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黒い聖域   作者: 久遠
19/185

               (3)          

 その日の夕方になって、茜が病院に駆け付けた。

 驚く坂根に、

「野島専務さんから、連絡がありました」

 と、茜は言った。

 野島は、森岡の意識が戻ったとき、看護する者が必要だと考えた。完全看護とはいえ、身近な者の世話があった方が良いに決まっている。

 そうなると、男の坂根ではいかにも心許無い。だが、野島は森岡に決まった女性がいると承知していないし、家族が居ないことも知っていた。

 熟考を重ねた野島は、以前坂根から聞いたロンドでの森岡の茜に対する言動を思い出し、彼女に好意を抱いているのではないかと推察した。

 むろん、仮にそうだとしても森岡の片想いとも考えられ、茜には迷惑な依頼かもしれなかったが、ともかく連絡だけはしてみた。想いを寄せる茜が傍に居れば、森岡の気力も増すかもしれないとの期待も含んでのことだった。

 すると、野島が依頼をする前に、茜は自ら看護を申し出たのである。

「もしや、彼女も社長のことを? そうであれば、なおさら都合が良い。茜は親身になって看護してくれるであろう」

 野島は、

――社長は間違いなく復活する。

 と胸が弾む思いになっていた。

 悲壮な顔をした茜は、完全防備の装いでICU内に入ると、意識の戻らない森岡の横で誰憚ることなく「わんわん」と声を上げて泣き続けた。

 その声が、森岡の耳にうるさく届いていた。

 それが声にならない、

「うるせえなあ」

 ということなのである。

 森岡は意識こそなかったが、周囲の声は全て聞こえていた。医者と看護師の会話も、点滴の交換や、モニターのチャックをした折の看護師の独り言も全て耳に入っていた。

 それらの内容から、自身の命運は、

『この二日がヤマ』

 ということもわかっていたのである。


 森岡は、それから丸二日、意識不明のまま死線を彷徨った。

 そして、三日目の夕方だった。

 森岡は外を眺めていた。

 夕焼けが窓から入り込んで、ソファーに横たわっている茜の顔を神々しく照らしていた。

 森岡の意識が回復したというのではない。夢を見ているのである。いや、森岡には夢なのか幻覚なのか判別できなかったが、自身の意識が回復したのではないということだけはわかっていた。

 凶刃に遭ったとき、薄れゆく意識の中で、森岡は身体の痛みが強くなる分だけ、心の痛みは和ぐような気がした。そして、このままであればどれだけ楽だろうかとさえ思っていた。

 だが、こうして茜の美しい寝顔を見ていると、

――このまま死んでも良いかな。

 という気持ちが薄らいでゆくのを感じていた。

 そのときである。

 窓の向こうに側に、ぬうーっと人影のような像が映り込んだ。病室は五階なので、当然生身の人間ではない。だが、奇怪な心霊現象にも森岡は動じなかった。

 もちろん、目の前の事象が現実ではないとわかっていたこともあったが、しだいに形づけられてゆく人の面影に見覚えがあったからである。まさしく、この世のものではない美しい女性だった。

 その女性が、すっーと窓を突き抜けて中に入って来た。

「やはり貴方はあのときの……」

 森岡は懐かしげに言った。

「憶えていますか」

「命の恩人を忘れるはずがありません」

「確か、貴方が八歳と十二歳でしたね」

「十二歳といいますと、やはりあの時も貴女でしたか」

 はい、と女性は肯いた。

「あのときは自ら身を海に投げ出されましたが、此度は災難に遭ったようですね」

 森岡は十二歳のとき、我が身を憂い入水自殺を図っていた。

「不徳の致すところで」

 森岡は決まりの悪そうな表情をした。

「不徳ですか……それで、此度はどうされます」

「はっ?」

「助けてもらいたいですか」

「とおっしゃるということは、やはり私は死ぬのですね」

「さあ、それは」

 女性は明言を避けた。

「過去の二度も此度も、本来は死すところを貴女様のお力で生きながらえてしまえば、私と関わりを持つ多くの人々の運命を変えてしまうのではないでしょうか」

「貴方が、そのようなことを斟酌しなくてもよろしい」

 女性は咎めるように言った。

「も、申し訳ありません」

 森岡が怯むように詫びると、一転女性は慈愛の笑みを浮かべた。

「此度はもうお一方が救いの手を差し伸べておられますが、その方と私の手出しも含めて貴方の宿命なのですよ」

――他にも?

