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黒い聖域   作者: 久遠
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               (4)贖罪

 森岡が帰阪して三日後、神戸の榊原商店本社ビルの会長室では、榊原壮太郎が鴻上智之の訪問を受けていた。寺院ネットワークを利用した通信販売事業計画の詳細なプレゼンテーションを受けていたのである。

 榊原は計画書を閉じるとテーブルの上に置き、傍らにあった葉巻を咥えて一服した。

「なかなかの計画書やな。さすがは大手都市銀行の富国でその人ありと言われただけのことはある」

「有難うございます」

 鴻上は安堵した顔つきで軽く頭を下げた。だが榊原の言葉に、すぐに緊張が戻った。

「じゃがのう、わしと事業をするからには条件が二つある」

「どのようなことでしょう」

「一つはの、経営哲学が同じでなければ組まないことにしているのや」

「それは、至極真っ当なことかと思います」

「ほう、君もそう思うか」

 榊原は目を細めた。

「はい」

「では、二つ三つばかり、わしの質問に答えてくれるかの」

 鴻上は畏まって、

「私で答えられることであれば何でも」

 と背筋を伸ばした。

「まず、富国を辞めた理由を聞かせてくれんかの」

 その瞬間、鴻上の顔が曇った。てっきり、思想信条か人生観を訊かれると思っていたのだ。

「少し調べさせてもらったのやが、帝都大学法学部卒の君は、富国の幹部候補生だったというではないか。その君がなぜ輝かしい未来を捨てたのか解せんのや」

「それは……」

 鴻上は口籠った。

「無理にとは言わん」

 と言いながら、榊原は追及の目を解かなかった。

 しばらく考え込んでいた鴻上は、ふっと決意の吐息を漏らした。

「お恥ずかしい話でお耳を汚すことになりますが」

 と前置きした後、六本木のクラブのホステスに入れ揚げて富国銀行を首になった顛末を話した。

「なるほど、言い難いことをよく話してくれた」

 榊原は満足そうに言うと、

「だが、借金を抱えていた君が、どのようにして事業資金を獲得したのかな」

「吉永さんという女性会社経営者がスポンサーになって下さったのです」

「吉永社長とはいかなる人物かな」

「東京を中心に、関東一円でレストランや喫茶店など飲食関係のお店を事業を手広く展開されているお方なのですが、私が広尾支店勤務だったとき担当していた関係で……」

 鴻上は、そこで言葉を切った。

「いや、正直申し上げますと、実は別れた妻の母親ですので、声を掛けて下さったのです」

「ほう。元義母というわけじゃな」

「私の不行状が原因で別れたのにも拘わらず、良くして下さいます」

「よくわかった。胸襟を開いてくれた君の誠意は重く受け止めよう」

 榊原は、森岡からの情報と一致したことで鴻上を信用に値する人物だと評価した。

 鴻上の顔が明るくなった。

「ありがとうございます。では、もう一つの条件というのは」

「それがの、ある男が首を縦に振らなければどうにもならんのや」

「どなたでしょうか」

「紹介しよう」

 榊原はそう言うと、

「こっちに来てくれるか」

 隣の部屋に向かって声を掛けた。

 榊原の呼び掛けに応じて姿を現したのは、むろん森岡洋介である。この場を設定したのも彼の発案だった。

「当然で申し訳ありません。森岡洋介と申します」

 森岡は名刺を差し出した。

「これは、貴方が森岡様……初めまして鴻上智之です」

 鴻上はあわてて立ち上がった。

「私をご存知でしたか」

「もちろんです。関西に本拠地を置く有望なIT企業は少ないですから」

 と言った鴻上の顔が訝しいものになった。

「榊原さん、この森岡さんが承知されないと駄目なのですね」

 そういうことだ、と榊原は肯いた。

「この男は、わしの孫での」

「えっ、お孫さん」

 鴻上が目を見開いた。

「いえ、血は繋がっていませんが、家族同然の付き合いをさせて頂いているという意味です」

 森岡が笑って答えた。

