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黒い聖域   作者: 久遠
109/185

               (3)詐欺

 京都大本山本妙寺の新貫主選出の合議まで一か月半と迫っていた頃、鹿児島市の冷泉寺住職・菊池龍峰の許へ一人の来客があった。

 冷泉寺の檀家役員且つ護山会会長の柚原幸宣ゆずはらゆきのぶである。護山会の会長であれば日常の光景なのだが、この日山門を潜った柚原には緊張の面が看て取れた。

 柚原は、菊池にとって耳寄りな話を持ち込んだ。東京に住む彼の知人から二億円を寄付したいという申し出があったというのである。

 菊池は喜色を隠し切れなかった。

 ことさら彼が心を躍らせたのには理由があった。このとき菊池は、ある本山の貫主就任へ向けて確かな足掛かりを掴んでいた。

 森岡の介入で、『天山修行堂を我が物にし、天真宗の裏支配を……』との野望が潰えてしまった菊池龍峰は、すぐさま表世界での出世へと方針転換していた。したがって、金ならいくらあっても邪魔にならない彼にとっては、まさに棚からぼた餅の瑞兆話だったのである。

 いま一度説明しておくが、別格大本山法国寺以外の、大本山や本山の貫主人事は、基本的に現貫主の腹一つで決まる。

 常套なのは、後継者を執事長の職に据え、その者を後継とする所定の書類を総本山の宗務院に提出し、承認を得る方法でる。八割方がこのケースに当てはまる。

 現貫主の急逝などによって、宗務院の定めた書類の提出ができない場合でも、遺言書などの公文書に後継者の名が記載されていれば、就任へ向けての有力な支援材料となるが、それも無い場合は本妙寺での神村正遠のように関係各位の署名・捺印が必要となる。

 ただし、神村の例を挙げるまでもなく、思惑が絡み合う関係各位の推薦状を得るのはなかなかに難しく、結局のところは合議、引いては選挙投票ということになるのが大方であった。

 菊池龍峰は、現在大本山や本山の執事長の職になかったので、彼が貫主になるためには、選挙に立候補し、当選を勝ち取る場合に限られるのだが、いま菊池はその戦いの渦中にいたのである。

 一ヶ月前、宮崎県高千穂にある本山華法寺かほうじ大平落おおでらおとし貫主が、九州南部を襲った地震の被災により、急逝してしまった。大平落は貫主になって僅か一年。執事長には、長年親交のあった弟弟子を据えていたが、彼は荒行を三回しか達成しておらず、貫主就任の資格がなかった。

 神村の場合は有資格者であったから、関係各位の署名・捺印の有無という段階を踏んだが、今回の場合は即時選挙という運びとなった。しかも、立候補の受付期間は一ヶ月間という短いものだった。

 締め切り一週間前の時点では、立候補者は一人であった。長崎に自坊を持つ、七十代後半の老僧である。しばらく様子を窺っていた菊池は、他に手の上がる気配がないことに、この老僧が相手ならば勝算有りと踏んで、華法寺の貫主就任選挙への出馬を決めた。

 全国に三十九寺ある本山のうち、九州地区には五ヶ寺しかなかった。そのため、貫主選挙に限り、中・四国地区を組み入れて実施されていた。すなわち、中国地方の三ヶ寺と四国地方の二ヶ寺を合わせた十ヶ寺から、当該の華法寺を除いた九ヶ寺の貫主の合議、または投票によって決することになったのである。

 菊池の自坊冷泉寺は間違いなく肉山であった。

 室町時代の前期に、領主である菊池家の一門が出家して開山した当寺は、代々領主の手厚い庇護の許で多くの信者を集め、繁栄の礎を築いた。

 敷地は八千坪もあり、本堂、歴代住職の霊廟、多宝塔の他に、参拝客の宿坊までが建立されるなど、地方の末寺にしては異例の壮麗さを誇っていた。現在でも、檀家数は千五百を有に超え、葬礼などによるお布施で潤っていた。

 そのうえ、森岡から搾り取る金が計算できる。札束戦に持ち込めば、菊池の優勢が明らかであった。だからこそ、菊池は景山が持ち込んだ『アメ』の話を断ったのであり、二億円でも十分と、森岡の減額提示もすんなりと受け入れたのである。


