(3)仏縁
JR京都駅前の京洛グランドホテルで、二人の僧侶が密会をしていた。
相心寺の一色と造反した村田である。
谷川東良との面談を終えた一色は、腹蔵あって村田を呼び出していた。
奈良の本山桂妙寺の貫主である村田は、一色より五歳年上の七十五歳。関西地区本山会の会長という要職にある。本妙寺の前貫主山際とは、昵懇の間柄であったことから、山際の意向を尊重し、神村を後継として認めていた。だが、山際が急逝すると、掌を返すように反旗の狼煙を上げた。
彼の真意は不明であった。神村の対抗馬である、岐阜県大垣市・法厳寺住職の久保との接点は見当たらず、亡き山際との交誼を蔑ろにしてまで、久保支援に回る理由がわからなかった。
唯一考え得るのは、谷川東良が言ったように、二十歳も若い神村に対する嫉妬ということになったが、実は彼にはある筋より密命が下されていたのである。
「なに、六千万だと。こちらの三倍ではないか」
村田は目を剥いて言った。
「しかも現金ではなく、装飾された般若心経の経典とは……正直、私も心が動きました」
一色は村田を見つめて肯いた。彼は本音を吐露したのではない。彼一流の駆け引きをしているのである。
「神村上人が、それほど金を持っていたとは、信じられないな」
「どうやら、谷川に同行していた森岡という若造がスポンサーのようです」
「森岡? 何者だね」
「IT企業を経営しているようです」
「IT企業? なぜまた、今時風の若造が神村を支援するのだ」
村田は首を捻った。
「それはわかりませんが、ともかく相当な資産家のようです」
一色は村田を見据えると、
「金だけではありません。頭も相当に切れます」
と語句を強めた。
村田は唇をぎゅっと噛むと、
「それにしても、六千万とは恐れ入った」
と再び嘆息した。
「他にも声を掛けているでしょうから、油断がならないと思いますよ」
一色は抑揚無く言った。相手を気遣っての言葉でないのは明らかだった。
村田も、一色の意図を読み取った。
「一色上人。久保上人には、上乗せを進言するから、変わらぬ支持を頼むよ」
村田は忌々しく思いながらも、そう言って軽く頭を下げた。
一週間後、森岡に谷川東良から呼び出しの連絡が入った。
「森岡君、大変や。一色が翻意した。神村上人との席を段取りしようと電話をしてみたら『会えん』とにべもなく断るのや。おかしいと思って、件の執事に問い合わせてみると、どうも久保側から圧力というか、金の増額の話があったみたいなんや」
「寝返りのまた寝返りですか。しかし、久保がこちら以上の金を出すとは思えませんがね」
いきり立つ谷川東良に対して、森岡は至って冷静に応じた。
「そういうたかて、現金はこっちも二千万やったからな。こんなことになるなら、あんな小細工せんと、全部現金にすりゃあ良かったんや」
東良はは声を荒げて毒づいた。
「それにしても、まさに風見鶏ですね」
森岡は、東良の露骨な罵りにも憤ることなく、非難の鉾先を一色に向けた。
すると、言葉が過ぎたことに気づいた東良が表情を一変させた。
「俺も悪かった。坂東上人のときのように、せめて相心寺以外の場所で会うべきやったな。プライドの高い人やから御足労願うのを憚って、直接相心寺に出向いたのが拙かった。あのとき、誰かに姿を見られたのかもしれんし、俺の後輩のように、向こうにも通じている者が執事の中に入り込んでいたのかもしれんな」
と、わざとらしく自らの落ち度を詫びた。
「そうだとすると、敵もなかなかやりますね。まあ、簡単に裏切るということは、同じ事を二度やっても平気ということなのでしょうが、しかし、一色は本当に寝返る気があったのでしょうかね」
「どういう意味や」
谷川の両眼に不審の色が宿った。
「私たちは、咬ませ犬にされたと考えられませんか」
「咬ませ犬やと」
「いつか谷川さんが言われたとおり、先生が本妙寺の貫主になることには、快く思っていない者が多いでしょう。ましてプライドの高い一色ならば、余計にそうじゃないでしょうか」