「そういうことですか」

 鴻上は納得の表情を浮かべた。

「それで、どうでしょうか。この事業計画に同意して頂けるでしょうか」

 ほう、と森岡は目を光らせた。

「私が参加して宜しいのですか」

「……おっしゃる意味がわかりませんが」

 鴻上は戸惑いを隠さなかった。

「本当に」

 森岡は念を押した。

「もちろんです。貴方はITのプロ、素人の私としては大いに助かります」

 鴻上を凝視していた森岡が核心の言葉をぶつけた。

「筧が黙ってはいないのではありませんか」

「筧さん? 彼をご存知なのですか」

「少々因縁があります」

「それは奇遇ですが、なぜ筧さんが反対されるのですか」

 鴻上は不思議な顔つきで訊いた。

「爺ちゃん、どうやら鴻上さんは何もご存知ないらしい」

 森岡がにやりと笑みを向けると、

「そうみたいやな」

 と、榊原も応じた。

「どういうことですか」

 一人だけ蚊帳の外の鴻上が榊原と森岡を交互に見た。

 森岡は、筧克至との経緯を掻い摘んで話した。

「なんと、では筧さんは森岡さんへの意趣返しのため、私を利用して寺院ネットワーク事業を盗み取ろうとしているのですね」

「しつこい野郎です」

 森岡は苦笑いをした。

「でも、私が嘘を吐いている可能性だってありますよ。私の話を鵜呑みにして良いのですか」

 鴻上はしばらく視線を落として考え込んだ。

「正直に言えば、私にはどちらが正しいことをおっしゃっているのかわかりません。ですが、この事業は榊原さんがいらっしゃらなければ、事業展開が難しいことぐらいはわかります」

「そのとおりです」

 森岡が目を細めて言った。

「ですから、できればお二人と事業できればと思います」

「良く言って下さいました。私としても、話によっては共同事業としても良いと考えていました」

「本当ですか」

 鴻上の声に張りが戻った。

「そこで、私も幾つかお訊ねしたいのですが宜しいですか」

「もちろんです」

「こちらへ来られたのは覚善寺の御住職の紹介だということですが、鴻上さんとはどういう関係なのでしょう」

「筧さんから話があったとき、宗門の世界に疎かった私は、とりあえず実家の菩提寺の御住職に相談いたしまた。すると、菩提寺の御住職と覚善寺の御住職とは兄弟弟子ということで紹介して頂き、その覚善寺の御住職から運良く榊原さんへ辿り着くことができたという次第です」

 なるほど、と森岡は得心したように肯いた。

「では、そもそもこの事業話はどこから貴方の耳に届いたのですか」

「今、名前の出た筧さんです。面白い事業があるがと言われ、協力して欲しいと。ただ、手元不如意なので資金を分担して欲しいとのことでした」

「筧はどのようにして貴方を知ったのでしょう」

「はっきりとはわかりませんが、筧さんは富国の上の方から私のことを聞いたと言っていました」

「そういうことですか」

 富国銀行の上層部には立国会の会員がいた。そこから鴻上が浮かび上がったのだろう。

「恥ずかしながら、借金を抱える身でしたので資金を融通して欲しいと言われても当てなどありませんでした」

「それで」

「榊原さんにも申し上げたとおりり、別れた妻の実家が資産家でしたので、恥も外聞もかなぐり捨てて頭を下げに行ったのです」

 なるほど、と森岡は肯いた。

「僭越ながら、吉永さんはいくら出すと」

「借金の一千万の肩代わりと事業資金には五千万円までなら、と」

「事業資金としては全く足りませんね。それで鴻上さんの待遇は」

「こちらの方は、筧さんとは成功報酬ということで話が付いていますので、当面は二十万円の月給のみです」

「二十万……それで、やっていけるのですか」

「正直に申しまして、ぎりぎりです」

「失礼ながら、貴方は帝都大学法学部卒の聡明なお方です。その気になれば遥かに良い条件で他社に再就職できたはずです」

「おっしゃるとおり、職種さえ選らばなければ再就職は簡単でした。ですが、妻とも離婚しましたし、今更宮仕えなどは、と思案していたときに筧さんから声が掛かったものですから、昨今のITブームの時流に上手く乗れば世間を見返せると思ったのです」

