第五章 秘仏(1)情報
台湾から戻って数日後のことである。
森岡洋介は、久々に関西を訪れた真鍋高志を幸苑へ招待した。
この夜はもう一人同席者がいた。新大阪駅界隈の大地主である奥埜家の嫡男清喜である。
森岡は、自身と年の近い二人を引き合わせた。実際には、真鍋は四歳年下の三十二歳、奥埜はさらに三歳下の二十九歳だが、森岡の関係者からすれば、数少ない同世代の知人に違いなかった。
年齢が近いだけではない。両社とも不動産業を営んでいたことから、仕事上の付き合いも考慮してのことだった。事実、森岡自身も奥埜家と商業ビル共同建設事業を手掛けていた。急拡大するウイニットの本社ビルの建設である。
候補となった土地は、地下鉄御堂筋線・西中島南方駅から西へ徒歩で一分も掛からない約三百坪余の更地だった。森岡が馴染みとしている活魚料理店の安兵衛とは、御堂筋を挟んで真向かいの一等地である。
バルブ前は一坪当たり三十万円ほどの土地が、バブル絶頂時には同七百万円まで高騰した。現在は同二百万円まで下落していたが、それでも元値の七倍である。
すでに、土地代金と建設費用を合わせた総額三十三億円を奥埜家と折半することで合意し、建設作業を開始していた。もっとも、森岡の方は資金に余力がなかったため、一部を奥埜家が肩代わりしておくという条件になっていた。
奥埜清喜がこの話を森岡に持ち込んだのには理由があった。例のレストランと同様、暴力団絡みだったのである。
これほどの一等地である。奥埜家がその気になれば、単独で入手することなど容易かったが、元の所有者が『柳楽組』という京都聖義会系の暴力団となれば勝手が違った。
柳楽組は、時流に遅れまいとその土地を取得したのだが、売り手が見つかる前にバブルが崩壊してしまい、大きな痛手を負った。
柳楽組は一坪当たり五百万円で取得していた。七百万円の高値が付いた時点で、首尾よく売り抜けていれば六億円の儲けとなったはずが、さらに高値を、と欲を掻き過ぎたのである。
言わばババ抜きのババを掴まされた格好であり、しのぎに聡い極道者としては珍しい失策であった。
奥埜清喜は、花岡組とのトラブルを解決した力量を見て、此度の土地買収を森岡に委託した。花岡組とは、前杉母娘に営業を委託しているエトワールに難癖を付けようとした暴力団である。
森岡がこの話を真っ先に持ち込んだのが、その花岡組だった。本家の聖義会は、神王組、稲田連合、虎鉄組には及ばないものの、京都を中心に関西一円に勢力を誇る広域指定暴力団である。京都という土地柄から寺社の祭礼に伴う露店の元締め、つまり的屋が源流であった。
花岡組と同様、元が的屋である。何らかの繋がりを期待してのものだったのだが、案の定、盃事こそ介してはいなかったものの、両者は良好な関係にあった。
とはいえ、暴力団が相手である。相場より三割高の、一坪当たり二百六十万円まで値が上がったのであるが、それとて森岡であればこそ、その程度で収まったと言えた。奥埜清貴であれば、最低でも六割高の、同三百二十万円以上でなければ方は付かなかったであろう。
「どうです。真鍋さんも一枚加わりませんか」
真鍋グループの関西での本拠地拡充計画を知っていた森岡が、奥埜清喜の同意を取ったうえで誘った。
「良いのですか」
真鍋は恐縮そうな顔をした。柳楽組との折衝に、一切汗を掻いていないことで遠慮があったのである。
「本来であれば、京都が最適地なのでしょうが、新大阪から京都までは四十分ほどです」
「時間より、森岡さんの会社と同じビルに入れるなら、それに越したことはありません」
真鍋は承諾の意向を示した。
「奥埜不動産が肩代わりしている額を真鍋さんの出資分に充てるという方向で進めましょう」
と、最後は奥埜が話を締めた。
仕事の話が終わった後のことである。
「ところで、あの美形ママは奥埜さんの彼女ですか」
この何気ない森岡の一言が思わぬ情報を齎すことになった。
「美形? 誰のことですか」
「惚けないで下さい。プロローグのママですよ」
プロローグは、森岡が初めて奥埜清喜と出会ったスナックである。
