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黒い聖域   作者: 久遠
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         第二章 俊英(1)

 新しい年が明けた。

 例年であれば、大阪黒門市場から新鮮な魚介類を大量に仕入れ、ウイニットの社員を自宅に呼んで、盛大な新年会を催すのが慣例となっていたが、一九九八年は静かな年明けとなった。

 坂根好之と南目輝もそれぞれ帰省したため、森岡は生まれて初めて一人きりの正月を過ごしたのだが、彼が寂しさを感じることはなかった。本妙寺新貫主の座を巡る暗闘もいよいよ佳境を迎え、ますます闘志を漲らせていたからである。

 正月の三ヶ日が過ぎ、営業を開始した幸苑に於いて神村正遠、谷川東良、森岡洋介による新年会が行われた。大阪に戻っていた坂根と南目は隣室で膳を取った。

 久々、一堂に会した三人は、森岡が霊園事業計画を報告した後、その流れで密談に入った。

 神村と谷川東良にしても、法国寺対策を森岡一人に委ねていたのではない。二人は、藤井兄弟の間を裂けないか、すなわち兄清堂に、法国寺の一件から手を引かせる方法はないかと思案を重ねていた。

 次期法主が確実視されている総務清堂の力が強大なのであって、清慶一人であれば、久田帝玄とは比べようもなく小さいのだ。

 むろん、首尾よく総務清堂に手を引かせたとしても、静岡の大真寺、法真寺、国真寺の大本山三ヶ寺は総務清堂の心中を慮って、清慶支持を変えないであろうが、他の貫主を正面切って次期法主に楯突く罪悪感から開放することはできる。中でも大河内の気持ちを、久田に向かせ易くなることは間違いなかった。

「藤井兄弟、特に総務さんのアキレス腱が見つかると良いのですが」

「アキレス腱なあ」

 谷川東良は気の抜けたような声を出した。

「どんな些細なことでも、構いませんが」

 森岡は少し声を強め、催促するように言った。

「そう言われても、華の坊は名門やし、個人的にも何ら問題はない。第一、そうやなかったら法主に手が届く総務になんかになれるはずもない」

 あまりに素っ気なく聞こえた。その捨鉢のような言い様に酷く無気力さを感じた。これまで真剣に思案していたというのは本当だろうか、と疑念さえ抱いた森岡は憤然として声を荒げた。

「そう言ってしまえば、それで終わりでしょうが!」

 まるで人が変わったような形相に、

「森岡君、そう苛立つな。谷川上人も悪気があってのことじゃない。別に谷川上人の肩を持つわけではないが、総務清堂上人個人に限っていえば、法主に相応しい人格者なのだよ」

 神村が慌てて仲裁に入った。彼にしても、これほど感情を露にした森岡を目の当たりにしたのは初めてのことだった。

――おや? なにやら印象が変わった。その、一つ殻を脱いだような……

 これまで、牧羊のように従順だった森岡が、年配者である谷川東良に対して語気を強めたことは、神村にとっても意外なことだったが、彼は好意的に捉えていた。

「申し訳ありません、先生。少し興奮してしまいました。ちょっと、中座します」

 森岡はお手洗いと称し、席を立って部屋の外に出た。彼が神村の前で言葉を荒立てることなど、大変に珍しいことだったが、これにはいくつもの伏線があった。

 第一に、このところの谷川東良の態度が不満だった。

 大本山本妙寺の件のときは、それなりに精力的に動いていた彼が、焦点が別格大本山法国寺に移ってからは、やる気のない態度を取り続けており、連絡が取れないことも多々あったのである。

 確かに、仏教の真髄を極めることに消極的で、修行も疎かにしてきた東良は久田の覚えが悪かった。厳しい直言を受けたことも何度かあったという。したがって法国寺の件には気乗りがせず、関わりを持ちたくない心情も理解できなくはない。