 ところが、菊池龍峰にとって想定外のことが起こる。

 締め切りの前日、忽然として仙台市北竜興寺の弓削広明こうめいが、貫主の座に名乗りを上げたのである。広明は弓削広大の実父である。

 この難敵出現の背後に、森岡洋介の影があるのは明白であった。森岡が宝物の件の意趣返しのために、弓削広明を担ぎ出し、自身の行く手を阻害しようとしているのだと、菊池にも容易に想像できた。

 客観的に見れば、菊池龍峰の優位は揺るがなかった。

 戦いの舞台が他所者の弓削広明とは異なり、菊池の御膝元である九州の中でも、さらに地下(じげ・地元)ともいえる高千穂の本山だったからである。

 また、九州地区寺院会副会長の地位を利用した政治活動が可能であるし、さらに大平落前貫主が、様々な会合において菊池を高く評価する発言をしていたことは、九州、中国、四国の各本山にも届いていた。

 心証からすれば菊池の優位は疑いようがなかった。

 だが、それでも当の菊池龍峰は相当の苦戦を覚悟した。

 その資金力もさることながら、森岡の智力が尋常でないことは、東京目黒澄福寺貫主の芦名泰山説得の際に痛感していた。

 しかも、法国寺の宝物紛失の一件で、影の法主・久田帝玄だけでなく、次期法主・藤井清堂までを味方に付けていることが判明した。それはつまり、此度の選挙と直接には関係なくとも、全国九ヶ寺の大本山の貫主たちまでが、彼の手中にあると見なければならないのである。

 まして弓削広明の嫡男である広大は、若手僧侶の全国組織・妙智会の会長である。妙智会の力は、総本山宗務総長の永井大幹を通じて、総務清堂に圧力を掛けたことでも実証済みだった。

 菊池の不安は止まることがなかった。その不安を払拭するために、菊池は喉から手が出るほど金が欲しかった。森岡から毟り取った二億円では足らないと焦った。

 その焦りが、彼の冷静な判断を少しずつ狂わせて行った。

 

 東京のJR山手線・有楽町駅前のテナントビル六階に、『朝比奈法律事務所』という弁護士事務所がある。

 いま柚原幸宜は菊池龍峰を伴い、その事務所に入って行った。中に入ると、事務員らしき妙齢の女性が応対した。薄化粧で清楚な身形ではあったが、目鼻立ちの整ったなかなかの美形である。

 事務所は十坪ほどであろうか。応接室は、左右に離れて二部屋あった。会話の内容が漏れないようにするためであろう。

「先客が有りますので、少々お待ち下さい」

 透き通った声でそう言い、頭を下げたときに垣間見えた白く豊かな谷間が、菊池の眼に艶めかしく映り込んだ。

 菊池は思わず舌なめずりをした。彼の好みの女性だったのである。

 菊池は好色家だった。彼に限らず、僧侶しかも高僧になればなるほど、その傾向が強いように思われる。

 煩悩を避けるための厳しい修行は、まま命懸けであるため、皮肉にも種の継承という本能が働くためであろう。

 好色とは違うが、あの神村でさえ千日荒行達成後に妻帯したほどであるから、他は推して知るべし、である。僧侶にとって、とかく昨今は女人を遠ざけることの難しい時代になった証左ともいえた。

「お待たせ致しました」

 と言って、六十絡みの男性が部屋に入ってきた。見るからに人品卑しからざる風体である。受け取った名刺の肩書きには、

「東京第一弁護士会副会長、朝比奈慶一郎」

 とあった。

 弁護士一人、男女事務員一人ずつの小さな事務所ではあるが、その貫禄から相当な実力者と看て取れた。

 朝比奈が詳細に説明した。

「寄進を申し出ておられるのは、私が顧問をしております、舛森不動産という会社の舛森社長です。社長は、あのバブル時代に大儲けをなさり、手際良く手を引かれたため相当な資産をお作りになったのですが、最近になって罪の意識に苛まれるようになられましてね。いえ、バブルのときには、ときに地上げなど、それなりに阿漕なこともされていたようですので……そこで、贖罪のおつもりで寺院に寄付を、と思い立たれたのですが、何分親しい寺院など無く、そこで知人の柚原さんに相談されたという経緯なのです」

