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黒い聖域   作者: 久遠
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         第一章 乱雲(1)颯爽

 それから十三年の月日が流れた、一九九七年初夏。

 大阪府大阪市の北方、JR新大阪駅前に建つインテリジェントビルの十五階において、株式会社ウイニットの緊急幹部会議が行われていた。

 ウイニットは、コンピューター・ゲームソフトウェアの製作や、業務用ソフトウェアの開発、販売、保守、そして新しくインターネット関連技術を手掛け始めた、世間でいうところのIT企業である。

 五年前、森岡洋介もりおかようすけが中国の古書である論語に倣い、三十歳を機に創業した若い企業だが、時流に乗って飛躍的な急成長を遂げていた。

 現在大阪を拠点としながら東京、札幌、名古屋、広島、福岡にそれぞれ支店を開設していた。社員数は二百五十名を超え、百億円の売り上げを計上するなど、二年後の新興市場での株式公開を目指している前途有望な会社であった。

 創業者の森岡洋介は三十五歳。百八十センチを超える長身で、やや細身の体躯をしている。目元が涼やかで鼻、口も整い、見栄えの良い好青年であるが、眼底に僅かながら濁りが澱んでいる。

 大阪の名門浪速大学から、一旦子会社を経由して大手情報機器販売会社の菱芝りょうしば電気に就職した森岡は、寝る間も惜しんで働き、ひたすらスキルアップに努め、六年後に満を持して独立した。

 私生活では大学卒業と同時に結婚したが、六年前に死別している。子供は居らず、傍目には独身貴族を謳歌しているように見えた。


 この幹部会議はいつもと趣を異にしていた。

 森岡が、ある拠所無い事情から、事の決着が付くまでの間、社長の職務権限の大半を専務取締役の野島真一のじましんいちに委託する旨の了解を取り付け、併せて経営企画室の課長である坂根好之さかねよしゆきを、直属の部下として専任とする了承も得ようとした会議だったのである。

 だが、現在会社は株式公開を前に会計基準をはじめとする様々な改革に取り組んでいる重要な時期であったため、いかな森岡の要望とはいえ、すんなりとはいかなかった。

 直ちに異を申し立てたのは、システム部門を統括する、その野島真一であった。

「社長、率直に申し上げて非常に困ります。これが、平常時ならいっこうに構いませんが、二年後に上場を控えている現在いま、社長が抜けられるということは、内外の信用を失いかねません」

 この意見には、管理部門を統括する常務取締役の住倉哲平すみくらてっぺい、取締役東京支店長の中鉢博巳ちゅうばちひろみが揃って同意した。

 森岡の指示で、臨時にこの会議の末席に座していた坂根は、この光景を奇妙な心持ちで眺めていた。

 森岡と同年代の幹部たちは、少なからず彼を尊敬していた。森岡は大学生時代から、菱芝電気の子会社である菱芝ソフトウェアで、アルバイトとしてソフトウェアの開発に携わり、無類の才能を発揮していた。

 その能力を見込まれ、社長から直々に請われ同社に入社した彼は、すぐに菱芝電気の柳下システム部長の目に留まり、彼の部署に出向することになったのだが、二年間の出向期間が満了すると、そのまま菱芝電気に引き抜かれた。

 その後、柳下の指揮の下、今や同企業グループの主力商品となっている、業務用の各種パッケージソフトの開発を次々と手掛けた彼の業績は、同社において伝説となっているほど際立つものだった。

 ソフトウェア開発だけではない。二十七歳の若さで、菱芝電気グループ傘下企業の技術者が一堂に会した席で講演したり、同社が開発したコンピューターの操作マニュアルを製作したりもした。

 新入社員の自分たちが、仕事のイロハもわからない頃に、然程年齢の違わない森岡が第一線で活躍している姿を眩しく見ていた幹部たちは、その森岡が五年前に独立したとき、彼を慕って馳せ参じた者たちだった。

 したがって入社以来三年、坂根はカリスマ的な存在である森岡の考えに、彼らが異を唱えたことは一度もないと承知していた。特に重要な案件は、良くも悪くも森岡が独断で決し、彼らはそれに追随してきたはずであった。


