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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)

 しかし、森岡の読みは見事に外れた。

 野島は森岡の指示通り、四人に偽りの情報を流したが、光陽実業からは何の音沙汰もなかったのである。

 それではいったい裏切者は誰なのか……。

 振り出しに戻された格好の森岡は、もう一度野島を呼び出した。

「社長。光陽実業には相変わらず動きがないようですね」

「そうなんや。これで、また訳がわからんようになったな」

 森岡の顔には複雑な心の内が滲み出ていた。読みが外れたことは残念だが、その反面、裏切り者は身内ではないのかもしれない、という救われた思いが入り混じっていたのである。

 野島は、森岡の心中を十分に看取ってはいたが、それでも彼の心に土足で入り込んだ。

「社長、私に心当たりがあるのですが」

「なんやて? 誰や」

 森岡は意気込んで訊いた。

「大変申し上げ難いのですが、筧が怪しいのではないかと思います」

「筧が? まさか……」

 さすがの森岡が言葉に詰まった。

「先日は、町村里奈のことで後ろめたさがあり、申し上げなかったのですが、すでに筧を疑い始めていたのです。そして、八年前のルーベンスへ通っていた頃、私と真弓の両方を知る人物がいないかと記憶を辿ると、一人思い出した男がいました」

「それが筧か」

「当時の筧の上司だった菱芝産業の営業部長と、柳下部長が親しい関係にあったことから、ルーベンスで筧を紹介されたことを思い出しました。筧と会ったのはその一度だけでしたので、すっかり忘れていたのです」

「しかし、それだけでは線が細いやろ。他に確証はないんか」

「ありません。ですが、細い糸でも繋がったのですから、疑って掛かった方が宜しいかと」

「うーん」

 森岡は頭を抱えて考え込んでしまった。

「どうでしょう、社長。伊能さんに疑いの目のある五人を調査してもらっては……」

「伊能さんか」

 森岡は口を濁した。

 珍しくも優柔不断な返事に、野島がさらに言葉を重ねた。

「差し出がましいようですが、ここは大河内上人を味方に引き入れられるか否かの正念場でしょう。しかも、あまり時間が残っていません。何を迷っておられるのですか」

 野島しては滅多にない強い口調だった。

「お前がそこまで言うのやから、余程のことだな。伊能さんには別件で動いてもらっているが、相談してみるか」

 森岡は、気圧されたように決断した。


 総本山真興寺の護山である高尾山の、とある寺院で二人の僧侶が密談に及んでいた。

 実は、高尾山には奥の院と妙顕修行堂の他に、もう一寺院が建立されていた。世俗から隔離された高尾山で、さらに排斥されたように佇む瑞真寺ずいしんじである。 

御門主もんす。総務清堂が思いの外苦戦しているようですね」

 下座の僧侶が心中を憚るように言った。

「そのようだな。森岡という男、思ったよりやりおるな」

 門主と呼ばれた男が答えた。

 瑞真寺第三十八世門主・栄覚えいかく権大僧正である。

 仏教界でいう門主とは、多くの場合が出家した皇族や貴族のために建立された寺院の住職を指している。言わば、仏教界のVIP待遇というべきものである。

 他に、時の権力者やそれに繋がる者が入寺した場合もあるが、天真宗における瑞真寺は、宗祖栄真大聖人の血脈者をいう。正確に言えば、天真宗は妻帯を厳禁としていたので、若い頃俗世に生き、後年出家した末弟・栄相えいそう上人の血脈である。

 周知のことながら、仏教は紀元前五世紀頃、インドのゴータマ・シッタルダ「釈迦」が開いたものである。釈迦は王族家に生まれながら、生、病、老、死といった人間本来の根本苦悩の解決方法を探し求めるため、身分や家族を捨て修行の旅に出たのであるが、彼が長年の苦行の末に会得した真理とは、肉体の苦行だけでは真の悟りは得られないということだった。そこで、瞑想に入り、ついに悟りの境地に到達するのである。

 日本への伝来は六世紀の中頃で、伝来当初は釈迦の教えを忠実に実行しようとしたため、自らの解脱を求め、苦行や瞑想が中心だったが、鎌倉時代に入って一大事件が起きる。

 なんと浄土真宗の開祖親鸞上人が妻帯したのである。

 これはある意味、日本仏教界に対する背信行為ともいえた。仏教伝来以来、僧侶は戒律で妻帯を禁じられていた。その理由は、衆生を救うべき僧侶は特定の家族を持つべきではないとか、修行の妨げになるというものだった。