 また、兄の東顕が直接乗り出したことも気に入らないのかもしれないが、全ては本妙寺に繋がっていることを忘れているように思えてならなかったのである。

 そしてもう一つ、彼の苛立ちを増長している要因があった。

 二十六年の長きに亘り、胸の奥底に封印していた秘事を茜に告白したことにより、憑き物が取れたように心が軽くなった森岡は、ある決断をしていた。

 告白の翌日、森岡は伊能に極秘の来院を要請した。

 思いも寄らぬ森岡の惨状を目にして、言葉を失った伊能に、私的な事で詳細は明かせないが、と前もって断りを入れ、ある人物の調査を依頼した。

 他ならぬ石飛将夫である。

 森岡は、あの夜の襲撃の犯人は石飛将夫だと確信していた。最後に彼の顔を見たのは二十六年も前の少年時代のこと、しかもマンションの入り口の薄明かりの中、その輪郭をはっきりと確認できたわけではなかったが、腹部を刺された瞬間、あの笠井の磯での惨劇が頭を過ぎっていたのである。

 森岡は病室のベッドに横たわり、夕闇に暮れ行く空を眺めながら、その後の石飛家の消息に想いを馳せてみた。

 故郷を追われた彼らが、見知らぬ土地で苦労を強いられたであろうことは容易に想像できた。将夫少年が、不可解な弟の死に疑念を抱き、灘屋の理不尽な仕打ちに、恨みを抱いて生きていたとしても無理はない。

 そして現在、この世にその恨みを晴らせる相手は自分しか残っていないのである。あの凶刃は、その怨念の一撃だったと森岡は悟っていた。

 森岡は、伊能単独での調査を依頼した。伊能らの能力であれば、あの二十六年前の事件に辿り着くであろう。そうなった場合、森岡は伊能の疑念に答える覚悟をしていたが、余人には知られたくなかったのである。

 ずいぶんと昔の一件であるうえに、単独行動であったため、さすがの伊能も調査に手間取っていることは推察できたが、森岡は彼の結果報告を一日千秋の思いで待ち続けていたのだった。

 

 森岡はトイレの用を済ませても、すぐには席に戻らなかった。廊下に立ち止まって裏庭を眺めながら、暫し高ぶる気持ちが落ち着くのを待っていた。

 庭の草木は、夜になってちらつき始めた粉雪で、薄化粧の装いとなっていた。

「どうなさったのですか? 森岡さん」

 突然、背中越しに女将の村雨初枝が声を掛けてきた。

「いえ、ちょっと」

 森岡は気恥ずかしそうに目を伏せた。

「少し声を荒げていらっしゃいましたね]

「外にまで漏れていましたか……御迷惑をお掛けました」

「いえ。そのようなことは、気になさらないで下さい。たまたま通り掛かったときに、森岡さんの声が聞こえたものですから。でも、珍しいこともあるものだなあと、気に掛けていましたのよ。そしたら、こちらに向かっておられるお姿が見えたものですから、思わず声を掛けてしまいました。お邪魔でしたら、すぐに退散致します」

「邪魔だなんてとんでもない。女将と話をすると、何故か心が落ち着きますから」

「では、一言宜しいですか」

 女将の表情があらたまった。

「何でしょう」

「どういったご事情かは存じませんが、森岡さん、腹を立てたら負けですよ」

「えっ?」

「腹を立てると、相手の真意が読めなくなってしまいます。それだと、交渉事は上手く行くはずがありません。相手がわざと挑発していることだってありますしね。今の森岡さんが、それに当てはまっているとは思いませんが、でも相手の腹の内が見えなくなるという意味では同じでしょう。谷川さんに不信感を抱いていらっしゃるなら、余計に冷静にならないといけませんわ」