「そりゃあそうやな。一色上人は、神村上人より十五歳も年長で、おまけに大本山の本妙寺は、本山の相心寺より二段、三段も格上の寺院ときてる」
「ですから、端から私たちに味方する気はないくせに、私たちと会い、条件を訊き出すことによって、久保に圧力を掛け、懐に入る金を吊り上げたのではないでしょうか」
「むう」
谷川は眉を顰めた。
「あの人なら、そういうことも考えられなくはないな」
「もちろん、確かなことはわかりませんが、いずれにしても、私たちの見る目が無かったと諦めるしかないですね」
森岡は顔色一つ変えずに言った。それが、再び谷川の癇に障った。
「何を呑気なことを言っとるんや! 合議まで、あと三週間しか無いんやで。見る目が無かったでは済まされんやろ。これから、新たに誰かを寝返らせようにも、あまりにも時間が無さ過ぎる。第一、他に寝返りそうな上人はおらんかったやないか!」
と息巻いた。
だが、頭に血が上った東良を前にしても、森岡は平然とした態度を崩さなかった。
それには理由があった。
「すみません。谷川さんには黙っていましたが、実は保険のつもりでもう一人寝返らせた上人がいるのです」
「なにい! もう一人いるだと」
谷川東良は異様な驚きを見せた。森岡が違和感を抱いたほどである。彼の目には、好事を素直に受け取ったものとは違うように映っていた。
「ほんまか、いったい誰や」
「三重の法仁寺の広瀬貫主です」
三重県は、昔の名残で関西地区に振り分けられていた。
「何やと、三重の広瀬上人やて」
東良は再び目を剥いた。
「法仁寺は、先代の山際上人支持、つまり神村上人支持から、広瀬上人に代替わりして久保支持に回ったんやで。はっきりした額はわからんが、、元々の支持者より張り込んでいるはずや。それやのに、よう支持を取り付けたなあ。いったい、どないしたんや」
「それが、東京で霊園事業をしている友人がいましてね。その友人が法仁寺と浅からぬ付き合いがありまして、彼の線から密かに広瀬上人の支持は取り付けてあるのです。斐川角、 坂東、一色の三人だけだと、六対五でぎりぎりですからね、いかにも頼りないでしょう。今回のようなこともあるかと思い、もう一人保険を掛けておいたのです」
「それにしても、信じられんなあ、どういう条件を出したんや」
彼の面は、不審というより不満げであった。
「条件は何もありません。友人の話によると、広瀬上人は、久保からの金は一切受け取っていないということですし、支持を明言したわけでもないそうです。ただ、これまでの慣例に従い『年長者の方が好ましいと思っている』とだけ伝えたそうです」
――しかし、まさかその保険が命拾いになるとは……
淡々と説明する裏で、薄氷を踏む思いに、森岡は背に冷たいものを感じていた。
「無条件でこっちに寝返っただと? 考えられんな。その友人というのは、ほんまに大丈夫なんか」
谷川は懐疑的な眼つきで森岡を見つめた。
「大丈夫ですよ。真鍋と言いまして、神村先生とも御縁のある人物ですから信用できます」
森岡は自信に満ちた口調で断言した。
この真鍋こそ、森岡が三友物産の日原を介して、警察庁幹部の平木と面談するため東京に出向いた折、協力を仰いだもう一人の人物、坂根に飲み友達と言った真鍋興産グループの三代目御曹司・真鍋高志であった。
真鍋興産グループは、高志の祖父が一介の庭師から造園業を起こし、父の代には霊園業、不動産業、ホテル業、ゴルフ場経営など、次々と手を拡げて成功を収め、今やグループ企業二十七社、売り上げ二千億円を超えるまでに成長した優良企業グループである。
三年前、神村から三歳年下の高志を紹介されて以来、親しい関係にあった。神村は毎月、真鍋家の自宅と本社にお祭りしてある観音菩薩に読経をしている縁で高志を紹介したのだった。
二人は初めて会った日に意気投合した。
きっかけは森岡の悪戯心だった。
神村を加えて、三人でホテル内の寿司屋で夕食を共にしたのだが、神村が席を外した隙に、森岡は厚かましくも、銀座のクラブで饗応するよう高志に催促したのである。
