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黒い聖域   作者: 久遠
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         第七章 古傷(1)再会

 鹿児島で菊池龍峰に引導を渡した森岡洋介は、その足で東京青山にあるギャルソン本社へ出向いていた。森岡が峰松に語った、示談交渉をして慰謝料を支払わせる相手である。

 受付で用件を述べ、相談役室に案内された森岡は、

「貴方は……」

 と待ち構えていた老人に目を見開いた。

「君はあの夜の……」

 老人の方も驚きのあまり、茫然と見つめている。

 なんと、帝都ホテルの寿司屋で意気投合し、一期一会の縁を結んだ相手ではないか。

 お互い詳しい素性を問わないという約束を交わし、銀座の花水木というクラブで語り明かした。その折森岡は、老人が後継者問題で悩みを抱えている様子だったことを記憶していた。

――なるほど、あの馬鹿息子なら苦労するはずだ。

 森岡は心の中で同情した。

 森岡が訪れたのはギャルソンの会長柿沢康弘の実父の許であった。つまりこの老人こそ、ギャルソンを下町の一介の洋菓子屋から、宮内庁御用達まで成長させた創業者であった。

 名を柿沢康吉やすきちといった。相談役に退いてはいるものの、創業者で大株主でもあることから、今なお隠然たる権力を保持していることは周知の事実であった。

 森岡は門前払いを食らわないようにと、松尾正之助の紹介状を持参していた。

 康吉は紹介状を畳んでテーブルの上に置くと、怪訝な目を森岡に向けた。

「この紹介状には、君は孫も同然とあるが、松尾会長とはいったいどういう関係なのだね」

 彼の疑念はもっともであった。松尾正之助は身内同然などという言葉を容易く吐く人間ではない。  

「おそらく、松尾会長の縁の女性と結婚するからだと思います」

「なるほど。しかし会長ほどのお方に、孫も同然と言わしめるとは、ただ者ではないな」

 康吉は射抜くような眼で森岡を見た。あの夜の優しげな眼光とは全く異なるものだった。

「ところで、今日はいったい何の用かね」

「率直に申し上げて、良い話ではありません」

「弁護士を同行しているから、それくらいのことは察しが付く」

 康吉は不快感を露にした。

 森岡は、菊池龍峰との談判に同席させていた弁護士をそのまま伴っていた。

「では、これをご覧下さい」

 森岡は弁護士から書類を受け取ると、康吉に手渡した。

「これは告訴状ではないか」

 はい、と森岡は頷く。

「ご子息の康弘氏を婦女暴行の共同正犯で刑事告訴する旨の訴状です」

「康弘が強姦だと? 馬鹿な……」

 康吉の声が思わず上ずった。

「残念ながら事実です。文面をよくお読み下さい」

 森岡は静かに言った。

 森岡に促されて、文面に目を通した柿沢康吉の身体が、わなわなと小刻みに震え出した。

「確かな証拠はあるのかね」

 康吉は動揺を押さえ込むように訊いた。

「ございます」

 森岡は、鷺沼幸一が恐喝用にと柿沢康弘とのやり取りを録音していたレコーダーと、実行犯である鷺沼幸一並びに勝村雅春の自供を録音したDVDをテーブル上に置いた。

 森岡から依頼を受けた当初、神栄会若頭の峰松重一は若頭補佐の一人に事態の収拾を任せていた。ところが鷺沼と勝部の身体を拐ったとき、鷺沼が神王組ナンバー四の本部長河瀬正巳の名を出したため、親分である寺島龍司と相談して自ら出馬した。

 極道者が介在した一般人の揉め事は、両方の極道者の貫目によって解決する。言うまでもなく、貫目の上の方の言い分が通るのである。

 盃事を介した厳格な階級社会である極道世界は、目上に対して絶対服従が原則であり、身内であればあるほどその傾向は強まる。時として同じ貫目同士、あるいは貫目が違っても敵対する組織だったとき、交渉が決裂し抗争へと発展するのである。

 先代の世であれば、筆頭若頭補佐だった川瀬の方が、若頭補佐の寺島より貫目は上だったが、蜂矢司の代になって寺島が若頭に就任したことから両者の立場は逆転した。

 蜂矢組長の子分である寺島にとって、同弟分の川瀬は叔父貴に当たるため、盃事の上では川瀬の方が上だが、若頭という役職がものをいうのである。

 つまり、蜂矢の兄弟分の数より圧倒的多数の子分を束ねる寺島の方が実権を握っているということである。また通常でも、若頭は次期組長の筆頭候補であるが、非公式とはいえ、蜂矢が寺島を後継指名したため、神王組内における寺島の存在感はますます高まっていたのだった。

 したがって鷺沼が当てにしていた後ろ盾は、峰松の登場によって封じ込められた形となった。

 またこの時点では、峰松は鷺沼と勝部に手荒いことはしていない。拉致監禁をして、自白をさせただけである。もし柿沢康吉が示談に応じなければ、森岡が刑事告訴すると知っているからだ。

