第六章 報復(1)捕捉
その日、森岡洋介が大阪梅田の高級料亭・幸苑に着いたとき、すでに午後二時を回っていた。本来であれば、夕方からの営業の仕込みのため客は取らないのだが、森岡は特別扱いで入店を許可された。
「お昼のお弁当も出払ってしまい、何にもありませんのよ」
女将の村雨初枝が申し訳なさそうな顔をした。
いえ、と森岡は顔の前で手を振った。
「無理を言っているのは私の方です。ビールとつまみを少々、あとはおにぎりで結構です」
「板長が何か賄いで取り繕っています」
「いやあ、それは有り難い。幸苑の賄いを食べられるなんで、こんな楽しみなことはないです」
森岡は明るい顔で言った。
賄いとは、余った材料などを用いて作る、料理人や従業員の食する料理のことである。この賄い料理が転じて、店の看板メニューになることもよくあることだ。
「それにしても、お昼からビールを召し上がるとは、何か良いことでも有りましたか」
「良いことではありませんが、心の憂いが晴れました」
「神村先生の件ですね」
「はい」
「それは良うございました」
女将の初枝は安堵した顔をした。
「女将にもご心配をお掛けします」
「あら、私如きが心配しても何の足しになりません」
「そのようなことはありません。女将にはずいぶんと勇気付けられています」
「そう言って頂けるだけでも嬉しいですわ」
女将は会釈をしながら立ち去った。
彼女の足音が遠ざかると、途端に森岡の顔つきが険しくなった。
「輝、お前に言っておくことがある」
「なんや兄貴、怖い顔をして。俺は悪いことは何もしとらんで」
南目は気圧されるように抗弁した。以前、彼は勝手に森岡の過去を調査したため、きついお灸を据えられていた。
「勝部雅春の行方がわかった」
勝部雅春とは、南目の大学時代の友人で、彼のマンションに居候をしていた男だが、前杉母娘に借金を押し付けて行方を暗ましていた。
「なんやて、本当か」
南目が驚愕の顔を向けた。
「この男やろう」
森岡は、背広の内ポケットから一枚の写真を取り出し、南目に見せた。
「そうや、こいつや。せやけど、なんで兄貴が勝部の写真を」
持っているのか、とすかさず疑いの視線を送る。
「別件で伊能さんに調べてもらったら、こいつが網に引っ掛かったんや」
「別件? 先生の件か」
「違うが、お前は知らん方がええ」
「神村先生の件でないなら、そういうわけにはいかん。兄貴、こいつをどうする気や」
「少々、痛め付ける」
極めて冷徹な声だった。
一瞬、たじろいだ南目だったが、
「なら、その後でもええから、俺をこいつと会わせてくれ」
と頼んだ。
「今更会ってどうする気だ」
森岡は探るような眼を向けた。
「文句の一つも言いたいし、美由紀さんとの離婚を認めさせる」
「離婚? そうか、籍はまだ入ったままやったんか」
南目の心情を汲んだ森岡は、
「ええやろ。そういうことなら、時期を選んで必ず会わせてやる」
と約束した。
幸苑を後にした森岡は、その足を大阪梅田のパリストンホテルへ伸ばし、神栄会若頭の峰松重一との密会に臨んだ。いつものように、蒲生亮太と足立統万の二人が同席した。
パリストンホテルは、JR、地下鉄、阪急、阪神の各駅から程近く、北新地とも目と鼻の先にあった。その利便性から、昼間は若者やビジネスマンで溢れ、夕方からは社用族の接待や、ホステスとの同伴の待ち合わせ場所として賑わっていた。
森岡は、一階の喫茶店ではなく、スイートルームを予約していた。
「六代目も寺島の親父も、喜んでいました」
峰松が、両手を膝に置いて腰を折り、深々と頭を下げた。ボティーガードとして、かつて森岡を拘束した大男二人に加え、四人の厳つい男たちがその場に居たが、事情を知らない彼らは一応に驚きの表情になった。
「どこまでできるかわかりませんが、全力を尽くします」
と、森岡も同様に頭を下げた。熟慮の末、蜂矢六代目から懇請されたブック・メーカー事業を受ける旨の返事をしていた。
「お前ら、この方が親父を若頭に押し上げて下さった森岡さんや。よう、顔を覚えておきや」
「はっ」
四人の男たちが一斉に腰を折った。
これは峰松の大仰な芝居である。森岡の仲介による福地正勝からの金が寺島の六代目若頭就任の一助になったことは間違いないが、そのときすでに寺島新若頭で趨勢は決していた。
極道は所詮極道であり、その本分は力、すなわち暴力である。若頭という位置は天真宗でいえば総務の立場に当たり、実質的に組内外の諸事を取り仕切る役目を負っている。そのような重責を担う者は、いかに経済的な貢献が有ったとしても、敵対勢力から舐められるような神輿であってはならないのである。
峰松は、そうした神王組内に漂い始めた思惑の流れに、駄目を押すための金策に奔走していたに過ぎなかったのだ。然るに、峰松が森岡を殊の外丁重に扱う所以は、むしろ今後に対してのものだといえよう。