 言い終えると、朝比奈は柚原に視線を送った。

「舛森とは東都大学時代からの友人でしてね。今でも年に二、三度は会食をする仲なのです。何時だったか、私が護山会の役員をしていることを話したので、それを憶えていたのでしょう」

 柚原が補足した。

「なるほど、良くわかりました。これも御仏様のお導きなのでしょう。有難くお受け致します」

 菊池は合掌しながら、いかにも慇懃に言った。

「ところで、一つだけ条件があるのです」

 朝比奈が頃合を計ったように申し出た。

「条件?」

 菊池の目が鋭くなった。

「受取書は白紙でお願いしたのです。いえ、金額ではありません。受領項目の欄です」

「受領項目とは?」

「先方の会計上の都合です。何分、昨今の税務署は使途不明金についてなかなかに厳しいものがありましてね。有らぬ疑いを掛けられないために、どうしてもとの枡森社長のご要望なのです」

 朝比奈は事務的に言った。眉一つ動かさずに言ったが、

――はて、面妖な。

 と、菊池は訝った。自身が署名捺印をするのに、それを確実にとはいかなることであろうか。

「無理なようでしたら、この話は無かったことになりますが」

 菊池の心中を看て取った朝比奈が、軽い催促をするように言った。

「少々時間を頂戴できませんか。明日にでもご返事致します」

 やや間を置いて、菊池が願い出た。 

 さすがに菊池である。ふと、胡散臭いものを感じた彼は、ホテルに戻ると、さっそく自坊に電話を入れた。若い執事に、インターネットで『弁護士・朝比奈慶一郎』と『舛森不動産』を検索させた。

 その結果、朝比奈慶一郎も舛森不動産も実在した。

 東京第一弁護士会のホーム・ページには、確かに朝比奈慶一郎は東京第一弁護士会」の副会長であり、事務所の所在地も一致した。そして、何よりもFAXで伝送されてきた顔写真と、事務所で会った人物との面相が一致していたことに、菊池はほっと胸を撫で下ろした。

 また、舛森不動産のホーム・ページにも、事務所において朝比奈や柚原が説明した内容と同一の情報が記載されていた。もっとも、こちらの方は個人会社のホーム・ページであるから、丸ごと信用することはできないが、仲介に入る弁護士が間違いないのであれば、自ずと信用に値した。

 菊池は、その日の夕方に寄付を受けるとの連絡を入れた。


 その夜、二億円の寄付の話が纏まった菊池は上機嫌だった。

 朝比奈弁護士に承諾の連絡を入れた後、折り返し舛森本人から夕食を共にしたいとの連絡が入った。柚原も同席し、三人は銀座の高級寿司店『六兵衛』で夕食を済ませ、すずらん通りにあるクラブ『若菜』に繰り出していた。

 広さは十五坪ほどの、こじんまりとした店ではあったが、八名のホステスは粒ぞろいで、いずれも最高級クラブに勤めていてもおかしくはないほどの、いわゆる上玉ばかりだった。

 菊池が目を剥いたのは、その中に朝比奈弁護士事務所の女性事務員がいたことである。

 彼女は源氏名を『公佳きみか』と名乗った。濃い目の化粧と、胸元の開いた白いドレスで着飾った彼女は、抜きん出て目を引いた。公佳は、昼間の仕事だけでは生活が苦しいので、週に三日店に出ているのだと説明した。

