(2)
翌日、森岡は夕方の役員会議に出席するため本社にやって来ていた、取締役東京支店長の中鉢博己から奇妙な話を耳にする。
それは会議が終わり、野島と住倉それに坂根と南目を加えた六人で、久々に西中島南方の活魚料理店で夕食を共にしたときだった。
大阪市内の北方、淀川を渡ってすぐところに開けた西中島南方は、大阪でも面白い街の筆頭候補に挙がるだろう。オフィスビルと飲食街、そして風俗店が混在しているからである。
オフィスビルの隣に、いかにも怪しげなマンションが立って、聞けば風俗営業専用のマンションだったなどいうことが日常茶飯事なのだ。風俗店といってもソープランドではなく、デリヘルやホテトルが主流で、この西中島南方がホテトルの発祥の地という説もあるほどである。
中鉢は三十二歳。エンジニアとしては取り立てて優れているわけではないが、堅実でコツコツと努力をし重ね、一段ずつ階段を上るタイプである。また、森岡の側近の中では唯一妻帯者であった。
何やかやと雑談に花が咲いた後だった。中鉢が思い出したように口を開いた。
「そういえば、社長。ちょっと、妙な事がありましてね」
「妙?」
森岡が敏感に反応した。
「気にすることもないかもしれませんが」
中鉢はそう断りを入れてから話し始めた。
その日、中鉢は商談を終え、青山通りの表参道付近を地下鉄の駅へ向けて歩いていたのだという。そして駅への階段の入り口に着いたときである。
中鉢は、
――おや?
と思った。三十メートルほど先方に、見知った男がこちらへ向けて歩いて来ていたのである。
――宇川か?
中鉢が声を掛けようとしたとき、その男は咄嗟に踵を返し、走り出してしまった。
「おい、宇川」
中鉢も後を追いながら声を掛けたが、男は振り向きもせず、折しも通り掛ったタクシーに乗り込み立ち去ってしまった。
不審に思った中鉢は、宇川と思しき男が歩いて来た道を辿ってみた。すると、二百メートル先に意外なビルがあった。
建物の壁全面がブルーの洒落たビルだった。
「そこにギャルソンの本社ビルがあったのです」
「ギャルソンなあ……・せやけど、ほんまに宇川やったんか」
「ええ。一瞬ですが、間違いなく目と目が合いましたので、宇川だったと思います」
「お前に気づいて逃げたんやな」
「もう上司でもない私とは関わり合いたくなかったのかもしれませんね。ただ、ギャルソンといえば、社長の発案である寺院ネットワーク事業への出資に前向きの会社でしょう。ちょっと、気になりましてね」
「宇川は、三日ほど前に突然退職していたな。申し出は何時や」
森岡が野島に訊いた。
「退職する日の十日前です」
「十日? 理由は何や」
「田舎の福岡に帰ると言っていましたが」
「なんでや」
「彼は長男ですし、帰って実家の造り酒屋を継ぐとのことでしたが、本当かどうかはわかりません」
「しかし、それにしても急な話やないか」
「何でも、父親が倒れたそうです。命に別状はないのですが、この際両親を安心させるために帰ると言っていました」
「それも、本当かどうかわからんな。それにしても急ぎすぎやな。仕事のけじめとか、引継ぎとかあるやろ」
「仕事のけじめはきちんと付けていました。引継ぎも問題はなかっようです」
そう報告した野島は、
「退社の申し出は十日前ですが、計画的だったのかもしれません」
と最後に自身の推量を付け加えた。
この野島の説明を受けて、住倉が口を挟んだ。
「ギャルソンは、宇川が前の会社でシステム開発を担当した会社やろ。ただ挨拶に行っただけなんじゃないか」
「阿呆。お前は中鉢の話を聞いていなかったんか」
人前にも拘らず、森岡はあからさまに住倉を叱責した。
一見すると恥を掻かせたようにも映るが、このような半ば冗談半分の叱責は日課のようなもので、二人の漫才の掛け合いのような会話は周囲を和ませることが多かった。
森岡が独立したとき、行動を共にした幹部社員の中で、住倉が唯一年長だったこともあり、森岡は安心して住倉を叱責することができた。住倉も森岡の意図を良く心得たもので、黙って叱られ役を引き受けていたが、反対に森岡に対しても恐れることなく意見をすることもあった。
住倉は、他の幹部社員に比べて、システムエンジニアとしての能力は低かったが、全くの善人で正直者だった。それ故、森岡はウイニットの設立以来、彼に金庫番という重職を任せ、全幅の信頼を寄せていた。
「ちゃんと聞いていましたよ、社長」
住倉は口を尖らせた。