ITベンチャー企業を立ち上げ、急成長を成し遂げて自信満々だった彼は、不敬にも高志を世間の三代目に有りがちな、ただの「ぼんぼん」と見なし、値踏みに掛けたのだった。
代金は自分で払うつもりだった。遠からず、東京に支店を開設する予定であり、森岡には接待用の店を用意しておきたいという別の目的もあったからだ。
だが、高志は只者ではなかった。彼は自分が品定めされていることを察知すると、政財界の溜り場とも夜の社交場ともいわれている、銀座の最高級クラブ「有馬」へ招待したのである。
後日、森岡はその夜の飲み代が百万円近くだったことを知り、自分の所業を甚く反省したのだが、それ以来東京での酒代は高志が、関西での酒代は森岡が受け持つという、二人だけのルールを作って飲み遊ぶほどの友人となっていた。
その高志に、今回の件で協力を依頼したとき、思わぬところに繋がりを見出したのである。
関西寺院会・会長を務める兄の人脈が使える谷川東良、全国寺院に顔が広い榊原壮太郎、敏腕探偵の伊能剛史と、磐石の手を打っていた森岡にすれば、真鍋高志にはそれほど期待を寄せていたわけではなかった。
知り合った当初より、関西で霊園事業を手掛けている関係で、大阪にやって来ては一緒に飲み歩いていた真鍋を思い出し、多少の情報でも掴めればといった、軽い気持ちで相談を持ち掛けたのである。
それが「瓢箪から駒」とはこのことで、その霊園事業を共同で手掛けているのが、法仁寺の広瀬貫主だったというわけである。
「その真鍋という友人は信用できるとしても、広瀬上人と真鍋君の関係は信用できるんか? まさか、真鍋君が騙されているということはないやろな。一色上人かて、風見鶏のようにコロコロと宗旨替えするくらいやからなあ。森岡君は、直接広瀬上人に会ったわけではないんやろ」
谷川東良は念を押した。だがそれは、慎重を期しているというよりは、手の内を探っているようにも取れた。
「おっしゃるとおり、私は広瀬上人とはお会いしたことがありません。しかし、今から他の貫主に手を打つ時間はないでしょう。広瀬上人を信じるしかないと思います。どうしても、とおっしゃるのでしたら直に会って、念を押してみますが」
うーん、と谷川は考え込んだ。
「それは難しい選択やな。直接会って念を押したいのはやまやまやけど、却って心証を悪くしたら薮蛇になってしまうしなあ」
「ここまで来たら、余計なことはせず、腹を括って彼らを信じましょう」
「仕方がないなあ」
谷川東良は押し切られるように承諾した。自身の知らないところで、森岡が斐川角と広瀬の二人を味方に寝返らせていた事実には、彼も舌を巻くしかなかったのである。
森岡は、東良の覚悟を促すような言い方をしたが、彼はただ闇雲に真鍋と広瀬の関係を信じようとしたのではなかった。東良には話さなかったが、ある明確な根拠があって、二人の関係を信頼していたのだった。
「社長、本当に大丈夫なのでしょうか? もし神村先生が敗れるようなことがあれば、これまでの社長の努力も投じた金も全くの無駄になってしまうのですが」
帰途の車中で、坂根もまた不安顔で訊ねた。
「ここまで来たからには、信じ切るしかないんや。坂根、心配なんは広瀬上人よりも坂東の方や」
「坂東上人ですか」
坂根は、森岡の真意を量りかねた。
「世の中で、金が媒介した関係ほど当てにならんものはない。だから、平気で裏切ったりできるんや」
森岡は、斐川角は南目と勇次の人間関係、広瀬と真鍋の間には出会った経緯、つまり霊園事業絡みという、共に因縁浅からぬもの感じていたが、坂東や一色との金銭のみの関係性は、この上なく希薄で脆弱なものと認識していた。
「おっしゃることはわかりますが、では社長が広瀬上人を信じようとされる理由を教えて下さい」
「勘や」
森岡は間髪入れずに答えた。
「勘? 社長、こんな大事なことを勘に頼られるのですか!」
坂根は、珍しくも森岡に対して言葉を荒立てた。それは不安の裏返しでもあった。もっとも、このような重大事を勘に頼るといわれては、彼が気色ばむのも無理のないことである。