「なるほど、さすがは女将。これは一本取られました」

 女将の言葉に、森岡は思わず唸った。

「こんなことを口にするのは、本来女将としては失格なのでしょうが、正直に申し上げますと、私も谷川さんはあまり好きなタイプではありませんの」

「へぇー。女将の口からそんな言葉が出るとは、思いもしなかったなあ」

 森岡は、わざとらしく言った。

「あら、私もまだぎりぎり四十代ですから、女として十分現役ですよ。男性の好き嫌いだってありますわ」

 女将もおどけて見せた。

 魅力的な笑顔が零れていた。しかも、雪割草のような凛とした芯の強さがあり、並みの男では太刀打ちできない貫禄も備えている。

「いや、そういう意味で言ったつもりではないのですが」

 森岡は頭を掻きながら、

「では参考までに、女将の好きなタイプをお伺いしたいですね」

 と訊いた。 

「そうですね、性悪のように見せ掛けて、内実は純粋な人かな。たとえば、森岡さんのようにね」

 女将はそう言って、ウインクをした。

「あははは……有難う御座います。女将のお陰で、今度もまた気持ちが晴れました」

 森岡は腹の底から笑った。こんなに愉快な気持ちになったのはいつ以来だろうと思いながら、女将のやさしい心遣いに感謝していた。

「でも冗談でなく、谷川さんには心を許さない方が良いと思いますわ。これは私の勘ですけどね」

「女将の勘なら疑う余地もありませんね。肝に銘じておきます」

 森岡はすでに真顔に戻っていた。

 三十年の長きに亘り、何百人、何千人という一流の男達を見てきた女将の人を見る目に狂いはない。まして、女将の人間として一本筋の通っている生き方にも一目置いていた森岡は、彼女の忠告ならば、素直に耳を傾けることができた。

 彼は、女将のある逸話を知っていた。

 それは、七年前のことである。幸苑から一筋東にある近畿循環器病院に、日本最大の暴力組織・神王組傘下の、とある大物組長が入院していたことがあった。ある日、その見舞いに訪れた地方の極道者達が、その帰りに食事をするため幸苑にやって来た。

 幸苑は、暴力団関係者の出入りを堅く禁止していたので、係りの者が断りを入れると、数人の下っ端が難癖を付け始めた。幸苑を良く知る地元のヤクザならそのような悪態は付かないが、事情に明るくない地方の極道者だったため粋がって見せたのだ。

 困り果てた係りの者が女将を呼んで来ると、女将はいきり立つチンピラに向かって、こう啖呵を切った。

幸苑うちは、あの神王組三代目の田原大親分ですら断りを入れ、ご承知頂いた店なんですわ。とてもお宅ら田舎ヤクザごときが敷居を跨げる店やおまへんな』と。

 その場に殺気を含んだ緊張が走った。田舎ヤクザと虚仮にされ、面子を丸潰れにされたチンピラが、怒りに任せていまにも力に訴える動きを見せたのである。

 まさに一触即発。

 女将も不測の事態を覚悟したときだった。

「止めんか!」

 と、若衆を一喝する声がした。親分らしき男の声である。どうやら、女将の啖呵が聞えていたらしい。

「わしに恥を掻かすつもりか!」

 そう怒鳴り付けながら、初老の男が女将の前に歩み寄ると、

「お騒がせしました」

 と言って頭を下げた。そして、一行はおとなしく立ち去り、事なきを得たということである。極道者といえども、人の上に立つ者の中には、身の程を弁えている者もいるということである。

 森岡は、神村からその逸話を聞いたのだが、同時に女将が堺の豪商で千利休の茶の高弟だった、杵屋太郎次郎の子孫であることも聞き及んだとき、彼女の豪胆さは血筋のなせる業かと、感服したことを忘れずにいたのである。

「社長、こちらでしたか。先生がご心配なさっています。席に戻って下さい」

 廊下の向こうに坂根の声がした。トイレに立ったにしては、ずいぶんと遅いことを気に掛けた神村が、坂根を使い連れ戻しに来させたのだった。

 森岡は腕時計を確認した。

「もう三十分も経ったか。女将のお陰で気も静まったことだし、そろそろ戻るとするか」

 森岡は女将に一礼すると、軽い足取りで座敷に戻って行った。


 座敷に戻ると、谷川東顕が神村の横に坐していた。

「おっ、戻って来たか。所用で遅れてくればこの始末。東良に代わって私が詫びよう」

 と、東顕がいきなり頭を下げた。

「お上人に詫びて頂くことではありません」

 森岡は恐縮して言うと、東良の横に座った。

 すると、

「森岡君、さっきは悪かった。君にすれば、金銭的な負担は全部賄っているんやから、せめて宗門内部のことぐらいは真剣に考えろ、という思いだろう」

 東良も取って付けたように詫びた。

 森岡は心の中で肯いていた。なるほど、女将の言葉に従って観てみれば、機嫌を取るように下手に出た谷川東良が滑稽にすら見えた。

 森岡は、そのような心の内をおくびにも出さずに、

「いえ、そのようなことは思ってもいません。金など、少しも惜しくはありませんし、好きで出していることですから。ただ、藤井兄弟に関しては、私は何も知らないので、何かヒントになる材料を与えて頂かないと、私にはどうすることもできないのです。それで、少し苛立ってしまいました。大変失礼しました」