 森岡は黙って皆の考えを聞き、全員の意見が出揃うのをしばらく待っていた。

 すると、反対意見が相次ぐ中で、ようやく彼の考えに同調する者が現れた。営業部門を統括する、部長の筧克至かけいかつしである。

 筧は三十三歳。肥満体型からか汗掻きの体質だが、茫洋とした外見の印象とは異なり、同じ菱芝グループ傘下の電算機メーカーにおいて、常にトップクラスの成績を上げていた敏腕の営業マンだった。

 三年前、ある仕事を通じて筧と知り合い、その類稀な営業能力に惚れ込んだ森岡は、以来ウイニットの営業部門の強化として、彼を口説き続けた。

 そして昨年の夏、ようやく三顧の礼を持って迎え入れることのできた、森岡が最も期待を掛けている男であった。

「専務のご意見はもっともだと思いますが、私は社長の好きなようにして差し上げれば良いと思います。上場はまだ二年後ですから、半年や一年ぐらいなら、私たち皆がカバーし合えば問題ないのではないでしょうか」

 この意見には、システム開発部長の桑原と、インターネット部門の部長の三宅、ゲーム開発部門の部長の船越、そして総務部長の荒牧と、各部門の長が同調した。

 坂根の目には、これもまた奇異に映っていた。桑原と三宅、船越、荒牧もまた、筧と同様に中途採用者だった。

 つまり、森岡の考えに挙って反対したのが、独立する前からの子飼いの者たちで、賛成したのが途中入社組、と本来逆ではないかと思えたからである。

 筧のこの意見に、住倉が辛辣な言葉を浴びせた。 

「部外者が呑気に無責任なことを言ってもらっては困るで。二年後や言うても、やることは仰山あるんや。時間は有るようで無いんやで」

 社内改革の中心にいて、森岡が抜けることにより最も負担が増すことになる住倉は、あからさまに筧を非難した。

「しかし、社長が中途半端なお気持ちで仕事をなさっても、身がお入りにならないでしょうし、それなら思いっきり神村先生の手助けをなさり、事が成就したあかつきには、上場に向けていっそうの頑張りをして頂いた方が、結果として効率が良いのではないでしょうか」

 筧は、常務の住倉にも臆することなく持論を曲げなかったが、住倉に続き、野島も筧に反駁した。

「ウイニット(うち)における社長の存在はあまりにも大きい。俺たちが頑張ったところで、そう簡単に埋まる穴やない。もう一度言うが、理由はどうあれ、もしこちらの都合で株式公開が延期ともなれば、社会的信用が失墜する可能性が高く、引いてはその後の業績にも影響しかねん」

 野島は筧に向かってそう言うと、顔を森岡に戻した。

「大変申し上げ難いことですが、此度の事はそれほどの危険を冒してまでも、社長がなさらなくてはならないことなのでしょうか」

 野島は、社用と私用のどちらが大事なのか、と問うたのである。

 経営の一翼を担う専務の要職にいる野島にすれば、十分に筋の通った意見だった。

 森岡は目を閉じたまま、口を開かなかった。

 代わって筧が苦言を呈した。

「しかし、そのようなことばかり言っていたのでは、いつまで経っても社長におんぶに抱っこの状態から抜けきれないのではないでしょうか。そんな有様では、たとえ上場したとしても、その先飛躍的な発展は望めないと思います」

 あからさまに野島や住倉ら、森岡を取り巻く現経営陣を痛烈に批判したのである。

 筧の指摘にも一理あったが、あまりに毒舌が過ぎた。公然と痛いところを皮肉られ、面目を潰された形となった野島と住倉、中鉢が血相を変えたのは当然だった。

 行き場を失った険悪な空気が、たちどころに満ち満ちて行った。

――まずい……。

 と、坂根の顔も強張っていた。

「皆の意見は良くわかった」

 重苦しい雰囲気を切り裂くように、森岡の声が響いたのはそのときだった。

「一方が正しくて、他方が間違っているということはない。両方とも、もっともな意見やと思う。しかしだ、この際はっきりと言っておく」

 森岡は、そこで一つ深呼吸をした。

「俺にとって、神村先生はかけがえのない恩人や。その大恩人の重大事に、何の手助けもせんのは人の道に外れている。俺はそんな外道の生き方はしたあない。仮にそれが原因で、上場に支障を来したとしても、何ら悔いはない。それでも尚、俺の考えに反対ならば、遠慮はいらん、ウイニットから出て行ってもええで」