「ああ、彼女ね」
奥埜はとんでもないという顔つきで、手を横に振った。
「彼女は何でもありませんよ」
たしかに、惚けた芝居をしている風には見えない。
「私の勘違いでしたか」
「近所に住む幼馴染の妹で、ああ見えて苦労していましてね。十代で結婚したのですが、離婚してしまい、生活のためにホステスをしていたのです。友人から彼女が独立したがっているので力になって欲しいと頼まれて、開店の面倒をみただけなのです」
「そうでしたか。これは失礼しました」
森岡は勘違いを詫びた。
「しかし、バツ一とはいえ、あれだけの美人を放っておくなんてもったいないですね」
「なにせ、彼女が赤ちゃんの頃から知っていますので、妹のような感覚ですね」
と笑った奥埜が、そうだと真顔になった。
「彼女の話で思い出しました。先日店の客とアフターで江坂のショットバーへ行ったそうなのですが、そのとき居合わせた客が森岡さんの話をしていたそうです」
「ほう」
「二人連れの若いサラリーマンだったそうです」
「森岡なんてありふれた名でしょう」
森岡は人違いではないか、と言った。
「いえ。話の中に『ウイニット』という名が出たそうですから森岡さんに間違いないでしょう」
なるほど、と得心した森岡に、
「森岡さんは、今や時代の寵児になりつつありますからね。羨望の的ですから噂話ぐらいはするでしょう」
真鍋が事もなさげに言ったが、
「それが、そういう雰囲気ではなく、緊張した面持ちだったそうです」
と、奥埜が単なる下世話な話ではないと否定した。
「客の名前はわかりますか」
森岡が訊いた。
私は知りません、と首を振った奥埜が携帯を手にした。
「彼女に聞けばわかるかもしれません」
プロローグのママの返事は、自分は知らないが店のマスターであればわかるかもしれないというものだった。
森岡は念のため店の名を聞くように奥埜に頼んだ。
「欧瑠笛という店だそうです」
奥埜が携帯越しにママの返事を伝えた。
「珍しい名ですね。どこかで聞いたような……」
森岡が視線を落として記憶を辿った。
「そうだ。ウイニット(うち)の野島が懇意の店ですね」
森岡はそう言うと、
「今夜、行ってみます」
え? という顔を二人がした。
「何か気になることでもありますか」
真鍋が、森岡の顔を覗き込むよう訊いた。
「ええ、今は特に何も……」
「日頃、歯切れの良い森岡さんらしくもない」
真鍋がやんわりと催促した。
「内密にお願いしたいのですが」
「それはもちろん」
あまりの深刻な表情に二人は思わず息を呑んだ。
森岡は名前を伏せて知人の災禍を話し、犯人を捜索していると告げた。
「まだ、何の手掛かりもないのです。ですから、どのような小さな情報でも……」
欲しい、と森岡は呻くように言った。
森岡が実名を避けたとはいえ、二人に打ち明けたのは少しでも情報網を広げるためだった。
「ま、まさか茜さんじゃないでしょうね」
真鍋が腫れ物に触るかのように訊いた。
「心配には及びません」
森岡は、まず真鍋の懸念を払拭し、
「彼女の送迎には、必ず二人の黒服が付いています」
と説明した。
森岡は鳥取から戻ると、神栄会の峰松重一に相談して、腕は立つが強面でない若衆を一人借り受けていた。そして、知人の弟と偽わってロンドの黒服として雇い入れてもらい、茜の身辺警護をさせていた。
昨今の極道者は、一目ではそれとわからない者も多い。特に経済ヤクザの中には、外見も物腰も一般のサラリーマンと変わらない者もいるほどである。
さらに言えば、株式や債券を運用する者の中には、我が国最高学府の帝都大学卒もいるということであるから、いやはや何とも社会の表裏の境目の薄れた時代になったものである。
ともかく、茜の心情を察している森岡は、支配人の氷室のみに打ち明け、彼の協力を仰いでいた。
森岡にすれば、瞳の災難は思いも寄らないことだったが、その一方で自身の配慮の欠如に忸怩たる思いにもなっていた。
だからこそ、必ずや犯人を突き止め、苛烈な報復を……、と心に決めていた。
「茜さんとはどなたでしょうか」
奥埜が遠慮がちに訊いた。
