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黒い聖域   作者: 久遠
110/185

               (4)鬼火

 柚原幸宣、五十八歳。彼の生家は、代々檀家総代や護山会の役員などの要職を務めるなどして冷泉寺を支えてきた、鹿児島の名家柚原本家であった。

 この柚原幸宣と菊池龍峰の間には、奇しき因縁があった。

 実は三十八年前、幸宣の父と冷泉寺の先代住職との間で、将来柚原家の次男幸宣を冷泉寺の一人娘の雛子ひなこと妻わせて、後を継がせることで話がまとまっていた。幸宣自身も前向きに捉え、東都大学から天真宗宗門の大学へ転学するつもりでいた。

 寺の年中行事などで、父に従って再々冷泉寺を訪れていた幸宣は、決して美形とはいえないが、優しげな顔立ちに、テキパキと雑用をこなす高校生の雛子に好意を抱いていたのである。

 ところが、正式な婚約の直前になって思わぬ横槍が入った。菊池龍峰の生家・総本山の名門宿坊の一つ『はすの坊』の時の住職が、三男龍峰を雛子の婿にと、強引に押し込んできたのである。

 冷泉寺の先代は、思わぬ事態に苦悩した。長年に亘って自坊を支えてくれた有力支援家と、総本山の名門宿坊との板挟みになり悩み抜いた。

 だが、最後は名門宿坊を選択した。というのも、室町時代に開山された冷泉寺は、その長い歴史の中で、蓮の坊とは度々養子縁組で結ばれていたからである。言うまでもないが、明治時代以前の養子縁組は婚姻を伴っていない。

 柚原幸宣は、名門宿坊の横暴という、この世の理不尽さに打ちひしがれた。そのとき味わった挫折感が、澱のように彼の腹の奥底に横たわっていたのである。いや、もしかすると本人は忘れ去っていたかもしれなかったが、その燻った怨念を煽った者がいた。

 森岡洋介である。

 菊池も、自身の婿入りの経緯は知っていた。知ってはいたが、何のわだかまりも見せぬ柚原に、いつしか気を許してしまっていたのだった。


 時間は少し遡る。

 菊池龍峰を罠に掛ける決意をした森岡は、まず真っ先に榊原壮太郎に会い、菊池個人と冷泉寺の調査を依頼した。その結果、菊池が本山華法寺の貫主就任への野心を知った森岡は、続いて投票権を持つ九州、中国、四国の九ヶ寺の腹の内も調べさせた。

 その調査報告を受けて、森岡は、華法寺貫主への野心を逆手に取り、菊池を奈落の底に叩き落す計画を練った。

 仙台市北竜興寺の弓削広大の実父・広明を対抗馬に担ぎ出し、強敵の出現で危機感を煽る。同時に自身の存在を知らしめ、物量戦の様相を臭わせることにより、菊池にさらなる資金の調達の必要性を迫る。焦った菊池の目の前においしい餌をぶら下げ、飛び付いたところで足元を掬うという計画だった。

 首尾よく児玉久孝から協力の確約を得た森岡は、次いで仙台に弓削広大を訪ねた。

「一瞥以来です」

 森岡は丁重に頭を下げた。かつて、久田帝玄の醜聞の件で協力を仰ぎに訪れたことがあった。

「何かありましたか」

弓削は、心配気に訊いた。

「実は……」

と、森岡はこの間の事情を掻い摘んで話した。

「うーん」

 弓削は腕組みをしたまま、沈思した。

 彼は久田帝玄と菊池龍峰の軋轢を何も知らなかった。したがって、久田の法国寺晋山式の後、神村の本妙寺貫主就任の報が伝わらないので不審に思っていた。だが、その彼にしても、まさかそのような事態に陥っているとは思いも寄らないことだったのである。

「今度は私に何をせよ、と」

 弓削は緊張の面で訊いた。

「ご尊父、広明上人に、九州の華法寺の貫主へ立候補して頂くよう、説得をお願いしたいのです」

「えっ? 私の父が……」

 切れ者の弓削も言葉に詰まった。

 広大の父弓削広明は七十八歳。天山修行堂で六度の荒行を積み、昨年まで仙台市にある本山勝持寺しょうじじの貫主を務めていた。したがって、格上の大本山か京都の本山であればともかく、同じ地方の本山では気が進まないと推察された。

「しかも、立候補をお願いしておきながら恐縮ですが、私は一切助力致しません」

「はあ?」

 にべも無い森岡の言葉に、弓削の頭は混乱していた。森岡が資産家であることは承知している。神村のためであれば、それを惜しみなく使うことも知っている。その彼が父を担ぎ出しておいて、一切協力しないとはどういうことなのか。

