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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)激情

 ギャルソンの玄関先で弁護士と別れ、森岡が車に乗り込もうとしたときだった。

「森岡さんではないですか」

 と左後方から声が掛かった。どこか聞き覚えのある声に森岡が振り返ると懐かしい顔がそこにあった。

 ギャルソンは洋菓子を扱っていることから、本社の敷地内にカフェレストランを併設していた。女性はそこで喫茶していたらしい。

「……吉永さん」

 複雑な声が森岡の口から漏れた。

「やはり森岡さんでしたか、横顔しか見えなかったもので確信はなかったのですが」

 女性は安堵した笑みを浮かべながら近付いて来た。

「お久しぶりです」

「本当に。元気だったかい」

「はい。身体は元気です」

 身体は、とわざわざ付言したことに、何か悩み事でもあるのかと思ったが、言及

しなかった。

「お連れさんは良いのかな」

 森岡は同伴者に目をやった。

「会社の同僚ですから心配いりません。宜しければ、お茶をご一緒しませんか」

「そうだね。難しい話だったから喉が渇いたし、久し振りの再会だから、少し話をしようか」

 と、森岡は蒲生に命じて再び車を駐車場に移動させた。東京出張時、昼間は東京支店が所有している車を使用し、夜はタクシーを利用していた。

 蒲生の他に同行しているのは足立統万と、いつものように九頭目他神栄会の組員二名が少し距離をおいて影警護していた。

「森岡さんはどうしてギャルソンに」

 やって来たのか、と訊いた。

「ちょっと、相談役に用があってね」

「相談役に」

 会社の同僚という男性が声を上げた。

「先輩。こちらはウィニットの森岡社長さんです」

 彼女が紹介すると、

「ええ! 貴方があの森岡さんですか」

 男性はさらに上ずった声になった。

「私の名をご存じでしたか」

 森岡は苦笑した。

「もちろんです。菱芝電気グループのヒット商品を手掛けた森岡さんは、グループ会社の社員であれば誰もが知っている伝説のエンジニアですから」

「ということは、貴方は菱芝電気グループに務めているのですか」

「菱芝アニメーションという子会社に務めています」

 男性が名刺を差出し、

「私も同じです」

 と彼女も名刺を差し出しため、森岡も内ポケットから名刺を取り出した。

 彼女の名刺には『吉永』とあった。自分で吉永と呼んでおきながら、森岡の心がチクリと痛みを覚えた。最前、彼女が『身体は……』とわざわざ断りを入れた理由がそこにあるような気がしたからである。

 蒲生と足立は秘書だと紹介し、二人には、彼女はかつて仕事で世話になった吉永千鶴だと説明した。

「お世話だなんて、こちらこそ良い勉強になりました」

 千鶴はそう言うと、

「でも、どうして森岡さんが畑違いのギャルソンの相談役に用があるのですか」

「新事業をね、相談役と立ち上げることになった」

 まさか、会長の柿沢康弘による片桐瞳強姦教唆の示談交渉をしたなどとは口が裂

けても言えない。森岡は、最後の事業出資のみを伝えた。

「ギャルソンの、それも相談役と直に契約交渉ができるなんて、さすがですね」

 千鶴は憧憬の眼差しで森岡を見た。

 森岡は熱い視線を避けるように、

「大したことではない。それより、君はキャラクターデザイナーだったね。菱芝アニメーションに移ったのかい」

 と話を戻した。

「菱芝アニメーションに引き抜かれたのです。森岡さんとの出会いが幸運を齎したようです」

 彼女はそう言って屈託なく笑った。

 だが森岡は、その笑顔に再び胸に痛みを覚えた。


 吉永千鶴との出会いは七年前になる。

 森岡が独立する一年と少し前のことで、妊娠していた奈津美を事故で亡くした直後でもあった。

 当時、森岡は傷心の真っ只中にいた。

 それこそ母小夜子を失い、祖父洋吾郎と父洋一を相次いで亡くし、喪失感のあまり、故郷浜浦の笠井の磯に身投げしたときと同じくらい傷ついていた。会社も休みがちになり、業務遂行に支障をきたすことが懸念され始めていた。

 事態を深く憂慮した部長の柳下は、一旦システム開発のリーダーから森岡を外した。ブックメーカー事業と関わりを持つことになった大手空調機メーカーのシステム開発である。

 開発の仕事から遠ざけた柳下は、自宅に引き籠もりがちでは精神衛生上良くないと考え、気晴らしに毛色の違った仕事を任せることにした。

 ちょうどその頃、菱芝電気は自社製品のラインアップを一新し、そのコンピューター操作マニュアル製作を大阪支社が担当することに決まっていた。柳下はその製作責任者として森岡を指名したのである。

