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黒い聖域   作者: 久遠
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         第六章 布石(1)

 十日と経たずして、榊原壮太郎から澄福寺貫主・芦名泰山の調査を終えた旨の連絡が入った。

 さすがはナショナル・モーターの日本代理店を経営していた頃より、名うての営業マンだけのことはあった。世間と一線を画し、容易には心を許さない宗教の世界にあって、五千を超える寺院との取引を勝ち得た実績は伊達ではないということだろう。

 榊原は、誠実な人柄と巧みな話術で相手の懐に飛び込み、信用を得る事に長けていた。もちろん、そういった彼の人徳だけでなく、現実の取引に目を向ければ、全国の多くの寺院にとって榊原商店が製造販売する檜などの製品に希少価値があった。

 彼は奈良の吉野、岡山の新見、大分の日田など、全国七ヶ所に約八十万坪にも及ぶ広大な山林を所有し、そのほぼ全域で檜と欅を植林していた。

 主たる用途は建築用資材であったが、その廃材を利用して、最高級の卒塔婆、御札、護摩木等の木製品を製造していたのである。

 しかも彼は、神仏のご加護に対する報恩という奇特な考えで商売をしていたため、他社より廉価でそれらを販売しており、各寺院にとっては願ってもない納入業者となっていたのである。

 澄福寺には、過去に一度門前払いをされた経緯があったが、護寺院の一つである澄山寺との取引に成功し、今も関係が続いていた。

 護寺院とは、本山の宗務を補佐する寺院のことである。かつて、本山・末寺の制度があった頃の本山は大変に栄えており、参拝客も多く、仏法の年中行事は盛大に執り行われていた。必然的に本山の人手だけでは事足りず、それを補佐する寺院が、周囲に三ヶ寺から五ヶ寺ほど建立された。それが護寺院である。

 本山・末寺の制度が廃止されてから、本山は目に見えて衰退の一途を辿り、つれて独立色を強める護寺院も多くなった。以来、大本山・本山と護寺院の関係の深浅は、四十八ヶ寺でまちまちになって行ったのだが、それでも全体を見れば、多くの寺院が深い部分で繋がっていた。

 榊原は、その澄山寺の住職から情報を得たのである。

「さすがに早いなあ」

「早いのが必ずしも良いとは限らんがのう」

 森岡の感心を他所に、榊原はやんわりと牽制した。彼のこのような物言いは、事が不調に終わったときと森岡は承知していた。

「あんまり芳しくないのやな」

「それが、何とも言えんのや」

 榊原は渋い顔つきで言った。

「というのもな、芦名上人は長いこと立国大学の教授を務めていたことでもわかるように、生粋の学者肌で、栄達にも金にも欲が無いということやねん。せやから、藤井兄弟や御前様とも親密な交わりがなく、二人からは等距離で、全くの中立ということらしいのや。しかし、それでいて澄福寺という格式高い大本山の貫主になったんやから、余程の人物ということになるな」

 立国大学とは宗門の大学である。

「中立かあ、それは困ったな」

「でも、向こうの支持ではなかったのですから、最悪のケースは免れたのではないでしょうか」

 顔を顰めた森岡に、坂根が差し出口を挟んだ。

「お前はそう思うか」

 森岡は鋭い視線を向けた。

「劣勢の俺等にとって、堅物の芦名上人が中立というのは、敵に等しいと思わにゃならんのやないか」

「はあ?」

 坂根は、気の抜けた返事しかできなかった。

 その途端、森岡は厳しい言葉を浴びせた。

「ええか、坂根。欲の無い人間ほど扱い難いものはないんやで。言葉は悪いが、学者いうのんは、独特の世界観を持っていて変人が多い。まして、出世や金に興味が無いということは、芦名上人を引き入れようにも、これまで俺等が画策してきた、金や女といった世俗的な誘惑では無理ということや。それどころか、下手に近づくと却って気分を害し、それこそ敵に回るかもしれん。そうかといって、無理に接触する必要のない向こうとは違い、数で劣るこっちは近づかんわけにはいかんのやからな。つまり動くのも地獄、動かんのも地獄ということなんや」