 菊池を上機嫌にさせていたのは、寄付のことだけではなかった。この上玉ぞろいのホステスの中から気に入った女性を持ち帰って良いと、舛森から耳打ちされていたのである。

 はたして菊池は、公佳を連れてホテルに戻った。


「舛森社長というのはどういう人かな」

 菊池は、さっそく公佳に探りを入れた。寄付話を疑っているのではなく、今後の皮算用を弾いているのである。

「お上人はご存じないの?」

「今日会ったばかりでの。あまり良く知らんのだ」

「もの凄い大金持ちで、ママのパトロンなのよ」

「そう言えば、ママは大変な美人だったのう。あれだけの女性を口説いたとなると、相当に金を使ったのだろうね」

「これぐらいじゃないかしら」

 公佳は三本の指を立てた。

――うむ。それならば、今後の援助も当てにできるかもしれない。

 愛人に三億円も使うほどの資産家であれば、と菊池は内心ほくそ笑んだ。

「さて、君は決まった男はおるのかの」

 如何せん、このあたりは世間知らずの坊主である。仮に居ても、彼女が『居る』と言うはずがないのに、下らない事を訊いてしまう。

「居たら、こんなところに着いてくるはずないじゃない」

公佳は、艶めかしい眼つきで答えた。

「では、ときどきこうして会ってくれるかの」

「お手当てを弾んでくれるなら」

 公佳は思わせ振りに菊池の胸を人差し指で突いた。


翌日の昼、柚原と朝比奈がボストンバッグを一つずつ携えて、菊池の部屋を訪ねてきた。

 菊池は現金をあらためると、白紙の受領書に署名捺印をした。昨日の話では、そこで終わりのはずであったが、朝比奈弁護士が、また妙なことを言い出した。

――捨印が欲しい。

 と言うのである。

 菊池は再び、はて? と思った。

 なるほど、契約書などでは訂正を予測して欄外に印を押しておくが、受領書にも捨印を押すことがあるものだろうか、と疑念を抱いた。しかも、受領書ではなく白紙の用紙に捨印までするといった話は耳にしたことがない。

「どうされましたか」

 朝比奈がやんわりと催促した。そのにこやかな表情には、一点の陰りもないように見える。

――朝比奈も舛森も確認した。間違いはない。ここにきて二億円を失うことはできない。

 森岡洋介の影に怯える菊池は、現金の束を見せ付けられ、目の前の金を逃すのがことさら惜しくなった。人の心理、弱さである。

「わかりました」

 とうとう朝比奈の言うがままに、菊池は二枚の白紙に署名捺印をした。


 意気揚々と鹿児島に戻った菊池は、さっそく投票権を持つ九ヶ寺の貫主のうち、事前面談で感触の良かった六名に連絡を入れ、面会の日時を決めていった。

一人、二人と面会し、確実な支持を取り付けて行った菊池だったが、三人目あたりから妙な事に気付いた。三人とも弓削広明、あるいは森岡洋介からの接触は無いというのである。

――なぜだ?

 菊池は疑心暗鬼になった。彼は、法国寺の一件での森岡のやり様を見ている。尋常ではないその智略に舌を巻いたものである。それが何の動きも見せてはいないのだ。

 支持を表明していた六人との面談を終えた菊池は、森岡が一切の動きを止めていることに言い知れぬ不安を覚えた。

――あの男は、いったい何を考えているのだ。

 菊池の胸は、得体の知れない不安で塞がっていった。

 そのような菊池の許に、目を疑う書類が郵送されて来た。東京の弁護士事務所から届いた郵便物の封を開けると、中には冷泉寺の土地の売買契約書が入っていたのである。瞬時、いかなる次第か理解できなかったが、そのうち悪寒に身体が震え出した。

 菊池は、何かの間違いだと自身に言い聞かせて、朝比奈から貰った名刺の電話番号に掛けてみた。

「はい。朝比奈法律事務所です」

 若い女性の声だった。一夜を共にした公佳だと思い、

「わしだが」

 と言い掛けて、菊池は口を噤んだ。どこやら、公佳とは違う声のような気がしたのである。

「菊池と申しますが、朝比奈先生はいらっしゃいますか」

 菊池は言葉をあらためた。

「少々お待ち下さい」

 女性がそう言うと、しばらくして、

「弁護士の朝比奈です」

 と少し甲高い男性の声が伝わった。先日の、野太い声とも違う気がした菊池は、波打つ動悸に胸の痛みを覚えた。

「先日お会いした鹿児島・冷泉寺の菊池です」

「鹿児島の冷泉寺? 菊池さん……、お会いしたことがありませんが」

 男は訝った声で返した。

「先週の土曜日、そちらの事務所でお会いした菊池ですが」

「先週の土曜日は学会で名古屋へ行っておりました。失礼ですが、何かの間違いではありませんか」

「確認させて頂きますが、東京第一弁護士会の副会長をされている、朝比奈慶一郎弁護士さんですよね」

「そうです」

「事務所は有楽町駅前のビルの六階ですね」

「良くご存知で」

「では、先週の土曜日、確かにお会いしたはずですが」

 菊池は、弱々しい声でもう一度確認した。

「いいえ。何度も言いますが、先週の土曜日は休日にしましたので、事務所は閉めておりました」

 男は語気を強めた。有無を言わせぬ口調には、これ以上の押し問答は無用との意が込められていた。菊池はなす術も無いまま、携帯を切らざるを得なかった。

 菊池は、続いて舛森にも電話をした。こちらは舛森本人が出たものの、確かに売買契約を交わしたと、強く主張した。むろん、菊池が受け取った売買契約書と同じ書類を所有していることも付け加えた。