「それやったら、宇川は怪しいとは思わんか? 中鉢と顔を合わせて無視したというのは、何か後ろめたさがあるんと違うか」
「後ろめたさですか」
住倉には森岡の謎賭けがわからなかった。
「もしかしたら、寺院ネットワーク絡みで、何かあるのではないか、と社長はお考えなのですね?」
言葉に詰まった住倉に代わり、坂根が満を持したように言った。
住倉はむきになって反発した。
「確かに、宇川は寺院ネットワークシステム・開発プロジェクトのチームリーダやったけど、この事業はコンピューター・システムができても、何にもならんのやで。お寺が関わらんとあかんのや。それも、そん所そこいらのお寺じゃあかん。坂根、お前は宇川がそないな立派なお寺と懇意にしとると言うんか」
だが、坂根が一枚上手だった。
「常務。お言葉を返すようですが、宇川ではなく、ギャルソンの柿沢会長なら、考えられなくもないでしょう」
「……」
坂根の鋭い読みに、住倉は返す言葉がなかった。
「坂根の言うとおりや。そう考えると、宇川の突然の退職も、ギャルソンを訪問したことも、そして中鉢を無視したことも辻褄が合う」
「ちょっと待って下さい。もしそうだとして、宇川に後ろめたさがあるのなら、中鉢と出会ったとき、慌てるか、逆に何事もないように中鉢と話をするのではないでしょうか」
納得のいかない住倉はなお食い下がった。
うん、と森岡が肯いた。
「俺も、最初はお前と同じように思ったが、宇川の性格では、それは無理やと思い直した。宇川は小心者やで、俺の前に出ると叱られるとでも思うのか、いつもおどおどしとった。あの男に中鉢と話をして心の動揺を隠しきれるほどの度胸は無い。そうかと言って、慌てふためくと、それこそ中鉢に疑念を抱かれる。宇川には無視することが精一杯やったと思わんか」
「社長の言われるように宇川は小心者でした。ですから、そんな根性なしの宇川に、裏切りなんてできんでしょう」
「またお前はあほなことを言う。坂根が言ったことを忘れたんか? 宇川の自発的やのうて、柿沢が唆したとしたら、どうや」
「あっ、そうか」
住倉は酷く間の抜けた声を発した。
「おそらく、社長は柿沢会長のことよりも、その先をご心配なのだと思いますよ」
「柿沢会長の先?」
「そうです。常務の言われたように、この事業には宗教法人が絡まなければ成立しません。しかも、並の寺院では立ち行きません。社長は、柿沢会長が関わっている寺院によっては、より厄介なことになると心配されているのです」
坂根は、
『柿沢は総務清堂側と繋がっているのではないか』
という森岡の懸念を読み当てていた。
宇川は昔の誼で、ギャルソンの柿沢会長には今後の身の振り方を相談しただけかもしれない。だが中鉢の話は、正式な協賛承諾の返答が引き伸ばしになっていることから、柿沢に対して不信感を抱き始めた矢先に持ち込まれたものであった。
そこにきな臭いものを嗅ぎ取った森岡の目は、柿沢の背後に潜む影にも注がれていたのである。
「この件は一切他言するな。取越し苦労ということもある。俺の方で調べるから、それまではこの六人だけの話ということにしとく、ええな」
森岡は厳しく緘口を引いた。
「しかし、柿沢という男、とんだ古狸なのかもしれんな」
そう吐き捨てた声には、ほろ苦い響きがあった。頭から組み易しと侮った己自身を叱責していたのである。
森岡はすぐさま伊能に連絡を入れ、柿沢の調査の依頼を追加した。
このとき、森岡は意外と冷静であった。
仮に自身の推測が当たっていたとしても、彼らをどうすることもできない現実があったからである。加えて、彼らは重要なことに気づいていないことも、彼をそうさせていた。
一見したところ、藤井兄弟、スポンサー、そしてネットワークシステムが揃えば、容易に事業展開が図れそうであるが、彼らは根本的な問題を解決しなければならなかった。それは、全国寺院の信用を勝ち取らなければならないということである。
寺院ネットワークに参画するとなると、過去帖などの最重要情報はともかく、ある程度の檀家の情報を外部に漏らすことになる。
当然、情報を扱う業者は絶大な信頼を得なければならないだろう。これは極めてハードルの高い話である。森岡には榊原壮太郎のような人物が、おいそれと柿沢の身辺にいるとは思えなかったのである。
神村正遠、谷川東顕、そして森岡洋介の三人は、森岡が用意した帝都ホテルの一室で、弓削広大と会談に臨んでいた。