 森岡は幹部社員の顔を一人一人見つめながら、静かに自らの信念を語った。その穏やかな口調の裏に厳然として有る、不退転の意思を感じ取った幹部社員は、それ以上何も言えなくなった。

 神村というのは、森岡が大学時代の四年間寄宿していた寺院の住職である。そして、幹部社員に語った拠所無い事情とは、その神村の身に突然降って湧いたものだった。

 時間は昨日に遡る。

 

 早朝の若葉薫る初夏の陽気が、午後には梅雨の先走りのような霧雨になり、さらに夕方ともなると、雷鳴轟く激しい風雨に変わっていった。

 大阪の高級料亭「幸苑こうえん」に向かう車中の森岡にすれば、その乱雲立ち込めた空模様こそが、自身の未来を暗示していることなど知る由もなかった。

 それは、すでに一本の電話から始まっていた。

 森岡は東南アジアに外遊中の神村から、ある依頼の連絡を受けていた。彼は、そのときの短いやり取りで感じた、神村の声の微妙な異変がずっと気に懸かっていた。受話器越しとはいえ、日頃の威厳のある口調に陰りが射し、微かに気弱い印象さえ受けた。

 恩師の、このような話しぶりは初めてであり、それが彼に妙な胸騒ぎを覚えさせていた。

 そしてつい先刻、神村の朋友である谷川東良とうりょうから呼び出しの電話を受けたばかりだったのである。

「社長。神村先生についての相談事って、何でしょうかね」

 坂根好之がバックミラー越しに、浮かぬ表情の森岡を気遣いながら声を掛けた。

「それや。俺もずっと考えているのやが、皆目見当が付かんのや」

 森岡は、握り拳で二、三度額を小突き、

「お前は何や思う」

 と気安く問い返した。

 それというのも、坂根好之は一部下ではあったが、森岡の中学時代からの親友、坂根秀樹の実弟で、好之自身も中学から大学までの後輩だったため、森岡は弟に近い感情を抱いていた。

 三年前の夏、中学校の統廃合に伴って催された同窓会に出席するため、久しぶりに島根へ帰郷した森岡は、その足で秀樹の家を訪ねたのだが、その折居合わせた好之と意気投合し、すぐさま勤務先の大手広告代理店から引き抜いたという経緯があった。

「社長がおわかりにならないのに、私などが差し出がましい口を挟むのもどうかと思うのですが、ただ……」

 坂根は途中で言葉を濁した。森岡は当たりを付けているはず、という思いもあった。

「ただ、なんや。良いから言ってみいや」

 促された坂根は、一つ息を呑んでから、

「神村先生ほどのお方が気落ちなさることといえば、本妙寺ほんみょうじ貫主かんしゅの件で、何か不都合が生じたのでは、ということぐらいです」

 と慎重な言い回しをした。


 貫主とは、本山などの住職を指している。

 宗派によって、

 座主ざす

 管主かんしゅ

 貫首かんしゅ

 管長かんちょう

 等の呼称がある。


 神村が所属する仏教宗派・天真宗においては、宗門のトップを法主ほっす、大本山及び本山の住職を貫主かんしゅと呼称している。

「本妙寺の件か……それは俺も考えてみた。もしそうだとすると、いったいどういうことやろうか……それに、今頃になって谷川さんが出張って来たのも気になる」

 神村は事実上、京都大本山本妙寺の次期貫主に内定していた。森岡には、その件でどういう差し障りが生じたのか見当が付かなかった。 

 森岡はふっと息を吐き、

「しかし、なんだな。今から気に病んでも仕方ないわな。谷川さんに会えばわかることやしな……それに、そもそもが俺の取越し苦労かもしれんしな」

 と自分自身に言い聞かせるように言葉を継いだ。

 坂根は自身の事以上に気を病む有様を見て、不思議な心持ちになっていた。

「いつものことながら、先生の事となると、社長はまるで人が変ってしまいますね」

「ははは……」

 森岡は、ただ苦笑するしかなかった。坂根の言葉は正鵠を射ているのだ。

大学の四年間、書生をしていた恩師である神村の事となると、森岡はその想い入れの強さが災いし、新進気鋭の若手経営者としての、気力漲る自信家で、それでいながら冷静沈着でもある日頃の言動が全く影を潜めてしまうのだった。

