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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)愛娘

 森岡は、菊池龍峰に対しても苛烈な報復を決意していた。

 自身や神村に何か実害があったわけではない。それどころか、十億円という巨費を投じたとはいえ、天山修行堂の敷地を手中にしただけでなく、次期法主が内定している総務清堂や将来が嘱望されている景山律堂とも知己を得ることができた。

 森岡にとっては、まさに災い転じて福と為した格好だったが、それはそれとして卑劣極まる菊池の所業が許せない性分なのである。

 彼の頭を真っ先に過ぎったのは、岩清水老人から紹介された『松平』と名乗った男である。岩清水に仲介の労を取ってもらい、松平と再会することになった。

 松平は待ち合わせ場所として、東京駅・八重洲側出口の正面に建つ、八重洲観光ホテル一階ロビーの喫茶店を指定してきた。


 森岡は、その喫茶店に一歩足を踏み入れた途端、異様な気配に鳥肌が立った。神栄会の事務所で受けた威圧感にも似た、一種独特な雰囲気なのである。

 森岡は、その正体が何であるかすぐにわかった。松平が到着するまでの間、さりげなく、しかしつぶさに周囲を観察したところ、微かに洩れ聞こえる会話の端々に『詐欺話』の臭いがしたのである。

 彼らが発した『山林を担保』、『未公開株の売買』、『手形の割引』といった言葉は、いずれも真っ当な経済用語ではあるが、これらを口にした連中が、どうみても堅気の人間には見えないのである。この喫茶店はアングラ経済活動の巣窟なのだ、と森岡は理解した。

 納得と同時に、森岡は少し自己嫌悪に陥った。隣のテーブルに座った蒲生亮太はもちろん、足立統万にさえも異様な視線を送った彼らが、森岡には誰一人として奇異な眼差しをする者がいなかったのである。つまり彼らの目には、何の違和感もない同種の人間と映ったということなのであろう。