 鴻上は偽ざる心境を吐露した。

「良くわかりました」

 森岡はそう言うと、榊原を見た。

「爺ちゃん、計画書も素晴らしいし、人物も申し分なさそうや。どうや、いっそのこと例の寺院ネットワーク事業も鴻上さんにやってもらおうか」

「洋介がええというなら、わしに異存はないで」

 榊原が同意すると、森岡は鴻上に視線を戻した。

「鴻上さん、あらためてこちらの条件を言いますので、不満がなければ共同で事業をしましょう」

「はい」

 鴻上の声が弾けた。

「まず、吉永さんから借りた一千万と、すでに受け取った事業資金は私が支度金として用立てますので彼女に返済して下さい」

 鴻上は森岡の意図を察した。

「筧さんだけではなく、吉永さんとも手を切れと」

「できませんか」

 一転、鴻上は苦渋の面をした。

「手を切るのは構いませんが、経緯はどうであれ、私がどん底のとき、しかも娘の別れた夫に手を差し伸べてくれた方ですので、何らかの形で礼ができればと思います」

「なるほど。義理堅い方でもあるようですね」

 森岡は感心したように言うと、

「吉永さんにその気があれば、事業に一枚加えましょう」

「そうして頂けると肩の荷が下ります。ところで、支度金ということでしたが……」

 鴻上は言い難そうな顔をした。

「貴方に差し上げます。全ての負債を清算し、気持ちを新たに再出発して下さい」

 遠慮は無用、という顔つきで森岡は言った。

「次に、資本金五千万円の新会社を設立し、社長を貴方にやってもらいます」

「私?」

 鴻上は指で自分の顔を指した。

 はい、と森岡は肯くと、

「新会社には、貴方が提案した事業の他に、私が抱えている案件を引き継いで貰います」

 そう言って、天礼銘茶、ギャルソン、彩華堂他との共同事業を説明した。

「なんと、そのような事業計画が進行中なのですか」

 元優秀な銀行マンだった鴻上には、そのスケールの大きさが想像できた。

「貴方には、その陣頭指揮を執って頂きたい」

「私が……」

 いきなりの大役に鴻上は戸惑いを隠せない。

「富国の幹部候補生だったのです。この程度はやって貰わなければ困りますよ」

 森岡が笑って言う。

「ご期待に沿えるよう全力を尽くします」

 鴻上は緊張の面で受けた。

「そこで、株も二十パーセント差し上げましょう」

「株式まで……」

 と恐縮する鴻上に、

「その方がやる気と責任感が湧くでしょう」

 森岡は平然と言ったものである。

「ですが、恥ずかしながら購入資金がありません」

「それも心配は要りません。ストックオプションの権利を付与します」

「昨年解禁された制度ですね」

 鴻上は、さすがという顔をした。

 ストックオプションとは、会社の役員や従業員が一定期間にあらかじめ決められた価格で自社株式を購入できる権利のことで、株価が値上がりすればそれだけ利益が大きくなるため、会社の業績に貢献した者に対する報奨として用いられることが多い。

「残りの八十パーセントを爺ちゃんと俺で分けるということでええか」

「何を言うとんのや。榊原商店の株も大半をお前にやるのやで。新会社の株なんて、いらん、いらん」」

 と、榊原は迷惑だと言わんばかりに手のひらを顔の前で振った。

「榊原商店の株を譲るとは、森岡さんがオーナーになられるのですか」

 鴻上が探るように訊いた。

「洋介はな、わしの会社だけでなく、味一番や松尾会長の個人会社も傘下に収めるのや」

「な、な……」

 鴻上は驚きのあまり言葉が出ない。

 それでも、

「味一番も凄いですが、松尾会長というのはあの世界の松尾会長ですか」

 と絞り出すように訊いた。

「洋介は松尾会長の孫なんや」

「はあ?」

 鴻上はとうとう蚊の鳴くような声を出した。さきほどは自分の孫と言い、今度は財界の巨人のそれだという。訳がわからなくなるのも無理はない。

「鴻上さん、冗談ですよ。この爺ちゃんと同じで義理の関係ですよ」

 鴻上の顔が一段と引き締まった。

「いえ、考えようによっては血が繋がっているより義理の方が凄いと思います」

 榊原は、おっという顔をした。

「それはまたどうしてじゃな」

「榊原さんや松尾会長は、森岡さんの人物を評価してのお付き合いということでしょう」

 榊原はにやりと笑った顔を森岡に向ける。

「どうやら、また一人使える人間が仲間になったようだな」

 そうらしいな、と応じた森岡は、

「さて給料ですが、当面年俸一千八百万でどうですか」

「どうですかって、今の私には夢のようなお話です」

「毎月の手取りが百万ぐらいになるでしょう。社宅も用意しますので半分を先程言ったストックオプション用に充てて下さい」

 わかりました、と言った鴻上が神妙な顔つきになった。

「私も一つお聞きしても良いですか」

「もちろんです」

「森岡さんは、どうしてここまで良くして下さるのですか」

 鴻上としては当然の疑問であろう。

 ははは……、と森岡は笑い出した。

「理由は三つ。一つは私の道楽です」

「道楽?」

「道楽というのは失礼ですが、私は、これはと思う人物には金を惜しまない性格なのです」

「私がそうだと」

 はい、と森岡は肯いた。

「貴方が、ただ単に帝都大学法学部卒のエリートでしたら歯牙にも掛けなかったでしょうが、幸いと言って良いかどうか、大きな挫折を味わわれた。これが気に入りました」

「……」

 鴻上は複雑な表情で聞いている。

「挫折というのは人の心を強くします。たとえば、土壇場に追い込まれたときでも、簡単に屈することなく、粘り強く対処法を考えるようになります。要は胆力が錬られるということです。帝都大法学部卒の頭脳優秀な貴方に強靭な胆力が加われば、まさに鬼に金棒というやつですよ」