 

 会社のあるJR新大阪駅前を出て、西中島南方から新御堂筋に入り淀川を渡る。新御堂筋は大阪の中心部と北摂を結ぶ大動脈であり、この時刻は梅田へ向かう南行きの渋滞が酷い。

 それでも普段であれば、淀川に溶けて行く落陽の情景が気を紛らわせてくれるのだが、このときばかりは森岡自身そのような悠長な気分ではなかった。

 そもそもこの日は雨にも祟られていた。光を閉ざす分厚い雲は、早くも大阪の街をすっかり夜の闇と包み、黒く流れる淀川の水面に、商業ビル群の灯りが夜光虫の群れのように屯していた。

――ド、ドーン……。

 という低い爆音が、森岡の腹に響いた。また遠雷が轟いたのだ。

 森岡は、思わず左手で目頭を押さえ前屈みになった。

 右手で胸を押さえている彼の脳裡には、落雷との距離が少しずつ縮まって、

――いつか俺に直撃するかもしれない。

 という不吉な錯覚が過ぎっていた。

 森岡の異変にも拘らず、坂根の顔に動揺の色はなかった。

「どうかされましたか」

 と一応声を掛けはしたが、彼には容態の急変ではないとわかっていた。稲光りがすると、森岡はいつもこのような状態になるのを知っているのである。

「たいしたことやない」

 やはり森岡はそう呟いた。

 坂根は、稲妻に対する恐怖とは違う気がしていた。たとえば雷光に纏わる何かのトラウマに苦しんでいるのではないだろうかと推量していたのである。


 淀川を渡り切ってからしばらく進み、梅田新道の交差点で新御堂筋を降りる。おそらく、大阪で最も交通量の多いであろうこの交差点を右折、つまり西へハンドルを切って、一つ目に交差する御堂筋を左折、つまり南に下ってすぐの左手の道を入ってしばらく行ったところにその料亭はあった。

 その幸苑まであと五十メートル付近に差し掛かったときだった。

 前方に、一組の男女と二人組の男が何やら揉めているような光景が目に入った。

 もう少し近づくと、男女は老人と水商売風の若い女性、二人組は二十代のチンピラのような風体とわかった。

「坂根、ここで降りる」

「えっ、まさか仲裁に入るのですか」

「ああ、黙って見過ごすわけにはいかん」

「ですが、思った以上の渋滞のせいで約束の時間ぎりぎりになってしまいました」

「午後に連絡があって夕方会いたいと言ってきたのは向こうやから、少々遅れても許して下さるだろう」

「では本当に」

 助けに入るのか、と確認した。

「俺の気性は知っているやろう」

 森岡は、もう何も言うなという口調で言った。

 坂根はまたかと内心で思っていた。うんざりというのではないが、森岡と付き合い始めて三年、坂根は幾度となくこういう場面に遭遇していた。

 これもまた、森岡の謎といえば謎の一面だった。

 表現はおかしいが、何かに憑り付かれてでもいるかのように人助けをする。特に女性が絡んでいるとなおさらである。

 といって、決して下心があってのことではない。むしろ女嫌いかと思うほど女性を近づけない。亡妻を愛し、浮気など一度もなかったと聞いている。言うなれば愛する女性に一途なのである。

 独身に戻ってからも、それこそ夜の街を歩けば言い寄る女に事欠かない。三十五歳の青年社長、それも今を時めくIT世界の起業家で資産家、高身長、高学歴しかも容姿も悪くない。女性にもてないわけがないのだが、据え膳すら食ったことがないと承知している。

 女性絡みに弱いと言ったが、そうかと言って誰彼無しに助けるわけでもない。本当に困っているのか、騙して金でも奪おうとしているのかがわかっているかのように選別し、対処する。