 親鸞上人はその不文律に堂々と反旗を翻したのである。

 親鸞上人の主張は極めて明確であった。

 それまでの苦行による解脱、つまり「自力本願」では、余程優れた者しか到達できない難事であり、釈迦が生きとし生けるもののすべて「一切衆生」の苦しみを救おうと願ったことと反するでないか。そうであるならば、それまでの自力本願ではなく、すでに悟りを開いた如来の慈悲に縋れば良いと考えた。

 これが「他力本願」である。

 当然、他宗派からは非難の集中砲火を浴びたが、民衆からは圧倒的な支持を得た。自らを律し、苦行を続けなくても「南無阿弥陀仏」とお題目を唱えるだけで救われるのであるから、至極当然であったろう。

 しかし、親鸞上人にとって思わぬことが起こる。

 他力本願である親鸞上人の教えは、阿弥陀如来の前では、苦行による差別は無く、全ての人が等しいというものである。これは親鸞上人本人も含めてのことであったが、皮肉にも血脈者である彼の子孫が、信者から生き神様の如く崇め奉られることになったのである。

 天真宗は浄土真宗より数十年後発であった。そのため、実情を目にした栄相上人に遠大な野心が生まれてしまった。秘密裡に我が子孫を残し、何時の日にか浄土真宗のように血脈者による法統継承を、と思い立ったのである。

 あるとき、栄真大聖人はその栄相上人の野望に気づいた。

 そこで彼は、栄相上人をはじめ血脈者が後継となる危うさを憂い、

『後継は一等優れた者にすべし』

 との遺言を残して逝ったのである。

 事実上の血脈者排除宣言であった。

 以来、総本山は固くそれを守り、いや守り過ぎて、真に優れた血脈者をも排してきた。宗祖家は名門家系でありながら、不当に冷遇されてきた歴史があったのである。

 その反省から、室町時代中期、護山である高尾山に、本山格を与えられた八雲御所やくもごしょ・瑞真寺を建立し、栄相上人の子孫が門主の座を世襲するように配慮された。以降、皇位継承権のように、後継順位が確立されている。

 史実で言えば、天真宗が妻帯を容認したのは明治時代になってからである。

 天真宗だけでなく、主な宗派の中で、明治以前に公然と妻帯を認めていたのは、親鸞上人が開いた浄土真宗のみである。

 それが、明治五年の太政官布告によって妻帯が自由となった。そもそも、公権力が妻帯を許可するなどという行為自体が奇妙な話なのだが、その二年前の同じく太政官布告による「廃仏毀釈」と合わせて考えれば、内面的な仏教腐敗が狙いだったことが透けて見える。 

 言うまでもなく、神道の祭祀の長たる天皇の神格化の一環なのだが、今日の仏教界の精神的堕落をみれば、明治政府の遠謀は大成功だったと言えるだろう。

 それはともかく、そのような次第で、この事実が公にはなることはなく、血脈継続も総本山の時の上層部が密かに与し、今日まで絶えることがなかったのである。

 現在、瑞真寺の宗門内における影響力は曖昧模糊としているが、宗祖栄真大聖人の血脈家として、また総本山において、唯一宗務院すなわち四十六子院の支配外にある寺院として、不可侵な聖域であることには間違いがなかった。

「村田上人を寝返らせるだけで事は済むと思っていたが、森岡という男がやりおるで、面白くなった」

「面白い?」

 下座の僧侶が訝しげな顔をした。

  そうだ、と栄覚は肯いた。

「森岡が久田を担ぎ出してくれたおかげで、あ奴に煮え湯を飲ませる絶好の機会が巡って来た」

 栄覚はいかにも憎々しげに言った。

「あ奴の、長厳寺のせいで、いかに御先祖様方が苦渋を味わわされたことか」

 長厳寺は久田帝玄個人が所有する寺院である。

「私には打ち明けられないことでしょうか」

 下座の僧侶が恐る恐る訊いた。

 栄覚は目を瞑って沈思した。

「当寺の歴代門主にしか申し送りされない負の遺産であるが、他ならぬ執事長だけには、いずれ話そうと思っている」

 栄覚の厳しい眼差しに下座の僧侶は思わず身震いした。

「それはさておき、久田の登場で私の計画が一気に前進した。もっとも、森岡が担ぎ出さねば、こちらで突いてやろうと思っていたが、向こうから言い出してくれたおかげで、極自然な形となった」

