(2)
週末、森岡、神村、菊池、谷川東顕の四人は長厳寺へと向かった。坂根はホテルに残った。
鎌倉の市街地から、少し山手に上がったところにある長厳寺は、約三万坪の敷地に本堂、修行堂、奥の院、別院等が建立されていた。加えて、修行僧や参拝客のための宿坊も整っており、その概観は大方の本山と遜色がなかった。
本堂に向かう参道の両側には、数百本の桜木が植えてあり、春には花見の名所として市民の憩いの場ともなっていた。その桜並木を仰ぎ見て、やおら本堂まで歩みを進めると、傍らには当寺院の隆盛を象徴するかのように、稀代の彫刻家高島双雲作の力作「天翔の白馬」の青銅像が聳え立っている。
一行は本堂の前で、法華経第二十五・観世音菩薩・普門品を読経した後、久田の待つ別院へと向かった。
応接間で二十分ほど待たされた後、いよいよ面会となった。
住職室に通され、久田と初めて対面した森岡は、まずもってその存在感に圧倒される。前もって、久田の数々の逸話を神村から聞いていた彼は、ある程度の心積もりをしてこの場に臨んでいたが、実物の迫力は彼の想像を遥かに超えるものだった。
その衝撃は、初めて神村と出会ったとき以来の強烈なものであった。
しかし神村との初見の折は、森岡はまだ十代であった。その後、神村の薫陶を受け、政治家や実業家、あるいは著名人とも知り合い、自らも二百余名を率いる社長の立場にあって、年齢を重ねた今日に至っては、多少なりとも分別というものが身に付いているはずである。
その彼が、青臭い頃と同じ衝撃を受けるということは、如何に久田の威圧感が抜きん出ているかを物語っていた。さすがに、神村が恩師と仰ぎ、一目も二目も置くだけの人物であった。
昔の人にしては、百八十センチを超える大柄であるうえに、背筋が伸びており、肩幅は広く胸板も厚いため、恰幅的にも息を詰まらせるほどの圧力があった。肌の色艶も良く、煙草に火を点けたり、湯飲みを啜ったりする一つ一つの所作が機敏で、とても半寿(はんじゅ・八十一歳)を迎えているとは思えないほど矍鑠としていた。
眼光は、霊峰に湧く岩清水の如く澄み、相手の胸中を見透かしているかのようであり、銀白の着物を纏った全身から醸し出される気は、ただ単に宗教上の達人というだけでなく、俗にいう「清濁併せ呑む」という、人間としての凄みを内包していた。
その凄みこそ、ある地方に出向いた久田を、空港に居合わせていた地元の極道者が、関東の大親分と間違えて、一斉に仰々しい挨拶をしたという笑い話を生み出した。
森岡は、神村と知り合ってから、唯一無二、神村しか眼中になかったが、この帝玄には久々に人物を観た思いになっていた。
「法国寺の件だね」
来訪の用件を問うた久田に対して、神村が無意識に身構えてしまったため、その間を突いて、久田自らが核心に触れた。
はい、と頭を垂れ、
「このような不躾なお願いを御前様に致しますのは、大変心苦しいのですが、万策尽きまして、後は御前様にお頼りするしかございません」
神村は、いかにも恐縮した様子で答えた。
「私に法国寺の貫主に成れというのだろう? 良いよ、その話引き受けよう」
久田はあっさりと受けた。その場での即答の快諾に、固唾を呑んでいた皆が拍子抜けしたほどだった。
「えっ? 宜しいのですか」
神村は半信半疑で訊ねた。
「君たち二人に加えて谷川上人までが雁首揃えて私に相談があるといえば、そんなことだろうと思っていたよ」
久田は、神村と菊池が揃って面会を申し出たときから、本件を予想していたことを告げた。
「しかし、御前様。お頼みしておいて大変恐縮なのですが、戦況は芳しくありません。もちろん、我々は最大限の努力を致します。ですが、御前様の名に傷を付けることも十分考えられるのです」
「神村上人、そんなことは気にしなくても良い。上人のことだから、ここまでやって来るのにずいぶんと悩んだことだろう。私を想う、その気持ちだけで十分だ」
