(2)失策
森岡は景山律堂から連絡を受け、東京へと出向いた。
帝都ホテルのスイートルームにおいて、森岡との密談に臨んだ景山の表情は冴えなかった。鹿児島県鹿児島市にある菊池龍峰の自坊冷泉寺で、久田帝玄が別格大本山法国寺から持ち出した宝物の返還交渉をした景山は、その際菊池から法外な要求を突き付けられていたのである。
景山は事前の打ち合わせどおり、法国寺所有の宝物を返却する見返りとして、本山の貫主就任に道筋を付けるという条件を提示したのだが、これに対して菊池は、申し出を辞退する代わりに五億円を要求してきたのである。
菊池が石黒組から買い取った栄真大聖人の御真筆は、五千万円の値が付く国宝級の宝物である。宗門においては、最高峰の宝物の一つには違いないが、精々二倍の一億円が上限で、五億円というのはあまりに足元を見た物言いであった。さすがの景山も予想外の成り行きに言葉に窮し、返答を保留して戻ったのである。
これは、明らかに森岡らしからぬ失策であった。
法国寺の宝物紛失の事実は、当人の久田、元執事長の里見、石黒組幹部、そして菊池しか知らない密事のはずである。それを総務清堂の執事に過ぎない景山が知っている。まさか、久田本人が政敵ともいえる総務清堂に泣き付くはずがない。
菊池の脳裡にある男の顔が浮かんだ。他ならぬ森岡洋介である。
菊池も然る者、景山の裏で森岡が糸を引いているのではないかと疑った。たしかに彼にとっても、総務清堂は法国寺の貫主の座を巡って対峙した仇敵だったが、神村に対する敬愛ぶりからすれば、清堂に頭を下げてもおかしくはない。
もし森岡が絡んでいるとなると、本山の貫主就任への協力など迂闊には乗れない、と菊池は警戒した。森岡の能力は、東京目黒の大本山澄福寺に芦名泰山貫主を訪ねた際、身をもって思い知らされている。
そこで五億円を要求し、反応を見ようとしたのである。推察どおり背後に森岡がいれば、五億円は無理でも三億円は工面するだろうと踏んだのだった。
このときの菊池には、総務清堂の協力を得なくても、自力で本山貫主への道筋を付ける自信があった。三億円が手に入れば、それがより確実になるという目論見であった。
「いやあ、迂闊でした」
森岡はさばさばとした顔つきで頭を掻いた。
「おそらく菊池は、私の気配に気づいたのでしょう。だから、五億という法外な要求をしてきたのだと思います」
「私も同感です」
景山は伏し目勝ちに言った。
景山は、森岡に負い目のようなものを感じていた。菊池の法外な要求は彼の責任ではない。だが、あの静岡の夜、バーでの森岡の一言が胸に刺さったままの彼は、首尾よく交渉を纏められなかったことで、失策をしたような痛みを覚えていた。
「金は用意しましょう」
「五億丸々を、ですか」
景山は驚きの目で森岡を見つめた。
「いいえ。二億か三億で十分でしょう」
「三億、それで手を打つでしょうか」
「おそらくは……」
「では、そのように伝えます」
「いえ、私が出向きましょう。どうやら駆け引きは無駄なようですので」
「正攻法で臨まれるのですね」
「ええ。でも、いずれ金は取り返しますよ」
森岡は事もなさげに言った。
「どのようにして」
「それはゆっくり考えます。ついでに、この際ですから地獄に落とす手立ても一緒にね」
森岡は不適な笑みを浮かべた。目の奥に底知れぬ悪意を看て取った景山は、思わず身震いをした。
「私は何を……」
と言い掛けた景山を森岡が制した。
「いえ。景山さんはここまでです。貴方は将来の有る身ですし、いかに奸物とはいえ、同門を地獄に突き落とす策略に加担するのは心苦しいでしょう」
森岡は穏やかな顔で言った。
景山は、その口調の奥にある並々ならぬ決意を想像した。もし、菊池が景山の提案にすんなり応じていれば、辛酸を舐めさせるだけで終わったであろう。ところが、菊池の付け上がった態度に、森岡は息の根を止める気になったと理解した。だが、いったいどのようにして菊池を陥れるのであろうか。菊池は十分な用心をしているはずである。
景山は、森岡の策略に興味を持った。
「困ったことが出来ましたら、遠慮なく言って下さい」
森岡は景山を凝視した。その面に迎合は見受けられなかった。
「では、その節はお願いします」
軽く頭を下げた森岡だったが、彼にこれ以上景山を引き入れる気は毛頭なかった。
「おっと、忘れるところでした」
景山が話の終わりに思い出しように言った。
「先日の、カワハラなる人物ですが、私なりに調べたところ、勅使河原という人物が浮かんだのですが」
「立国会の会長ですね」
「見当を付けていらっしゃましたか」
景山は感心したように言った。
「まだ半信半疑でしたが、景山さんのお言葉で確信が持てました」
森岡は頭を下げて謝意を示した。
数日後に行われた森岡と菊池の闇の談合は、二億円で決着が付いた。まんまと大金をせしめ、尚且つ、後日総務清堂にも頭を下げさせた菊地はようやく鉾を収め、宝物を総本山に渡した。
さすがに菊池も、総務清堂に逆らうわけにはいかなかった。何といっても次期法主が内定している清堂である。しかも、清堂の後の総務には永井大幹宗務総長が確実視されていた。
妙智会の署名嘆願を巡って、一時は対立したかのように見えた両者だが、その後
永井宗務総長の諫言を聞き入れた総務清堂は難を逃れる形となった。もはや、二人の間にできた溝は埋まっていると見るのが常識的だった。
であるならば、清堂の意を汲んだ永井大幹の時代まで逆風に晒される愚を犯すわけにはいかなかった。天山修行堂の支配が困難になった現在、一旦身を引いて捲土重来を期するのが賢明な策だと菊池は考えた。我を張って表舞台での出世まで閉ざされるわけにはいかなかったのである。