 栄覚は、ふふふ……と声もなく笑った。

「はて、総務清堂と久田帝玄が争うことが御門主の計画を前進させますか」

「共倒れにすれば漁夫の利が舞い込むだろうが」

「しかし、年齢からして両人共、そう長くはございませんが」

 栄覚は四十五歳。総務清堂や久田帝玄に比べて三十歳ほど若かった。下座の僧侶には二人が栄覚の行く手を阻むとは思えなかったのだ。

「野望を完結するためには、二人の、つまり総本山と在野の決定的な確執が不可欠なのだ」

「野望の完結とおっしゃいましたか? では、初手から敵は神村上人一人ではなかったですね」

 そうだ、と栄覚は肯いた。

「当面の最大の障壁は神村に違いないが、その先がある。いずれ君だけには悲願の全貌を話そうと思っているぞ、葛城上人」

「それは、それは」

 葛城と呼ばれた下座の僧侶が平伏した。

「何といっても、上人が味方に付いてくれたからこそ、私の計画が実行に移せるようになったのだからな。あらためて礼を言うぞ」

 と、栄覚が頭を下げた。

 葛城は慌てた。

「どうぞ、頭をお上げ下さい。これまでが不当過ぎる処遇だったのです」

「だがな、これまでの門主は裸の王様に過ぎなかった。なにせ、執事長はじめ当寺の者皆が宗務院からの回し者だからの」

 栄覚は苦笑いをした。

 瑞真寺が建立されたとはいうものの、その一方で、宗務院が警戒の手を緩めることはなかった。門主の傍に仕える僧侶のすべてが宗務院の息の係った者で占められていた。

 つまり宗務院は、瑞真寺の宗務に直接関与できない代わりとして、日頃の行動を逐一監視していたのである。

「亡き父が、御先代様に御恩があることを知らずに私を執事長に任命するとは、宗務院もとんだ手抜かりをしたもので」

 葛城が侮るように言った。

 栄覚は笑みを浮かべて首を横に振った。

「そうではない。事情を掴んでいる者はいた」

「では、まさか宗務院にも御門主の手の者が……」

 葛城は驚愕の眼で訊いた。

「それも、いずれな」

「さすがは御門主様。貴方様の前では、神村上人はおろか、総務や久田上人すら稚児に等しいようです」

「坊主など相手にするまでもない。神村や総務清堂は修行一筋で世俗のことに疎いやつらだ。久田は少しましだが、それとて赤子の手を捻るようなものだ」

 そのとおりでございす、と葛城が肯いた。

「一人だけ、私の予想を上回る者が登場したがな」

「森岡ですね」

「さすがは神村だな。世事には疎いが眼力は鋭いようだ」

「御門主にそうまで言わしめますか」

 栄覚は、葛城の慨嘆したような問いには答えず、

「お蔭で面白くなった。森岡がさらに引っ掻き回してくれると、ますます私に漁夫の利が転がり込む」

 と笑いを噛み殺した。

「では、次の一手はどのように」

「そこだ。まずは華の坊を牽制したい」

 華の坊は総務藤井清堂の生家である。

「と申されますと」

「私が誼を結びたいと伝えて欲しい」

「……」

「カモフラージュだよ、執事長」

 葛城は、暫し沈思すると、

「ですが、総務が御門主の意図を探ります」

 そこから栄覚の野望に気づくかもしれない懸念を指摘した。

「もはや、ここまでくれば総務に知られたところで大したことではない。彼に私の行く手を阻む力などありはせん。それより、今後の謀略を考えれば宗務院の内通者に気づかれることの方が余程痛い。だから、私が近付くことにより、周囲の目を華の坊に釘づけにしたいのだ」

「そういうことですか」

 葛城が大きく肯いた。

 なるほど、ベールに包まれた瑞真寺の当代門主と次期法主の接触は、世間に有らぬ憶測を呼び起こし、耳目を集めることだろう。

「もう一つ、ご苦労だが、これを『雲』に渡して貰いたい」

 そう言って栄覚は封書を差し出した。

「直筆の手紙とある証拠写真が入っておる。久田の息の根を止める武器だ。くれぐれも間違いのないようにな」

「承知いたしました」

 葛城は額を畳に擦り付けた。


 野島の進言に従って、森岡はいつもの帝都ホテル大阪に伊能を呼び出した。ところが、事態はそこで急転直下の解決を見ることになる。柿沢康弘と吉永幹子の継続調査をしていた伊能の部下から、動かし難い証拠がもたらされたのである。