 と一瞬訝った森岡だが、すぐにある老婆の姿を脳裡に浮かべた。その老婆というのは、森岡が中学三年生のとき、株式投資の手ほどきをした人物だった。

 鳥取県米子市と島根県松江市の間の小さな村に住んでいたが、両県に跨って数多くの相談者を抱えていた霊能力者だった。

 精神に病を抱えていた森岡は、神村に師事するまでの間、その老婆の相談者の一人だったのである。

 今は、老婆の元を離れているが、彼女の霊能力からすれば、自身の災禍を知っていてもおかしくはない、と森岡は思ったのである。

 それにしても……と、森岡の脳裡は別の想いに入れ替わった。

 眼前の女性の、まるで母が幼子を諭すような口調が、二十三年前の記憶を蘇らせたのである。

――そういえば、笠井の磯で抱き竦められたときも、母のような温もりを感じたが、今またこの女性に母の匂いを感じるのはなぜだろうか。

 不思議な気持ちに駆らながら、森岡はふと窓の外を眺めた。

 夕焼けがオレンジ色から薄黒く変わっていた。

 そのとき、森岡の耳に茜の小さな寝息が届いた。

 その瞬間、

「助けて頂けますか」

 と、森岡は小さく頭を下げた。

「良いでしょう」

 女性は深く顎を引くと、

「両手を合わせ、お題目を唱えなさい」

 と告げた。

「その前に、貴女様のご尊名をお教え下さい」

「それも、いずれわかるときが来ます。それより、今はただ瞑目して一心にお題目を唱えなさい」

 女性は再度命じた。 

 森岡は言われるがままに目を閉じた。


 それからどれくらい時間が経ったであろうか、森岡は意識を取り戻した。

 枕元では、茜が顔を伏せ、しくしくと泣いていた。

 握っていた森岡の指が、弱々しく握り返したのを感じて、茜は彼の意識が戻ったのに気づいた。目を輝かせて覗き込んだ茜に、森岡はかすかに微笑んだ。その刹那、茜の目から再び大粒の涙が零れ出した。

 茜から森岡の生還を知らされたウイニットの幹部社員が、ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。中でも坂根好之は、自身が森岡の警護役も担っていただけに、彼の安堵は如何ばかりであったか、想像に難くなかった。

 意識を取り戻した森岡は、さっそくその坂根を呼び、あの夜以降の成り行きを確かめた。

「坂根。先生には連絡しとらんやろうな」

 森岡が厳しい顔つきで問うた。

「もちろんです」

 坂根はきっぱりと答えた。 

『俺の身に何が起こっても、神村先生には知らせるな。俺の事で、先生のお心を煩わしてはならない』

 と、常々森岡に厳しく言い付けられていたのである。

 一転、森岡は柔和な顔になった。

「それと、遺言書は見たか」

「いいえ。社長の生死が不明でしたので、手元には置いておきましたが、内容は読んでいません」

 坂根は、背広の内ポケットから封書を取り出し、森岡に返却した。

 森岡が昏睡状態にあったとき、坂根は森岡のマンションに入り、机の引き出しの中にあった遺言書を預かっていた。

 森岡は封書を受け取ると、

「見ていないのか」

 森岡は複雑な表情をした。密封していなかったので、実際のところはわからなかったが、坂根の言葉を信じることにした。

「見た方が良かったのですか」

「いや」

 と言って、森岡は坂根を見据えた。

「俺が再婚するまでに、もしものことがあったら、この遺言書をお前が管理し、皆に公表してくれ」

「私が、ですか」

「公表するときは、弁護士の先生に同席してもらうことで話は付けてある」

 森岡は頭を下げた。

 坂根は戸惑いの表情を浮かべながらも、はいと返事をした。

 一方、外傷の状況から、事件性を疑った病院側は警察に通報した。だが、唯一事件現場にいた坂根は、犯人と思しき姿を目撃していないと証言したため、捜査は暗礁に乗り上げてしまい、残る期待は森岡の意識回復ということになっていた。

