買収されていて、幹線道路から霊園への道を引くことができないのだ。

 

 その日の夜、森岡は野島を幸苑に呼び出し慰労した。

「野島、ほんま助かったわ。お前の忠言がなかったら、獅子身中の虫を見逃すとこやった。おおきに」

 と頭を下げた森岡に対して、

「いえ、たまたま勘が当たっただけです」

 野島はどこまでも謙虚だった。

「しかし、『灯台下暗し』とはよう言うたもんやな。自分で言うのもなんやが、他人事だとよう見えるものも、自分のことなると、たちまち霞が掛かるということやな。俺が幹部会議で先生の助力を議題に掛けたとき、お前や住倉と対峙してまで筧が強力に賛成したのは、俺の心証を良くしようという狙いと、俺の目から逃れることができ、裏切り工作がし易くなるという魂胆があったんやな。俺が入院していたときも、喜々として跳梁跋扈していたに違いない。お前が居ってくれて、助かったようなものや」

 森岡はほろ苦く笑った。

「神村先生のこと以外でも、そういうことがあるのですね」

 坂根は嘆息すると、

「だとすると、専務の勘が当たって本当に良かったですね。ところで専務、筧が怪しいという勘がどうして働いたのですか? 先日は、社長から『心にやましいことを考えている奴は、ふとしたときに襤褸が出るものや』と言われたということでしたが、本当にそれで気づいたのですか」

 興味深い様子で、野島に訊ねた。

「まあな」

 だが、野島は気のない返事をした。

 それが、自分の胸中を思い遣ってことだとわかっていた森岡は、野島に代わって答えた。

「坂根。厳しい修行を積まれた神村先生や御前様のような高僧か、あるいは超能力者ならともかく、凡人の俺らにそんなことがわかるはずないやろ。俺が野島に言ったのは『言葉のあや』やがな」

「言葉のあや、ですか? では、専務はどうして筧が怪しいと思われたのですか」

 坂根は当惑顔で訊いた。

「野島は何も言わんから、これは俺の推測やけどな、おそらく筧が寺院ネットワークの協賛会社として、ギャルソンを見つけてきたときから、あまりの手際の良さに疑問を持ったんと違うかな。盲目だった俺は、それを筧の手腕やと評価してもうたが、野島はそうやなかったというわけやな。その後、宇川が裏切ったことで野島はますます筧に疑いの目を向け、動向を見張っているうちに、何らかの確信に近いものを抱いたんやろ」

「ちょっと待って下さい、社長。そうなら、なぜ専務はそのようにはっきりと言われずに、『勘』などと誤魔化されたのですか」

「それが、野島の俺に対する心配りやがな。俺が大きな期待を掛けていた筧が裏切っていたことを、部下の自分から指摘されるのではなく、俺自身の手で探り出せれば、面目も保てるし、冷静に事実を受け入れられると考えたんやろ。なあ、野島」

「やはり社長はお見通しなのですね」

 森岡の話を黙って聞いていた野島は、その一言だけ口にした。

「ま、俺が里奈ちゃんの裏切り行為を黙っていたのと同じ配慮と言うことやな」

 森岡は信頼の目を野島に向けた。

 その瞬間、坂根は重苦しい心境になった。

――森岡社長と野島専務。この二人には、十年以上苦楽を共にして来たことで、信頼の土壌が出来上がっている。だからこそ、言葉にしなくてもお互いの考えていることを察せられるのだろう。はたして、自分と森岡社長との間に、二人のような関係性が築かれるまでには、いったいどのくらい時間を要するのだろうか。 

  