 それは、報告書の中に混じっていた柿沢と宇川、そして筧の姿が映っている数枚の写真であった。

 森岡は、その中の一枚の写真を手に取り、ぱちんと中指で弾くと、

――やはり、野島の言う通りだったか。

 と溜息混じりに呟いた。

 森岡と筧が知り合ったのは、四年前である。

 当時、彼は大阪梅田に本社のある「浪速通運」という中堅運送会社にコンピューターシステムの売込みをしていた。

 現在でこそ、三百名を超える社員を抱え、社長業に専念している森岡であるが、当時は独立してまだ一年、社長業の傍ら、自らコンピューターシステムを設計し、企業への売り込みに奔走していた。数多の競合会社から、最終のプレゼンテーションに残ったのが、ウイニットと大手電機メーカー「菱芝産業」であり、その営業担当が筧だった。

 競合の結果、森岡は敗れた。

 浪速通運のコンピューター室の責任者は、その技術力の高さからウイニットの提案を推薦したが、担当役員は価格面から菱芝産業を選択したのである。

 筧から、一度会いたいとの連絡が入ったのは、浪速通運から断りがあった直後だった。用件は、ハードウェアは自社が提供するが、ソフトウェアはウイニットで開発して欲しいとの申し出だった。

 ウイニットが提案したコンピューターシステム設計を分析したところ、自社のそれより優れているとわかったので、ソフトウェアの開発を依頼したいというのである。

 ただ、その時点では筧の独断の提案に過ぎず、結局会社の了解が取れなかったことでこの話は実現しなかったが、それを契機に筧との個人的な付き合いが始まったのである。

 そして一年前、ようやく口説き落としてウイニットへ迎え入れたのだった。

 そのような筧の裏切り……野島の言動からあるいは……と予想はしていたものの、現実となってみると、彼にとってそれは大きな失望と落胆だった。

 筧の営業力はウイニットの拡大戦略には不可欠であった。だからこそ、入社して間もない彼を近いうちに取締役に昇格させる腹積もりでいたのであり、筧もまたその期待に応えてくれていたと思っていた。その筧に裏切られることなど、簡単に消化できる事実ではなかったのである。

 しかしその一方、冷静になって考えれば、なるほど筧克至と宇川義実を通じてこちらの情報を得たうえで、買収地を高額で買い取るという約束をしていれば、光陽実業は損をする危険が全くなく、此度のような行動に出ることも肯けた。

 迂闊だった、と森岡は悔いた。

 敵の立場になって考えれば、大本山本妙寺の件から中心となって動いている自分の足元を崩す作戦が、最も効果的であることは明白だった。森岡は自分と同じように、相手も必死である事を忘れていた己の落ち度だったと自らを責めた。

 森岡はまた、この不明の原因が、いつしか欲に塗れていた自分自身にあると恥じてもいた。

 以前の彼は、幹部社員には能力だけでなく人格も求めていた。しかし、株式上場を具体的な目標に定めた頃から、会社を急成長させることだけに心を捉われ、知らず知らずのうちに能力偏重の評価に陥ってしまっていた。

 その突っ張った欲の皮が、いつしか両眼を曇らせてしまい、その結果、筧の人となりを吟味することなく、営業能力だけの評価で取締役に昇格させようなどという愚行に走らせ、あまつさえ寺院ネットーワークの宇川と霊園事業の筧という、本来の彼であれば、簡単に結びつくはずの二つの裏切りを見抜けなくさせていた。

 森岡は、筧への糾弾をひとまず避けた。彼はその前に、状況を逆手に取って、筧を情報戦に利用しようと考えたのである。

 

「ところで、例の件ですが」

 と、伊能が報告の終わりに切り出した。

 森岡は、はっと我に返った顔つきになった。

「何かわかりましたか」

「はい。時間を要しましたが、ようやくそれなりの報告ができると思います」

 伊能はそう言って、アタッシュケースから書類を取り出すと、森岡に差し出した。

「石飛将夫は、二年前まで大阪の『住之江』に住んでいたようですが、その後の所在は掴めていません」

 伊能は、森岡の要望により彼の生家がある浜浦での調査活動をしなかった。警察や役所の記録を元に調査をするよう、森岡から指示されていたからである。伊能は疑問に思ったが、ともかく森岡の言に従った。