 さらに二日後、ICUから個室に移った森岡を、大阪府警捜査一課の刑事二人が事情聴取のために訪れた。

 森岡は短い供述をした。

 

 車から降りて、玄関の入り口にあるセキュリティーシステムの前に立ち止まったとき、背後に人の気配を感じたので、振り向くと、いきなりナイフのような物で腹部を刺された。犯人はマスクをしており、顔がわからないので確かではないが、二十代の男性と思われる。瞬時のことなので、これも確信はないが、身長は自分と同じ、百八十センチメートルぐらいだったと思う。

 恨みを買うような心当たりはなく、男は蹲る私の内ポケットに手を差し入れたような気がしたことから、金銭目的の犯行ではないかと付け加えた。


 捜査員による現場検証の結果、奪い取られた財布は、マンション前の側溝の中から発見されていたが、森岡本人と坂根の指紋しか検出されず、犯人は手袋をしていた可能性が高いと判断された。

 尚、坂根の指紋については、森岡が普段から坂根に財布ごと渡し、現金精算をさせていた旨の証言をしたため、捜査員の疑念を生むことはなかった。

 以上から、強盗傷害事件として本格的な捜査が開始されたが、何分目ぼしい手掛かりが掴めなかったことから、捜査は難航を極めると予想された。

 この事件に対してマスコミの注目度は低かった。

 同日の夕刻、大阪市内で麻薬中毒者が人質を取って立て籠もるという凶悪事件が発生していたからである。為に、テレビ報道はローカルニュースの、しかも一局のみ、新聞報道も地方新聞に数行の記述しかなかったことから、神村や谷川兄弟の目に留まることはなかった。

 森岡はこれ幸いと、上場に絡む急な長期海外出張ということにして、その間の金銭的決済は野島が代行するよう指示した。

 

 その日の深夜、野島真一は一人で大阪吹田市の南西部に位置する「江坂」のバー「欧瑠笛オルフェ」に顔を出した。森岡の容態も安定し、ようやく酒を飲む気分になったのである。

 江坂は大阪梅田から見て北方、ウイニットの本社がある新大阪からは地下鉄で二駅北にあった。

 野島が一人で飲酒するのはこの店だけだった。彼にとっては唯一気の置ける場所なのである。

 バーの経営者である重谷憲弘おもやのりひろは小学校の後輩であり、また過去に彼の危難を救った経緯もあって親しくなった。

 二人は、重谷がバーテンダーとして働いていた北新地のショットバーで出会った。森岡に連れて来られたのである。このとき、重谷が母校の後輩だとわかり、野島は接待の後で度々顔を出すようになった。

 このとき重谷は、自分の店を持つという夢があったのだが、焦りからとんでもない契約をしてしまった。

 大阪ミナミのショットバーを又借りしたのである。

 又借りとは他人が借りた店を借りる、二重借りのことである。賃貸主に対する保証金など、開業資金に乏しい重谷にとっては苦肉の策だったのだが、その際売上額に拘わらず、毎月一定額の金額を分配するという二年契約をしてしまった。

 しかし、いかに北新地に匹敵する繁華街であるミナミとはいえ、いやむしろ競争の激しいミナミであるがゆえに、変哲のない店が繁盛するのは至難の業であった。

 重谷は深夜三時まで営業したが、客足は伸びず、売上はままならなかった。開店してから三ヶ月目には、早くも分配金が焦げ付き始め、熾烈な取立てに遭うこととなった。又貸ししていたのは暴力団関係者だったのである。