「……」

 坂根は項垂れるしかなかった。

 森岡は、委細構わず榊原に視線を戻した。

「爺ちゃん、何でもええから、他に何かあらへんか」

 さりげなく言ったが、期待を込めた一言だった。榊原であれば、たったこれだけを伝えるために、わざわざ呼び付けたりはしないはず、という確信が入り混じっていた。

「他になあ……あるにはあるんやが、役に立つかわからんなあ」 

「どんなことでもええから言うてみてや」

 及び腰の榊原に森岡は強く催促した。

「なんでもな、学者肌ということでいえば、芦名は書道を嗜んでいてな、なかなかの腕前ということや」

「書道?」

「おお、日展にもちょくちょく入選するらしいで」

 森岡の脳裡の襞を、何かがコツンと叩いた。

「ちょっと待ってや。書道、書道……書道なあ」

 森岡は指で眉間を押さえ、うわ言のように呟いた。

「社長、どうされたのですか」

「いや、書道と聞いてな、胸に引っ掛かるものがあるんや。なんやったかなあ」

 森岡はしばらく記憶を辿っていたが、やがて、

「せや!」

 と気合の声を発すると、携帯を取り出し、無言で番号を打った。

――あっ、先生。森岡です……こちらこそ、ご無沙汰しております……はい、元気です……それなのですが、先生と初めてお会いしたとき、良い墨がどうのこうのとおっしゃっていましたよね。それって、どういうことでしたでしょうか? はい、なるほど……それで、現在いま最高の墨というのはどういった墨なのでしょうか?……・はい、良くわかりました。有難う御座いました。では近いうちに……失礼します。

「誰に電話したんや?」

 榊原は、不機嫌な面で問い質した。

 つるつるの頭に狸顔という、実に愛嬌のある風貌だが、キッと睨み付けられると、森岡でさえ思わず身が竦んでしまうほどの迫力がある。

「ごめんな、爺ちゃん。今話しとったんは、俺が会社の名刺を作ったとき、神村先生に紹介してもらった書道家の北条仙流先生や。書道と聞いてな、その折北条先生に伺った話が胸に痞えていたんやけど、やっと思い出したんで、確認したんや」

 森岡は宥めるように弁解した。

 書道家北条仙流は、森岡が会社を設立した折、名刺の原版に刻む文字を提供した書道家だった。森岡は、神村から多くの葉書や手紙を貰っていたが、それらの字体と結婚式に依頼した誓詞との、極端な書体の違いを不思議に思い訊ねてみると、誓詞や掛け軸、額縁に入れる書は、すべて北条仙流の代筆だと聞かされた。そして代筆は、決して神村に限ったことではないということであった。

「それで、何を確認したんや」

「それがな。どうも最近、良質の墨と硯が少なくなってきとるらしくてな、なかなか手に入らないんで、北条先生も困っとるということやねん。ずいぶん前に北条先生から聞いとってな、それが頭の片隅に残っていたんや」

「墨なあ、そうか、そうか」

 榊原は得心顔で肯いた。

「日展に度々入選するほどの書道家だったら、墨には当然関心があるやろうな。なんせ墨の良し悪しが、作品の良し悪しに少なからず影響するということらしいからなあ」

「そうであればええんやが」

「それで、その最高の墨というのはわかったんか」

「ああ、わかった。なんでも、中国十聖人の姿身の墨が最高級らしいんや」

「中国十聖人、ですか」

 坂根の脳裡には、それらしい像が浮かばなかった。この種の話は、全くの門外漢なのである。

「そうや。孔子、孟子、老子、荘子、荀子……といった高名な学者や文人の姿見の墨らしい。ただ、これらは希少品で、手に入れることは難しいということやったけどな」

「中国か。これはまた、難儀なことやのう」

 榊原も難しい顔をした。

 彼の表情は、事が日本を離れ中国に及ぶとなれば、困難極まりないことを物語っていた。森岡も、そのことは十分承知していたが、そうかといって、ただ手を拱いている男ではない。むしろ、障害が大きければ大きいほど、それに立ち向かう反骨心を沸き立たせる男である。