弓削は高校、大学と相撲部にいたこともあって、百七十センチに満たない身長ながら、体重は百キロ近い巨漢であった。
森岡は挨拶のときに、ほんの一瞬交わされた彼の目を注視した。
恐ろしいもので、修行を積んだ者とそうでない者の差は、そうしたところに現れるのだろう。久田や神村ほどではないにしろ、二人には有って谷川東良には無い「目力」というものが弓削には有った。
「いやあ、弓削君。良く出向いてくれたね」
まずもって神村が労いの言葉を掛けた。
「神村上人からいきなりの連絡なので驚きましたが、お上人がわざわざ私に会いたいとおっしゃっているのに、無下にお断りする理由もございませんのでお受けしました。しかし、谷川上人も御一緒とは驚きました。まさか、在野にその人有りと謳われたお二人に、同時に御目文字できるとは光栄の至りです」
弓削の面相から、けっして追従ではないと森岡は思った。
東顕の評価は森岡が思っていたよりも高いようだった。
「そう言ってもらえると、私も少しは気が楽になるよ」
神村は口元を緩めたが、それも一瞬のことだった。
「さっそく本題に入るが、実に厚かましいというか、無理なお願いがあって、君にこうしてわざわざ東京にまで御足労願ったのだよ」
「法国寺の件ですね」
弓削が先んじて言った。
「わかっていたかね」
「はい。この時期に神村上人ほどのお方が、然程面識のない私に、直々に連絡を下さるということは、法国寺の件しかあり得ないと推察しておりました」
「そこまで察していながら、会談を断らなかったということは、前向きであると受け取って良いのかね」
神村は、弓削を見つめて訊いた。
弓削の目が一閃の光彩を放った。
「結構です。ただし、私の力に余ると判断すれば、遠慮なくお断り致します。それで宜しいでしょうか」
「もちろん、君の意思を第一に尊重するよ」
弓削は、依頼を断っても一切公言しない旨を確約し、
「お話を伺いましょう」
と姿勢を正した。
「では、ここからは私が話そう」
と、谷川東顕が神村に代わって話し始めた。
「まずは、君の考えを確認しておきたいのだが、清慶上人の法国寺貫主への立候補をどう思うかね」
「それは申すまでもなく、お二人と同様の気持ちです。そうでなければ、ここへはやって来ません」
「それを聞いて安心した」
東顕は安堵の笑みを零した後、すぐに厳しい表情に戻った。
「では、本題に入ることにしよう。他でもないのだが、君に妙智会を使って、清慶上人の貫主就任反対の運動を扇動して欲しいのだ。たとえば、反対の署名活動などをしてね」
「署名活動ですか。それは簡単なことですが、その名簿をどうされるのですか。総務さんに渡すのでしょうか」
「そうだ……」
と、東顕が言い掛けた傍から、
「いいえ、宗務総長が良いかと思います」
森岡が口を挟んだ。
弓削は眉根を寄せながら、
「森岡さんとおっしゃいましたね。失礼ですが、貴方はお二人とどういう御関係ですか」
と棘のある声で訊いた。自身より年下とみられる、しかも僧侶でもない者が口を挟んだことが気に入らない様子である。
「森岡君は、大学時代に私の書生をしていたのだよ」
神村が説明した。
「神村上人の書生を? では森岡さんも僧侶なのですか」
「いや、そうではない。宗教上の弟子ではなく、人間修養のための書生をしていただけで、今はITの会社を経営している」
「IT?」
弓削広大は、交換した名刺を確認した。
「ウイニット……」
「小さな会社ですので、御存知ないでしょう」
森岡は、弓削の疑念に応えるように言った。
「それで森岡さん。なぜ、総務さんより永井宗務総長に渡す方が良いのですか」
弓削は不満の面を畳み込むようにして訊いた。
「総務さんに握り潰されれば、折角の苦労が水の泡となります」
「総務さんが握り潰すですと」
「私は天真宗内の権力構造などよく知りませんが、総務さんであれば簡単なのでは
ないですか」
「確かに総務さんの威光を以てすれば可能でしょうが……」
そう言うと、弓削は不敵な笑みを浮かべた。
「今度は総務さんの弾劾の署名を集めてやりましょう」
森岡は首を横に振った。
「そうすれば妙智会の面目は保たれるでしょうが、私たちには時間がありません」
「なに」
弓削が顔を歪めた。
なるほど、藤井清慶の貫主就任反対の署名であれば短期間で多数の署名を集めることは可能かもしれないが、事は次期法主が確実視されている総務清堂を弾劾するし署名である。誰もが二の足を踏むに違いなかった。法国寺新貫主の選任会議までに有効な数の署名が集まる保証は無かった。
