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黒い聖域   作者: 久遠
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               (5)民族

 翌早朝、森岡がリビングに行くと、榊原はすでに起きていた。ソファーに座り新聞を読んでいる。日本の新聞は無いので英字新聞である。

 榊原壮太郎は英語が読め、話せる。世界最大の自動車会社ナショナル・モーターの日本代理店の権利を取得するため、米国で研修を受けた経験があった。英語はその時に修得していた。

「爺ちゃん、早いな」

「おう、お前も早いやないか」

 おもむろに新聞を畳み、老眼鏡を下げた榊原の身体が固まった。森岡の背に隠れるようにしている沈美玉に驚いたのである。

 昨夜、森岡は沈美玉の意思を再確認するため自室に泊めていた。

「お、お前……」

「彼女か、昨晩泊めた」

「泊めた、ってお前……」

 抱いたのか、と目が訊いていた。

「そういうことだ」

「お、お、おお……」

 榊原の相好が一気に崩れた。

「それは良い、それは良い。茜さんには悪いが、女遊びの一つもできん堅物じゃあ、この先大成はしない」

「英雄色を好む、ってか。俺は男の言い訳だと思うがな」

「いいや。昔から男っていうのは女にもてたいから働くというのが相場と決まっている。哲学だの、思想だの、信念だのと偉そうにいっても、所詮は美味いものを食い、良い女を抱きたいからや」

「言いたいことはわかる。女にもてたいのとは違うが、先生でも結婚されたぐらいやからな。所詮この世は男と女しかいないと痛感させられた」

 森岡は、神村は生涯独身を通すと確信していたが、九年前、十二回目の荒行を達成した直後、突如妻帯した。このことは、森岡が女性に対する考え方を変えるきっかけとなっていたのは事実である。 