 どうしてそのような芸当ができるのか、もしや人の心が読めるのではないかとオカルトチックな妄想まで抱かせる何とも不思議な男なのである。 

「お前はこのまま通り過ぎろ。車を広い道に停め、急いで引き返して来てくれ」

「わかりました」

 坂根は、森岡の意図を察した面で顎を引いた。

 森岡は車から降りて四人に近付いて行った。

 それまでの分厚い雲が一時切れて、辺りは幾分明るさを取り戻し、雨も小止みとなっていた。

「どうかされましたか」

 森岡が長閑に声を掛けると、四人が一斉に視線を向けた。

 老人は八十歳手前ぐらいか、高級スーツを身に着けていて紳士然としている。中小企業のオーナー社長か老舗の店主といったところか。

 女性は二十代後半か、薄闇の中でも相当な美形とわかる。和服に黒髪を後ろに丸めていることから、北新地のママかホステスということだろうが、年齢から言えばホステス、それも高級クラブに勤めていると推察できた。さしずめ同伴出勤ということなのだろう。

「なんや、お前は。この爺と知り合いか」

 二人のうち小柄な方が言った。この男が兄貴分のようだ。

「いいえ。私のようなチンピラが、このような上品なご老人と知り合いなわけがありません」

「なら、女か」

「ああ、そうですねえ、彼女のような別嬪さんが知り合いだったら毎日がどんなにか楽しいことでしょう。ですが、残念ながら私は美人にも縁がありません」

「なら、なんの用や」

「ただのお節介焼きで」

「何だと」

 大柄の年下の男がいきり立った。

「まあまあ、落ち着いて下さい。揉め事の原因は何ですか」

「私の手にしている傘の滴が彼らのズボンに掛かってしまったのです」

 老人が弱々しい声で答えた。

「なんだ、そんなことですか」

「それで、弁償しろというのです」

「いくらですか」

「百万円です」

 ははは……と森岡は笑った。

「これはぼろい商売ですな。雨の滴が掛かっただけで百万円とは……」

「何だと、馬鹿にしているのか!」

 小柄な男がいまにも殴り掛かりそうになった。

「その百万円は私が払いましょう」

 へっ、と出鼻を挫かれた格好の小柄な男は脳天から空気が漏れたような声を出した。

「ほんまか」

「もちろん」

 森岡の頭の先から爪先まで舐めるように見た兄貴分の男は、

「金は持っているんやろうな」

 と疑念の声で訊いた。

 森岡の身形が、極普通のサラリーマンのそれと変わりなかったからである。

 森岡はうちチポケットから財布を取り出すと、中の札束を男に向けた。

「ほう。お前も金持ちか」

「とんでもない。預金通帳には一円も残っていませんよ」

 なけなしの金だと森岡は言った。

「それを俺らにくれると」

「仕方がありませんね」

「見ず知らずの者のためにか」

「なにぶん、お節介焼きなもので」

「奇特なことやな。じゃあ、遠慮なく貰おうか」

 小柄な男が手を差し出した。

「その前に、お二人からもう少し代償を頂きますが」

「どういうこっちゃ?」

「いくらなんでも雨露が掛かっただけで百万はないでしょう。もう少し迷惑を掛けさせて貰います」

「何を言っているのか、ようわからんな」

 顔を顰めた小柄な男の後方に坂根の姿が見えた。

――なるほど、そういうことか。

 と、老人は森岡の意図を理解した。

 森岡の口調が変わった。

「そうですね。腕の骨を一本ずつ折らせて貰いましょうか。百万はその治療費として差し上げます」

「な、なんやて」

 二人の男が気色ばんだ。

「お前が俺たちの腕の骨を折るってか」

 弟分の方が侮りの声で言った。

「とんでもない。私にできるはずがないでしょう。ですが、後ろの男なら簡単にできますよ」

 二人の男が振り向いた。

「遅くなりました」

「ほんまやで。時間を稼ぐのに苦労したがな。お蔭でアホな話はせにゃならんし……」

「後はお任せを……」

「頼む」

 と、森岡は一歩二歩と後ずさりした。

 坂根はスーツを脱いでネクタイも外し、両腕のカッターシャツを捲り上げていた。準備万端である。靴は元々革靴ではなく、裏がゴム製のスポーツタイプを履いている。こういう場面のためにということもあるが、運転の際ペダルにフィットするのだという。