久田は優しい笑みを湛えて言った。
森岡は感動に打ち震えながらも、久田と神村の関係を羨んでいた。短い会話の中に、弟子が師を気遣い、師が弟子を思い遣る心情が溢れていた。この二人には、宗教を媒介とした普遍的な結び付きがある。森岡は、それは俗人である自分と神村との間には、決して生まれることのない聖域だと感じていた。
神村は、金銭的にはもちろん、人的にも一切の手間を取らせないことを久田に確約した。
それは師に対しての、せめてもの配慮であり、神村の背水の覚悟でもあった。久田が動いても勝てる保証がない以上、静観してもらう方が敗北のときの傷が小さいと考えたのである。
こうして、久田帝玄の快諾により、次期法主と影の法主という、表と裏の両巨星の戦いの火蓋が切って落とされたのである。
そして決着の期限は、ちょうど半年後の、三月二十五日と定められていた。
その夜、銀座にある寿司店「六兵衛」に神村らの姿があった。
久田帝玄の擁立に成功した神村一行は、銀座でも有名なこの高級寿司店で、これから始まる壮絶な戦いへの決起集会を開いていた。
久田の登場は、森岡をして砂漠にダイヤを見つけたような、空一面を覆った漆黒の闇の隙間から、かすかに光が差し込んできたかのような思いにさせていた。
現実を見れば、いかに久田といえども、不利な情勢には変わりがないが、しかし興妙寺と龍門寺を押さえられたことにより、戦いの芽は出てきた。
静岡の三ヶ寺は総務清堂の意向の下、揺ぎ無く清慶を支持するであろうから、残る傳法寺と澄福寺の二ヶ寺をどのようにして、味方に引き入れるかであった。
戦いの焦点は絞られてきた。全く不可能な状態から、希望が持てる状態にまでにはなった。その微かに灯った希望の光が森岡の心を奮い立たせていた。
その一方で、久田の予想外の快諾に、神村は再び心を痛めていた。久田の承諾が自身の苦境を見るに見かねてのことだと察した彼の心には、図らずも自分の戦いの延長で、師を巻き込んでしまったという後悔が再燃していた。
いくら久田を渦中の外に置いたとしても、結果として惨敗の憂き目に遭うことにでもなれば、万死に値するとさえ思わずにはいられない神村だったのである。
谷川東顕と菊池龍峰もまたそれぞれに秘めた思いがあった。
こうして三者三様の思いを抱きながら、東京の夜は更けて行った。
翌日、大阪に戻った森岡は、すぐさま伊能を帝都ホテル大阪の一室に呼び出した。
最上階である十八階のスイート・ルームからは、大阪の街並みが良く見えた。帝都ホテル大阪は、通称「大阪ビジネスパーク」と呼ばれる敷地内にあった。
大阪ビジネスパークは、大阪城の北東部、寝屋川と第二寝屋川に挟まれた一帯を経済、商業の一大拠点にしようと、大阪市や在阪の大手企業などの共同参画で造成された地域を指している。
森岡は、大阪という街が気に入っていた。
生まれて初めて故郷を離れ、この大都会に移り住んだ当初はかなりの戸惑いがあった。しかし、時が経つにつれて、その雑多な街の佇みも、人懐っこい庶民の人となりにも馴染み、しだいに好ましく思うようになって行った。
事業ということでいえば、政治、経済、行政の中心である東京の方が、条件は格段に良かったが、彼は大阪を離れようとは思わなかった。
その理由の第一は、言うまでもなく、常に神村の傍らに居たいという想いだったが、大阪に出て来て早や十六年が経ち、物心が付くまでの年月を差し引けば、生まれ故郷よりも長く住んだ計算になる大阪は、いつしか彼にとって島根に取って代る大きな存在となっていたのである。
坂根の案内で伊能が部屋に入って来た。
森岡は、挨拶代わりに片手を挙げ、
「伊能さん、また貴方にお願いすることができました」
と苦笑した。
「今度は誰を調べたら宜しいのでしょうか」
伊能は、軽い会釈で応じると、森岡に近づきながら訊ねた。