「それにしても、その可愛い子猫はどこで拾ったんや」

 榊原の言葉に沈美玉がムッと睨み付けた。気の強いところもあるらしい。もっとも、そうでなければ芸能界では生きていけない。

「爺ちゃん、彼女は日本語がわかるで」

「そりゃあ、失礼した」

 榊原は彼女に向かって軽く会釈し、

「その可愛らしいお嬢さんをどこで見初めたんや」

 と言葉をあらためた。

 森岡は林海偉の計らいであることを告げた。

「ほう。林さんも粋なことをするの」

「ほんまにな」

 森岡は彼女にわからないように目配せをした。 

 そのうち、皆がリビングに姿を現した。

「兄貴、彼女は……」

 南目は、昨晩カラオケクラブで森岡とデュエットをした沈美玉がなぜここにいるのだという顔をした。

 森岡の気性を良く知る坂根、蒲生もまた、この世の物ではないものを見ているような眼つきをしている。

「お前らも楽しんだだろう。死なば諸共だな」

 森岡は坂根と南目に向かって言った。新しい恋が芽生えていた二人も浮気といえば浮気である。

「旅の恥は掻き捨てと思い、遊ばせてもらったが、まさか女性に対して四角四面の兄貴が……」

 南目は、信じられないという顔を崩さない。

「茜には内緒やで。といっても、すぐにばれるやろうけどな」

 森岡は苦笑いした。

「それにしても彼女を宿泊させたということは、何か仔細があるのではないですか」

 さすがに坂根である。裏事情があることを読み取っていた。

「それや、洋介。堅物のお前がこのお嬢さんに手を出したのには理由があるのやろう」

 榊原も興味を示した。

 ちょうどそのとき、朝食のルームサービスが届いた。

「食いながら話すわ」

 森岡は沈美玉を皆に紹介してから席に着いた。

 森岡は、彼女の台湾芸能界での立場を説明し、日本芸能界でのデビューを支援する旨を伝えた。

「何ともお前らしいの」

 榊原が複雑な顔で言った。

「話を聞けば、林さんの薦めがあったということやから問題にはならんやろうけど、きちんと仁義を通さんと後々もめることになるで」

「この後、挨拶に行くつもりや」

 榊原は林海徳との付き合いから、台湾人が筋目を重んじる民族だと知っていた。

「しかし、兄貴。彼女を支援するって具体的はどうするんや」

 南目が訊いた。

「東京に呼んで生活費一切の面倒をみる。様々なレッスン代もな。そのうえで、テレビ局や広告代理店、出版社など各方面へ根回しをする」

「兄貴には芸能界にも人脈があるんか」

「ないこともない」

「誰や」

「学生時代に美咲こずえと何度か食事をした」

 美咲こずえとは、戦後日本の歌謡界に君臨し続けた女王である。

「美咲こずえやと」

 南目が目を丸くする傍らで、

「そういやあ、彼女の息子が芸能事務所をやっているな。神村上人も懇意のはずだ」

 と、榊原が肯いた。

「先生から紹介され、一度飲食したことがあるからどうにかなるやろ」

 森岡は曖昧に言うと、

「それより坂根、済まないが日本へ帰ったら東京へ行って住むところを探してくれるか」

「どこにしますか」

「青山辺りがええやろ」

「どのくらいの広さにしますか」

「それはお前に任せるが、第一の条件はセキュリティーのしっかりしたところを選んでくれ」

「わかりました。それで、彼女はいつ日本へ」

「林さんとの話にもよるが、パスポートと就学ビザが発給され次第ということになる」

「就学ですか」

「二年間は日本語学校で勉強することになる」

「なるほど」

 坂根が得心すると、沈美玉が席を立って、

「よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

「兄貴が請け負ったんやったら間違いないから、安心してな」

 南目がいつものように能天気な声を掛けた。


 朝食の後、森岡は坂根と足立に彼女をタクシーで送らせた。

 沈美玉が部屋を出ると、榊原が森岡に話し掛けた。

「彼女の件、裏があると睨んでいるのか」

「まさかとは思うが、どうも彼女は林さんが差し向けたスパイのような気がするんや」

「何のために」

「それがわかれば苦労はせんがな。だから、彼女を抱いたんや」

「なるほど」

「抱かずに彼女を引き取ることも考えたんやがな」

「いや。抱いて正解やで」

「そうやろか」

「たとえばだ、悪人が自分の罪を問わないで欲しいと権力者に賄賂を贈ったとしよう。ところが権力者は、罪は問わないと約束したものの、賄賂は受け取らなかった」

 榊原は森岡を見据えた。

「悪人はどういう心境になると思う」

「疑心暗鬼なるな」

「そのとおりや。だからな、権力者が悪人の罪を許す気があるのなら、敢えて賄賂を受け取ってやるんや」

「そうすれば、林さんは色香に落ちた弱みを握ったと、安心するのやな」

「お前みたいな奇特というか、お節介な男は同じ日本人でも呆れるというのに、ましてや台湾人やで、何の見返りも無しに支援などすれば余計な警戒心を生ませるだけや」

 榊原の、そうだろうという顔に、森岡は小さく肯いた。

 

 昼前、森岡は林海偉宅へと出向いた。

 林の住まいは台北でも高級住宅街である『天母テンム』の一角にあった。日本人を含む外国人居住者の多い地域で、各国の大使館も集中している場所でもあった。

 林海偉の邸宅は天母の南にあった。敷地は二千坪もあろうか。樹木が生い茂る緑豊かな豪邸である。

 敷地玄関で訪ないを告げると、門扉が自動で開いた。煉瓦敷きの通路に従って家の玄関先に車を進めると、林海徳と数名の部下が出迎えていた。

 広々とした応接間には、すでに林海偉と沈美玉が待っていた。

「森岡さん、話は美玉から聞きました。彼女の日本デビューに協力して下さるとか」

 海偉は満足そうな顔で言った。

「微力ですが、出来得る限りのことはするつもりです」

「パスポートとビザの手配が済み次第連絡をしますので、宜しく頼みます」

 海偉は握手を求めると、部下に、

「例の物を持ってきなさい」

 と命じた。

 しばらくして戻って来た部下が手にしていたものは、中国聖人の墨であった。

 東京目黒の大本山澄福寺貫主の芦名泰山が書道を嗜むと知って、彼を籠絡するため、榊原壮太郎が最高級の墨の探索を林海徳に依頼した。海徳から相談を受けた海偉は、全世界に広がる自社の販売網を駆使し、中国十聖人の姿身の墨を収集することに成功した。