 と素直に頭を下げた。

「それでな。総務のアキレス腱だが、君が座を外している間、神村上人とも話していたのだが……」

 東顕が一つ思い当ることが有ると言った。

「藤井兄弟、というより華の坊にとって、現在最も重要な事は何か? ということだ」

「はい」

「それは、一も二もなく総務清堂の法主就任であって、清慶の法国寺貫主就任ではない」

「そうでしょうね」

「家門から法主を送り出すというのは最高の誉れだ。しかも、華の坊は滝の坊に匹敵する名門の宿坊でありながら、明治の初めに法主を輩出して以降、百二十年以上、十五代に亘って途絶えていて、滝の坊に大きく遅れを取っているのだ」

「清堂上人の法主就任は家門の悲願と言うことですね」

 そのとおり、と東顕は肯いた。

「そこでじゃ。もし清慶の法国寺貫主就任が清堂の法主就任の妨げになるとしたら、どうすると思う」

「言うまでもなく、清堂の法主就任を優先し、清慶の法国寺貫主就任を切り捨てるでしょうね」

「当然、そうなる」

 東顕は我が意を得たりと言う顔をした。

「しかし、そのような上手い手があるのですか」

「上手く行くかどうかはわからんが、やってみる価値のある手が、一つだけあるにはある」

 東顕の勿体ぶるような面に、

「いったいどのような」

 森岡は辟易した思いを押し殺して訊いた。東良といい東顕といい、廻りくどい物言いは血のなせる業のようだ。

「清堂の法主就任を妨害するんや」

「妨害? そんなことができるのですか」

 そうであれば、もっと早く言え、という苛立ちが森岡に募る。

「いや、妨害といっても、法主の選出に関して蚊帳の外に置かれているわしらは、実際には実力行使をしたくても出来へんのやが、牽制ぐらいならできんこともない」

「牽制?」

「そうや。たとえば、清慶の法国寺貫主就任反対の署名を集めるとかな」

「署名ですか」

 つい懐疑的な物言いをした森岡に、東顕が珍しくも陰鬱な面を返した。

「君には、そんなことで……と思えるかもしれんが、これには長年に亘って宗門内に横たわる深い確執が関わってくるのや」

「宗門内にそのような溝があるとは知りませんが」

 森岡の声も自然と低まった。

 東顕は、神村に話しても良いかと目で訊いた。神村は黙って肯いた。

「ある意味宗門の恥部、いや弱点といってもええことやから、あんまり口にしとうはないんやけどな」

 逡巡しながらも東顕が語った内容は、なるほど天真宗の暗部というべきものであった。


 表面上は波風一つなく、一枚岩のように見える宗門にも、その水面下では厳然として存在する、ある大きな確執があった。

 それは、鎌倉の昔から宗門の最高峰である法主は、特定の家門からしか出さないのが慣例となっていることである。

 すなわち、宗祖栄真大聖人の純粋な直弟子の家系群と、大聖人の信者として苦楽を共にし、後に出家した有力支援家の家系群の二つであり、現在の総本山を護持する四十六子院の住職しか法主に上がれる資格がないのである。

 当初こそ、法主の座は全国の僧侶が対象であったが、鎌倉の末期に四十六子院が整ってからは総本山の独占となった。

 徳川幕府に例えるなら、四十六子院は御三家、御三卿、親藩のようなもので、それ以外の大名は将軍にはなれないのと同じであった。

 戦中戦後に、衰退した宗門を復興した中興の祖である久田帝法をもってしても叶わなかったことが、明瞭にそれを物語っていた。もっとも、帝法は自ら固辞した話も伝わってはいるが……。

 これには、総本山の一種の純血思想が密接に関連していた。

 まずもって、天真宗僧侶となるための得度は、総本山の四十六子院と、全国にある四十八の大本山と本山、そして特別に本山格を与えられた数寺院に限られていた。

 当然の如く、総本山の各子院に生まれた者が僧侶の道を歩むとなれば、自坊で得度したが、後継者以外はいずれ在野の末寺へ出される宿命に有った。

 これに対して、在野にある者が得度する場合は、総本山の子院でも全国の大本山や本山でも良かった。しかし、総本山で得度したとしても、法主はもちろん一定以上の要職に就くことも適わなかったので、これまたいずれ在野に下ることとなった。