「無礼千万なお願いであることは、重々承知しておりますが、もはや貴方に頼る以外手立てがないのです」

 森岡は椅子から立ち上がると、床に土下座をして頼み込んだ。

「止して下さい、森岡さん。わかりました。貴方がそうまでされたのですから、何とか父を説得してみましょう」

 森岡の苦衷を察した弓削は、腹を決めたように言った。

「これは迷惑料です」

 森岡が、ボストンバッグから札束の塊を五つ取り出して、テーブルの上に置いた。

「いや」

 弓削は遠慮した。

「ご尊父様の経歴に傷を付けることになります。この五千万はその代償ですから、此度は是非とも受け取って頂きます」

 森岡は語調を強めた。

「で、では遠慮なく」

 押し切られるように受け取った弓削は、実父が当て馬に利用されるわだかまりなど忘れ、心の中で呟いた。

――この男、今度はいったい何をする気なのだ。


 後日、森岡の素案を基に児玉久孝が披露した計画が、朝比奈弁護士事務所を舞台にした詐欺行為であった。

 森岡の、菊池を奈落の底に落とす一番の方法は、自坊の冷泉寺から追い出すことであるとの言を受け、冷泉寺の土地と建物を巻き上げることを思い付き、寄付を餌にした売買契約を考えた。

 そこで彼は、社会的信用のある弁護士に扮するべく都合の良い人物を探した。というより、すでに彼の脳裡にはある人物が浮かんでいた。

 東京第一弁護士会・副会長の朝比奈慶一郎である。

 肩書きも申し分なかったが、何よりその骨相から、弁護士に扮するのであれば、朝比奈慶一郎だと思っていたのである。

 児玉は変装の達人であった。昨今の特殊メイクの技術と組み合わせると、遠目では本人と区別が付かないだろう。ましてや写真ともなると、見分けることは至難の業といっても良かった。運転免許証の証明写真の、あまりの違いに愕然とすることがままあるが、それに比べれば断然似ていた。

 児玉の変装は顔だけではない。知識はもちろんのこと、口調や仕種においても成り切ることに長けていた。弁護士であれば法律の専門用語から、関係する条文まで頭に入れるという周到さであった。

 あの日、本物の朝比奈慶一郎弁護士が名古屋へ出張していることを突き止めた児玉は、事務所に入り込んで菊池を待った。鍵を開けることなど朝飯前であり、土曜日ということで、同フロアーの他の会社が休日であることも調査済みである。

 言うまでもないが、公佳と名乗った事務員の女性も詐欺仲間であり、銀座のクラブ若菜も偽装である。貸し店舗を大家と交渉して、一日だけ借り受け、ホステスは風俗嬢の中から選りすぐりを集めた。最近の風俗嬢は、芸能人並みの美形が多いので苦労はしなかった。ただし、菊池の好みのタイプが公佳であることも事前に承知していた。

 唯一残った懸案が、寄付話を持ち込む人物であった。この役割は、ある程度菊池の信用を得ていて、尚且つ彼に含むものがある人物でなくてはならない。なかなかに難題であった。

 児玉から相談を受けた森岡は、榊原に目的を打ち明けて――といっても詐欺の詳細は知らせていない――もう一度調査を依頼した。そこで浮かび上がったのが、柚原幸宣の過去であった。


 柚原には、予期せぬ運命が待ち受けていた。

 破談の後、彼は東都大学を卒業し、民間の企業に勤めたが、二十五歳のとき、兄が急逝したのである。柚原本家は九州でも有名な焼酎の酒蔵である。父は、幸宣に後継者となるよう働き掛けた。

 幸宣は悩んだ。自分が柚原本家を継ぐとなれば、義姉を追い出すことになる。義姉には二歳の娘がいたため、不憫でならなかった。意を決した幸宣は、一緒にならないかと義姉に話を持ち掛けた。

 義姉に否はなかった。後家が亡夫の兄弟と一緒になることは、昭和三十年代の、地方の田舎ではよくあったことである。現在と違って兄弟も多く、一旦嫁に出た者が実家に戻っても、居場所などないのである。

 幸宣は後継者となる条件として、義姉との婚姻の了承を求めた。父にも反対する理由がなかった。幸宣には破談という辛い目に遭わせていたし、僅か四年ではあったが、嫁の心根の良さに好感を抱いていたことも前向きにさせた。