「なんともはや、そのようなものですか」

 鴻上は曰く言い難い顔つきをした。

 彼の心中は、

――目の前にいる男は、自分より一歳年下のはずである。自慢ではないが、学力という点に限れば、帝都大法学部卒の自分の方が浪速大卒のこの男より上だ。その男に講釈を垂れられて、少しも反発心がわかないのはなぜだ。

 という不思議な思いが駆け巡っていたのである。

「二つ目は、貴方にその挫折を与える片棒を担いだ美佐子というホステスの贖罪のためです」

 えっ? と鴻上が驚愕の顔になる。

「森岡さんは彼女をご存知なのですか」

「ひょんなことで知り合いました」

 腑に落ちない様子の鴻上に、

「誤解しないで下さい。彼女の悪事は、私が彼女を知る前のことですから」

 と言葉を加えた。

「それはもう」

 承知していると鴻上は頷く。

「しかしまた、彼女の贖罪を肩代わりされるとは、いったい彼女は森岡さんの何なのですか」

「情報源といったところでしょうか」

「単なる情報源ですか」

「彼女が気になりますか」

「いえ。もうきっぱりと諦めました。というか、夢から覚めました。ただ、彼女が惚れるとしたら森岡さんのような男かもしれないと思ったものですから」

「ははは……、私はそれほどもてやしませんよ」

 笑いながら顔の前で手を振った森岡に、

「三つ目は」

 と、鴻上が訊いた。

「それは墓場まで持って行きます」

 森岡は明言を避けた。まさか、婚約中だった貴方の元奥さんと、昔一夜を共にしたなどと言えるはずがなかった。

「それより最後に一つだけ、本拠地は大阪になりますが、大丈夫ですか」

 と、森岡は本題に戻した。

「大阪? 東京ではないのですか」

「東京は日本の政治、経済、文化、スポーツ等々、あらゆる分野の中心ですが、一つだけ関西に後塵を拝しているものがあります」

「あっ、私としたことがお恥ずかしい」

 鴻上は頭を掻くと、

「関西移住に問題はありません」

 きっぱりと言った。

 奈良、京都だけでなく、和歌山の高野山と滋賀の比叡山を抱える関西は紛れもなく日本仏教の中心地である。さらに伊勢神宮を加えれば、日本人の精神の故郷とも言える。

「でしたら、差し出がましいようですが、この際近況を報告して奥様と復縁なさったらどうですか」

 鴻上は気恥ずかしい顔つきになった。

「私もそう考えていたところです」

「では世間、いや辰巳さんを見返すよう頑張って下さい」

 森岡の目に、私も協力しますよ、との意を感じた鴻上は感謝の頭を垂れた。

「では、こちらの担当を紹介します」

 と言って森岡は坂根を呼び入れた。

「今後は、万事この男と図って進めて下さい」

「この若さで企画部長さんですか」

 鴻上は受け取った名刺を見て驚いた。

「肩書きだけは立派ですが、未熟者ですので宜しくご指導下さい」

 坂根は丁重に頭を下げた。

――さてと、筧に目に物を見せてやるか。

 森岡は心の中で呟いた。

「鴻上さん、一つお願いがあるのですが」

「私にできることであれば、何でも致します」

 鴻上は返礼とばかりに意気込んだ。

「そう難しいことではないのですが」

 森岡は言葉を切った。

「どうされました」

「貴方にとって後味の悪いことなのです」

「どうぞ、遠慮なくおっしゃって下さい」

「筧克至を呼び出してもらえませんか」

 鴻上は苦い顔をした。瞬時にその意味を理解したのである。

「貴方にそのような役目を押し付けるのは心苦しいのですが、今筧と接触できるは貴方しかいないのです」

「何をされるのですか」

 鴻上は思い切って訊いた。筧に何度も苦汁を飲まされたことを聞いた鴻上は、森岡がいかなる報復に出るのか気になった。その片棒を担ぐことには忸怩たるものがある。

「心配には及びません。暴力的なことは極力控えますし、鴻上さんには迷惑が掛からないようにします」

「そういうことでしたら、協力します」

 鴻上は安堵した表情で言った。

 後日、事の顛末を聞いた吉永幹子は、森岡の厚情に涙して頭を垂れた。むろん、彼女に畑違いの事業に参画する気はなく、寺院ネットワーク事業から手を引いた。その代わりとして森岡は事業拡大、特に関西進出の際には資金協力すると申し出た。

 鴻上との共同事業は、早晩千鶴にも伝わることだろう。

 森岡は、自己満足に過ぎないことを承知していたが、それでも千鶴への罪悪感が薄らいだ気がした。


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