「お前も仲間か」

「そうだ。俺が相手になる」

「お前一人で俺ら二人をか」

 兄貴分の方が嘲笑した。喧嘩には慣れているようだ。そうでなくては他たとえ老人が相手でも恐喝などしないであろう。

 森岡が思い出したように言う。

「ああ、そうだ。先に言うとくけどな、その男はむちゃくちゃ強いで。なんと言っても、極誠館空手の二段やかな」

「二段?」

 今度は弟分が鼻で笑った。

「あんたらは知らんやろうが、極誠館の二段は他の流派であれば四段に相当するからな。もっとも強い階級やで」

 これは事実だった。

 荒稽古とフルコンタクト、つまり寸止めなしの試合で有名な極誠館空手は、『段数二倍の実力』と言われていた。すなわち初段であれば他流派の二段、二段であれば同四段、三段であれば同師範クラスの六段に相当した。

 森岡が少年の頃、故郷に極誠館空手二段の有段者がいて、仕事の合間に無償で子供たちに教えていた。森岡も坂根も小学校のときから習っていたが、時期は重なっていない。

 森岡は、中学で辞めたため茶色帯で終わったが、坂根は大学時代はもちろん、今日に至るまで大阪の道場で稽古を続けていて二段に昇格していた。

「兄貴、はったりでっせ」

 弟分が強がるように言った。

 その言葉が癪に障ったのか、坂根が奇妙な動作に移った。

 両足を肩幅くらいに開き、両方の爪先をやや内側に寄せる。両ひざを少し内側に締めるように曲げ、ひざ関節は柔らかく保っている。

 両手の拳を顔の前に挙げ、両肘を外側に張っていた。

――ほう、息吹か。

 森岡は思わず目を細めた。

 息吹いぶきとは呼吸法の一つである。両手の拳を左右の腰に下ろしながら腹の中の空気を一気に吐き出す。このとき(カァー)という声が出るのだが、有段者でなくては真面な声は出ない。つまり、息吹のときの声の音量で修練の度合いが量れた。

 その昔、地上最強の男と言われた空手家が、動物園のライオンの檻の前でこの息吹をしたところ、背を向けて寝ていたライオンがむくっと起き上がり、空手家に向かって闘争心剥き出しの咆哮を上げたという逸話が残っている。

 坂根が息吹を始めた。

 二度、三度、四度とカァー、という戦闘モードの声を出した。

「時間がないので早く済ませよう」

 そう言って坂根は、前足のかかとと後ろ足のつま先が横一直線にそろうようにして、ファイティングポーズを取った。三戦立ちである。

  三戦さんちん立とは、文字どおり三つの戦いを示す。つまり三方向、前と左右の敵に対する立ち方という事である。脇を締め、拳を握り締めその構えをとった時、交感神経が研ぎ澄まされ、非情事態の態勢、戦う姿勢が整うことになる。