「それが、今度は大物なのです」
「大物?」
はい、と森岡は肯く。
「天真宗総務・藤井清堂と、愛知県妙園寺住職・藤井清慶の兄弟です」
「総務? 総務といえば、天真宗のナンバー二じゃないですか。これはまた難儀な」
総務と聞いて、ソファーに腰を下ろした伊能の表情が見る見るうちに強張った。
彼ほどの男が緊張の色を面に出したのには、それなりの理由があったのだが、それを知ってか知らずか、
「いえね、、総務個人に関してはそれほど重要ではないのです。近づくことすら容易ではないですし、総務ほどの地位にいる人ですから、個人的な粗は見つからんでしょう。清慶の方は、十分可能性があると思いますがね。それより、二人の背後にいる支援者を洗い出して欲しいのです」
と、森岡は伊能の緊張を解く言葉を口にした。
「支援者ですか」
伊能は、訝しげに訊いた。
「そうです。此度の戦いは相当な金が乱れ飛びます。ですから、敵は必ずスポンサーに支援を依頼するでしょう。できることならその支援者を叩き、資金源を断ち切りたいのです。「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」の例えですよ」
「なるほど」
適当に相槌を打った伊能だが、心の中では、
――そういうことであれば、総本山と深く関わりを持つことも無さそうだ。
と安堵していた。
「そのためには、清堂の自坊である華の坊と清慶の妙園寺に出入りする人物を徹底的に洗って下さい。此度の件は、電話で済ますことができないでしょうから、総務は使者を使い、清慶とそして支援者も連絡を取るはずです」
「そうしておいて、華の坊と妙園寺の両方に出入りした人物を虱潰しに当たって行く、ということですね」
そのとおりです、と肯いた森岡は、
「しかし、手当たり次第というのはあまりに効率が悪いので、一応こういう物を用意しました」
と一枚の書類を伊能に差し出した。そこには十五名の僧侶の名前が列記してあった。
「これは、どういった面々でしょうか」
「総務清堂の執事と華の坊で修行を積んだ者たちです。華の坊は名門ですから、弟子はもっと大勢いますが、今回の役目の重要さを考えると、それなりの人物に任されるということになります。そこで、こちらで適当に絞っておきました」
「それはどうも」
と軽く頭を下げた伊能だったが、
「名前だけですか。これに写真があればもっと助かるのですが」
と催促するように言った。
「残念ながら、写真までは手に入りませんでしたが、その代わりと言っては何ですが、そちらが撮られた写真を送っていただければ、私どもの方で人物を判別しますので、滝の坊と妙園寺の両方で撮った人物の写真を随時送って下さい」
「そうやって、総務の命を受けた者を特定して行くのですね」
はい、と応じた森岡は、
「ですから、対象は清堂と清慶の二人ですが、そこから予想以上の広がりを見せるかもしれませんので、調査員は前回と同程度の人数が必要となるかもしれませんね」
と憶測してみせた。
「どうやら、私もそのように心積もりをしないといけないようですね。それで、今回の調査期間はどのくらいでしょう」
「特に設けていませんが、最長でも二ヶ月を目途にと考えています」
森岡は比較的短い期限を切った。決着の日は半年後であるが、不利な状況にある現在、のんびりと構えるわけにはいかなかった。
「二ヶ月ですか。承知しました。さっそく手配に掛かります」
そう言って伊能は、席を立って去ろうとした。
「ちょっと、待って下さい。これを……」
伊能の足を止め、例によって森岡は現金の入った紙袋を渡そうとした。
だが伊能は、
「いえ、前回は当初の予定より手間が掛かりませんでしたので、ずいぶん残っています。森岡さんは返金無用、とおっしゃって下さいましたが、私は次の機会のときに充てようと思っておりました。ですから、その金は受け取れません」