――やはり俺も落ちるところまで落ちたか。

 覚悟していたとはいえ、現実を突き付けられ、瞬時弱気の虫が湧いたが、すぐに振り払った。

 やがて、松平と岩清水が顔を見せた。そして、もう一人松平の後方から顔を覗かせた女性に森岡は目を剥いた。なんと、銀座の最高級クラブ有馬の美佐子がそこにいたのである。

「き、君は……」

 開いた口が塞がらない森岡に、

「お久しぶりです、森岡さん」

 美佐子は楽しそうな声を掛けた。

「なぜ、君が?」

 松平がにやりと笑った。

「あらためて紹介しよう。私の娘、桜子さくらこだ」

「ええ!」

 森岡の声が辺りに響いた。

 隣のソファーにいた蒲生と足立だけでなく、周囲の注目が一斉に森岡に集まった。

 森岡は四方に軽く頭を下げた後、

「大変失礼しました」

 と額の汗を拭いた。

 美佐子の本名は児玉桜子、松平改め児玉久孝ひさたかの実娘だという。

 だが、児玉が愛娘に詐欺の片棒を担がせたことは一度もなく、森岡と同様、夜の世界での情報収集役に留めていた。

「銀座のクラブでお会いしたようですな」

「はい」

「私があまりに貴方を誉める上げるものですから、悪戯心が湧いたようです」

「何か裏事情があるとは思っていましたが、まさか松平、いや児玉さんのお嬢様だとは思いも寄らぬことでした」

「貴方を品定めするなんて、不躾なことをしてごめんなさいね」

 美佐子はぺこりと頭を下げた。

「それはどうでも良いけど、あの夜君を口説かなくて良かったよ」

 森岡は安堵したように言った。

「私としては、そういう関係になってくれた方が良かったのだがね」

 児玉は本音とも冗談とも付かぬことを言うと、笑顔を折り畳むようにして、

「さて、私に用があるということだが」

 と用件を問うた。

 森岡の表情に緊張が奔った。

「是非、児玉さんのお力をお貸し願いたいのです」

「私に願い事を……、地獄に落ちることになりますが、その覚悟はありますかな」

 児玉は森岡を見据えた。

「もちろんです。もう大概落ちています」

 森岡の揺るぎのない声に、

「ならば、お聞きしましょう」

 と、児玉は静かに言った。

 森岡は一呼吸間を置いた。

「単刀直入に申し上げます。菊池という坊主を騙して頂きたい」

「菊池? 鹿児島の菊池上人かね」

 岩清水が口を挟んだ。

「そうです。奴がいては、この先神村先生に害を成します」

「何かあったようだね。神村上人の本妙寺貫主就任の遅れと関係があったのかな」

「ええ。ですが、詳細はご勘弁下さい」

 森岡は、岩清水の目を見据えて言った。

「わかった。これ以上何も聞くまい」

 岩清水はそう言うと、

「松っちゃん、どうだね。協力してやってくれないかね」

 と偽名の方を呼び、児玉に軽く頭を下げた。

「しかし、その菊池とやらを奸計に嵌めるといっても、何か材料が無ければどうにもなりませんが」

「その点は、私に考えがあります」

 森岡は、菊池を落とし入れる計略を披歴した。

 じっと考え込んでいた松平は、

 急に、ははは……と高笑いした。

「どうやら、あまりに稚拙だったようですね」

 森岡は顔を赤らめた。

「いやあ、申し訳ありません」

 松平は笑いを消し去ると、

「全くその逆です。岩清水さんから話を伺い、また先日直接お目に掛かって、私なりに貴方の能力を量ったつもりでしたが、いやはや恐れ入りました。貴方は詐欺師の素養もお有りになる」