「北新地のロンドのママですよ」
真鍋が代わって答えた。
「ああ、あの有名な……」
「ご存知でしたか」
「いえ、噂程度ですが、大変な美人らしいですね」
祖父の徳太郎が、自身の嫁にと考えていたことなど知らない清喜は無頓着に言った。
「そりゃもう」
「真鍋さんはお会いになったのですか」
「森岡さんに連れられて三度ばかり」
「それは羨ましい。私も是非お目に掛かりたいものです」
「それなら、この後森岡さんが連れて行って下さいますよ」
「本当ですか」
奥埜の期待の籠った目に、その予定です、と森岡は肯いた。
「もしかして、その茜さんこそ森岡さんの彼女なのではありませんか」
奥埜がお返しとばかりにからかった。
「奥埜さん、婚約者ですよ」
真鍋が再び代わって答える。
「ええ!」
奥埜は唖然として森岡を見つめた。
森岡は二人の会話を他所に、野島真一に連絡を取った。
深夜一時、森岡と野島は江坂の欧瑠笛へと出向いた。
むろん、蒲生亮太と足立統万、そして神栄会の若頭補佐の九頭目が同伴している。
マスターの重谷は、緊張の面持ちで森岡に挨拶すると、
「野島さんからご依頼のあった件ですが、その日の伝票を調べてみたところ、おそらくその二人の男性客というのは、小椋さんと武藤さんだと思います」
「何者や」
野島が訊いた。野島は重谷の小、中学校の先輩で、尚且つ極道絡みの金銭トラブルを解決してやっていた。
「普通のサラリーマンですよ」
「よく来るのか」
「いえ。月一ってところでしょうか」
「社長、単なる噂話ではないでしょうか」
重谷の返事を受けて野島が言った。
「その二人が何か? 立派な企業のサラリーマンですが」
重谷は不審な点は無いと言いたげな顔をした。
「どこや」
森岡が訊いた。
「ギャルソンという有名な洋菓子屋です」
「何だと!」
森岡は怒声のような声を上げた。
野島らはもちろん、他の客も一斉に森岡を見た。
「いや、すいません」
森岡は他の客に頭を下げた。
「大阪支店がこの江坂にあるので、月一程度で来てくれるのです」
思いも寄らぬ森岡の反応に、重谷が弁解するように言った。
「柿沢がまた何か企んでいるのですか」
苦い顔の森岡に野島が訊いた。彼は、片桐瞳の災禍を知らされてはいない。
「まだはっきりとは言えないが……」
と曖昧に答えた森岡の脳裡には、ある思いが駆け巡っていた。
――柿沢康弘……。瞳が聞いたという、やっちゃんとも符合する。
「二人が何か悪さでも仕出かしたのですか」
重谷が顔を強張らせながら訊く。
「まだ何も話せないが、もしかしたら大変な情報を貰ったのかもしれん」
森岡は呟くように言い、
「君には何か礼をせにゃならんな」
重谷は、ほっと肩をなで下ろした。
「では、これを機会に森岡社長さんも足を運んで下さい」
「いや、俺は遠慮しておこう」
「……」
重谷は露骨に肩を落とした。
「欧瑠笛は野島の息抜きの場所や。俺が頻繁に顔を出したら、こいつが来れんようになるがな」
森岡は苦笑いをすると、
「野島、この一件、はっきりしたらお前にも話すが、とりあえず俺に代わって、これまで以上に欧瑠笛を贔屓にしてやってくれ。金は俺が出す」
重谷の顔が、ぱあーと明るくなった。
「森岡社長さんのお墨付きが出たんですから、野島さん、真弓ちゃんを連れて毎晩でも来て下さいよ」
「真弓ちゃんって誰ですか」
足立統万が冷やかすように訊いた。
「野島さんの良い人ですよ」
「マスター、余計なことを言うな」
野島は怒ったような照れたような顔をした。
「お膳立てしたのはこの俺ですからね。忘れないで下さいよ」
「一生言われそうやな」
胸を張った重谷に野島が苦笑いをした。
森岡は彼ら会話に、ときに肯き、ときに笑いながら憶測していた。
――寺院ネットワーク事業を潰されたぐらいで、しかもこちらには全く非がないことで、柿沢が恨みを抱くとは思えないが、彼の放蕩無頼の人生から鑑みれば、屈折した性格かもしれないし、裏世界の人間との付き合いがあっても不思議はない。
些細な情報だが、ようやく手にした手掛かりである。
森岡はさっそく伊能に連絡を入れた。