「坂根、そう目くじらを立てるな。勘といっても第六感のような、ただの当てずっぽうやない。それにな、勘というのは、時として下手な理屈より真実の的を射ることがある」
そこまで言って、森岡はミラーに映る坂根を見た。だが、彼の顔には不満の色が残っていた。
「まあ、お前の納得がゆく言葉を使えば、信念と言い換えてもええ」
森岡は宥めるように言った。
「信念ですか。それなら腑に落ちます」
「とにかくな。俺がこれまで神村先生の許で養ってきた、物事の本質を見抜く眼力ともいうべき、ある信念を根拠にすれば、広瀬上人は信用できるということになるんや」
「では、その信念の中身を教えて下さい」
「それはな坂根、仏縁や」
「仏縁?」
「そうや。仏縁で繋がっている関係は強い。俺と先生かて仏縁によって巡り会うたんや。お前と俺もそうやと思ってるで」
ふむ、と坂根は首を傾げ、しばらく考え込むと、
「社長がそこまで信用される、真鍋さんと広瀬上人の仏縁とはどういうものなのでしょうか」
と訊いたものである。
「お前は、戦国時代に落ちぶれた一介の土豪から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を替えながら、最後は二十七万石の大大名に出世した権堂正虎という武将を知っているか」
森岡が問い返した。思いも寄らぬ問い掛けに、坂根は一瞬戸惑ったが、
「処世術に長けた人物ということしか知りません」
と正直に答えた。
「それだけ知っていれば十分や」
森岡はそう前置きすると、
「その権堂家の先祖代々の墓石はな、都心のある公園の敷地内にあったんや。いうても、初代正虎から十五代正高までのもので、明治以降は今の菩提寺にあるんやけどな……」
と因縁めいた口調になった。
彼がやおら切り出した話は、次のようなものだった。
その公園というのは、都内でも至極有名な公園だったが、墓石のことを知っている者は、区役所の職員など極少数である。
墓石地は南東の一角にあったが、鉄柵で囲んであるうえに鬱蒼とした樹木が生い茂っているため人目には付かなかった。鉄柵には施錠もされていて、権堂家の子孫が墓参するときにはいちいち区の許可を得、職員の立会いの下にしなければならないという煩わしさだった。
権堂家の現当主は、これでは先祖の墓参りもままならないと、移設することを考えたが、これがまた容易なことではなかった。
なにせ、二十七万石の大大名の墓石である。とにかくやたら大きい。しかも十五代にも亘る藩主と正室のものが対になっていたため、合わせて三十基にもなる。移転地は、相当な広さを用意しなければならないし、移設作業も手馴れた専門業者が行わないと、損壊してしまう恐れもある。
そこで現当主の息子が、大学のサークルの先輩だった真鍋高志に相談を持ち掛けた。真鍋グループは霊園事業も手掛けていることから、墓石に関しても専門家だと思ったのである。ところが、相談を受けて下見をした真鍋高志も、想像していた以上の巨大さに驚愕した。
真鍋は、仕事を請け負うかどうか悩んだが、後輩の依頼でもあり、都庁や区役所の公園内の整備をしたいという、行政上の思惑が絡んだ要請も重なったため、とりあえず移設先の選定に奔走してみた。
だが、やはり事はおいそれとは進まなかった。広大な敷地の確保が難航したのである。
真鍋も困り果て、とうとう後輩に断りの連絡を入れようと決心した、そのときであった。話を小耳に挟んだ法仁寺貫主の広瀬が、詳細を聞こうと申し出たのである。
真鍋は、まず権堂家の現在の菩提寺に話を持ち込んだが、いわゆる末寺であり、土台無理な話であった。そこで、菩提寺の住職が親交のあった広瀬に相談したというのである。
これには、ただ知人というだけでなく、権堂家の徳川幕府での最終的な所領地が伊勢・志摩であったため、広瀬が貫主を務める法仁寺は、権堂家と少なからず縁があったという理由も絡んでいた。