と丁重に辞退した。
――ほう。世の中にはこういう男もいるのか。
森岡は思わず目を細めた。
伊能の金に執着しない態度に、森岡は一閃の涼風が吹き抜けたような清々しさを感じた。そして、彼のような男にはいくら金を渡しても惜しくはない、という不思議な気持ちに駆られた。
「今回は長期戦になるかもしれません。前回の残りはボーナスということにして、新たな軍資金を受け取って下さい」
「とんでもありません。ボーナスにしては多過ぎます。やはり受け取れません」
伊能も頑なに断った。
それからしばらく、二人の間で押し問答が続き、とうとう根負けした森岡は、
「それでは、半分にしましょう。それなら受け取れるでしょう」
と百万円の束を五つ差し出した。伊能は苦笑しながらも、それをも断ることはしなかった。
ホテルを出た森岡は、その足を榊原の許に向けていた。大河内の継続調査と、新たに東京目黒にある澄福寺の貫主・芦名泰山の調査を依頼するためである。
「大変なことになったな」
榊原は、森岡の顔を見るなり同情の声を掛けた。
「ああ、まさかこんなことになるなんてな。黒岩上人も先生の本妙寺貫主が決まるまで、勇退を延ばしてくれれば、何も問題はなかったんや」
森岡が愚痴を零した。
「わしもな、それが腑に落ちんのや。心筋梗塞やいうても、命に別状が無いんやから、普通はわざわざ総務が出張ってまで勇退勧告なんかせえへんで」
榊原は、得心がいかぬと言う。
「東良上人の推測では、久保に泣き付かれた清慶が清堂を動かしたんやろう、ということやったで」
「それはないで」
榊原は即答で否定した。その眼差しは確信に満ちていた。
「なんでや」
「今も言うたとおり、わしも不可解やったんでな、久保の自坊法厳寺の情報を取ったんや。わしが懇意にしとるあそこの檀家総代は、久保の相談相手ということやったんでな。それでだ、その総代が言うには、久保はな、黒岩上人の勇退を知って、不利だった本妙寺の貫主の件が一時棚上げになったとわかると、ほっと胸を撫で下ろしていたそうやし、法国寺の次期貫主の座に弟弟子の清慶が名乗りを挙げたと聞くや、小躍りをせんばかりに喜んでいたようや。自分が仕掛けたことにしては、おかしな態度やと思わんか」
「そやな。爺ちゃんの言うとおりやな。せやったら、いったい誰が仕組んだことや」
「わしにもそこまではわからんが、久保本人ではないことは確かやと思うで。清慶は法国寺の執事長を五年もやっていたやろ。せやから、普段から目敏く機会を狙っていたんと違うか」
「しかし、どっちにしても厄介な奴が出て来よったの」
森岡は、そう相槌を打ったものの、榊原の話に心底納得したわけではなかった。漠然とではあるが、彼は久保が泣き付いたのでも、藤井清慶の裏工作でも無いような気がしていた。それは森岡の動物的な勘であった。
「それとな。一色が、清慶の腰巾着になってるで」
榊原は呆れ顔で言った。
「清慶の後の、法国寺貫主の座でも狙っているんやろうな」
「そんなところやろうな」
榊原は蔑んだように言うと、
「ところで、今度は何をしたらええねん」
と本題に戻した。
「それやが、法国寺の貫主の件やけどな、鎌倉の久田上人が立たれることになったんや」
「御前様やな」
「そうや」
「そうか、背に腹は代えられんかったということやな。神村上人も苦悩されたことやろうに、よう決断されたもんやな」
榊原は神村を労わるように言った。神村が下山したときより今日まで、二十五年もの長きに亘り、護山会会長として誼を通じているだけに、その心情は手に取るようにわかっていた。
「せやねん、傍から見とっても切ないほどやったで」
「ということは、大河内と芦名やな」
「おっ、さすがは爺ちゃん。御前様の出馬と聞いて、すぐにそこまでわかるかあ」
森岡が茶化すように言うと、