 だが、当初十体だと思われていた聖人は、実は十六体あるということが判明したのである。海偉はそれをも手に入れてくれていた。

「これが残りの六体です。どうぞ、収めて下さい」

「如何ほどでしたか」

「代金は結構です」

「そういう訳にはいきません」

「美玉がお世話になるのですから、これらはそのお礼とさせて下さい」

「それとこれとは別の話です。代金を受け取って頂かないと、この先の収集をお願いできなくなります」

 森岡は頑として受け付けなかった。

 海偉は海徳と目を合わせ、意を決したように口を開いた。

「実は、森岡さんに一つお願いがあるのです」

 あらたまった眼差しに森岡は緊張した。

「なんでしょう」

「貴方はブックメーカー事業を計画されていますね」

「えっ、はあ……」

 思いも寄らない問いに森岡は動揺した。

「神王組の蜂矢六代目からの要請を受けられたことは知っています」

「おい洋介、その話は本当か」

 榊原が驚きの顔で森岡を見た。彼は初耳だった。

「爺ちゃんには黙っていたが、六代目から直接要請があった」

「承諾したんか」

 ああ、と森岡は顎を引いた。

「うーん」

 と、榊原は黙り込んだ。

――清濁併せ呑むとは、まさにこの男のことをいうのか。とてものこと、わしの跡継ぎなどに収まる器ではない。

「その事業ですが、一枚噛ませてもらえませんか」

「林さんがブックメーカー事業を」

 森岡は驚いたように訊いたが、腹の中では、

――俺を台湾に呼び寄せた真の目的はこっちか。

 と苦々しい思いになっていた。

「おかしいですか」

「天礼銘茶さんは歴とした世界的企業です。いまさら賭博でもないでしょう」

 森岡は正論を述べた。ただ、その森岡にしても台湾の社会状況は知っている。大学生時代から、折に付け郭銘傑の話に耳を傾けてきていたのだ。台湾は日本以上に表と裏が密接な関係にある社会であるから、林海偉が裏社会に興味を持っていたとしても何らおかしくはない。

 だが、単なる興味というのではなかった。

「これは私たち林一族の悲願なのです。いや、本省人の、と言っても大袈裟ではありません」

 林海偉が深々と頭を下げた。

 その行為に沈美玉は唖然として森岡を見た。彼女にとって海偉は絶対者である。天礼銘茶の天皇でもある海偉が、他人に頭を下げたところを見たことがなかった。それが、若い日本人に懇願しているのだ。

 本省人とは、中華人民共和国(中国)が台湾を統治する前から台湾に住んでいた漢民族のことを指し、これに対して一九四九年の中国共産党との内戦に敗れた国民党とともに大陸から台湾に渡った人々とその子孫を外省人という。一八八五年に清が台湾を台湾省と改めたためこのような呼称になった。

 ただ最近の研究では、本省人は清の時代、漢民族に同化された原住民であるとしている。現代のモンゴル、ウイグル、チベットで見られる同化政策が台湾でも行われていたということである。

 外省人は台湾人口の一割強だが、一九八〇年代に始まった民主化以前は支配層のほとんどを占めていた。

 ブックメーカー事業と本省人の悲願を結び付け、その背景にキナ臭いものを感じ取った森岡はますます慎重になった。

「林さんの悲願が何なのか知る由もありませんが、私にそのような力はありません」

「謙遜しないで下さい。六代目は貴方に全権を委ねたと聞いています」

「何処からそのようなことを」

 蜂矢司との面談は、彼から要望のあった一度目も、森岡が返答するために願い出た二度目も共に密談であった。さすがに世界に冠たる華僑の情報網である。森岡は舌を巻かざるを得ない。

「全権委任など言葉の上だけですよ。極道組織がそのように甘いものではないことなど林さんも十分ご承知でしょう」

 海偉は小さく肯いた。

「だからこそ、逆に六代目の貴方への信頼は絶大なものだと理解しています」 

 海偉は、蜂矢の言葉は本心だと見抜いていると仄めかした。

「とはいえ、日本の極道組織は神王組だけではありません」

「もちろんです」

 海偉にしても、東京には稲田連合と虎鉄組という巨大組織があり、彼らが黙って指を咥えているはずがないことはわかっていた。 

「日本ですらこの先どうなるかわからないのに、台湾に進出するなど、とてもとても」

 無理だ、と森岡は言った。

「そこを何とかなりませんか。私からもお願いします」

 海徳が堪らず助け舟を出した。

 森岡はしばらく目を瞑った。天礼銘茶は世界的企業で、その情報網が尋常でないことも目の当たりにしたばかりである。今後の良好な関係構築のためにも慎重な対応が必要だった。

「日本に帰ってゆっくり考える時間を下さい。今日のところはそれで良いですか」

「もちろんです」

 海偉の表情にいくぶん喜色が戻っていた。

 森岡が明確な返事を渋ったのは用心もあったからである。海偉は本省人の悲願だと言った。それはすなわち民族的悲願ということになる。下手に了承の返事などして、林海偉と敵対する側に漏れでもすれば、帰国する前に骸になる可能性すらある。海偉の側近の中に、敵側に通じている者がいることさえ考えられるのだ。


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