――やられた……。

 菊池は、鉈で脳天を割られたような痛みを感じた。

――詐欺か……。仕掛けたのは、おそらく森岡……。道理でいっこうに動きを見せないはずだ。

 菊池は、絶望の淵に立たされていることを理解した。

『あの森岡が仕掛けたことなら、抜かりはないだろう』

 ということである。

 だが、次の瞬間、別の想いが過ぎった。

――柚原はどうなのだ? もし詐欺であれば、柚原が証人になってくれるのではないか。

 柚原は『善意の第三者』の立場にある。双方の主張が食い違えば、彼の証言が決め手となるはずであった。そもそも、この寄付話を持ち掛けたのは柚原である。

 菊池は藁をも掴む想いで、携帯を手にした。

 一時間後、駆け付けた柚原に、

「柚原さん、これを見て下さい。寄付と言いながら、売買契約書の写しが送られて来た。どうやら詐欺に遭ったらしい」

 と縋るように言った。だがこのとき、菊池は柚原の冷酷な目を見た。

「お上人、何を言っておられるのですか。間違いなく貴方は売買契約書に署名、捺印をされたではありませんか」

 柚原は、能面のように表情一つ変えていなかった。

――そういうことか……。

 菊池は脳天を割った鉈が、そのまま背を切り裂き、身体を真っ二つにされたような絶望感に襲われた。

「貴様、俺を嵌めたのか」

 菊池は、柚原の胸元を掴み、食って掛かった。だが柚原は、高校、大学時代と柔道をしていた強靭な肉体の持ち主である。柚原は、いとも簡単に菊池の手を払い退けた。

 悄然として、その場にへたり込んだ菊池は、唇をきつく噛み心の中で呻いた。

――柚原には、決して気を許してはいけなかったのだ。

 売買契約書には、


 売主・菊池龍峰。

 買主・舛森不動産。


 と明記してあり、仲介した朝比奈慶一郎なる人物の痕跡はどこにもなく、売買契約書を作成した弁護士は別人だった。この状況で、柚原と舛森が売買契約だったと主張すれば、菊池に勝ち目はなかった。

 人間の欲というのは恐ろしいものである。

 世の中の詐欺という詐欺はすべからくこの欲があればこそ成立する。人の心に欲というごうがなければ、およそ詐欺など有り得ない。

 これまでもきん、ゴルフ場、ブランド牛、未公開株、海外投資など巨額のペーパー商法詐欺が摘発されてきた。然るに、同じ手法の詐欺によって被害を受ける者が後を絶たないのはなぜか。テレビや新聞で盛んに報道されているのに、簡単に引っ掛かるのはなぜか。

 ニュース報道は埒外だからである。詐欺報道を見て、あるいは読んで『必ず儲かるはずがないだろう』と、むしろ被害者の方に侮蔑の目を向けるのは、実際にその詐欺の儲け話に直接触れないからである。

 ところが、自分はこのような幼稚な詐欺には引っ掛からないと自信満々だった者が、傍目からは実に怪しい投資話にまんまんと引っ掛かってしまう。詐欺を見分ける嗅覚が消え失せ『ようやく自分にもツキが回って来た』などと、都合良く解釈してしまう。

 これ全て、欲のなせるわざなのである。

 菊池龍峰は荒行を六度成満している。言わば、人間に百八あると言われる煩悩を消し去ったはずの高僧である。にもかかわらず、欲に塗れたために森岡の罠に落ちたのである。

 いや、むしろ高僧なればこそ、余計に欲が湧くのかもしれない。修行を積めば積むほど己の才を確信し、精神の高みを意識する。そして、自分ほどの者がなぜ今のような低い地位に屈しているのか、社会的低評価に甘んじなければならないのかという妄念を抱いてしまう。

 その妄念を打ち消すには、さらなる修行が肝要なのだが、その先に向かう者は少なく、菊池のように堕落の道に逸れてしまう者が生まれてしまうのだろう。



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