 しかし、何分にも二十六年も前のこと、限られた情報から追跡することは難しかった。そこで、伊能は森岡の了解を得て、ようやく島根県の浜浦へ直接足を運んだのである。

 鳥取県の米子市から産業道路を北上すると、日本海側随一の漁獲量を誇る境港市に入る。境水道を渡った先は、もはや島根県なのだが、そこから山を越え、海岸沿いに西へ五キロ行ったところが浜浦であった。

 浜浦までに三つの村を通ったが、いずれも百世帯足らずの小さな漁村であり、村と村の間は車一台がようやく通れるほどの細い道を、断崖絶壁を伝うように通った。

 都会で生まれ育った伊能は、時折肝を冷やしながらの、慎重な運転を強いられたが、それでも広大な日本海の波の彼方に、うっすらと浮かび上がる隠岐諸島を目に留めた折には、その壮大且つ優美な風景に圧倒され、一旦車を停め暫し見入ってしまっていた。

 浜浦に着いた伊能は、まず森岡の生家へ顔を出した。森岡から道筋を詳しく聞いていたが、たとえ予備知識がなくとも、すぐにわかったであろうと伊能は思った。何せ、村のほぼ中央の立派な門構えをした屋敷といえば、一目瞭然だったのである。

 森岡の話に寄れば、彼の従兄が住んでいるはずであった。

 伊能は、主人である門脇修二かどわきしゅうじに丁寧な挨拶をし、森岡の依頼により、ある調査をしたいと申し出た。

 森岡から事前に連絡があったとのことで、門脇修二は何の疑いもせず、快く請じ入れた。彼は、森岡の伯母の次男であり、空き家となった森岡の生家灘屋を買い取って住んでいた。

「この前も同じことを訊きに来た男がおったでの」

 門脇修二が開口一番に言った。

「前の男とおっしゃいますと」

 伊能は極めて平静を装って訊いた。何しろ純朴な田舎者である。妙に訝ったりすると、すぐ身構えてしまうとも限らない。

「一ヶ月ほど前じゃったかの。洋介の昔のことを訊いてきた男がおったわい」

「名前は何と」

「確か、坂根とか言ったかの。洋介の部下じゃと言っとった」

――坂根? 坂根好之さんが……それはおかしい。

 伊能は、すぐに誰かが坂根の名を騙ったと理解した。

「どのような風体でしたか」

「三十ぐらいのおっけな男だった。そういやあ、出雲弁をしゃべっちょったけん、地の者だと思うが」

「出雲弁ですか」

 伊能の脳裡にはある男の姿が浮かんでいたが口にはしなかった。余計な混乱を招きたくなかったからである。

「ところで、洋介は元気になったかい」

 門脇修二は、心配げに訊いた。一ヶ月前に訪ねて来た男から、少し身体の調子を崩している、と聞いていたのだという。

「もうすっかり復調されました」

「それを伺って安心しましたわい。なにせ、洋介のことは何もわからんけんの」

 門脇修二は、ほっとした表情を見せた。彼はこの家を購入した切り、十五年近くも森岡とは音信不通の状態であると説明した。

 森岡は、三年前の夏に同窓会へ出席するため、十一年ぶりの帰郷を果たしたが、生家には立ち寄らなかった。その後は一度も帰郷していない。十五年の間には、親戚の結婚式や葬儀も数度あったが、それらも全て無礼を働いていたのである。

 伊能はウイニットのことだけを手短に話した。

「ほう。そげすると、洋介は億万長者になるのだの」

 門脇修二が伊能に確認した。彼は漁師であったが、IT企業が上場すれば、莫大な金が手に入ることくらいは承知していた。時はITバブルの絶頂期であり、テレビのニュース報道でも、IT企業の上場ラッシュを伝えていた。

「ウイニットは前途有望な会社ですから、相当な資産を手に入れられるかと思います」

 伊能はお決まりに答えた。彼は、森岡がすでに莫大な資産を手にしていることを知っていたが秘匿した。

「やはりのう。子供の頃から利発での。末は何者になるかと、親戚中が期待しちょったが、あんな不幸が続いて横道に逸れちょったけん、心配しちょったけど、そりゃ良かった」

 門脇修二は、心から安堵したように言った。

――横道に逸れるとは、森岡さんは不良だったのか?