「当たり前や、わしを誰や思もうとるねん。藤井兄弟と御前様の戦いとなれば、大本山七ヶ寺のうち、五ヶ寺の旗色は決まってるやろ。となると、残るは京都・傳法寺の大河内上人と東京目黒・澄福寺の芦名上人、この二人の意志が雌雄を決することになる。簡単なことやがな」
と、榊原も澄ました顔で答えたものだ。
「せやけど、傳法寺の大河内は、本妙寺の件では久保を支持していたんやから、おいそれとこっちに寝返るとは考え難いやろ」
「そうや。それはわかっとるんや。せやから爺さんには、どんな小さな手掛かりでもええから、情報を掻き集めて欲しいんや。御前様まで引っ張り出したんやから、今回は何でもするで、犯罪まがいのことでもな」
そう言った森岡の眼底には、不気味な光りが宿っていた。
「犯罪ってか」
榊原は怯むように訊いた。
「爺ちゃん、あくまでもまがいやまがい。刑事事件なんか起こさんから心配せんでええ」
森岡は懸念を払拭するように弁明したが、その頬に浮かんだ薄い笑みに、榊原は悪寒を感じずにはおれなかった。
――こいつ、いよいよ本気を出すつもりやな。
「わ、わかった、洋介がそこまで腹を括っとんのやったら、わしも気張ってみるわ」
榊原は、四十歳も年下の男が醸し出す不気味な雰囲気にたじろぐと、
「しかし何だな、総務清堂と御前様の戦いなんて滅多に見られん代物やから、宗門の誰もが、いやそればかりでなく、他宗もその多くが固唾を呑んで趨勢を見守るやろな」
と何とも言えぬ表情で呟いた。
その後、榊原の見通しは的中することになる。眠れる獅子だった久田帝玄が表舞台に登場した波紋は、天真宗内に留まらず、他宗派の耳目さえも集めるほどに広がっていったのである。
森岡は、その夜もロンドに顔を出した。あの馬鹿騒ぎの一件以来、彼は度々顔を出すようになっていた。
この頃から、茜は少しずつ森岡に惹かれ始めていた。森岡は、彼女がこれまで見て来た男たちと、あらゆる点で物差しが違っていた。
初めは、森岡の他者に対する紳士的な態度に好感を持った。
彼は、苦労知らずの若い成功者にありがちな、傲慢で高圧的な態度を全く取らなかった。それどころか、逆に周りの客にはもちろんのこと、ホステスや会社の部下にさえも気を配るほど物腰が柔らかく、そこに彼の人間としての誠実さと器の大きさを感じた。
決してホステスに手を出さないことも心を捉えた。
皆とは言わないが、大抵の男は茜やホステスを目当てに店にやって来ていた。中には本気の者もいなくはないが、巧みなでまかせを吐いているのがほとんどである。
もちろん、夜の世界は狐と狸の化かし合いの世界であるから、余程の悪人でなければ本人の自己責任と割り切ってはいる。
だが、森岡がホステスを口説いているところを見たことがない。それどころか、彼ほどの資産家で、今を時めくIT企業の独身青年社長、しかも中肉中背で背も高く、外見も良いとなれば、黙っていても女性の方から近づくことだろう。現に、ロンドでも数人のホステスが入れ揚げ、彼を誘惑したことがあったが、彼はそういった据え膳すら食わなかった。
最初は、神村正遠や谷川東良の手前もあって、猫を被っているのだろうと思っていたが、森岡との会話の中で、それが彼の女性に対する根本的な態度だと知ったとき、茜の心は大きく傾倒したのだった。
そして、何といっても森岡の神村に対する一途な想いである。
初めて神村と会ったときから抱いていた、
『いかに恩師とはいえ、これほどまでにひたむきになれるものなのだろうか』
という疑問が、頭にこびり付いて離れなくなった。
茜は、実の親子、兄弟ですら情の希薄な現代あって、森岡の神村に対する想い入れの強さに感銘を受け、その源泉の在り処を知りたくなった。
彼女は、これまで目にしてきた打算的な男たちとはあまりに違う……まるで思春期の少年のような……おそらくそれは女性に対しても同様に違いない、森岡の頑なまでの純粋さに惹かれていったのだった。