 目安としては、神村が二十八歳のときに就いた高尾山奥の院の経理、つまりナンバー三の地位が上限であり、それ以上の総本山の要職一切は、子院群の住職及びその後継者の特権事項だったのである。

 もちろん例外もある。

 特に才能のある若い僧侶には、チャンスが無くはなかった。跡継ぎに恵まれない子院が、養子縁組や婿入りの相手を在野に求めたからである。実際、そうした中から法主に駆け上がった者もいた。

 また極稀に、万人が認めるほどの傑出した者ならば、老いてからでも法主の座に招かれることもあったが、その場合でも一旦は四十六子院の籍に入ることに変わりなく、外見上はその体裁が守られていたのである。

 しかも、法主の選出自体も四十六子院の専権事項であり、圧倒的多数の在野寺院は、自分たちの頂点である法主選びからも全くの埒外に置かれていたのである。

 過去を振り返ってみると、在野寺院はこの偏向な仕組みに対する不満を幾度も表明してきた歴史があり、その度に総本山と衝突を繰り返し、宗門の衰退を招く結果を生んできたが、慣行が改められることはなかった。

 必然的に在野の僧侶が目指す最高峰は、総本山真興寺に次ぐ格式を持つ、別格大本山法国寺の貫主の座ということになった。

 もしそれが、此度清慶の手に落ちることにでもなれば、総本山の法主と法国寺の貫主という、まさに両最高峰を藤井兄弟が独占することになってしまうのだ。これには、内心不満を抱く在野寺院が少なからずいるはずである。谷川東顕はその声を集約することができれば、総務清堂に圧力を掛けられると考えた。

 かつて各仏教宗派は、ほとんどが世襲制であった。

 法主や管長といった宗派の頂点は、皇位継承権と同じように継承順位が決まっていた。

 戦後は、宗教界にも民主化の波が押し寄せ、公選を取り入れる宗派も増えて行ったが、現在でも世襲制を崩さない宗派も残っている。

 天真宗は、その中間ともいうべき体制である。

 総本山の法主、総務、宗務総長などの役職は、四十六子院に限られた公選であり、大本山と本山の貫主及び執事長は世襲ではないが、原則的に後継指名である。紛れもなく公選なのは、各地区の本山会と寺院会の両会長選挙ぐらいである。

 さて、藤井家にしてみれば、すでに片手を掛けている、一族最大の悲願である法主の座が危うくなるかもしれない事態など、あってはならないことだった。

 東顕は、次期法主という立場を逆手に取って、清堂のアキレス腱にしようと考えたのである。

 東顕が殊の外策士だったのは、総務清堂に対して恫喝にも似た牽制、いわゆるムチだけでなく、アメも用意しようとした事であろう。

 周知のことながら、法主就任に関しては多額の出費を伴う。それは、支持を取り付けるための工作資金、つまり賄賂というだけでなく、法主就任に際しては、宗門に貢献しているという、周囲が納得する実績というものを積み上げる必要があった。

 そのため、清堂は二つの事業を推し進めていた。

 一つは、総本山にある多宝塔の修改築で、もう一つはスリランカにおける布教の一環として、現地に近代的な設備の小・中学校を五ヶ所建設することだった。そのため、清堂はいくら金があっても足りるということがなかった。

 谷川東顕はそこに狙いを付けた。法国寺の件から手を引いてもらえれば、見返りにそれ相応の上納をしようというのである。

 ちなみに、神村正遠が学生時代に修行を積んだ滝の坊の開山は、十四歳で栄真大聖人の一番弟子になった栄招えいしょう上人である。

 滝の坊は、栄招上人が大聖人の最も近くで、且つ最も長きに亘って教示を受け、大聖人から後継者に指名されていながら、大聖人より先に逝去したため、以降初めて法主を輩出するまでに百年も掛かったという悲運の宿坊であった。

 方や、藤井兄弟の生家・華の坊を開山したのは、栄真大聖人が総本山を静岡に定め、適当な土地を探し求めていたとき、自らの所領を寄進した鎌倉幕府の御家人三浦景昌かげまさである。

 景昌は鎌倉幕府の意向に逆らって寄進したため、要職を解かれてしまうという憂き目にあった。現世に無常を感じた彼は、それを機に武士を捨て、出家して栄真大聖人に弟子入りをし、後に華の坊を開山したのである。