「確かに、妙智会の面目よりそちらの方が重要でした」
弓削は口元に口惜しさを残しながら、それでも、
「ですが、永井宗務総長が総務に反目されますかね」
と疑念を呈した。
「いや、間違っても正面きって反目などされないよ。何といっても、次期総務に一番近いところに居られるのだからね。わざわざ好き好んで、総務清堂上人の心証が悪くなるような馬鹿な真似はされないだろう」
東顕が答えた。
「それなら、なぜ永井宗務総長に?」
渡すのか、と弓削は訊いた。
「総務さんを逃がさないためだろう。森岡君」
神村が森岡の意図を察したように訊いた。
はい、と森岡は肯いた。
「総務さんが逃げる。どういうことでしょうか」
弓削は巨体を揺すりながら前のめりになった。
永井大幹、総本山宗務院・宗務総長、六十七歳。宗務総長という総本山においては法主、総務に次ぐ要職にあり、次の総務の候補として、先頭を走っている人物であった。
何故、総務本人ではなく、永井宗務総長の方が効果的なのか。
その理由は、仮に法主を名誉ある天皇、総務を行政の長である総理大臣とみなせば、宗務総長は内閣官房長官、すなわち宗門全体の実務を司る総務清堂を、公的に助力する女房役の立場に当たった。
さらに、永井は単に総本山宗務院の長という立場だけではなかった。総本山の宗務院は、同時に天真宗の宗教上の事務を統括する部門であり、全国六千ヶ寺の事務処理の報告も集約されていた。
いわば、宗門の心臓部ともいえる最重要部門であり、その長である宗務総長は、職務上総本山だけでなく、在野寺院とも深い関係を有しているのである。実際には、全国の宗務に関しての長は総務であり、宗務総長は次席となるが、一定の権力を保持していることに変わりはない。
そのような重責を担う永井が反目する事態にでもなれば、総務清堂にとって喉元に刃を突付けられたのも同然なのである。
天真宗の権力構造には詳しくないと謙遜した森岡だが、この程度のことは瞬時に考えを巡らす頭脳の持ち主なのである。
「要は署名を渡して下さればそれで良いのです。総務さんは、永井宗務総長が妙智会の署名を受け取ったという事実だけでも、十分に圧力を感じると思いますが、それを自分に差し出されたら、圧力どころではなくなるでしょう」
森岡は自信有り気に言った。
清堂が弓削から直接署名を受け取ったならば、握り潰さないまでも、無視をして時間稼ぎをすることはできる。しかし、宗務総長が一枚噛んでいるとなると、そうもいかなくなるというわけであった。
「では、永井宗務総長が署名を受け取られるだけではなくて、総務さんに渡して頂けなければ、効力が半減するのですね」
「そういうことになりますね」
森岡は他人事のように言った。
「いやあ、先ほど簡単だなんて言いましたが、重要な役目ですね」
「手を引きたくなったかい」
神村が訊いた。
「とんでもありません」
弓削はその太く短い首を左右に振った。
「その反対で、増々やる気が出てきました。不謹慎ですが、次期法主と影の法主の争いなんて前代未聞の勝負ですからね、非常に興味があったのです。それが、その一役を担うわけですから、願ったり叶ったりです」
そこまで言うと、弓削は腕組みをし、
「ですが、宗務総長に受け取らせるだけでも難題でしょうね」
と口元をきっと結んだ。
「そうでもない。宗務総長は、署名の数によっては受け取らざるを得なくなるよ」
「……」
「そのときになればわかるよ」
神村は、謎めいた笑みを浮かべながら言った。
怪訝な表情を浮かべる弓削に、東顕が念を押した。
「ところで、弓削君。本当に大丈夫なのかね。なんせ総務さんに楯突くことになるのだからね。君の将来に災いが降り掛かるとも限らないのだよ」
東顕の懸念にも、弓削は平然としたものだった。
「そのようなことはご心配に及びません。私も天山修行堂で久田御前様の御指導を仰いだ者の一人として当然のことをするまでです。それに、私はまだ若いですから、十年や十五年睨まれてもどうってことないですよ」
彼は事が不首尾に終わった場合、藤井清堂と永井大幹が法主にいる間は冷遇される覚悟をすると言った。
「では、本当に引き受けてくれるのだね」
神村が最終確認を取った。
「是非、お仲間に入れて下さい」
「有難う」
神村は深々と頭を下げた。
森岡が東顕に目顔で合図をした。
「ところで、謝礼として、君個人へは三千万用意した。これは首尾、不首尾に拘わらず受け取ってくれ。他に妙智会の幹部へ渡す金と経費で五千万と見ているのだが、足りるかね」