 こうして森岡が社内の反乱分子を突き止めた頃、藤井清慶の許には新たな陰謀の計画が持ち込まれていた。

 名古屋城のすぐ脇にあるキャッスル・グランドホテルの一室に、ある男が清慶を呼び出し、密会に臨んでいた。栄覚門主の言った「雲」である。

「清慶上人。状況は一進一退のようですね」

「そうなのだ。鎌倉の裏工作が効いているのか、傳法寺の大河内上人が、なかなか良い返事をくれない。景山は近く直談判するために、彼の許へ出向こうと考えているようだ」

「そのときに良い返事をもらえれば良いのですが」

 清慶は、うーんと深い溜息を漏らし、

「久保上人との関係から、あっさり私を支持してくれると思っていたが、ここまで来ると予断を許さなくなった。万が一のことも考えておかねばならないかもしれない」

 と言って眉間に皺を寄せたとき、男はスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出した。

「お上人。そこで、新たな攻撃材料を持参して来ました。まずはこれをご覧下さい」

 男から手渡された写真を見つめていた清慶は、

「これは久田上人と、横に写っているのは? どこかで見たような……もしかしてあの男? 本物か」

 と顔を強張らせて訊いた。

「もちろん、本物です。この男だけではありません。背後には、もっとどす黒い連中が取り巻いています。お上人、私はすでにこの件に関する詳細な資料を取り揃えております。表沙汰になれば、久田上人の息の根を止めることも容易いことでしょう。万が一のとき、ご相談下されば全てをお渡し致します」

 男の自信に溢れた物言いに、むしろ清慶の疑心は増した。

「なぜ君がこの情報を知っている? あまつさえ、なぜ証拠の品まで持っているのだ。これは、総本山でも極々一部の者しか知らない禁断の事実なのだぞ」

「やはり、そうでしたか」

「やはり?」

「この件に関して、総務さんからは何も聞いておられないのですね」

「ああ、そうだ。兄はこのような手段に訴える人ではない」

「そう思いまして、こうして私がお持ちしたのです」

「もしかして、君は総本山の誰かから、その証拠とやらを手に入れたのか」

「私にもそういった手蔓がありますので……」

 男は不敵な面構えで言った。

「手蔓?」

 清慶は思いを巡らし、はたとある人物に行き当たった。

「まさか。まさか、御門主……」

 と口にするのも憚れる体で呟いた。

「その先は何卒」

 男は手を前に出して遮った。

「むむ。では、これ以上詮索するまい」

 清慶は畏まって言うと、

「しかし、君。これを使うとなると、久田本人だけでなく、宗門全体を揺るがすことになる。言うなれば禁じ手のようなもの。だからこそ、兄もこれだけは私にも教えなかったのであろう。それをいくらなんでも、私が使うわけにはいかんだろう」

 と躊躇いを見せた。

「ですから、お上人が窮地に追い込まれ、他に採るべき手段が無くなったとき、起死回生の切り札としてお考えになればと思います。もちろん、これを使わずに済めば、それに越したことはありません」

 男は目配せをした。この禁じ手を使っても清慶に咎めはないと仄めかしたのである。

 清慶は、腕組みをして長い黙考に入った後、目を閉じたままやおら訊ねた。

「それで、君への見返りは何だね」

「お上人が首尾よく法国寺の貫主になれたあかつきには、私を執事長にして頂きたい」

「執事長だと?」

 清慶が目を開け、訝しげな声を上げた。

「君は僧侶としての出世は望まないと承知していたが……」

 ふふふ……、と男は笑みを浮かべた。

「気が変わったのです」

「そうか、そういうことであれば、委細承知した。これを使うことになれば、君を執事長にすると約束しよう」

 この密談は、総務清堂の懐刀である景山律堂の預かり知らぬところで行われていた。景山の言いなりになっていた清慶は、己の誇りを取り戻すため、彼の鼻を明かす機会を模索していたのである。


 森岡は、かつて岳父だった福地正勝の許を久々に訪ねた。

 彼の自宅ではない。正勝に連絡を入れたところ、ホテルでの面会を要望したので、森岡が馴染みとしている帝都ホテル大阪のスイートルームを予約したのである。

 福地正勝は七十一歳。

 大手食品会社「味一番株式会社」の創業者で、現代表取締役社長である。正勝は京洛大学・工学部博士課程卒の、一貫して化学畑の研究者であった。

 戦後の貧しき時代、彼は安価な万能の調味料の研究開発に没頭し、やがて「味一番」を発明した。

 味一番は一般庶民の絶大な支持を得て、爆発的に売れた。正勝は研究開発会社とは別に味一番株式会社を設立し、販売部門の拡充に努めた。さらに新製品の開発を進めた結果、現在では年商八千億円超の優良食品会社にまで成長したのである。