 困り果てた重谷は、藁をも掴む思いで野島に助けを求めた。野島がウイニットの専務になっている、と記憶していたのである。

 事実、ウイニットを立ち上げたばかりの時期にも拘わらず、野島の年収は一千八百万円あった。二十九歳にしては相当な高額である。

 野島は重谷を助けることにし、残り契約期間の一括清算という先方の要求を丸呑みした。弁護士を仲介させれば減額も可能とは思ったが、下手な交渉をして後腐れを残してもつまらない、と思い直した。

 清算金は五百万円余だった。

 重谷はその後の二年間、土木工事などに従事し、五百万円を貯めて野島の前に現れたのだが、野島はそのうちの三百万円を受け取り、残りの二百万円を欧瑠笛の開業資金としてあらためて貸し付けたのだった。

 欧瑠笛はカウンター席が八席だけの小さな店で、しかもバブル崩壊後の地価暴落もあって、テナント料は格安の物件だった。過去の失敗を糧にした堅実経営で、細々ではあったが、仕事終わりのホステスなどが集う人気店になりつつあった。

 この夜、二時前になると客足が途絶えていた。

「どうや。ちょっと早いけど、店を閉めてどこかで一杯やらんか」

 野島が河岸を変える誘いを掛けたが、

「せっかくの誘いですが、二時に女の子が来るんですわ」

 と、重谷は丁重に断った。

「女? お前のこれか」

 野島はからかうように小指を立てた。

「いや、違いますよ」

 重谷は、とんでもないという顔つきで否定した。

「まあ、ええわ。お前もそういう特典でもなきゃあ、やってられんわな。じゃあ、俺は退散するとしよう」

 野島は取り合わなかった。いかに堅物の野島でも、重谷のような仕事をしていれば、女性客と懇ろになることぐらいは知っていた。

「本当に違いますよ。あっ、そうだ。真一さんにも居てもらった方が良いかも……」

 重谷は、そう言って野島を引き止め、

「実は、その女の子っていうのは、北新地の「檸檬れもん」というクラブでホステスをしているのですが、えらい目に遭うたんですわ」

 と深刻な表情で話を始めた。

 そのホステスは源氏名を「真弓」と言った。

 年齢は二十八歳、檸檬で働き始めて五年の古株だという。一ヶ月ほど前、ぶらりとやって来て、その後しばしば顔を出すようになったのだが、一週間前彼女が客の支払いが滞っている窮状を重谷に打ち明けた。

 通常、ホステスはヘルプと口座持ちとにわかれる。

 ヘルプが給料制のホステスを指すのに対し、口座持ちとは売上が自身の歩合給に直結する制度を利用しているホステスのことをいう。高級店のナンバーワンホステスともなれば、月収が五百万円を超えることも珍しくない。

 だがその一方で、客の支払いはホステスの責任とされるので、支払いが滞った場合はホステス自身が肩代わりしなければならない。ハイ・リターンだが、客を見る目が無ければリスクを伴うシステムである。

 真弓はその罠に嵌まってしまったというのだ。

 半年前、彼女の口座である客に連れられて、不動産会社を経営する「猪瀬」という男が店にやって来た。離婚経験のある三十八歳の男性だった。

 通例として、ホステスが断らなければ、口座の客が紹介した客は、自動的にそのホステスの口座客に組み込まれる。連れて来た客は信用の置ける人物だったので、真弓は盲目的に猪瀬も信用してしまった。

 猪瀬は毎月三十万円ほど使い、月末請求すると、翌月早々には振り込んでくれていた。ところが、先々月の飲み代が一気に三百万円に跳ね上がった。しかも、支払いを一ヶ月待って欲しいと言ってきた。

 大阪市内の二百坪の土地の売買契約に掛かりっきりなっており、まもなく決着が付くということだった。売買代金は六億円、仲介手数料はで三パーセントの一千八百万円ということだった。

 盲目的とは言ったが、そこは口座を持つホステスである。真弓は、猪瀬の身辺調査はそれなりに行っており、北新地の目の前に建つ、梅田第三ビルの中にある彼の事務所も確認していた。むろん、それだけで信用したわけではなかった。実は、真弓と猪瀬は男女の関係になっていたのである。