「あんまり無茶をするな。足か腕の骨の一本でええで」

 森岡が冷たい声で言った。

「お、お前、空手を習っているんやったら、拙いのと違うか」

 息吹に気圧されたのか、一転して兄貴分が泣き言のような言葉を吐いた。

 たしかにボクサーや空手の有段者は、拳自体が凶器と見なされるため、傷害事件の裁判では心証が悪くなる。

「あんたらが心配することやないがな」

 森岡は呆れ顔になった。

「せやけど、傷害事件など起こして有罪になれば、会社を解雇になるで」

「それも御心配なく、この男の雇主は俺やから、懲戒解雇どころかボーナスを弾みまっさ」

 森岡が止めを刺すように言うと、老人が堪え切れないように、ぷっと噴出した。

 すでに形勢は決していた。

「どないするんや。やるのかせんのかはっきりしろや!」

森岡がどすの利いた声を上げた。それまでの柔和な物言いから一変した恫喝に、二人の戦闘意欲は完全に萎えた。

「いや、もうええわ」

 と訳のわからない言葉を口にして、二人はその場からそそくさと立ち去った。

「ご苦労さん。久しぶりにええもん見せてもろうたわ」

 森岡は笑顔で近付きながら労った。

「様になっていましたか」

 坂根も嬉しそうに応じる。

「おう、俺には出来ん芸当やな」

「ありがとうございます」

と軽く頭を下げた坂根の顔色が変わった。

「それより、遅刻です。急いで下さい」

「せやった。お前は車を幸苑の近くの駐車場に廻せ。俺は歩いて行く」

「大丈夫でしょうか。あの二人がうろついていませんか」

「俺かて一応茶色帯やで、あの二人なら大丈夫やろ。それより、急ごう」

「はい」

と、坂根は走り出した。

 森岡も幸苑へ向けて歩き出したそのとき、

「もし」

と、老人の呼び止める声が掛かった。

 そのとき雲の切れ間から陽が射し、一瞬だけ辺りが、ぱあっと明るくなった。

「御怪我は無かったですか」

 と振り向いた森岡が訊いた。

「お蔭さまで助かりました、礼を言います」

 老人は頭を下げると、

「私は……」

と名刺を取り出そうとした。

「いえ、通りすがりの者です」

森岡はやんわりと拒否した。

「では、せめて貴方のお名前だけでも……」

「いえいえ、私など先程のチンピラに毛の生えたような者ですから」

 と、森岡は照れくさそうに顔の前で手を振った。

「失礼ですが、私は……」

 それならば、と名刺を差し出そうとした女性にも、

「それもお断りしましょう。貴女は北新地にお勤めでしょう。どこのお店のママさん、あるいはホステスさんなのかはわかりませんが、私も北新地にはたまに足を運びます。もし、四千軒とも言われる歓楽街で、もう一度顔を合わせるような偶然があれば、そのときに……」

 と、森岡は一礼して踵を返した。


「実に清々しい男だのう」

老人はしだいに遠ざかる森岡の背を見つめながら呟いた。

「本当に」

女性も肯き、

「さあ、私たちも参りましょう」

と老人の手を取りながら、森岡と反対の方向に歩き出した。

「五十年も昔のことだが、わしの若い頃にはああした粋な男も結構いたが、今ではすっかり見られなくなった」

「軟弱か、狡猾な男ばかりです」

「情けない時代になったものじゃ」

老人は嘆息すると、

「いや、わしもな、初めは何とも小賢しい奴が現れたものだ思っていた。じゃが、それは彼の時間稼ぎだとわかった」

「はい」

「君もわかっていたか」

「雰囲気と物言いが似つかわしくありませんでした」

「さすがはママじゃのう。そうでなくては、その若さで最高級クラブのママはできまいな」

「ありがとうございます」

女性が微笑んだ。

「落としどころも最良だった」

「とおっしゃいますと」

「わしの観るところ、平凡な身形に反して、あ男は相当な金持ちじゃ。腕力の方も、もう一人の若い男には及ばないまでも、あのチンピラ二人ならどうにかなっただろう」

「そうでしたか」

「金で済ますなら簡単じゃった。だが、わしは商売人だからな、損は嫌いじゃ。と言って、もしママに危害が及ぶようやったら百万は出そうと思っていたがな」

「はい」

「あの男が金で済ましていれば、それだけの男だ。後でわしが彼に支払って済むことだった。だが彼はそうしなかった。しかも、暴力にも訴えなかった。喧嘩に及べば怪我をするかもしれないし、あの男も言っていたように治療費に金が掛かる。それも損じゃ。だから、あの男はもう一人の若者を待っていたのじゃ。あの若者であれば圧倒的な力の差がある。必ずや、チンピラどもは委縮して逃げ出すとな」

「では、最初からそこまで計算していたとおっしゃるのですか」

 うむ、と老人が小さく肯いた。

「孫子兵法の『戦わずして勝つ』じゃな)