 だがその結果、幸宣は有力支援者として、冷泉寺において再々雛子と顔を合わせることになった。

 むろん、お互いに伴侶を持つ身であり、少しずつわだかまりは消えて行った。 消えては行ったが、完全に霧消したわけでもなかった。微かにではあるが、しかし沸々と幸宣の心底で燻っていたのである。

 森岡は、その『鬼火』なるものを扇いだだけである。還暦間近の幸宣も、己の運命を変えた理不尽を――といっても菊池龍峰本人に罪は無いが――全てを飲み込むほど、人間ができてはいなかった。

 もちろん、それだけの理由で森岡の謀略に加担しようと思ったわけではない。幸宣を決断させた決定的な理由は、平素の菊池龍峰の目に余る所業である。

 たしかに彼は、荒行を六度満行し、僧正という高い僧階を得、いずれは本山の貫主にも登る逸材ではある。しかし一方で、酒を好み、愛人が途切れることのないほど女色に溺れる姿を目にする度に、雛子の心情は如何ばかりかと、同情せずにはおれなかった。

――本山の貫主になれば、彼はますます天狗になる。その前に一度きついお灸を据えてやろう。

 柚原幸宣はそう思ったのである。

 雛子の心情を汲んだ柚原は、『菊池を冷泉寺から追い出さない』ことを条件に、森岡の申し出を受けた。

 森岡も条件を呑んだ。彼自身も、当初はもっと手荒いことを考えていた。僧籍を剥奪されるような罪を着せるか、少なくとも冷泉寺から追放しようと思っていた。

 だが、それでは野に虎を放つようなものである。執念深い菊池が、どこでどのような力を蓄え、鋭利な牙を研ぐかもわからず、その牙をいつまた神村に向けるとも限らない。そうであれば、冷泉寺という檻に閉じ込めて置く方が得策だと思い直していたのである。

 静岡岡崎家での景山律堂の言ではないが、出世欲、権力欲旺盛な菊池とっては、藤井清堂、永井大幹の間、そして森岡の思惑が実現すれば、その後の神村が法主の間の三十年近くに亘り、つまり生涯要職には就けないという失望感を味わう方が地獄の苦しみに違いなかった。


 数日後、森岡は菊池龍峰に引導を渡すべく、鹿児島市の冷泉寺に菊池龍峰を訪ねた。蒲生と足立を駐車場に待機させ、弁護士と二人で中に入った。このとき、いつもは影警護を務める九頭目ら神栄会の組員の姿はなかった。

 売買契約破棄の条件として、森岡は華法寺貫主への立候補辞退と、契約金の三倍返し、つまり六億円の違約金を要求していた。

 宝物返還のための二億円、詐欺行為の寄付として使った二億円と、謝礼替わりに児玉桜子の事業に出資した一億円、そして弓削広大に寄付した五千万円の、合わせて五億五千万円を取り戻しただけでなく、沈美玉の預け代として桜子に増額出資した一億円の半金も手当てが付く計算である。

 菊池にすれば、実質的には石黒組から宝物を買い取った際の五千万円を合わせても、二億五千万円の持ち出しに過ぎなかったが、存外大きな痛手であった。菊池は投票権を持つ九州、中国、四国の九本山の内、六本山の貫主たちに、一ヶ寺あたり七千万円の布施を約束していた。当初は四千万円を提示していたが、弓削広明の出馬で三千万円増額していた。むろん、この約定は破棄せざるを得ず、彼の信用は大きく失墜したのである。