「この者らは、神栄会の若頭補佐ですわ。九頭目は御存知でしょうが……」
と言って峰松は残りの三人の男たちを紹介した。三人はそれぞれ窪塚、田代、二宮と名乗った。
「貴方は窪塚さんとおっしゃるのですか」
「いや、その節は」
窪塚は決まりが悪そうに軽く下げた。
窪塚は法国寺裏山の土地買収を巡って対立したとき、森岡を拘束した極道者だった。
「森岡はん、それはもう水に流して貰えませんか」
自身が咎められているような気がした峰松は苦笑した。
「御懸念なく。全く気にしていませんから」
森岡は鷹揚な笑みを返した。
「森岡はんはな、六代目からプラチナバッジを送られはったんや。その意味がわかるな」
「プ、プラチナ……」
若頭補佐の四人は唖然として言葉がなかった。彼らは銀バッジなのである。森岡に比べ二階級下であった。
これまた天真宗に照らし合わせれば、六代目の蜂矢が大僧正の法主、プラチナバッジが大本山と本山の貫主に与えられる権大僧正、金バッジが僧正、銀バッチが権僧正、銅バッジが大多数の末寺の住職である大僧都以下といったところであろうか。
「ええか、親父の厳命や。島根での失態もある。この先、夜の街などでなんぞ森岡はんがトラブルに巻き込まれはったら、いや巻き込まれんよう、これまで以上に影ながら神栄会でお護りするんやで。ウイニットの森岡はん、この名前を若い者にも徹底的に覚えさせておけ」
と、峰松は声高に命じた。
関西随一の繁華街と言っても良い北新地の縄張りは、少々複雑であった。本来であれば、街毎あるいは番地毎に『しま』が線引きされていたが、この北新地とミナミは特別で、複数の組によって割譲されていた。
神栄会はその中の一つに過ぎなかったが、古くからの名門組織であるうえに、神王組本家の若頭を務める組になったため、その威勢は北新地全域に行き渡ることになったのである。
従来は、用心棒としての見ケ〆料が主な収入源だったが、暴力団対策法の施行以来、激減した。しかし、暴力団が黙って大人しくしているはずもなく、別の方法でしのぎを確保していた。
たとえば、お絞りやアルコール類、おつまみ、花等々、これまでも関係する会社を噛ませて利益を得ていた業種の強化や、新手として清掃会社、ホステスや黒服の派遣会社といった職種にも手を広げて行った。これらは全て合法であり、司直の手も届かないのである。
「峰松さん、そこまでして頂かなくても現状で十分です」
峰松の意図を見抜いている森岡は遠慮した。
いいや、と峰松は語気を強めた。
「ブックメーカー事業を受けて貰ったからには、ますますもって森岡はんは神王組の福の神やから、親父からも丁重に遇せと命じられとるんですわ」
峰松重一は必死だった。
あの神戸灘洋上での蜂矢の言葉で、親分の寺島が七代目になることはほぼ確実となった。そのとき、自身が若頭の座を射止めるためには、森岡の協力が必須だと考えていたのである。しかも、東京の虎鉄組が島根半島の浜浦で森岡を襲撃している。峰松は、自身の栄達に不可欠となった森岡を失うわけにはいかなかった。
「しかし……」
森岡は、なおも逡巡したが、
「ところで、緊急の用ってなんですの」
と話に蓋をするように森岡の用件を問うた。
「それが」
森岡の面が一変した。
「峰松さんに、少々面倒なお願いをしにやって来ました」
と何時になく厳しい顔つきに、
「ほう。森岡はんがそないな顔をしはるとは珍しいでんな。ややこしいことでっか」
峰松の声も自然と低まった。
「二人の男に落とし前を付けて頂きたいのです」
「落とし前? わしに頼みはるということは、もしやこれでっか」
峰松は片手で口を塞いだ。暗殺という意味である。
「ん?」
森岡は首を傾げた。薄々はわかっていたが、言葉にして確認する必要があった。
「命を取るんでっか」
峰松の眼が鈍く光った。
「いえいえ。そこまではお頼みしません」
森岡は激しく首を左右に振った。
「そうですね、指の二本か、腕の一本で結構です」
「なんや。それぐらいなら、簡単なことでんがな。相手は誰でっか」
「この二人です」
森岡は、数枚の写真を峰松の目前に置いた。その中には、先刻南目に見せた写真があった。
森岡から依頼を受けた伊能剛史は、柿沢康弘の周辺を徹底的にマークした。そして、柿沢が銀座の高級クラブにおいて、二人の男と密談する場面を目撃した。伊能はホステスに鼻薬を利かせて、二人の男の正体と、どうやら柿沢に金銭を要求しているらしいことを聞き出した。
その後は警視庁の知人から二人の素性に関する情報を得るなどして、この男たちが片桐瞳を強姦した実行犯である確信を得た。
