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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)女傑

「この後の予定はどうなっているのですか」

 吉永千鶴が訊いた。

「大阪へ戻る予定だが」

「あら、久しぶりにお会いしたのに、このまま帰っちゃうのですか」

 千鶴は咎めるような口調で言った。

 森岡は、そうか……、七年前のあの日、京都にもう一泊させた自分と同じことを言っているのだ、と察した。

「そうだね。せっかくだから一泊することにしようかな」

 胸に痛みを感じた森岡は、蒲生に予定の変更連絡を、足立にホテルの予約をさせた。

 一旦吉永千鶴と別れた森岡は、十九時に帝都ホテルのロビーで再び彼女と会った。

 森岡は銀座の高級寿司店六兵衛で食事をするつもりでいたが、千鶴はまたもや七年前の森岡の言葉をなぞった。

「東京は私のホームグランドですから、今夜は私に任せてもらえませんか」

「どこか穴場的な店でも知っているのかい」

「知り合いが飲食店を経営しているのです」

「何料理かな」

「手広くやっていますから好きな料理を選べます」

「そういうことなら日本料理が良いかな」

「では、そちらに向かいましょう」

 と、吉永千鶴の案内でリムジンタクシーは白金へと向かった。

 やがて周囲の景色が高級住宅街へと変わったとき、森岡が、

「あっ」

 と横の席に座っている吉永千鶴を見た。

「どうかしました」

「まさか、君の知っている店って『幹吉みきよし』じゃないよね」

 と訊いた。

「その幹吉ですけど、森岡さんはご存知なのですか」

「吉永……、ああ、なぜ気づかなかったのか。幹吉は知人ではなくて君のお母さん

が経営しているのじゃないかい」

「母を知っているのですか」

 千鶴が驚きの声で訊き返した。

「い、いや……、よくテレビ番組に出演されているだろう」

 森岡は、別格大本山法国寺の貫主の座を巡って対立していた経緯は伏せた。

「そういうことですが。あまりテレビに出て欲しくないんですけどね」

 千鶴はうざんりという顔をした。

「大きな宣伝効果があるから、それも仕方がないと思うが、君が娘さんだったとは……でも、店を手伝わなくても良かったのかい」

「兄夫婦が後を継ぐことになっていたので、私は自由に生きれたのです」

「それで、キャラクターデザイナーを目指したんだね」

 と、森岡が納得の表情になったとき、車は幹吉に着いた。

 娘が連れて来た知人が森岡だと知って驚愕する女将の吉川幹子に、森岡はすばやく目配せをした。

「初めまして、森岡洋介と申します」

 初見の振りをした森岡に、

「ようこそいらっしゃいました。娘が世話になったそうで、ありがとうございました」

 と、吉永幹子も卒なく応じた。

 蒲生と統万は隣の部屋に通され、二人の会話が聞こえないよう遠慮した。

「ずいぶん偉くなったみたいですね」

 千鶴はグラスにビールを注ぎながら言った。

「それほどでもないけど、窮屈になったのは確かだね」

「近くウィニットは上場するようですね」

「良く知っているね」

「柳下さんから聞きました」

「部長、いや今は取締役だっけ、付き合いがあるのかい」

「実は柳下さんに引っ張って頂いたのです。せっかく菱芝電気の子会社に就職できたのに、森岡さんが退職していたなんてショックでした」

「勤務地は東京だろう。俺は大阪だったから会う機会はなかったと思うよ」

「いいえ。しばらくは大阪の仕事が多くて良く出向いていたのですよ」

「とはいえ、人妻とは気軽に会えないだろう」

「名刺を見て気づいていたでしょう」

 千鶴は咎めるように言った。

「まさか、破談になったのかい。それとも離婚?」

 森岡は恐る恐る訊いた。もし破談であれば、自身が原因である可能性は高い。

「離婚です」

――良かった……。

 森岡は心の中で、安堵の吐息を吐いた。

「理由は聞かないのですか」

「離婚の原因なんて、たいていが男の浮気か、金の浪費、家庭内暴力と相場が決まっている。いずれにしたって、君にとっては思い出したくない過去だろう」

「浮気ならまだ許せたかもしれなかったけど、夫は本気になってしまったの」

「確か銀行マンだったね」

「ええ。富国銀行の」

「富国は最大手の一行なのに、その行員がまた愚かなことをしたものだ」

「勉強ばっかりしてきた世間知らずだったから、水商売の女性に嵌ってしまったの」

 千鶴は嘆息した。