 むろん、片桐瞳をこれ以上傷つけたくない森岡が、裁判審理に持ち込むことはない。その前にマスコミによる徹底糾弾で、ギャルソンのイメージダウンを図りたいだけである。

「なるほど、これであったか」

 康吉は呻くように言った。

「何か?」

「いや、愚息がいかがわしい連中に恐喝されているようだと報告があったばかりだったのだ」

「鷺沼という男が御子息を恐喝するために録音していたのでしょうね」

「いい年をしてこのような愚かなことを仕出かしていたとは……」

 康吉は声を絞り出すように言った。

「心中お察し申し上げます。しかし、こうしてレコーダーは取り上げましたので、今後恐喝はありません」

 森岡は慰めの言葉を掛けた。康吉の心の痛みが伝わっていたのである。

「それは助かる」

 康吉は小さく頭を下げ、

「それで、示談の条件は?」

 と本題に入った。

「まず、慰謝料として五億頂戴致します」

「また五億か」

 康吉は苦い顔をした。柿沢康弘はブックメーカー事業に五億円を出資し、回収不能となっていた。

「ご子息は、それくらいお持ちでしょう」

 柿沢康弘の年収は二億円。他にギャルソンの株式の二十パーセントを所有している。ギャルソンは非上場会社だが、市場外取引の時価に換算すると数十億円は下らなかった。 

「調べているようだな……、それから」

 康吉は苦々しい顔つきで急かした。

「まずは御子息の代表取締役の解任です。その後、取締役からも退いて頂きたい」

「そ、それは……」

 康吉は狼狽を隠せなかった。

 しかし森岡は、

「失礼ながら、もともと無能なのですから、会社経営にさして影響はないと思いますが」

 と冷徹な言葉を浴びせた。

――なんという迫力だ。

 森岡の威圧感に、さすがの柿沢康吉も気圧されていた。

「君も、耳の痛いことをずけずけと言うのう」

 柿沢康吉は、そう言い返すのが精一杯だった。

「その代わり、お孫さんが佐藤万商事にお勤めとか。彼を取締役に任じ、後継教育をなさってはどうでしょうか」

「それも承知のうえか」

 そう唸った康吉は、

「仕方がない。その条件も飲もう」

 と観念した顔つきで言った。

 しかし、用件はこれで終わりではなかった。

「では、最後に」

 森岡が居住まいを正すと、

「まだ、あるのか」

 柿沢康吉が強張った。

 森岡は柔和な表情を向ける。

「この件は、御社にとっても悪い話ではありません」

 そう前置きして、寺院ネットワークを駆使した通信販売のプレゼンテーションを始めた。森岡の腹は、第二次計画として展開予定の、一千寺院の費用負担を求めようというものだった。

 黙って聞いていた康吉は暫し思案をした後、口を開いた。

「その計画は君の発案かね」

 はい、と森岡は肯き、

「実は、御子息はこの計画を私から盗み取ろうと企て、失敗に終わったため、その腹いせにこのようなくだらない行動に出たのだと思われます」

 と事の発端を説明した。

「そうか。そこまで不出来だったとは、全く面目もない」

 柿沢康吉は顔を顰めた。

「それで、これにはいくら出したら良いのだ」

「三億です。ですが、こちらの出資は早ければ五年、遅くても十年で回収され、以降は高収益が見込まれる事業だと思います」

「それぐらいは、私にもわかる」

 同調した康吉は、

「もし私が断ったら、どうなる」

 と訊いた。

「本意ではありませんが、あらゆる手段を用いても、必ずやギャルソンを潰させて頂きます」

 森岡は、非情な最後通告をした。

「あの松尾会長に認められるほどだから、君がやると言えば、必ずややり遂げるのだろうな」

 柿沢康吉は溜息混じりに言った。

 康吉もひとかどの人物である。あの一夜の交誼で、森岡の大よその力量はわかっているつもりだった。

「承知した。その申し出も飲もう。ただし、こちらにも条件が一つある」

 康吉の目に力が籠もった。

「何でしょうか」

「松尾会長の紹介状によると、君の会社は近々上場する予定で、尚且つ松尾グループの傘下企業と業務提携をするそうだね」

「はい」

「では、孫に君の会社の株を譲って貰いたい。むろん、ギャルソンの株も君に譲ることにする」

「お互いが株を持ち合うことによって、信用を担保しようというのですね」

 森岡は、康吉の心底を見極めるように凝視した。

「わしはもう先が長くない。康弘がこうなってしまったからには孫の先行きが心配でならない。怪我の功名ではないが、この際君のような男が孫の傍にいてくれれば、わしも安心して死ねるというものだ。どうかね、森岡君」

 齢八十に届こうかという老人の必死の形相に、

「承知しました。こちらこそ、宜しくお願いします」

 森岡は襟を正して頭を下げた。


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