 と言ったものである。

「では、お力添えを願えますか」

「もちろんです。一週間ほどお持ち下さい。詳細な計画を練ってきます」

 松平は、獲物を狙う蛇のような眼つきで請合った。その眼光の色は、神栄会の峰松と寸分違わぬ同種のものである。

「お礼ですが、一億で足りますか」

「一億? ははは……」

松平は再び哄笑した。

「なんとまあ、太っ腹な……、貴方はきっと」

 松平は言い掛けて、

「いや、止めましょう。それにしても貴方は実に楽しい人だ」

 と言葉をあらためた。

「楽しい?」

森岡は首を傾げた。

「そう、貴方を見ているとこちらが心躍る思いになる」

 そう言った松平は、

「一億は結構です。その代わりと言っては何だが、娘の願いを叶えてやってくれると有り難い」

 と、桜子に視線を送った。

「桜子さんの願いとは」

「詳細は、この後本人から聞いて欲しいのだが、ともかく一週間後にお会いしましょう。そのとき、メンバーも紹介します」

 そう言い終えると、児玉と岩清水は立ち去って行った。

「じゃあ、君の願いというのを聞こうか」

「彼女にして頂戴」

 桜子は開口一番に切り出した。

「だから、それは出来ない相談なんだ」

 森岡は困惑顔で断った。

「そういう顔も魅力的ね」

 桜子は、森岡を弄ぶかのようにどこまでも不敵である。

「年上をあまりいじめるなよ」

 とうとう森岡は降参する仕草までした。

「冗談よ、冗談。実は、ビジネスパートナーになって欲しいの」

「ビジネス、とはどのような」

「当面はホステスの派遣会社だけど、先々はモデル、イベントコンパニオンの派遣や芸能界のプロダクションも考えているの」

「芸能プロダクション……」

 森岡の目が反応した。

「面白そうだね。それでいくら出資したら良いのかな」

「いくら出せるの」

「望みのままに……」

「じゃあ、三億」

「了解」

 森岡は即諾した。

「呆れた。貴方の頭の中には、疑うとか躊躇うという言葉は無いの」

「五億なら、迷ったかもしれないな」

 森岡は笑った。

「三億も冗談。父に提示した一億で良いわ」

「一億なら出資でなくても良い。君にあげるよ」

「それは困るのよ」

「困る? どうして」

「私みたいな小娘が、一億円の大金を元に事業を始めたとなると、もし税務署に目を付けられたりしたら、厄介なことになるわ」

 桜子は税務署の目が何かの拍子に、父である児玉久孝に向くことを恐れているのである。森岡の事業出資であれば、誰も疑うことがないというわけであった。

「そういうことか。じゃあ、二億にしよう。その代わり一つ頼みがある」

「あら、一億の頼みって何かしら」

 桜子は目を輝かせた。

「タレントの卵を一人預かって欲しい」

「タレント?」

 桜子の顔から喜色が消え去った。

「いったい、どういう女の子なの」

「おいおい、俺は女だなんて言っていないぞ」

「じゃあ、男なの」

 棘のある声である。

「いや、女だ。しかも、台湾人」

「なっ、台湾人……、いつの間に」

 桜子は女性特有の勘で、森岡が関係を持った女性だと察した。言い様のない嫉妬で心が搔き乱れたが、表面上は冷静を装った。

 森岡は天礼銘茶社長の林海偉の招きで訪台し、彼から依頼されたことを話した。沈美玉という台湾の美少女コンテストで優勝し、歌とダンス、そして芝居のレッスンを受けている最中だが、一月後に日本に呼び寄せ、それらの熟練度を高めるつもりであることを告げた。また、彼女の写真も見せた。

「いくつなの」

「十七歳になったばかり」

「日本語は」

「日常会話程度なら問題ないが、これも日本で徹底的に習得させるつもりだ」

「デビューは何時頃を予定しているの」

「彼女次第だが、早ければ一年後、遅くても二年後にはデビューさせたい」

「この写真と話を聞いた限りでは、私のプロダクションの第一号タレントしては勿体ないくらいの女の子ね」

「どうだ。引き受けてくれるか」

「貴方が後援するのでしょう」

「表には出ないが……」

 と顎を引いた。

「じゃあ、引き受けない法は無いけど、私で良いのかしら。もっとメジャーな事務所に入れた方が確実にスターダムにのし上がれるのじゃないのかしら」

「俺もそう勧めたのだが、本人が小さな事務所の方が良いって言うんだ」

「たしかに小さい事務所の方が貴方の意志は通り易いわね」

 桜子は嫌味を滲ませて言った。

「俺は口出しする気はない」

「一度彼女に会わせてくれない。それから返事させてもらうわ。それで良いかしら」

「もちろんだ。じゃあ、詳細な事業計画書を提出してもらえるかな」

「一週間後に用意しておくわ」

 芸能事務所はともかく、彼女の計画は森岡にとっても悪い話ではなかった。児玉久孝が、愛娘でありながら情報屋として使っているほどである。桜子は情報収集の能力に長けているのだろう。その彼女が、ホステスの派遣業をするということは、諜報活動の範囲が広がることを意味している。

「そうだ。お土産があったわ」

「お土産? 鴻上のスポンサーがわかったのかい」

「さすがに察しが良いわね」

「それで、誰だ」

「吉永という飲食店の女性経営者よ」

「吉永? 吉永幹子か」

 森岡の声が上ずった。

「知っているの」

「ちょっとした因縁がある」

――吉永幹子か……、これで筧克至の関与は疑いようもない。

 森岡の表情に暗い影が射した。

「そんな顔、初めて見たわ」

「引き続き、情報収集を頼めるかな」

「いいわよ。でも、これ以上何を調べるのかしら」

「鴻上と吉永の背後にいる人物を探ってくれないか」

「吉永という女性がスポンサーじゃないの」

「金は彼女が出したのかもしれないが、どうも後ろで二人を操っている人物がいるような気がするんだ」

「考え過ぎじゃない」

「そうなら良いが、何となく胸騒ぎがする」

 森岡は不安な心情を吐露した。

「わかったわ。鴻上さんには正直に打ち明けて許してもらったから、それとなく聞き出してみる」

「だけど、決して無理をするなよ。俺の勘が当っていれば、身の危険だって有り得る」

 森岡は慎重のうえにも慎重を期するように桜子に忠告した。



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