「言われてみれば、なるほど彼の言動に得心がいきました」

「ところでじゃ、もしあの男ともう一人の若者が喧嘩をしたら、ママはどちらが勝つと思うかな」

「それは若い方でしょう。彼自身が自分は茶色帯と言っていました。対して若者は二段とか」

「いいや違うな」

「二人が戦えば間違いなくあの男が勝つ」

「ああ、わかりました。あの男性は若い方の雇主とか、社長に逆らうことはできませんね」

「わしが言っているのはそういう人間関係を抜きにしての話だ」

「そうであれば、やはりあの男性に勝ち目はないように思われますが」

「のう、ママ。空手の試合ならばママのいうとおり、一分も掛からずに若者の圧勝だろうて。だが、喧嘩となれは話が違ってくる。若者は死の恐怖に慄き、身体が竦んでしまいあの男に言い様に弄られるようだろうな」

「死、とおっしゃいましたか」

「ちらっとしか見ておらぬが、あの男の目には狂気が潜んでいた。何者をも恐れぬ心だ。戦いで勝敗を分かつのは相手を殺さんばかりの気力と、自身の死をも恐れぬ勇気なのだ」

「それをあの人は持っていると?」

老人は無言で肯くと、

「人体にはの、いくら鍛えても鍛えられない箇所がある」

「急所ですね」

「そうだ。もっともわかりやすいのは目と股間だな。一度喧嘩になれば、あの男はそこを徹底的に狙うだろうな。それこそ、失明という障害を負わせてもな。だが、若者の方にはそれだけの覚悟はできないだろう」

「……」

 女性は言葉が見つからなかった。

 老人の言葉を昔の剣客に例えれば、空手の試合は道場の竹刀稽古のようなもので、怪我はするかもしれないが、滅多なことでは死に至らないため、自力に勝る坂根の圧勝に終わる。

だが、命のやり取りとなる真剣での勝負になると、場数が物をいうことになる。いくら技量で勝っても、一度も人を斬った経験がない者と、少々腕で劣っても数多くの修羅場を潜って来た者とでは立場は逆転するのだ。理由は簡単で、胆力が違うからである。

喧嘩となれば、坂根は技量の半分の力も発揮できず、対して森岡は、腕の一本も切り落とされるの覚悟で命を取りに行くということである。言わば身を切らせて骨を絶つの例えである。

「わしは何百何千もの同じような目をした仲間を見ている」

「先の戦争ですね」

そうだ、と老人は肯いた。

「思い出したくもないが、最後の頃は皆覚悟の据わった目をしていた。あの若さで、それと同じ目をしているとは、あの若さでいったいどのような人生を歩んで来たというのか」

 老人は複雑な表情で言った。

「たったあれだけのやり取りで、そこまでおわかりになるとは、さすがは会長ですこと」

「ママにはわからなかったようだの」

「わかるはずがありません」

 女性は首を横に振った。

「それは良かった」

 老人は安堵したように言った。

「良かった?」

「今でも孫とは釣り合わぬというのに、さらにママが高みに行ってしまえばどうにもならなくなる」

「私のような者をお孫さんの嫁に、と言って下さるのはありがたいことですが、身分が釣り合いません」

「今時、身分など関係が無いだろうて」

「いいえ。会長のお家は代々の名家、私は庶民どころか世間に顔向けのできない家の生まれです」

「わしはそのようなことはいっこうに気にせぬがな」

「失礼ながら、会長が亡くなられば私は後ろ盾を失います」

「それもそうだの。正直に言って息子夫婦はわしの考えを快く思っていない。孫が親に逆らうとも思えぬしの」

 老人は嘆息した。

「お付き合いは別にして、一度お孫さんもお店にお連れ下さい」

「それは駄目だ」

 老人は強く拒絶した。

「生憎、今は東京におるし、近いうちに呼び戻すつもりだが、孫に北新地はまだ早い。まずは地場が分相応じゃ」

「なるほど、会長の監視下にも置けますしね」

老人は目を細め、さすがだという顔をすると、

「ああ、これだけの女性は滅多におらぬというのに……」

 と、もどかしそうに言った。

「それはそうと、彼の素性を確かめなくても良かったのですか。お礼の一つも……」

 と言ったところで、老人が女性の言葉を切った。

「確か、幸苑と言ったからな、店に行けばわかるじゃろ。是非、もう一度会いたいものじゃな」

「では、明日にでも出向いて確かめて参ります」

「二、三十代の若者二人じゃ。すぐにもわかるだろうて」

「はい、お任せを」

 女性は微笑みながら請け負った。


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