 森岡は、その場で坂根に新幹線の切符とホテルの予約を手配させた。

 

 翌日、森岡は真鍋高志に会うため東京に出向いた。

 森岡は、書道家北条仙流から聞き出した、中国の高名な学者十人の姿身の墨を入手し、芦名に献上しようと考えていた。しかし、この十聖人の姿見の墨は、大変な貴重品で、入手するのが極めて困難だという。なにせ十体揃って所有している者は、日本国内では三、四人、全世界でも十人に満たないだろうと目されていたのである。

 問題は、一体が五百万円から七百万円もする高級品だということではなく、いわゆる骨董品の部類に属し、一般には流通していないということだった。

 森岡は、その墨の入手を真鍋に依頼するつもりだった。真鍋グループの霊園事業に用いる石材は、大半を中国から輸入していた。そのため、中国の福建省に支店を開設し、何名かの日本人も常駐していた。彼は、そこから得られる情報に、期待しようというのである。

 新宿甲州街道に面した、一際目を引く十二階建てのビルが真鍋興産の本社ビルだった。正面が濃いブルーの総ガラス張りで、仕事柄とは異なり、いかにも洒落たデザインの近代的なビルである。

 真後ろに通信業界大手のDDTの高層ビルが聳え立ち、東京都庁は北西の方角に、不夜城で有名な歌舞伎町は北東の視界の先にあった。

 二人の会談は十一階の応接室で行われた。

「森岡さん。お上人様は大変なことになっておられるようですね」

 森岡の顔を見るなり、真鍋が気遣った。

「真鍋さんの耳にも入っていましたか。まさに晴天の霹靂で、せっかく真鍋さんのお蔭で、広瀬上人を味方に付けることができたのに、こんなことになってしまって何とも言いようがないです」

 森岡は力の無い笑みを浮かべた。

「僕も広瀬上人から話を伺いましてね、大変だろうなと心配していたのですよ。それで、法国寺の情勢はどうなのですか」

 真鍋は遠慮がちに訊いた。

「それが総本山の総務の実弟で、藤井清慶という人が立候補しましてね。いわば、この人が神村先生の敵になるのですが、それに対抗して、こちらは鎌倉の久田帝玄という方を立てることになったのです」

 森岡が掻い摘んで経緯を話した。

「鎌倉の久田上人さんね、噂に聞いたことはありますよ。大変にお偉い方のようですね」

「おっしゃるとおりなのですが、それでも情勢は不利なのです。そこで、何としても二人の上人を味方にしないといけないのですが、そのことで、真鍋さんに再びご協力を願いたくて、こうしてやって来たのです」

「もちろん、構いませんよ。うちは公私共に、お上人様には大変お世話になっ ておりますから、僕にできることなら何でも言って下さい」

 真鍋の言うお上人様とは、神村正遠のことである。

「そう言って頂くと有り難いです。では、遠慮なくお頼みしますが、実は中国聖人の姿見という高級な墨を探していましてね」

「ほう」

「十人の聖人なのですが、それがなかなかに貴重な物らしくて、簡単には手に入らないということなのです。そこで、真鍋さんの会社は、中国にも支店があることを思い出しましてね。そちらの方で情報が入手できないかと思い立ったのです」

「おっしゃるとおり、我が社は福建省に支店を開設していまして、僕も度々出向いています。では、すぐにでも事情を話して調べさせましょう」

 そう請け負った真鍋だったが、

「ただ、福建省の支店はそれほど大きくはありませんので、おっしゃるような貴重な代物だと、ご期待に沿えるかどうかはわかりませんよ」

 と正直に不安を吐露した。

「いえいえ、調べて頂けるだけでも有り難いです。とりあえずは、一体でも見つかれば助かりますので、宜しくお願いします」

 森岡はテーブルに手を当てて頭を下げた。

「承知しました。しかし、森岡さん。会社の方は大丈夫なのですか。以前、上場を計画されているとおっしゃっていましたよね」

「ええ。野島や住倉が頑張ってくれてはいますが、今回の件で多少遅れることになるかもしれませんね。私としては、早く決着が付いて欲しいのはやまやまなのですが、そうかといって、この件を徒労に終わらせるわけにもいきませんので、勝つためには時間が掛かっても致し方ないという心境ですかね」