 疑念を抱いた伊能だったが、やはり話が逸れることを嫌い、本題に入った。

「ところで、門脇さんは石飛将夫という人を憶えていらっしゃいませんか」

「石飛将夫……おう、憶えちょうます。この村で石飛という苗字は珍しいけんの。確か父親は灘屋のてごをしちょったはずだ」

「そうです、その石飛です。将夫というのは、森岡さんより五歳年上だとか」

「そげだ。私より一つ上だが」

「どなたか消息をご存知の方はいらっしゃいませんか」

 門脇修二は、視線を下げて考え込んでいたが、

「そうだ。浜屋の孝明さんなら知っちょうかもしれん」

 と顔を上げて言った。 

「どのようなお方でしょうか」

「将夫さんの親友だったけん、ひょっとしたら、今でも連絡をし合っちょうかもしれん」

「それで、門脇さんはその孝明さんというお方とお付き合いがあるのでしょうか」

「ははは」

 門脇修二は陽気に笑った。

「付き合いも何も、親戚だが」

「それはまた、好都合です」

 伊能の面も明るくなった。

「では、ご紹介願して貰えないでしょうか」

「ええですよ。今日は日曜日だけん、家に居ると思うだが」

 門脇修二はそう言って携帯を取った。

 彼の案内で、浜屋の、これまた門脇姓の孝明と面会した伊能は、有力な情報を手に入れた。

 この界隈は、村落毎に同姓が極めて多い。明治になり庶民が姓を名乗ることになったとき、毛利氏に滅ぼされ、身を潜めて生きて来た尼子氏の残党の姓を、それぞれが名乗ったからという説が有力であるが定かではない。


「修二は父の次姉の、孝明は長姉の息子ですから、共に私の従兄になります」

 そう言った森岡の面が、伊能の目にはどことなく強張っているように映った。  

「孝明さんには、石飛将夫から時々連絡があったようです」

 門脇孝明の話によれば、浜浦を追われた石飛一家は、実弟を頼って福岡に移った。だが、石飛家の不運は続いた。やっとの思いで、遠洋イカ釣り漁船の職に就いた将夫の父が、船の整備と給油のために立ち寄った鹿児島市内の繁華街で、酔った地回りのヤクザと喧嘩になり、刺殺されてしまったのである。浜浦を離れて、半年も経っていなかった。

 母の手一つで育てられた将夫は、高校卒業後、大阪の中小証券会社に就職した。二年前、その会社を退職したところまではわかったが、その後の足取りは掴めなかった。

「西成で日雇い労働をしていたとの噂もありますが、裏は取れていません」

「証券会社を辞めた理由は何ですか」

「横領です。顧客の金を着服し、懲戒解雇されました」

「うーん」

 森岡は沈痛な面で唸った。

「ですが、全額弁済したようで、刑事告訴はされていません」

「それは何より……」

 森岡の、まるで親族でもあるかのような反応は、伊能にとって訝しいものだった。

「立ち入ったことをお訊きするようですが、森岡さんとはどういうご関係でしょう」

 森岡は、暫し沈思した。その葛藤する森岡を初めて見た伊能は、つまらぬ事を訊いたと後悔した。

 やがて、森岡の口から出た言葉に、伊能は驚愕する。

「私の幼馴染の兄ですが、過日私を刺した男です」

「えっ!」

 衝撃の告白だった。少々のことでは動じない伊能が目を剥いたまま、言葉を見つけられないほどであった。

「でも、伊能さん。今はまだ告発できないのです」

 森岡は、伊能が頭に浮かべた疑問に答えるかのように言った。

「それで、今後はどうされますか」

「何としても居所を探し出して、一度会いたいのです」

「会ってどうされるので」

「真実を語ろうと思います」

――真実……この人は何やら重い荷を背負って生きて来たようだ。

 伊能はそう悟った。

「私が、二十六年間目を背けていた真実です」

 そう言った森岡の表情は、どこか吹っ切れたものだった。

「真実と言えば……」

 伊能が呼応するかのように言った。

「石飛一家が浜浦を出た理由ですが、森岡さんはご存知でしたか」

「ええ、まあ」

 核心を突かれた森岡は言葉を濁した。伊能の目には余人には触れて欲しくないように映った。

「森岡家の怒りを買ったとか」

「そのようです」

 曖昧に答えた面には不快感が表れていた。伊能にはその理由がわからなかった。

「その理由ですが」

 伊能が言い掛けたのを、

「それはちょっと」

 と、森岡は遮ろうとしたが、伊能は委細構わず続けた。

「将夫の父親は、灘屋の金を着服していたようですね」

「え?」

 森岡は、脳天から空気が漏れたような声を出した。

「石飛将夫が顧客の金を横領したのは、血筋なのかもしれません」

 伊能は虚しそうに言った。

 てご漁師として長年灘屋に仕えた将夫の父定治は、森岡の祖父洋吾郎や父洋一の信頼を得ていたのだという。時には、森岡家の代理として、漁協からの水揚げを預かることもあったほどである、と。