 この二つの宿坊は、明らかに対照的な成り立ちであった。滝の坊が一番弟子という大聖人の教えを極めて純粋に受け継ぐ家門であるのに対し、華の坊は大聖人の晩年に弟子となり、直弟子としては末席でありながら、経済的支援を梃子にのし上がった、いわば成り上がりの家門であった。

 全く異なる渓流を持つ二つの家門は、古くから反目しあい、法主の輩出を巡って幾度も覇を争って来た間柄であり、ここ二百年は、当初悲運の続いた滝の坊が優勢の状態にあった。

 このような関係性から、神村は滝の坊の子孫ではないが、中原是遠の愛弟子ということで、華の坊にとっては敵、すなわち代理戦争の様相を呈していたのである。

 話を元に戻すと、問題はこの大役を誰が引き受けてくれるか、ということである。

 たとえこの戦いに勝利しても、総務清堂の法主就任には変わりはない。

 つまり、普通に考えて次期法主に楯突くことになるのだ。下手をすると、自身の、あるいは家門の将来に禍根を残すことにもなりかねない。言うなれば、火中の栗を拾うということである。

 そのような損な役目を受ける人物が、そうそう簡単に見つかるとは思えなかった。

「宗門の中から適当な人物を探すとなりますと、私は内情が全くわかりませんので、お二人にお任せするしかありません」

 そう言って、森岡が水を向けた。

 すると、東顕の話の間、一心に黙考していた神村がおもむろに口を開いた。

「ずっと考えていたのですが、弓削ゆげ君はどうでしょうか」

 東顕に見解を求めた。

「弓削? もしかして仙台北竜興寺ほくりゅうこうじの弓削広大ですか」

 東顕が口を開く前に、東良が怪訝そうに中に割って入った。

「そう。彼は若いが、なかなか評判は良いよ」

「神村上人は弓削をご存知で?」

「天山修行堂で何度か顔を合わせたときに、一言、二言雑談をした程度だけど、なかなかに見所のある人物に見えたのだがね」

「弓削といえば、確か妙智会みょうちかいの会長をしていますな。なるほど、彼が引き受けてくれれば打ってつけですな」

 東顕は両手でテーブルを強く叩いた。

 宮城県仙台市の北竜興寺副住職・弓削広大こうだいは、三十八歳という若い僧侶である。だが、天山修行堂での荒行を五度終え、すでに大本山・本山の貫主に就く資格を有している前途有望な俊英であり、四十歳以下の青年僧侶で構成された全国組織・妙智会の会長を務めていた。

 有能なうえに野心家でもある弓削は、たとえ格上の相手であっても、若さに任せて堂々と正論を吐く熱血漢でもあった。

 彼を味方に付け、藤井兄弟の専横になりかねない事態を阻止すべく、妙智会に全国展開の活動をさせ、総務清堂に圧力を掛ける一方で、同じ弓削を使って上納の話を持ち掛ける。そうすることで、妙智会が敵にも味方にもなることを知らしめようというものだった。

「ところで、私は面識が全くありませんし、神村上人もそれほどでもないとすると、誰かを間に挟まないといけませんなあ」

 そう言って東顕が腕組みをすると、東良が思い当たったような顔をした。

「どうでしょう、気仙沼の岩城上人に仲介の労をとって貰っては。私の記憶では、岩城上人は神村上人と同級生だったはずですが」

 神村は、そうだと肯いた。

「君の言うとおり、岩城上人とは総本山の妙顕中学、妙顕高校と六年間一緒だったし、その後も親交はある。あるが……」

「何か不都合が有りますか」

「ここは一つ、私が直接連絡を入れることにしよう。総務さんに楯突こうと画策するのだから、なるべく間に人を介さない方が良い。向こうに動きが漏れたら元も子もなくなるし、岩城上人にも迷惑が掛かる」

「それでは弓削君への連絡は神村上人にお任せするとして、もし弓削君と会談することになりましたら、仙台でも大阪でもなく、中間の東京にしましょう。その方が人目に付かなくて済みます」

 と、東良が提案した。

 こうして弓削広大に白羽の矢が立った。神村から連絡をもらった弓削は面会を了承し、三日後、東京で会談することになった。

 

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