 これが、彼の将来に暗い影を落とすことは言うまでもない。冷泉寺を追われることよりはましであるが、飼い殺しの状態に追いやられたのも同然だった。

 柚原の護山会・会長職辞任も大きな痛手であった。いかに肉山といえども、最大の支援者を失ったのである。冷泉寺の経営にも暗い影を落とすことが目に見えていた。

 ただ柚原は、冷泉寺が代替わりすれば支援を再開しようと心に決めてはいた。

 尚、後日弓削広明も立候補を辞退した。

「君にはしてやられた」

 菊池は意外とさばさばした表情で言った。森岡は違和感を覚えたが、

――おそらく……。

 と心当たりがあった。

「所詮は器の違い。身の程知らず、とはこのことです」

 森岡は穏やかな面で一刀両断した。

「手厳しいのう」

 菊池は悔しげな顔を隠さなかった。 

 交渉は短く終わった。森岡と弁護士は、早々に冷泉寺を辞去しようしたが、蒲生と足立の待つ寺内の駐車場に赴いたとき、三台の車から七人の悪相の男たちが近付いて来た。

――やはりな。

 森岡は、菊池の表情の裏を読み取っていたのである。

 中から、兄貴分らしき男が近づいてきた。

「何も言わん。小切手を置いて行きや」

 抑揚のない低い声だった。一般人であれば、これだけで股間が縮上がるであろう。

 現に弁護士は身体を震わせている。

 だが、

「おたくらは、どこの組の者ですか」

 森岡は落ち着いた声で訊いた。

「ほう。兄ちゃん、ええ度胸しとるの。とても堅気には見えんのう」

 兄貴分は口元に不気味な笑みを湛えている。

「わしら、九州仁誠会傘下・坂口組のもんや」

「九州の仁誠会といえば、神王組と和解した友好団体ですね。貴方は若頭ですか」

「なんだと。利いた風な口を叩くと痛い目に遭わせるぞ」

 兄貴分が恫喝した。だが、森岡が怯むことはなかった。

「痛い目に遭うのはどちらでしょうかね」

 森岡の表情には余裕があった。それが兄貴分の男の癇に障った。

「堅気が極道に向かって言う台詞じゃないな。おとなしく言うことを聞いていれば無事で済んだものを……」

 兄貴分は顔を後ろに向け、

「おい、少々甚振ってやれ」

 兄貴分の冷徹な声が寺内に響いた。

 冷泉寺は敷地が八千坪もあり、北西の角の三百坪ほどが駐車場だった。敷地内は高い塀で囲われており、声は漏れても外から中の様子は窺い知ることができないようになっている。

 蒲生と足立が決死の形相で森岡の前に出た。九頭目がいないことから、二人は身を賭しても森岡を護る気概に溢れていた。足立は近付いて来た若いヤクザにいきなり頭突きを食らわし、蒲生はもう一人のヤクザに前蹴りを入れた。

 足立は育った環境から喧嘩馴れをしており、先制攻撃こそ喧嘩の常道であることを知っていたし、蒲生は元SPである。格闘には優れていた。

 まさかの攻撃に、鼻骨を折られた一人は顔を抑えて蹲り、また一人はもんどりを打つかのように背中を地面に打ち付けた。

「やろう!」

 兄貴分が血眼で叫んだ。

 その怒声に残りのヤクザ者がいっせいに刃物を抜いた。

――やばい……。

 森岡の腹部に、先の凶刃の痛みが奔った。

 むろん、このときの極道たちに、本気で森岡らを刺す気はなく、脅しが主眼である。警察沙汰になれば、少々の手間賃では割りが合わないからである。

 それでも森岡は極度に緊張していた。蒲生と足立が手を出してしまったことで、不測の事態を誘発する雰囲気が充満していたからである。

 そのときである。

 キキー、というけたたましいタイヤの摩擦音を鳴り響かせて、二台の高級外車が駐車場に乗り込んで来た。後の車のドアが開き、貫禄を極めた男が出てきた。

「そこまでや。お前ら、その人を傷付けたら、指を詰めるだけでは済まんぞ」

 ドスの利いた声が男たちの背に届いた。驚いた男たちが振り返ると、男は近付きながら、 

「このこと、けんは知っとるのか」

 と訊いた。

「健? うちの親分を呼び捨てにしたな。お前は誰じゃ」

 兄貴分が気色ばんで言った。

「われ、確か持田とかいう坂口組の若頭だったな」

 男は目からサングラスを外しながら言った。

「なんやと」

 と意気込んだ若頭と思しき男の顔から、見る見る血の気が失せた。

「貴方は、もしや神栄会の若頭?」

「せや。峰松や」

 峰松はそう言うと、森岡に視線を送り、にやりと笑った。

 彼の後方には九頭目の姿もあった。

「遅かったですね」

 森岡が安堵の声で言うと、

「いや、すんまへん」

 峰松は片手で拝む仕種をした。

 菊池の近辺を調査していた榊原から、菊池が地元のヤクザと付き合いがあるとの報告を受けた森岡の、万が一の用心であった。

 ただ友好団体とはいえ、坂口組は神王組傘下ではない。森岡は若頭補佐の九頭目では相手を威圧できない可能性を危惧した。そこで峰松重一に直々の出馬を願ったのである。

 蒲生はほっとした表情を浮かべ、足立は魂を抜かれたように、茫然と立ち尽くしていた。子細を聞かされていなかった二人は、ともかく森岡を護らねばと、決死の覚悟の先制攻撃だったのである。