 その第一回目の打ち合わせが、菱芝電気の大阪支社で行われたときのことである。発注元が東京本社で、しかも担当者は係長職、下請け側は大阪支社で責任者は主任クラスである。当然、森岡が東京に出向くべき力関係にあったが、どういう訳か相手側が大阪に出向いて来た。

「貴方が噂の森岡さんですか」

 東京本社の担当者が名刺を交換した後、まじまじと森岡を見た。その横で訝しげ に名刺を差し出したのが吉永千鶴だった。当時、二十四歳。専門学校を卒業後、キャラクター商品製作会社でデザインを担当していると紹介された。コンピューター操作マニュアルではあったが、難しい文字列を綴るのではなく、親しみ易いキャラクターを登場させ、分かり易いように工夫するという意図があった。

「噂、ですか」

 不機嫌そうな森岡を見て、

「これは失礼しました。今や我がグループ会社の主力商品となっているパッケージソフトを、次から次へと手掛けた伝説のエンジニアが大阪支社にいる、と皆の口の端に上っているのです」

 と、担当者は弁明した。

――なぜそのような有能な技術者が、畑違いの仕事を担当するのか?

 吉永千鶴は訝しく思ったが口にはできなかった。

 二時間ほどの打ち合わせが終わると、柳下が部屋に入って来て、

「明日は土曜日だから、一泊して京都見物でもしたらどうかね」

 と二人に勧めた。

 男性担当者は妻子が待っているので夜の新幹線で東京へ戻ると言ったが、吉永千鶴は最初からそのつもりで宿泊先を予約していると言った。

 すると、柳下がとんでもないことを言い出した。

「森岡君、気分転換に彼女を案内してあげたらどうだね」

 いきなり何を言い出すのだと思ったが、妻子を亡くした悲しさを少しでも紛らわせてやりたいという柳下の心遣いが看て取れたし、何より彼女の目のまで断るというのも気が引けたので、

「吉永さんさえ良ければ」

 と了解してしまった。京都見物が初めての彼女は快く応じたが、森岡とて夜の花街であればともかく、神社仏閣、史跡等は不案内ではあった。


 翌日、森岡は彼女が宿泊したJR新大阪駅前のビジネスホテルへ迎えに行った。

 ホテルの玄関先で待っていた彼女は、車のドアを開けて姿を見せた森岡に目を丸くした。 

 森岡が乗っていた車は、フェラーリ・テスタロッサという三千万円もしようかと

いう最高級車だったのである。いかに森岡が優れた技術者であっても所詮はサラリーマンのはずである。彼女が驚くのも当然だった。

 生来、物欲のない森岡だったが、妻子を失った心の空白を物で埋めようとの苦肉の行動であった。

 大阪から京都までのドライブの間、彼女は何も訊かなかったし、森岡も説明しなかった。通常であれば、不相応な高級車入手の経緯を知りたがるものだが、彼女は車の話題にさえ触れなかった。

 それが森岡には心地良かった。また、少し鼻に掛かった話し方と、時折髪を掻き

揚げる仕種が亡き奈津美に似ていて微笑ましくも感じていた。吉永千鶴は、衆に秀でた美人というわけではなかったが、その心根が表に出ているような清新な表情が印象的な女性だった。これもまた、亡妻奈津美と重なった。

 とはいえ、森岡が彼女に心を奪われることはなかった。奈津美とお腹にいた胎児

を同時に失ったばかりで、他の女性に気を移す心の余裕などなかったのである。


 京都定番の観光コースを巡り、昼食に南禅寺の湯豆腐を食しているときだった。

 森岡が何気に言った。

「どうです。折角の京都です。一日では廻り切れません。明日は日曜日だし、もう一泊されませんか」

 後になって、森岡はどうしてこのような言葉を口にしたのが自分でもわからなか

った。彼女に恋をしたということではないはずであった。

 吉永千鶴は、一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、

「じゃあ、お勧めに従います」

 と、森岡の提案に微笑んだ。

 京都を観光している間、森岡は妙に陽気な一面を見せたかと思うと、静かに遠く

を見つめていることがあった。その表情の落差が千鶴は気になっていた。

「実は、嵐山に隠れた名温泉宿があるのです」 

 彼女の表情が一瞬曇った。

 誤解されたと思った森岡は、

「もちろん、部屋は別々ですし、親しい知人が経営していますので、特別価格にさ

せますから」

 と声を強め身振り手振りで説明した。

 ふふふ、と吉永千鶴に笑みが戻った。

「そのようなこと、少しも心配していませんよ」

「そりゃあ、そうだね」

 森岡も照れ笑いを返した。

 女性と親しく会話を交わしたのも久しぶりなら、心から笑ったのも、奈津美を失ってから初めてのことだった。

 午後の市内観光を終えて宿に着いたのは、夕焼けに赤く染まった西の空が、黒ずみ始めた頃だった。森岡が言った温泉宿というのは、知人が経営しているのではなく、彼がよく泊まった料理旅館であった。