余談だが、銀座の高級クラブの多くが会員制を謳い、一見客を制限している。柿沢をマークするとなれば、当然その高級クラブにも足を運ぶことになるはずと、森岡はプラチナカードを伊能に渡していた。むろん、入店のための方便であり、精算は現金で済ませていた。
「小太りの方が鷺沼幸一、若い方が勝部雅春という男です」
森岡の声には怒気が滲んでいた。
「何者ですの」
「飲み屋の付けの取立てや、借金の仲介と取立て、他には地上げの手伝いなどもやっているようですね」
「極道者ですかのう」
「正式な構成員ではないようですが、全くの堅気でもありません」
「せやけど、仕事柄どっかの組の息が掛かっていますわな」
「どうやら、稲田連合系の極亜会と付き合いがあるようですね」
「極亜会? 確か石黒組の枝やなかったかな」
峰松は、記憶を搾り出すように言い、
「となりゃあ、後々面倒なことにならんように、石黒組に断りを入れとかなにゃあきまへんな」
と左手で顎を撫でた。
「そこで、一億用意しました。石黒組と極亜会には、峰松さんの裁量で話を付けて下されば、と思っています」
「一億? 本式の構成員やないなら、石黒組と極亜会に大きい方を一本ずつ、神栄会には二本もあれば十分でっけど、今回は一円も要りまへんわ」
峰松は人差し指を立てて言った。単位は千万である。
「それはまた、どうしてですか」
「例の金でんけど、五億の利息は一億で話が付きましたんや。つまり、一億は余ることになりまんな。親父はその一億も森岡はんから受け取るなと命じはったんですわ。それに虎鉄組から分捕った五千万も、結局わしが貰いましたしな」
と、峰松は決まりの悪そうな顔をした。
浜浦で森岡を襲った暴漢者は、虎鉄組の差し金と判明していた。峰松は虎鉄組に乗り込み、直談判し謝罪料として五千万円を支払わせた。
森岡は怪我一つ負ってはいない。にも拘らず、このような高額で決着したのは、言うまでもなく襲撃されたのが他ならぬ森岡だったからである。
だが、森岡は一円たりとも受け取ってはいなかった。
「では、その五千万も峰松さんに預けることにしましょう。峰松さんも本家の若頭補佐になり貫目も上がりましたから、何かと物入りでしょう」
森岡は淡々と言った。
彼は極道組織との付き合い方と知っていた。借りを作れば取り込まれるが、金銭的な貸しがあれば等距離の関係を保つことができる。ただ、これは相手の力量にもよる。いわゆるチンピラといわれる下っ端などは、いかに貸しを作っていようと、いざとなれば仁義もへったくれも有りはしない。
――これだから、何があってもこの男は手放せん。
峰松はその意を強くしながら、
「おおきに」
にやりと笑って礼を言った。八代目の芽が息吹いた彼にとって、この先金はいくらあっても余るということはないのだ。
「しかし、いつもながら業腹でんな」
生粋の武闘派極道で通っている峰松にしては、いかにもあからさまな追従をした。これもまた、いかに森岡が彼にとって重要人物であるかの証左である。
「今回は、あるところからたっぷりと慰謝料を取り立てます」
森岡は柔和な笑みで応じた。
「あるところ」
「ええ。相手の名は言えませんが、全くの合法ですよ」
意味有り気な口調に、峰松は曰くを感じたが、それ以上の詮索はしなかった。
「そうでっか。ほなら、金は予定通り宗教法人から回して貰うことにして、一応こいつらを痛めつける理由を聞いておきましょか」
峰松が身を乗り出した。
「詳しいことは勘弁して欲しいのですが、私の女に手を出したから、ということにしておいて下さい」
「森岡はんの女ねえ……、こいつらも安目を引いたの」
峰松は写真を手に取り、同情とも付かぬ言葉を吐いた。
借金を前杉母娘に押し付け、東京に逃れた勝部雅春は、しばらく夜の世界で生きていたが、灰色世界の住人である鷺沼幸一と出会ったことで転落の道を辿っていた。
「それと、お願いしたいのが、こいつらを痛め付けるとき、私の名を告げて下さい」
「名前を明かしてええんでっか」
峰松は意外という顔つきで訊いた。通常は報復を恐れて、己の存在を悟られないよう用心するものである。
「是非、そうして下さい」
森岡は強い口調で言った。
彼には、鷺沼と勝部には嫌というほど後悔の念を刻み込んでやるという怨念と共に、二人の復讐心を一手に受けようという覚悟があったのである。
「よっしゃ。そういうことなら、ついでに今後下手なことをすれば、命を取ると恫喝しておきまっさ」
と言った峰松が、一転呆れ顔になった。
「しかし、あんたはんも次から次へと忙しいことでんな」
「面目もありませんが、私が望んだものではありませんよ」
森岡は頭を掻くと、
「面目無さついでに、今すぐではありませんが、別件でもう一つお願いしたいことがあるのです」
峰松に何やら耳打した。