 たしかに思春期以降、適当に恋愛や失恋を繰り返して来なかった者が、成人してから夜の世界の遊びを知ると歯止めが利かなくなるというのはよくある話である。

 それは女性に関してだけでなく、ギャンブルでも同様である。

「借金を重ねてしまい、裏社会の人たちまで家に押し掛けるようになったの」

「それで、離婚を決意したんだね」

「私だけらならまだしも、子供に危害が及びそうになったのです」

「子供?」

「四歳の女の子がいます」

「その子はどうしているの」

「私が仕事の間は、兄夫婦の子供たちと一緒に家政婦さんに面倒を看てもらっているのです」

「そうか、苦労しているんだね」

 労りの言葉に、うう、と千鶴は嗚咽しそうになった。

「ご、ごめんなさい。化粧を直してきます」

 感情を抑えることができなくなった千鶴が席を立ってほどなく、入れ替わるようにして女将の幹子があらためて挨拶にやって来た。 

「こんな奇遇があるのですね」

 幹子は何とも言えぬ顔でビールを注いだ。

 森岡はグラスをそのままテーブルに置いた。

「もう一つあるのではありませんか」

 咎めるような口調だった。

「どういうことでしょう」

「女将は鴻上智之に出資しましたね」

「えっ」

 幹子は絶句した。

 森岡はすかさず鎌を掛ける。

「今回も筧からの要請ですか」

「筧さん? 何のことですか」

 幹子は怪訝な顔で言った。

「今度の鴻上さんが進めている事業の裏には、あの筧がいるのですよ」

「本当ですか。私はそのようなこと一言も聞いていません」

 吉永幹子は驚いたように否定した。彼女が嘘を吐いているようには思えなかったが、森岡は疑いを解いてはいなかった。

「同じ寺院関連のネットワーク事業と聞いて、筧を思い浮かべなかったのですか」

「寺院関連のネットワーク? 鴻上さんからはIT事業とだけ聞いていました。ITなど詳細に聞いてもチンプンカンプンですから、他には何も……」

「チンプンカンプンなのに、どうして鴻上に出資したのですか」

 森岡の舌鋒は鋭かった。

 吉永幹子は一廉の経営者である。詳細も把握せずに巨額資金を出資するとは思えない。

 突き刺すような問いに、幹子の口から思いも寄らない事実が明かされた。

「どうしてって、鴻上さんは千鶴が別れた元夫だからです」

「な、なんですって……」

 思わず森岡が声を上げた。何という因縁の連鎖に、口を半開きにしたまま硬直した。

 吉永幹子は、離婚の原因が鴻上の女性問題だと告げたうえで、

「鴻上さんは魔が差しただけなのです。子供もいることですし、千鶴も内心ではもう許しているようです。ですから、復縁の良いきっかけになればと思い、彼の事業に出資することにしたのです」

 と辛い胸の内を明かした。

 お気持ちはわかります、と幹子の心境に理解を示し、

「それにしても、鴻上が千鶴さんの別れた夫だったとは、世の中は狭いですね」

 と驚きを漏らした森岡だったが、案外この世はそのようなものかもしれないと思い直した。

 現世は天運と地縁で成り立っている。地縁とは天運が導く人との出会いである。

 日本には一億二千万余の人間がいるが、無作為に出会いと別れを繰り返しているのではない。天運、宗教的に言えば神の意志、科学的に言えば宇宙の摂理が出会うべき人間同士を定めているのだろう。だが、それを理解しない人々は因縁奇縁の出会いに『世の中は狭い』と感ずるのだ。

「でも、鴻上さんの事業に筧さんが絡んでいるのでしたら、私は手を引きます」

 幹子は無念の想いが滲んだ声で言った。彼女が金銭的支援を断念すれば、鴻上の事業は頓挫し、千鶴との復縁のきっかけを失うのだ。

「女将、それはもう少し待ってもらえますか。一度彼と会って話をしてみましょう」

 森岡にしても、鴻上と筧が与している確証を掴んでいたわけではなかったし、仮に与していたとしても、鴻上が裏事情を知らされているとは限らないと思い直した。

 ではお任せします、といった吉永幹子が、

「それにしても……」

 と、森岡をまじまじと見つめた。

「『男子三日会わざれば括目して見よ』という諺がありますが、森岡さんは以前お会いしたときに比べて数段大きくなられましたね」

 吉永幹子は内心、胸を撫で下ろしていた。法国寺の件で、森岡が藤井清慶への寄進を取りやめるよう直談判にしに訪れたとき、彼女は拒否しようと思っていた。だが、森岡の異様な殺気に押し切られてしまった。その際は、忸怩たる思いに駆られた幹子だったが、こうして再会してみて、一段と大きくなった器に舌を巻いていたのである。 



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