 ある程度覚悟していた吉永千鶴だったが、その敷地内に入った途端、その格式高

い佇まいに腰が引けた。とてものこと庶民が利用するような宿ではなかったのであ

る。

「見た目と違い、それほど高くはないから」

 森岡はもう一度念を押した。このとき料金は自分が支払おうと森岡は思っていた

が、下心があると誤解されたくなかったので黙っていたのである。

「とりあえず、中に入りましょう」

 森岡が背を押すように言うと、ようやく彼女が敷居を跨いだ。

「これはこれは、ずいぶんと可愛らしいお嬢さまをお連れになられましたこと」

 女将がからかうように言った。

「相変わらず女将は人が悪い。俺は構わないが彼女に失礼だろう」

 森岡が咎めるように言ったが、

「お言葉ですが、森岡さんが若い女性を同伴なさるなんて初めてのことですので、

からかいたくもなりますわ」

 女将はいっこうに介することなく言ったものである。

「お食事の前に露天風呂でもどうですか」

「そうさせてもらいましょうか」

 森岡は彼女にそう言うと、女将に案内されて部屋に入った。 

 食事は自室ではなく、広間座敷に用意されていた。後から座敷に入った吉永千鶴はその豪華な料理もさることながら、二人にしては広過ぎる座敷に戸惑いと不審を覚えた。

 だが、それも三十分もしないうちに謎が解けた。

 襖の向こうから女性の声が掛かったと思いきや、三人の芸妓と二人の舞妓に、三味線方が流れ込むように入って来た。そして、皆がずいぶんと馴れ馴れしい態度で森岡と話を始めたのである。

 吉永千鶴はその遊びなれた様子から、ようやく森岡の真意がわかった気がした。この温泉宿は彼の知人が経営しているのではなく、彼の馴染みの宿であるということを……。

 フェラリー・テスタロッサを考えれば合わせれば、彼の実家は相当な資産家なのだろう。

 森岡は舞妓らと賭けゲームをし、負けた罰として痛飲していた。その自暴自棄のような振る舞いを茫然として見ていた吉永千鶴に、

「森岡さんは、ああやって悲しみから逃れようとされているのです」

 と女将が呟くように言った。

「悲しみ?」

「ほんの二ヶ月前、身籠った奥様を交通事故で亡くされたのです」

「まあ」

 吉永千鶴は絶句すると同時に、有能なエンジニアである森岡がなぜ畑違いの仕事に携わったのか、そして観光の間で垣間見せた虚ろな眼差しの理由に辿り着いた。

「私も仲間に入れて下さい」

 彼女は叫ぶように言って、遊びの輪の中に入っていった。


 森岡洋介は何かに手が触れた気がして目が開いた。

 外はまだ十分に明るくなってはいない。

 寝ぼけ眼が大きく見開いたのは、横を向いたときだった。そこには吉永千鶴の顔があったのである。

 その瞬間、森岡は脳を激しく作動させて記憶を辿った。

 芸妓や舞妓と虎拳とらけんというゲームをして、したたか酒を飲んだことは

覚えている。

 屏風を挟んでお互いの姿が見えないように立ち、三味線合わせてあて振り、唄の最後ので、『虎(ガオーっと唸る)』、『おばあさん(杖をつく)』、『和籐内(槍をかまえる)』の、いずれかの格好をしながら屏風の陰から飛び出して勝負。虎はおばあさんに勝ち、おばあさんは和籐内に勝ち、和籐内は虎に勝つという、ジャンケンをジェスチャーで行うものである。途中から彼女が参加したところまでは覚えているが、その後の記憶がない。

 森岡は、咄嗟に自身の身形を確かめた。下着は身に着けていた。浴衣も乱れてはいるが一応身に纏っている。彼女はどうか、と確かめたい衝動に駆られるが蒲団を剥ぐわけにはいかない。

 どうしたものか、と思い詰めているとき、彼女が目を開き、目が合ってしまった。

「大丈夫?」

 彼女が心配げに言った。

「少し頭が痛いけど、大丈夫。それより……」

 と言った顔がよほど不安げだったのだろう、クスっと彼女は笑った。

 森岡は全身から力が抜けていくのがわかった。

「本当に何もしていないよね」

「はい。それどころじゃなかったです」

「途中から記憶がないんだ。いったい俺はどうなったの」

「それはもう大変だったのですよ」

 彼女はわざと怒ったような口調で言った。


 ゲームの途中で、森岡は酔い潰れてしまった。料金と花代は、店が立て替える仕組みなので問題はない。花代とは別の芸妓たちへの心付け(チップ)は、日頃森岡が渡している額を女将は知っていたので、それも立て替えたのだという。