 森岡は、苦しい胸の内を明かした。

「では、少しでもお力になれるよう最善を尽くしましょう」

 真鍋は、森岡の依頼を快く引き受けた。彼にしても、森岡との交誼や神村との仏縁というだけでなく、神村が本妙寺の貫主に就任すれば、霊園事業などの、その後の事業展開に加わりたいという目論見があったのである。

 その真鍋が、話の終わりに気懸かりなことを口にした。

「森岡さん。ちょっと貴方の気持ちを削ぐようで言い難いのですが、重要な事なので、耳に入れておきたいと思います」

 珍しく、ずいぶんと恐縮した真鍋の様子に、森岡は少し不安を覚えながらも、

「どうぞ、どのようなことでも言って下さい」

 とつとめて明るく応じた。

「では、遠慮なく申し上げます。他でもなく、先刻話に出た久田上人のことなのですが、大人物だとは承知していますが、一方で良くない噂も耳に入っていますので、森岡さんには気を付けて頂きたと思いまして」

「良くない噂とは」

「どうやら蔵王興産の速水社長と付き合いがあるようですよ。我が社も不動産を扱っていますからね。その関係で、久田上人の名前が出たのですが、お上人様と同じ天真宗ということで、気に掛かっていたのです」

 真鍋は慎重な言い回しをした。

「速水って、地上げの帝王と呼ばれていた、あの?」

 蔵王興産の噂は森岡も耳にしていた。

「そうです。現在はバブルの時代と違い、当時ほどの力はないと思いますが、それでもねえ……」

 真鍋は渋い顔をする。

「いや、良いことを伺いました。心に留めておきます」

 このとき、森岡は真鍋が気遣ったほどには驚かなかった。初対面のとき、久田から受けた威圧感の中に、そういう類の臭いも感じ取っていたからである。

 

 その夜、森岡は珍しく一人で夕食を取った。

 真鍋は急な森岡の上京に、二十二時までは身体が空かず、坂根は急な発熱で体調を崩し、ホテルの部屋で休んでいたのである。

 ホテル内の寿司屋のカウンターに座っていると、一つ間をおいて細身の老人が席に着いた。かなりの高齢に見受けられたが、小奇麗な身形で、矍鑠とした老人だった。森岡は軽く一礼をしただけで、特に言葉を交わすこともなく、次々と板前に料理を注文した。

 森岡は寿司屋であっても、寿司を注文することは滅多になかった。最後に巻き物を少々食するだけで、いわゆるにぎり寿司はほとんど口にしなかった。

 森岡は、食事には無頓着な男だった。食事だけではなく、資産家のわりにクルーザーや車といった贅沢品には全く興味がなく、衣服や時計、ネックレスといった装飾品にも関心がなかった。

 唯一拘りがあるとすれば、魚の刺身であろうか。彼は、漁師の子に生まれ育ったせいか、新鮮な魚の刺身を御飯のおかずとしたことがなかった。祖父や父は酒の肴に、祖母や母は御飯のおかずとしていたが、森岡は酒の代わりにサイダーを飲みながら、刺身を食していた。その頃の習慣が残っているのか、魚の切り身と米粒を一緒に口に入れることに抵抗があったのである。

 しかも、寿司屋で酒の肴にするのは、鮑やサザエ、赤貝といった貝類がほとんどであった。これもまた子供の頃の影響が残っていて、獲れ立ての生きた魚ばかりを食して育っていたため、生簀でない限りは、魚の刺身を口にしようとは思わなかったのである。

 そのような森岡を、老人は不思議な眼で見つめていた。

 目が合った森岡が軽く会釈をすると、待っていたかのように老人が、

「たばこを吸っても良いのでしょうかね」

 と遠慮がちに声を掛けてきた。

――たばこ?