 正勝には一男四女の子供がいたが、唯一の男子は高校時代にバイク事故で下半身不随となり、生涯寝たきり身の上となってしまった。そこで、四人の娘婿のうちの一人を後継者にと考えたが、長女と三女の婿は正勝と同じく研究の道を歩んで者たちだったので、研究開発会社の役員に据え、次女の婿である須之内高邦を味一番株式会社の役員に抜擢していた。

 だが、福地正勝の意中の人物は他にいた。他ならぬ四女奈津実の婿、森岡洋介である。

 正勝は、神村の自坊経王寺の護山会の役員をしていたが、神村が森岡を書生として預かっていることを耳にし、それまで数多の要望を断り続けていた神村が、初めて手元に置いた森岡という学生に興味を抱いた。だが、彼がすぐに経王寺を離れた事を知り、自分の推量は見当違いだったか、と一旦は落胆した。

 その後、しばらくして森岡が再び経王寺に戻ったことを耳にすると、正勝は自分の推量の正誤を確認するため、人を使って大学などで森岡の身辺を探らせ、また経王寺の年中行事のときには、自らの目でも確かめていたのである。

 その結果、

――お上人が見込んで手元に置いたのでは?

 との自分の推量が正しかったと確信した。

 森岡に一目惚れした正勝は、四姉妹の末っ子の奈津実を彼に嫁がせたいと切望し、希望通りになった。

 だが、もう一つの、是非とも自分の後継者に……という願いは、適わずにいたのである。

――老いられた。

 森岡の正直な第一印象だった。確かに、昨年春の奈津実の七回忌法要の際にも、やつれた印象を持ったが、僅か一年足らずの間に、さらに老いが深まったように見受けられた。

「ご無沙汰しております、お義父さん」

 森岡は労わるように言った。

「まだ、義父と呼んでくれるのか」

「もちろんです。奈津実が亡くなり、法律上は離れましたが、私にとっては生涯、義父だと思っております」

「本当か? そうなら、これほど嬉しいことはない」

 正勝は感涙に咽ぶように言った。

「洋介君、単刀直入に言おう。君の言葉が真であれば、私の後を継いでくれんか」

 正勝はテーブルに頭を擦り付けた。

「お止め下さい、お義父さん」

 森岡は席を立って、正勝の肩を抱き上げた。

「お義父さん。申し訳ありませんが、それは難しいかと思います」

「なぜじゃ」

「現在、ウイニットは上場準備をしております。とても手が廻りません」

「知っておる。しかし、上場後なら良いではないか」

「残念ながら、未だ後継者が育っていません」

「洋介君、虚言を弄してはいかんな」

 正勝が咎めるように言った。

「はっ」

 森岡は畏まった。

「君は榊原さんの会社を受け継ぐらしいではないか」

「ご存知でしたか」

「先日、久しぶりに経王寺でお会いしたとき、喜色満面で話された」

 正勝は苦虫を潰したような顔で言った。

「弁解の仕様もありません」

 森岡はただ詫びるしかない。

「私にとっては心外な話じゃぞ」

「……」

「そもそも出会いも、君を後継にと目を付けたのも私の方が先だった。それを後から話を持ち出した榊原さんに奪われるとは、私は悔しくてならん」

 正勝は拳で膝を何度も打ち付ける。

「榊原さんには、神村先生の件で大変にお世話なっているため、断り切れなかったのです」

「本妙寺の件じゃな」

「はい。私にとって神村先生は、師以上の、命の恩人とも言うべき大切なお方です。協力の交換条件に、後継の件を持ち出されては、否とは言えませんでした」

 森岡は言い逃れだとわかって言った。

「なるほどの。しかし、私は大魚を逃がした想いじゃ」

「お義父さんには、三人の婿がおられるではないですか」

「あんな奴ら、何の役にも立たん」

 正勝は吐き棄てるように言った。温厚な正勝の、このような態度を森岡は初めて見た。

「何かあったのですか」

「う、ううん」

 一転、正勝は口籠ると、

「婿三人が結託しよって、私に退陣を迫まりよった」

 と憔悴した顔で呟いた。

「退陣?」

「私を代表権の無い会長に祭り上げようというのだ」

「後は誰が」

「須之内高邦だ。須之内が、他の二人を上手く誑かして、会社を乗っ取る気なのだ」

「しかし、須之内さんもお義父さんの身内じゃないですか」

「何が身内じゃ。あいつには権力欲と金銭欲しかありゃせん。会社を我が物にしたら、直ちに上場して巨万の富を得んとするのが見え見えじゃ。あんな薄汚い心根の男との結婚を許したのは、真に持って一生の不覚じゃった。そのうち、取締役会で正式に退陣を迫るじゃろうて」