 真弓はなけなしの預金を下ろし、肩代わりをした。ところが、翌月も四百万円ほど飲食したのだが、その支払いも踏み倒したまま、姿を暗ましたのである。真弓はその四百万円の支払いも肩代わりしなければならず、その期日は三日後に迫っていた。

「良くある話なんですよね」

 重谷は溜息交じりに言った。商売柄、金額の多寡は別としても、この類の話は掃いて捨てるほどあるのだという。

「その真弓というホステスには、他にも口座の客がいるんやろう」

「ええ」

「その中に金持ちがいるやろ」

「何人かに相談したようですが」

 重谷は渋い顔になった。

「身体が条件なんやな」

「そういうことらしいです」

「しかし、こんなことを言うのは語弊があるかもしれないが、上客に身体を許すのはよくあることやないんか」

「まあ、それは女の子によります。簡単に身体を許すのもいますが、真弓ちゃんは真面目な子でして」

「気持ちがないと、そう簡単に踏み切れんということか」

 野島が労わるように言ったとき、ドアが開き華奢な身体つきの女性が入って来た。真弓と思われるその女性は、二十八歳にしては幼い顔をしていた。

 一瞬目と目が合った野島は、すぐさま視線を逸らそうとした。

 ところが、

「野島さん? 菱芝電気の野島さんでしょう」

 女性から声が掛かった。

「えっ?」

 驚いた野島は視線を戻した。

「真弓ちゃん、野島さんを知っているの」

 重谷も呆気に取られた声で訊いた。

「やはり、菱芝の野島さんなのね」

 真弓の語調が懐かしげなものに変わった。

「現在は違うが、たしかに菱芝電気にいたことがあるけど……」

「私です。ルーベンスにいた『里奈』です」

「里奈? 里奈……」

 しばらく首を傾げた野島が、

「ああ、あの里奈ちゃん?」

 と、ようやく記憶の一片に辿り着いた。

 ルーベンスは、北新地の北東に隣接する「兎我野とがの町」というエリアにあるラウンジバーだった。

 菱芝電気時代、部長の柳下が利用していた店で、柳下とは月に一度程度だったが、野島を筆頭に住倉や中鉢など、森岡プロジェクトのメンバーが常連となった店であった。

「八年前になるかな」

「そうです。私は二十歳でした。今はおばちゃんになってしまいましたが」

「いや、あの頃は本当に幼い感じだったけど、ずいぶん綺麗になったね」

「そんな」

 真弓は年甲斐もなくはにかんで見せた。

「ひさしぶりの再会なのに、早々で悪いけど、僕はそろそろ失礼するよ」

 深刻な話の邪魔になるだろうと、野島は席を立とうとした。

「ちょっと待って下さい。本当に彼女とは何でもないんです」

 重谷は慌てて野島を引き留めると、

「真弓ちゃん、前に僕の恩人の話をしただろう。その方がこの野島さんなんだ」

「そうなの」

 真弓は、まるで飼い主を求める子犬のような目で野島を見つめた。

「真弓ちゃん。例の件、野島さんに相談してみたらどうかな」

 重谷は、野島に向けて軽く首肯した。

――そういうことか。

 野島は重谷の意図を理解した。

「でも……」

 真弓は躊躇っていた。

「金策は駄目だったんだろう」

「ええ」

 真弓は力なく肯いた。

「だったら、最後の手段だと思うよ。今夜、野島さんの来店があったのは、神様のお導きだと思わないかい」

「だけど、野島さんには迷惑な話だろうし……」

 今にも泣き出しそうな真弓に、実直な野島は絆されてしまった。

「いくらなの」

「……」

「良いから、言ってみな」

 重谷が背を押した。

「三百五十万円です」

「三百五十か……ええよ、貸してあげる」

 野島は気前良く言った。森岡が一命を取り留めたことに高揚していたこともあるが、真弓が全くの初対面ではないことも影響していた。

「まさか」

 真弓は半信半疑で野島を見つめた。

「その代わり、借用書は書いてもらうし、住民票ももらうよ」

「それはもちろんです」