「まず、私への謝礼は一切要りません。その代わり幹部に渡す金ですが、役員は十人ですので、一人に付き三百万をお願いします。後、経費は予測不能ですが、一千万もあれば足りると思います。できましたら、経費の残りと、あと一千万を妙智会に寄付して頂ければ有難いのですが」
弓削は恐縮そうに言った。
東顕の視線を受けて、森岡が軽く顎を引いた。
「それは、もちろん君の言うとおりにするが、君自身は本当に良いのかね」
はい、と弓削は肯き、
「御恩返しをするのに、金を受け取ったのでは筋が通りません。いえ、筋というより気持ちの問題ですかね」
と微笑んだ。
――なるほど、この森岡というIT企業の社長が神村上人のスポンサーなのか。しかし、切れる。この男、恐ろしいほど頭が切れる。
弓削は畏怖するように森岡を見つめていた。
こうして首尾よく弓削広大を味方につけることに成功した。久田帝玄に対する御恩という弓削の言葉に嘘はなかったが、打算が全く無かったわけではない。彼にしても絶好の機会だったのである。
弓削もまた、天山修行堂で久田の薫陶を受けてことへの、またとない恩返しの機会となるばかりでなく、宗門の未来を担うであろう神村とも親交を持て、貸しを作ることにもなる。そのことは若い弓削にとって、将来の栄達に大きく道を拓く力になるであろう。
弓削広大は妙智会の幹部を召集し、神村の話を伝え、満場一致の賛同を得る。若い僧侶たちは、その分純粋な正義感が残っている。藤井兄弟の専横を食い止めることに一役買うことによって、自分たちの存在感を示す絶好の機会と捉えたのだった。
幹部たちは、それぞれの地元に戻り、藤井清慶の法国寺貫主就任に反対する署名運動を精力的に始めたのだった。
弓削らの行動と前後して、伊能からの調査報告により、森岡の疑念が的中していたことが証明された。柿沢康弘と宇川義実が繋がっていたばかりでなく、新たに吉永幹子という女性実業家が結託していること、そしてこの吉永こそが清堂の主要スポンサーであることを、伊能はようやく突き止めたのだった。
柿沢は自身の個人会社を通じて、吉永の事業に資本参加していた。
ついに、企みの全貌が浮かび上がってきた。
森岡はこのように考えた。
柿沢は宇川から寺院ネットワークの事業話を聞いたとき、当初は協力しようと考えたが、何かの機会にそのことを吉永幹子に話した。
当然吉永は、その事業話の中心にいる神村は、自身が支援している藤井兄弟と敵対している人物だ、と柿沢に告げただろう。しかも、兄清堂は次期法主内定者であり、法国寺を巡る情勢は自分たちが有利であることも……。
いかに半端者とはいえ、商売人の端くれである柿沢は頭を働かせたに違いない。彼は神村よりも、次期法主の実弟である清慶の方が全国の宗門寺院に影響力を持つと考えるだろう。彼でなくても、宗門の内情に明るくない者の目にはそう映るのが常識的である。
そうであれば、全国の寺院に事業展開するに当たっては清慶の方が時間を要せず、より短期間に先行投資を回収できると考えたとしても無理はない。
柿沢にしてみれば、事の成り行きが決してから、態度を決めても遅くはなかったが、吉永幹子との親交も有り、戦況も有利と判断して、いち早く吉永に付くことにしたのだろう。
そこで、寺院ネットワークの開発リーダーだった宇川を厚遇で引き抜き、システム開発を担当させようとした。そう考えれば、宇川が突然退職したことも納得できた。
このことは、森岡に新たな闘志を呼び起こした。
もしこの戦いに敗れるようなことがあれば、自身の発案まで略奪されるという二重の辛酸を嘗めさせられることになる。
もちろん、寺院ネットワーク事業に限っていえば、法国寺の戦いに敗れたとしても、久田、神村、そして榊原の協力がある限り、彼らと競合しても勝利する可能性は高い。しかし事ここに及んでは、事業の成功はもちろんのこと、意地と面子を張った戦にもなっていたのである。
もっとも、宇川の裏切りは、森岡にとって悪いことばかりではなかった。総務清堂の命を受けた人物を洗い出す目的は、藤井兄弟の支援者を見つけ出すことにあった。しかし、相手も然る者、容易に尻尾を出さなかったため、有能な伊能を以ってしても、特定できずにいたのだった。
そういう現状からすれば、何はともあれ、吉永幹子の存在を突き止められたことは、不幸中の幸いだったとも言えたのである。