 正勝は唇を噛み締めて悔しがった。

「それで、どうなさるおつもりですか」

「どうもしやせん」

 そう言うと、正勝はニタッと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「あいつらには、私の持ち株は洋介君、君に全部譲ると言ってやったわ」

「なんと」

 森岡は開いた口が塞がらない。

「するとな、あいつらだけじゃなく、娘らまで不満たらたらの文句を言いに来たわい。まったく、情けなくて涙が止まらんかったぞ」

 正勝の声は再び憂いを帯びたものになっていた。

「洋介君、君の会社はいつ上場するのかの」

「二年以内にと考えております」

「上場すれば、君の懐にはいくら入る?」

「少なくとも七十億円は入ると思います」

「七十億? IT会社として相当に有望な会社ということだな。僅か七年でのう……さすがだ」

 正勝は目を細めた。

「その七十億の使い道は決まっておるのかの」

「差し当たって、半分は決まっておりません」

 森岡は、神村の夢の実現に全額費やすつもりでいたが、正勝の縋るような目にそう答えざるを得なかった。

「よし、ならば二十五億円を私の為に使ってくれんかの」

「は?」

「私の願いを断っておいて、榊原さんの会社を受け継ぐのは納得がいかん。それくらいは引き受けてもらうぞ」

 戸惑いを見せた森岡を福地は恫喝した。

「どうしたら良いのでしょう」

「二十五億円で私の持ち株を購入して欲しいのだ。相続なら不平も出るが、売買ならば文句も言えまい」

 味一番は、優良会社であったが非上場だった。

 資本金は五十億円。設立当初から数年後に掛けて増資を何度かしたが、いずれも一株五十円だったので、総発行株数は一億株である。そのうち、半数以上の六千万株を味一番研究所が、二十パーセントに当たる二千万株を福地正勝個人がそれぞれ所有していた。

 味一番研究所は、味一番の前身というべきか、実際に調味料味一番を開発した会社で販売権を味一番に貸与していた。言うまでもなく、味一番研究所の資本株式の九十五パーセントも福地正勝が所有している。

 ともかく、一株が五十円なので、二十五億円であれば、ちょうど半数を占めることになるが、非上場とはいえ、会社の財務実態から掛け離れた安価で売買すると、譲渡と見なされるので注意が必要となる。

 味一番の時価は、控えめに評価しても発行額の十倍の、五百円前後と見られた。つまり二十五億では、僅か五パーセントしか購入できない計算だが、大株主であることには違いなかった。

 これに加えて、いずれの日にか正勝が所有する株の相続となれば、法定相続分を除いても、相当な株数が彼の手に渡ることになる。そのあたりまで計算した上での申し出だと思われた。

「承知致しました。それで、お義父さんのお気持ちに適うのであれば、お申し出のとおりに致します」

「本当か」

「奈津実と結婚したのも深い御縁があったからです。お義父さんのお悩みになる姿は私も見たくありませんし、口幅ったい言い方ですが、奈津実が生きていたら、彼女もそう願ったと思います」

「有難う、洋介君。これで、私ももう少し生きてみようという気が湧いて来た」

 正勝が握った森岡の手に、冷たい滴が落ちて弾けた。

――なるほど、義父さんに疑念を抱いた須之内は、さっそく俺の身辺を探ったということか。ウイニットを訪れるには名目がいる。そこでロンドに現れ、偶然を装ったということなのだろう。

 森岡は、須之内の魂胆が透けて見えたような気がした。彼に味一番の経営への興味など露ほどもなかったが、さりとて一時であれ、義理の父子となった縁を疎かにしたくはなかったのである。



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