 と、森岡は訝ったが、すぐになるほどと得心した。

 十席ある寿司屋のカウンターには、森岡と老人以外に五人の客がいたのだが、皆外国人だったのである。

「灰皿が置いてありますから、良いのではないでしょうか」

 森岡はカウンターに灰皿に目をやってそう言った。

「それはわかっているのですが」

 老人は目配せをした。やはり外国人に遠慮しているようだ。

「では、一緒に吸いましょうか」

 森岡はそう言って、ポケットからタバコを取り出した。

 彼の気遣いである。普段、彼はタバコを吸わない。極稀に飲酒の際の、手持ち無汰沙の慰みに、口に銜えるときがあるという程度である。したがって、深く吸って煙を肺に入れることもない。

 今宵は一人きりの食事だったため、タバコを用意していたのである。

「それは助かります」

 老人は安堵した笑顔を浮かべた。

 それを機に会話が弾んだ。お互いの姓名、職業を明かすことなく、趣味や遊興のことに始まり、政治や経済といった硬い事柄にも話題は及んだ。

 森岡は大阪からの出張と言い、老人は東京住まいだが、妻に先立たれた五年前より、月に二、三度とホテルに宿泊し、夜遊びをしているのだと話した。

 森岡は、これまでのように進んで素性を探ろうとはしなかった。大都会の夜の一時、偶然出会った八十歳手前の老人と、三十五歳のビジネスマンが世代を超えて意気投合し、酒を酌み交わす。それも一興と思ったのである。

 ところが食事を終え、勘定を頼んでいると、

「この後、予定がありますか」

 と、老人が訊ねてきた。その名残惜しそうな表情に、

「何もありません」

 森岡は弾んだ声で答えた。彼自身も、もう少しこの老人と時間を共有したいと思っていた矢先の問い掛けだったのである。

「どうです。銀座で一杯やりませんか」

「良いですね」

  森岡は即諾した。彼にとって銀座は不慣れな場所であった。僅かに数件、真鍋の馴染みの店を接待用として使っているだけだった。それだけに、老人に連れて行かれる店に興味を持った。

 そしてもう一つ。

 この温和な老人に、森岡は祖父洋吾郎の面影を追っていた。外見は全く違ったが、優しい語り口調は祖父のそれと重なった。

 痩身で紳士然としたこの老人に比べ、洋吾郎のつるつるに禿げ上がった頭に、大きな目、口周りと顎に髭を蓄えている風貌は、剣聖・宮本武蔵が描いたとされる「達磨」にそっくりで、本人の意図するところではなかったが、相手を威圧してしまうところがあった。

 だが内実は、愛嬌があって義理人情に厚く、涙もろいところがあり、筋目を重んじ不義不正を決して許さない、正義の鎧を身に着けているような人だった。

 森岡家にとっての、待望の嫡男に対する洋吾郎の溺愛は尋常でなかった。ともかく、何をするにも何処へ行くにも洋介を伴い、片時も離さなかった。洋介は可愛げな顔立ちに、才気溢れる子供だったので、行く先々で人々から賞賛されたため、洋吾郎とって自慢の孫だったのである。

 洋吾郎は県会議員や市会議員、町長や地元財界人など、如何なる要人の来訪であっても、洋介を胡坐の中に座らせて応対していた。森岡はそのような祖父が、仕事で滅多に顔を合わさない父よりも好きだった。

 老人は、その祖父と同じ体臭がした。森岡には懐かしい匂いだったのである。

 老人が入った店は、銀座並木通りにある「花水木はなみずき」という中堅のクラブだった。同じ銀座の有馬や北新地のロンドのような高級感はなかったが、足を一歩踏み入れた途端、包み込むような温かみで森岡を迎えた。まさに老人の人柄が、反映しているような和みのある店だった。

 花水木でも、お互いの素性は詮索し合わなかった。ママにもホステスたちにもそのように言い含め、老人の正体の知れる話題は厳禁として飲み明かした。ただ、それでも会話の端々から、老人は相当な会社のオーナーで、後継者に悩んでいるように推測された。

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