「じゃあ、契約成立だな。返済方法は、月に十万円。三年間で総額三百六十万円ということでええかな」

「利息がたった十万円で良いのですか」

「利息なんて要らないけど、切りがええからな」

「有難うございます。それで、その、あの……」

 真弓の表情に不安の色が浮かんでいた。彼女の懸念を察した野島は、

「心配せんでええよ。付き合ってくれ、なんて言わんから」

 とさわやかな笑顔で真弓の不安を払拭した。

「良かったなあ、真弓ちゃん。野島さんは真面目な良い人やから、心配せんでええよ。その代わり、毎月きっちり返済するんやで」

 重谷も安堵したように言った。

「わかっています」

「ところで、真弓ちゃんは檸檬という店で働いているんやってな」

「はい」

「どんな店かな」

「どんな店、と言いますと」

 ははは……と野島は苦笑いした。

「セット料金はいくらかな」

「あっ、三万円です」

「三万か。それなら、俺も週一ぐらいで使わせてもらおうかな」

「私の口座になって下さるのですか」

「口座は懲り懲りかな」

「いいえ、野島さんなら大歓迎です」

「こうなったからには、俺も真弓ちゃんの売上に協力せんとな」

「嬉しいです。でも、大丈夫なのですか」

 真弓は心配顔をした。菱芝電気を辞めたと聞いたが、所詮はサラリーマンであろう。ならば、この不景気な昨今、とても接待費を使えるような年齢ではない。

「う、うん」

「野島さんはな、ウイニットというIT企業の専務さんやねん。せやから年収も凄いけど、ウイニットはもうすぐ上場する予定やから、株主でもある野島さんの資産は数億円になるんやで」

 と歯切れの悪い野島に代わって、重谷がまるで自身のことのように自慢した。

「ウイニット? もしかして、社長さんは森岡さんっていう人かしら」

「そうだけど、真弓ちゃん知っているの? 社長はルーベンスには行っていないはずだけど」

「ええ。森岡さんは、店には来られていないと思います。柳下部長さんも『あいつは奥さん一筋だから、得意先の接待以外は付き合いが悪い』とおっしゃっていました」

 菱芝電気の接待は、北新地かミナミが相場である。柳下は部下との懇親にルーベンスを使っていたが、森岡は全て断っていた。表向きは家庭を理由にしていたが、真実は柳下と個人的な親交を深めたくなかったからである。彼は、いずれ菱芝電気から独立しようと考えていた。情が移って決心が鈍ることを避けたのである。

「じゃあ、どうして?」

「だって、北新地でウイニットの森岡さんの名前を知らない人はいないですよ」

 そう言った真弓の意味深い笑みに、野島もようやく思い当たった。

「ああ、あの豪遊か」

「でも、本当に良いんですか」

 真弓は、もう一度確認した。

「八年ぶりに再会したのも、何かの導きだと思うから、断るわけにはいかないよ」

 と、野島は笑った。

 このときの野島は、貸した金は返って来ないものと覚悟していた。借用書を交わしても、住民票を取っても、真弓が姿を隠せば督促のしようがないのである。

 思い起こせば、八年前の彼女は水商売の世界に入ったばかりで、まだ純粋さが残っていた。それから八年の歳月が経ち、今やどっぷりと夜の世界に浸かっている彼女を丸ごと信用などできるはずもなかった。

 それでも野島は金を貸すことにした。それは森岡の影響を受けたからともいえた。森岡の傍らで、言い尽くされた「金は天下の回り物」を地で行くような言動をつぶさに見ていた野島は、齷齪と金に執着する虚しさを肌で感じていたのである。

 現在の野島の年収は三千万円。森岡と同様、贅沢には興味がなかった。しかも独身である。彼にとって三百五十万円は、真弓にくれてやったとしても惜しい額ではなった。とはいえ、全く無関心というのもどうかと思い、時折彼女が勤める檸檬に顔を出そうと考えたのだった。

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