 しばらく広間で寝かせて置いたが、片付けもあるので無理やり起こして自室へ運ぼうということになった。起こしてみると案外しっかりとしていたので、女将と吉永千鶴が付き添って森岡の部屋まで見送ったということだった。

 森岡を蒲団に寝かせつけたところで、女将は部屋から出て行ったが、彼女はもう少し様子を看ようと付き添ったのだという。

 しばらくして、安定した様子に彼女も退室しようと腰を上げたときだった。

 森岡が突然、

「奈津美!」

 と叫んだのである。その様子から寝言だとわかった。

 奈津美……、奈津美と何度も訴え掛けるように声を上げている。そのうち、両眼から涙が零れ始めた。

 吉永千鶴は、その場から動けなくなった。自分が傍にいてどうにかなるわけでもなかったが、立ち去るのが躊躇われた。

 何度目かの咆哮のときである。彼女はなぜか、

「私はここに居ますよ」

 と応じてしまった。すると、寝ているはずの森岡が、急に上半身を起こし、彼女に抱き付いたのだという。彼女は一瞬、まさか酔ったふりをした芝居だったのか、

と勘ぐったが、森岡はただ、

「奈津美、何処へも行かないでくれ」

 と懇願するばかりだった。

 森岡は夢を見ているのだろうと千鶴は思った。夢というか、無意識の意識というべきか、ともかく森岡が亡き妻を渇望しているということははっきりしていた。

 千鶴は、まるで赤ん坊を寝かせつけるように宥めると、自らは母親のように添い寝をしたのだ言った。


「これは、とんだ迷惑を掛けました」

 森岡は居住まいを正して詫びた。

「止めて下さい」

 彼女はそう言うと、

「なんだか、奈津美さんが羨ましいわ」

「羨ましい?」

「もちろん、理不尽な絶命に、さぞかし無念だったことでしょうけど、亡くなった後もこれだけ愛れているのですもの」

 千鶴の面に暗い影が映ったのだが、頭を垂れている森岡にはわからなかった。

「いつまで頭を下げているですか」

 と、千鶴が身体を寄せて森岡の両手を掴もうとしたときである。頭を上げようとした森岡の前に彼女の顔があった。

 その刹那、森岡の脳天から爪先に掛けて電流が奔った。

 森岡は思わず唇を当ててしまった。

「ひっ」

 と、しゃっくりのような声を上げた千鶴だったが、抵抗はしなかった。

 森岡は浴衣の胸を広げて乳房に触れた。彼女は少し身を堅くしたが、拒否することはなかった。奈津美を失ってから二ヶ月ぶりの女性の身体である。もう森岡に理性は残っていなかった。

 だが千鶴を抱いた後、森岡は強烈な悔恨に襲われた。

 千鶴が好ましい女性だということは確かである。だが、明確な愛情があったとは言い切れないまま、欲望に押し流されるように抱いてしまったことは、彼の哲学に反していたのだった。

 森岡は千鶴に対して、

「すまない」

 と謝ろうした。女性の心理に疎い森岡ならでは愚かな行為である。

 その仕種に彼女が先に反応した。

「謝らないでね。私がみじめになるから」

 何とも言えない寂しげな表情で言った。

 千鶴とて覚悟の上で森岡に抱かれたのである。それを謝られては、自身の決断を否定されたことになる。

「順番が逆になったけど、僕と交際してくれませんか」

 それは決意に溢れた十分に誠意のある口調だった。

 だが、意に反して千鶴の表情は冴えなかった。

「私、来月結婚式を挙げるのです」

 再び森岡の胸を悔恨が掻き毟る。それは、先刻のそれに比して数倍だった。

「それなら、なぜ?」

 と問おうとして森岡は踏み止まった。謝罪以上に彼女を傷つける言葉だと気づいたのである。

 相手の男性は、母親が経営する会社のメインバンクの担当者なのだという。会社の事業拡大に骨を折ってくれた恩人で、いまさ婚約破棄はできないとのことだった。

 それ以降、森岡は言葉を見つけることができなくなった。

 結局、その日は京都見物を取り止め、彼女をJR京都駅まで送った。車の中でも二人は終始無言だった。

 車を降りた後、一度も振り返らなかった彼女の背中が今も森岡の瞼の裏にこびり付いている。

 その後、電話では何度か仕事の話をしたが、顔を合わせたのは七年ぶりだった。


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