相談を受けた広瀬は、真鍋との話の中で、彼がその移設を、身銭を切ってでも実現しようと、心を砕いていることに感心し、敷地を提供しようと申し出た。
その後、移設の件でやり取りを重ねて行くうち、その真摯な心根が気に入り、法仁寺が計画していた霊園事業を真鍋の会社に持ち掛け、共同で開発することになったのである。
「なあ、坂根。俺はな、真鍋さんと広瀬上人は権堂家の墓石という仏縁で繋がっていると思うとるんや。せやから、一度支持を表明したからには変節はせんと信じる。断るんやったら、最初に断ってるはずや」
「では、社長は真鍋さんを、そして真鍋さんと広瀬上人の関係を信じ、ご自分では確かめないということなのですね」
「そうや、今回の件は俺が真鍋さんに依頼して、広瀬上人を味方に引き入れたんや。俺は真鍋さんを信用しとる。決していい加減なことをいう人やない。確たる自信があっての返事やったと思う。それにも拘わらず、俺がもう一度確認してくれなどと、二人の関係にひびが入る危険を孕んだ事は言えんし、まして顔を合わせたこともない広瀬上人に、直接念を押すことなど、さらにできんことや」
一応の筋は通っていた。いつもであれば、それで納得するはずだった。だが、このときの坂根は違っていた。彼は忸怩たる想いをぶつけた。
「確かに真鍋さんにしてみれば、自分を信用してないのかと気分を害される可能性もあるでしょう。しかし、お言葉を返すようですが、良いでしょうか」
坂根の面が緊張で赤らんだ。
「もちろんや。言いたいことがあるんやったら、この際何でも言うたらええ」
森岡は鷹揚に構える。
「社長にとっては、神村先生こそが唯一無二の存在ではなかったのですか」
「そうや、その通りや」
「では、その神村先生が瀬戸際の今、失礼ながら社長と真鍋さんの関係など壊れても、広瀬上人に念を押すべきではないでしょうか」
「ふふふ……」
坂根の指摘に、森岡の顔が自然と綻んだ。
「なるほど、実にもっともな意見やなあ、まさに正論ともいえる。俺に臆せず堂々と意見を言う。俺はお前のそういうところも気に入っとるんやで」
「恐れ入ります」
「そうか。お前から見れば、今回の件で榊原の爺さんの協力を得るために、ウイニットの社長を降りようとまでしている俺が、どうして真鍋さんとの関係をそこまで重要視するのか疑問なんやな……いや、疑問というより、自分や子飼いの野島、住倉、中鉢よりも真鍋さんの方が大切なのか、と憤っているのかもしれんな」
森岡は、坂根の心情に思いを寄せた。
だがしかし、
「せやけどなあ、坂根。今お前が言ったように、先生が唯一無二だからこそ、広瀬上人に念を押せんのや」
「……」
坂根には言葉の裏が読めなかった。
「もし俺と真鍋さんが直接知り合った仲なら、お前の言うように、彼が気を悪くしようがどうだろうが、お構いなく念を押すよう依頼するで。せやけど、真鍋さんは神村先生の紹介なんや。つまり、俺と真鍋さんより、先生と真鍋家の方がずっと深い関係なんや。せやから、万に一つも俺と真鍋さんとの関係の拗れが、先生と真鍋家の関係に累を及ぼすことがあってはならんのや」
と澱みのない声で言った。
「ああ、そこまで考えが至りませんでした」
森岡に真意に触れた坂根は詫びるように言うと、
「そこまでの深いお考えならば、信じるしか他はないのですね」
とようやく納得した面になった。
「ついでに言うとくけどな。どっちみちウイニットの上場を果たしたら、頃合いを見てて、俺は一線から退くつもりでいたんや。もっと他にやりたいこともあるんでな」
「もっと他に? 榊原さんの会社をお継ぎになっても、ですか」
森岡の言葉尻が気になった坂根が不審の面で訊いた。
「そうや。むしろ、爺さんの会社を受け継ぐことになって、やりやすくなった」
「お聞かせ願えないのでしょうね」
「坂根、まだまだ先のことや」
やんわりと断った森岡の眦には潔さがあった。
このときの森岡は、やるべきことはすべてやったという達成感があり、事の結末を天に任せる心境に至っていた。
そして、三週間後には雌雄を決する運命の裁定が下るはずであった。