 三十年近くも昔の、片田舎の漁村には金にことさら神経を尖らす風潮はなかった。お互い数代にも亘り見知った仲であり、信頼関係が醸成されていたからである。海産物の値相場にも、漁協の経理にも、いわばどんぶり勘定のようなところがあり、少々の計算違いには、目を瞑るという寛容なところもあった。漁師の間には、豊漁でさえあれば、自然と懐は肥えるという気概があったのである。

 とはいえ、毎月末の水揚げの精算時に、一、二万円といった少額ならともかく、十万単位の金を着服すれば、いくらなんでも事は露見する。

 定治が行った着服行為とは、島根半島界隈でいうところの「やんち」、平たく言えば魚そのものの横領であった。

 灘屋は、定置網漁と底引き網漁を合わせると、漁船を十三隻も所有しており、てご漁師の数は三十五人にも上った。その中で、石飛定治は定置網漁の頭分の存在だった。当主である祖父洋吾郎と父洋一が漁に出ることはなく、漁自体は弁才師に、港への荷揚げは定治にそれぞれ任せていた。

 弁才師とは、魚群を探索する役目の漁師のことで、大変に重要な役割を担っていた。何しろ、漁獲高はこの弁才師の能力次第だからである。

 さて、定治はその荷揚げの魚の横流をして、街の鮮魚店に売り捌いていたのである。もっとも、荷揚げ人夫からのご注進で、洋吾郎と洋一もその事実は把握していた。しかし、元々売り物にならない魚は漁師たちで山分けするのが慣習であり、定治の行為はそれを多少逸脱した程度だろうと黙認していたのである。

「ところが、石飛定治は度が過ぎました。横流した量は、一箱、二箱といった程度から始まり、仕舞いには十箱も横流ししていたようです。どうやら、博打に手を出して借金を背負ってしまい、地元のヤクザからの取立てに追われていたようです」

「初めて聞きました」

 森岡は呟くように言った。

 魚の種類にもよるが、水揚げ時の価格は一箱五百円から三千円になる。月に換算すれば三十万円前後という、歩合給を除く月額基本給の倍という当時としては破格の金額だった。

「祖父が談判していたのは知っていましたが、そのような理由だったとは」

「森岡家のてご漁師を外された理由が理由ですから、とても浜浦には居られなかったのでしょう」

「そういうことでしたか」

 腹の底から搾り出すような声だった。

 長年の罪悪感から解放された森岡は、他方で得心もしていた。思い返せば、祖父は清廉で正直、義理人情に厚い人であった。たとえ可愛い孫の訴えでも、

『公私は自ずと別』

 と考えても不思議ではなかった。むしろ、不義不正を嫌う性分からして、伊能の見解の方に信憑性があった。

 石飛家の転落が、己の告げ口に端を発したものではなかったと知り、その分心が軽くなった思いの森岡ではあったが、重石の全てが取り除かれたわけではない。

 森岡の表情の変化を看取った伊能は話を先に進めた。 

「それと、私の前に石飛将夫の名を聞き出した男がいます」

「なんですって!」

 森岡の面が再び強張った。

「三十前後の大柄な男で、出雲弁を話したそうです」

「名前は?」

「坂根と名乗ったらしいのですが、彼ではないでしょう」

「誰だかわかります」

 森岡の表情は険しいものに変わった。

「それで、修二はどこまで話したと言っていましたか」 

「石飛浩二は森岡さんの幼馴染であること、九歳のとき海難事故でお亡くなりになったこと、その後一家で浜浦を離れられたことまではお話しになったようです」

「石飛将夫が浩二の兄であることも?」

「はい」

 小さく頷いた伊能は、元優秀な警察官だけあって、石飛将夫の凶行と弟浩二の海難事故との関連性を推察したが、それを口にすることはなかった。 


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