「峰松さん。わしらが指を詰めるだけでは済まないとはどういうことですか」

 持田は腰を屈めて訊いた。

「この森岡さんとわしは、五分の盃を交わした兄弟分や。それだけやないで、寺島の親父が本家の若頭になれたんも、この森岡さんの助力があったからや。せやから、この人に手を掛けるということは、神栄会との全面戦争ということになるで、持田」

 峰松が睨み付けた。持田は背筋が凍り付くような戦慄を覚えた。

 さらに峰松は引導を渡すかのように、

「森岡はんは、六代目からプラチナバッジを貰うてはる」

 と駄目を押した。

「プ、プラチナバッジ? で、ではこの森岡という、いや森岡さんという方は極道者? それも最高幹部……、いったい何者なのですか」

 神王組の徽章の意味を知っていた持田は目を白黒させたが、それも当然であろう。堅気がプラチナバッジを所有しているはずもないし、峰松と兄弟盃、それも五分となれば、その若さで相当な貫目ということになる。

「森岡はんは歴とした堅気さんや。だがな、持田。この人はそこいらの極道者より恐ろしい人や。わしは極道世界には、六代目と親父以外に怖い者はおらんし、まして堅気の世界などにはおるはずもなかったが、この森岡はんだけは、金輪際敵に回しとうない」  

「峰松さんが」

 持田は絶句した。峰松重一の名は、神王組切っての武闘派極道として通っているのである。

「持田さん。菊池からはいくらもらえますの」

 森岡が涼やかな顔で声を掛けた。

「えっ」

「菊池から頼まれたのでしょう。いくらですか」

「いや、その……」

 逡巡する持田に、

「正直に言いや」

 と、峰松も語気を強めた。

「六、六千万です」

 持田は絞り出すような声を出した。

「一割ですか。その口銭、私が払いますよ。それと、お二人の治療代もね」

「はあ?」

 持田は呆気に取られた。言わば、泥棒に追い銭を渡すようなものである。

 だが森岡は、

「持田さんも、手ぶらじゃ組に帰れないでしょう」

 森岡は持田の面子を立てると言った。

 唖然としている持田に、

「持田、森岡はんとはこういうお人や。だから怖いんや。まあ、森岡はんの言われるとおり、お前もてぶらじゃあ、下の者に示しが付かんやろ。遠慮なく貰っておけ」

 と、峰松が声を掛けたものである。


「首尾良く行きましたか」

 執事の案内で応接室に入ってきた持田の姿を見て、菊池が立ち上がった。

「話は纏まりました」

 持田は何食わぬ顔で答えた。

「それは、ご苦労……」

 と言い掛けて、後方に目をやった菊池の顔が鈍く歪んだ。

「なぜ、お前が……」

「こら、菊池。悪さも大概にせにゃ、ほんまに地獄を見せるで」

 ぬっーと姿を現した森岡が、ずいぶんと伝法な声を浴びせた。事態を察した菊池の面は、見る見るうちに蒼白になった。

「てめえの考えていることぐらい、お見通しなんや」

 森岡は畳み掛けるように言った。

「菊池さん。この方は、神栄会若頭の峰松さんですわ。といっても、ようわからんと思いますけど、神栄会は仁誠会うちのような田舎のヤクザとは違い、神王組の本家本流なんですわ」 

 持田が説明した。

「峰松さんの親分、つまり神栄会会長の寺島さんは、先日神王組六代目の若頭になりはったんや。天真宗でいえば、総本山の総務さんの役割やな。もうわかるやろ。天真宗に照らし合わせれば、この峰松さんは宗務院の宗務総長と同じ立場のお人や」

 森岡は噛み砕くように言った。だが、これは彼の方便である。

 たしかに寺島は、天真宗における総務の立場に近いが、峰松は宗務院の宗務総長の立場とは言えない。仮に寺島が七代目になっても、峰松がその若頭に就くためには、相当に高いハードルを越えなければならないからである。

 しかし、菊池にそのような序列がわかるはずもなく、また峰松や持田は天真宗の仕組みを知る由もない。両方を熟知している森岡ならではの『はったり』だった。

 菊池は、わなわなと腰から崩れ落ちた。

 それでも、立ち去ろうとした森岡の背に、気力を振り絞って棄て台詞を浴びせた。

「このままで、済むと思うなよ」

 だが、森岡は単なる、

『負け犬の遠吠え』

 と然して気にはしなかった。

 さて、言うまでもないことだが、峰松が持田に言った、

『森岡との兄弟盃云々……』

 というのは彼の願望に過ぎない。

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